『江戸読本の研究』第二章 中本型の江戸読本

第四節 鳥山瀬川の後日譚
高 木  元

  一 実説と後日譚

 安永四年、鳥山検校が吉原松葉屋▼1の瀬川という妓女を落籍した事件▼2は、おそらく当時の人々の耳目を驚かせたに相違ない。鳥山検校は、さらにその三年後の安永七年には、悪辣なる高利貸として処罰された。〓庭喜多村信節『過眼録』▼3に拠れば、

安永七年、高利の金子を借したる者共、多く御咎めありし、其起りは、御旗下の士、筋わろき金子を借用し、出奔したりしよりの事と云う、(中略)
一、家財の外、有金廿両、貸金一万五千両、所持の町屋敷一ヶ所 鳥山検校(中略)
此鳥山わきて名高く聞へしは、遊女を身請せし事にて、噂高かりし也、[瀬川を身請せしは安永四年なり、この瀬川の事は、余別に委しく記したり、爰に略す、所持地所も一ヶ所にはあらず、浮世小路南側、又小舟丁にも存、北御番所付永御手当地と唱]

とある。
 この安永七年の中村座では、正月から五月晦日まで三度の景清を出したが、「二番目、「二人與作」へ「鳥山検校瀬川」を仕くむ、此狂言中檢校處刑ゆゑ、別て大入」▼4とあるように、世間の関心は決して低くなかったようである。更に『譚海』▼5巻二、には

鳥山檢校と云もの、遊女瀬川といふを受出し、家宅等の侈(おごり)も過分至極せるより事破れたりといへり。

と見え、『玉菊燈籠弁』▼6(安永九年)では、

真芝屋(ましばや)の屁川(へがは)なりいかに金がほしいとて眼のない客を逢ひとをすそれもたて引かなんぞと金気(け)のうすい砂糖(さとう)なら張もいきぢも有で青楼の傾城ならんに何ンほ女郎がこすくなつても遊女中間のつらよごしこんにやくのよごしがはるかまし

などとも論評された。
 実際のところ、この五代目瀬川がその後どうなったかは定かではない。三田村鳶魚「瀬川五郷」▼7によれば、喜多村信節の『〓庭雑考(いんていざつこう)』に後日譚が記されているというが、現存の『〓庭雑考』にこの記事は見えず▼8、宮武外骨の「瀬川考」▼9には、次のように『只誠埃録』所引の『〓庭雑考』が引かれている。

(よ)しばらく住(すみ)ける本所(ほんじよう)埋堀(うめぼり)に大久保家(おほくぼけ)の町屋敷(まちやしき)あり、爰(こゝ)に家守(やもり)を勤(つと)めたる結城屋(ゆふきや)八五郎(らう)はかたはら大工職(だいくしよく)をす、是(これ)がもとに頭(かしら)おろしたる(頭(かしら)おろしたるといふは剃髪(ていはつ)にあらず、所謂(いはゆる)(き)り下(さ)げの事(こと)なり)老婆(らうば)ありき、是(これ)(じつ)は八五郎(らう)が妻(つま)なり、何故(なにゆゑ)にこの体(てい)ぞと尋(たづ)ぬるに、是(これ)(な)たる鳥山(とりやま)檢校(けんぎやう)が身受(みうけ)したる吉原(よしはら)松葉屋(まつばや)の瀬川(せがは)がすがれなり、鳥山(とりやま)罪科(ざいくわ)の後(のち)、瀬川(せがは)はかたらひし人(ひと)も多(おほ)き中(なか)に深川(ふかがは)六間(けん)(ぼり)(へん)に飯沼(いひぬま)何某(なにがし)といふ武家(ぶけ)の妻(つま)となりて、子(こ)二人(ふたり)(う)めり、夫(をつと)うせて寡婦(やもめ)となりしうち、彼(かの)大工(だいく)八五郎(らう)仕事(しごと)に雇(やと)はれて此(この)屋敷(やしき)へ來(きた)りけるに、いかにして通(つう)じけん、密(ひそか)に約(やく)して瀬川(せがは)は八五郎(らう)が方(かた)へ逃(に)げ來(きた)りて妻(つま)となれり、其侭(そのまゝ)にてすむべきにもあらず、やむ事(こと)を得(え)ず薙髪(ちはつ)せしなり、先(さき)に生(う)める子(こ)一人(ひとり)は家督(かとく)たり、一人(ひとり)は他(た)の養子(やうし)となりしに、放蕩(はうたう)にて養家(やうか)を出(いで)、行(ゆく)べき所(ところ)なきにや、八五郎(らう)がもとに來(きた)りて居(ゐ)たりしに、果(はて)は髪結(かみゆひ)となれりとぞ、此(この)(あま)手跡(しゆせき)もよしとにはあらねども、用事(ようじ)(た)すばかりはものせしかば、八五郎(らう)代筆(だいひつ)させたり、尼(あま)が生涯(しやうがい)はかの飯沼(いひぬま)(し)より扶持(ふち)など贈(おく)れる事(こと)とかや、近邊(きんぺん)のうはさにて委(くは)しき事(こと)は知(し)らず、益(えき)なき咄(はなし)ながら、傾城(けいせい)(とら)の巻(まき)などいふされ草紙(さうし)にも出(で)て名高(なだか)き女(をんな)なれば語(かた)りくさとす

 また、一説▼10によれば

「越方覚草」には、本所の御家人青木健蔵となじみ、安永二(ママ)年鳥山検校身受、其年家出して青木と夫婦になり、老年根岸に死亡云々とあり。

ともいう。

   二 後日譚の文芸化

 さて、田螺金魚の洒落本『契情買虎之巻(けいせいかいとらのまき)(安永七年)について、曲亭馬琴は『近世物之本江戸作者部類』において、

天明中鳥山檢校か新吉原の松葉屋なる瀬川に懸想して得靡かさりしを辛くして根引せしといふ世の風声をたねとして綴りたり。こは狂言の首尾整ひて作りさま餘のしやれ本とおなしからす。瀬川か〓魂の段なとを看官(ミルモノ)あはれ也とて甚しく賞玩したりしかハ當時板元はさら也なべて貸本屋をうるほしたりとそ。この板も寛政に削られしを竊に再板せしものありと歟聞たるか初のたひにハ似さるなるへし

と記している。一方、洒落本の評判記『戯作評判花折紙(けさくひやうばんはなのおりかみ)▼11(享和二年)では『契情買虎之巻』が惣巻軸に据えられ「極上上吉」と記され、

第一はん目生駒(いこま)(こう)二郎となつて腰元(こしもと)まきか手ひきにてお八重かねやへしのはれてのぬれ事うまい/\。次に夜半の鐘(かね)を相図(あいつ)にしのひ出て館(やかた)をおちらるゝまてきれいことてこさりまする。それよりおもき枕にふしての仕(し)うちよし。二番(はん)目に二役(ふたやく)五橋(こきやう)となつての和(わ)ことあまたのたいこをひきつれてのくるわ通ひ瀬川丈とのぬれことうけとりました。それよりせかわ丈のせりふにさりしおつとの面さしにいきうつしとてこゝろをよせらるゝ所(ところ)このひとそんならおつとに似(に)たる面(おも)さしの人あらばそれにもほれるかとのせりふやはらかみに手つよきところあつて大出来/\。次(つき)の幕(まく)にはつはるの趣向(しゆかう)松田屋をせかれはん頭(とう)義平(きへい)にだしぬかれてかん当(とう)の身(み)とならるゝまてよし/\。大切(をゝきり)富元(とみもと)連中(れんちう)てかたりにてむかふか岡(おか)のしよさことまててきました/\。

と絶賛されている。これらの評価は、馬琴のいうところの「狂言の首尾」、つまり「二役」に譬えられたような演劇的趣味に富んだ、小説としての完成度の高さによるものであろう。鳶魚が「五暁というのは、全く田螺金魚の空想に生れたもので、実在の鳥山検校及び瀬川を粧飾するために、添加されたのである。」(「瀬川五郷」▼7)と記された如く、この作品は事件に基づきながらも、後日譚として結構された実録風の虚構なのであり、そこには伝奇的な要素も含まれている。好評の原因として、このような他の洒落本に対する独自性だけでなく、座頭金の取り締りという背景があったことも見逃せない。
 このような当り作が板摺を重ねたのは勿論のこと、追従作もまた多かったのである。作者不明の黄表紙『吉原語晦日月(くるわばなしみそかのつき)(安永八年、鶴屋板)は、登場人物の名を少し変えているものの、筋はほぼ丸取り。ただし安永七年六月朔から六十日間回向院で行なわれた善光寺の出開帳▼12を当て込んで、結末に「善光寺縁起」を取り込んでいる。同年七月には市村座で『本田弥生女夫巡礼』が上演された。興味深いことに、この結末に「築地善交」▼13が登場し「本田善光」の生まれ変りということになっている。
 一方、伊庭可笑の黄表紙『姉二十一妹恋聟(あねはにぢういちいもとのこひむこ)(安永八年、清長画、岩戸屋板)は『糸桜本町育』の世界から、お房・小糸・左七を登場させ、遊女の金貸し「鳥山」(お房)と、通人「瀬川」(左七)という具合に男女を逆転させ、最後はお房が左七の本妻、小糸が妾となってめでたしめでたし。黄表紙らしい軽妙な作である▼14

 市場通笑の黄表紙『盲仙人目明仙人』(安永八年、松村板)は、仙人達が下界(吉原)に下って琴高仙人(通人)、山鳥仙人(盲目の金貸し)となり、身請けした一角仙人(遊女)から遊里の一巻を得るというもの。続編ともいうべき『傾城買三略之巻』(安永九年)は、その一巻の内容を公開するという趣向で、題名だけがパロディとなっている。
 さて、山旭亭真婆行の黄表紙『鳳凰染五三桐山(ほうわうぞめごさんのきりやま)(享和四年、喜久麿画)も、その筋の大部分を『契情買虎之巻』に拠ったもので、同じ年に十返舎一九が『五三/桐山・後編跡着衣装(あとぎのいしやう)(喜久麿画)という後日譚を出し、さらに翌文化二年には『五三桐/山三編・操染心雛形(みさほぞめこゝろのひながた)(月麿画、丸屋文右衛門板)を出している▼15。三編巻末近くに、初編と後編の書名が並べられ「此本去春出板仕候、評判宜く難有奉存候、依而当春比三編売出し申候‥‥版元」とあり、好評の余勢を駆って出された三編はあらずもがなの続作ではあるが、後日譚が限りなく書けるという可能性を示していて面白い。また初編と後編の所見本には板元名が見当らなかったが、三編の刊記と前述の広告により三編とも丸文板であることが判明する▼16。この三部作はそれぞれ一冊に合綴され、袋入本として出されたものらしい。その辺の事情や詳細な内容の検討は、前掲の小池氏の論考や、同氏執筆による『日本古典文学辞典』所載「鳳凰染五三桐山」の項に尽くされており、さらに棚橋正博氏は『黄表紙総覧』で板元と刊年についての詳細な考証を加えている。
 真婆行作という初編は、その大部分が典拠『契情買虎之巻』のままである。ただ、後編を仇討物として展開できるように結末にたげ改変を加えてあった。棚橋氏は初編が『契情買虎之巻』の丸取である故に「洒落本の翻案作であったことは時節柄これを秘匿し、作の手柄を発案者真婆行に全面的に譲り序文と署名を添え、ただわずかに一九が物した作であったことを題言にそれとなく掲げたと考えればよい」▼17。と説き、企画者である真婆行は名目だけで、実際は一九が執筆したことを論証している。
 もちろん草双紙であるから全丁に挿絵が加えられた。また「はまのやにたしか一九さんがいなんした」(初編)。とか「喜久麿さんおよしなんし、よしさんに言いつけいすよ」(後編)などという地口や、挿絵中の衝立にさりげなく「東汀書」(三編)と書き込む点などから、一九の取り巻き連中の楽屋落ちが見られ、本作が作られた雰囲気がうかがい知れる。

   三 黄表紙から人情本へ

 ところで『小説年表』や『国書総目録』には未載であるが、同じ題名の人情本仕立の本が出板されている。上巻見返扉に「山旭亭真婆行遺稿 十返舎一九補訂 全三冊 鳳凰染五三桐山 丙戌春 文壽堂発販」と列記してある▼18。管見に入ったのは向井氏御所蔵の上中巻と、九州大学文学部国語国文学研究室蔵の下巻である▼19。内題の角書は「松田屋瀬喜川/庫米屋五喬」とあり、刊記は「文政九年丙戌陽旦発行 書肆 江戸神田弁慶橋 丸屋文右衛門上梓」となっている。二十二年前に草双紙を出したのと同じ板元であった。内容的には序文を含めてほとんど同じなのであるが、上巻に口絵二図を施し、各巻三〜四図の挿絵を加え、本文は漢字混じりで部分的には会話体を用いる。体裁は人情本風であるが、伝奇性の強い文化初年の草双紙の仕立直しであるので中本型読本に近いものである。刊記の脇には「五三/桐山・後編跡着衣装 十返舎一九作/歌川国安画 全三冊近日うり出し申候」とあり、巻末にその内容の予告がある。

○此(この)(さう)子なほ後編(かうへん)あり。こは傾城せき川が禿(かふろ)清乃(すみの)が事(こと)。三拍子(みつひやうし)の甚(しん)九郎夫婦(ふうふ)が弁(べん)。農民(ひやくせう)田作(たさく)が娘(むすめ)の話(こと)。彼(かの)(とみ)五郎成長(ひとゝなりて)て終(つひ)に母(はゝ)せき川が仇(あた)。軍(ぐん)次を討(うつ)に至るまで。尚(なほ)種々(くさ%\)の奇譚(きたん)あり。そは十返舎翁の著(ちよ)する所(ところ)(また)格別(かくべつ)に赴向(き)あり。且(かつ)発市(うりだし)もちかきにあらん。かならず求(もとめ)て見給へかし。

 ここで述べられた「清乃」と「田作が娘」は草双紙の後編には出て来ない人物であるし、瀬喜川と五喬の間に生れたのは「富三郎」であり「富五郎」ではなかった。すなわち予告された後編は、一九が書いた享和四年刊『跡着衣装』とは別の筋を持つ後日譚なのである。
 この後編は、内題に『五三桐山嗣編』とあるものであるが、九州大学文学部国語国文学研究室蔵の上巻▼20、熊谷市立図書館蔵の上下巻と、鈴木圭一氏所蔵の中巻を取り合わせないと完全に全冊揃いにならない▼21

于時天保二ッの年(とし)文月(ふみつき)の初旬(はじめつかた)北里(さと)には近(ちか)く住(すみ)ながら燈篭(とうらう)さへも見にゆかぬ当時(とうじ)洒落(しやらく)に薄倖(はくこう)の隠士(いんし)墨水(ぼくすゐ)を硯(すゞり)に漑(そゝい)
金龍山人為永春水誌 

という叙では「木に竹をつぐ補綴の拙作」と記している。この叙の後に、さらに一九の書いた「五三/桐山・嗣編(じへん)跡着衣装(あとぎのいしやう)叙」が付されているが、これはほぼ草双紙の序文と同じものである。

(さき)に五三(ごさん)の桐山(きりやま)と題(だい)したる小冊(さうし)ハ山旭亭(さんきよくてい)真婆行(まばゆき)なる人(ひと)の補綴(ほてつ)にして元(もと)安永(あんえい)年間(ねんぢう)の妙作(めうさく)にて其(その)人情(にんじやう)の涯(かぎり)を盡(つく)し桐山(きりやま)の頑癡(ぐはんち)五暁(ごけう)が好意(こうい)(かつ)瀬喜川(せきがは)が遺憾(いかん)の意(こゝろ)(せまつ)て奇(き)をなす産児(うぶこ)の始末(しまつ)(みな)(とも)に絶妙(ぜつめう)也書肆(しよし)(また)(よ)に後篇(こうへん)を索(もと)む予(よ)(かね)て咾欲(ぎよく)にまかせ辞(ぢ)せずして此(この)冊子(はいし)を編(あむ)といへ共事(こと)ハ初輯(しよしふ)に盡(つく)したり只(たゞ)その糟粕(そうはく)を拾鳩(しうきう)せし物(もの)なれバ龍頭蛇尾(りようとうじやび)の書(しよ)といつつべき歟(か)
東都   十返舎一九[印] 

 口絵には「巻中出像 静斎英弌画図」とあり、内題下は「十返舎一九旧稿/為永春水補綴」となっている。本文の五丁目までは春水が増補しており、その末尾は「こは前編の発端にてこれより次の物がたりは五暁の勘当ゆるされて再び郭(くるわ)に全盛の花を詠る一条なりそのおもむきを心得てよみ給へとは筆癖のおのれがくどきわざなりかし 春水開語」とある。「第一回」では予告通りに、かつて瀬喜川の禿であった清乃が二代目瀬喜川となり、五暁を頼る様子が描かれている。これは草双紙とはまったく別の筋であるのに、あえて一九の叙文を付したり「一九旧稿」と記したりするのはなぜであろうか。不可解である。

   四 もう一つの後日譚

 最後に『当世虎之巻後編』に触れておこう。これには文政九年孟陽の卯木山人による「題辞」と安永八年春正月の田螺金魚「叙」が付され、「安永八亥年稿成/文政九戌年正月発行 黄石堂蔵版」という刊記がある。中村幸彦氏が「内容は一見して、『契情買虎之巻』の作者の手になったものでないことは、今日において明らかである。しかし、前編に金魚の作をおいて、かかる後編を付した作者は、その手腕はともかくとしても、前編とどこか共通するものが存するとして、著述出刊したものと思わざるを得ない。」▼22と述べている通りである。未見であるが『契情買虎之巻』の文政天保期の改刻本に「虎之巻二編 全本三冊 為永春水校正」「虎之巻三編 全部三冊 教訓亭補撰」とある広告が付された本があるという▼23。こちらは勘当されたままの五郷が我子(瀬之介となっている)の子守をしていたお雛(実は嘗て瀬川と幸二郎が厄介になったお菊の娘)と奇しくも結ばれるという筋の、本格的な人情本である。
 この後編の概略を示せば、文政九年に為永春水が『契情買虎之巻』の後編を継作し、金魚の遺稿めかした増補改刻本ということになる▼24

〈初篇〉上中下三冊。安永原板の内容をその儘に、口絵を「花岡光宣画」とするものに代え、三巻に分冊して巻移りの文章を改変。巻末には二、三篇の概要を記した予告一丁を付す(『洒落本大成』第七巻所収、浜田啓介氏の「解題」でも触れられているもの)。便宜上、これを次に掲げておく。

 虎之巻(とらのまき)二編(にへん) 全本/三冊 為永春水校正

この書(しよ)の初編(しよへん)おこなはるゝ事(こと)安永(あんゑい)のいにしへより今(いま)にいたつて五拾(ごじう)余年(よねん)看官(かんくわん)(まき)をひらくこと再三(さいさん)にして倦(うむ)ことなく二編(にへん)の趣向(おもむき)をいかに/\と請(はた)り給ふ人も少(すく)なからずしかるに近(ちか)ごろ反古(ほうぐ)のうちより此(この)二編(にへん)の草稿(さうかう)を見出(みいだ)しつされど数年(すねん)の星霜(せいさう)を経(へ)たれば紙魚(しみ)その半(なかば)を食(くら)ひて定(さだ)かならざるもの多(おほ)しそを漫(すゞろ)に補(おぎな)ひ正(たゞ)してもて梓(あつさ)にのぼせ世(よ)に行(おこな)ふ事(こと)とはなりぬその趣向(しゆかう)の精密(せいみつ)なるはなほこの初編(しよへん)とひとしうして見(み)る人(ひと)(ひ)(たけ)(よ)のふくるを知(し)らざるべし

 虎之巻(とらのまき)三編(さんへん) 全本/三冊 教訓亭主人補述

瀬川(せがは)が愛着(あいぢやく)の一念(いちねん)ゆかりの少女(をとめ)にのりうつり少女(をとめ)はからず五暁(ごきやう)を思(おも)ひそめてよりいろ/\の患難(くわんなん)辛苦(しんく)(とし)をへだてて王子(わうじ)なる茶亭(さてい)に五暁(ごきやう)とめぐりあひ初(はじめ)て恋情(れんじやう)を通(つう)じ唄妓(うたひめ)の身(み)ながら貞操(ていさう)を守(まも)りあはれに五暁(ごきやう)を見(み)つぐこと亦(また)桐山(きりやま)が旧悪(きうあく)軍二(ぐんじ)が非道(ひだう)(つひ)にあらはれて罪(つみ)をかうむりいとめでたく五暁(ごきやう)ふたゝび世(よ)になりいで瀬川(せがは)がのり移(うつ)りたる少女(をとめ)と夫婦(ふうふ)むつましく子孫(しそん)はんじやうにいたることすべて初(しよ)へん二(に)へんにもれたるをくはしく綴(つゞ)りあはせて全備(ぜんび)となすもよりのふみやにて御求(もと)め御覧(ごらん)之程奉希候

〈後編〉三巻三冊。外題は「當世虎之巻 二編 上〔中下〕」。内題は「當世(とうせい)(とら)の巻(まき)後編(こうへん)巻之一(〜三)」。「于時文政九のとし/戌乃孟陽 卯木山人」の題辞(序)二丁があり、次に「安永八亥年/春正月 田にし金魚撰」という「叙」一丁が付されている。巻之三(二編下巻)末には「安永八亥年稿成/文政九戌年正月發行/黄石堂藏版」とある。これらは金魚の遺稿めかす為の細工であろう。また尾題の直前に細字で次の様な予告をしている。

這末(このすへ)(こ)ひなさま/\の辛苦(しんく)をすぎて終(つい)に五郷と夫婦(ふうふ)になり中(なか)むつましくくらす事(こと)。茨屋(いばらや)未六が身のおわり。桐山(きりやま)が一子(いつし)また桐(きり)山におとらぬ姦悪(かんあく)のこと。五郷が本家(ほんけ)の事など。すへて残編(ざんへん)三冊(さんさつ)となして以(もつ)て首尾(しゆび)まつたからしむるものなり。

〈三編〉三巻三冊。外題は「虎之巻 三編 上〔中下〕」。内題は「當世(とうせい)(とら)の巻(まき)後編(こうへん)巻之四(〜六)」。口ノ一表に「虎の巻第三編全/瀬川五郷が一期もの語まつたくおわる」とあり、口絵見開き一図を挟んで口ノ二裏に「名において千里にはしる虎の巻/狂訓舎」とある。巻之六(三篇下巻)末には「安永八戌年 田にし金魚作/文政九丙戌年正月發行 黄石堂」「浄書 音成」とある。
 すでに中野三敏氏が「「傾城買二筋道」板本考」▼25で全文を引用して紹介されている通り、この後編述作の経過に就いては、『教訓二筋道』(文政十二年刊、四篇十二冊)の二篇上巻に付された春水序▼26に述べられている。『虎之巻』に関する部分だけを抄出しておく。

‥‥拙亭(せつてい)元来(もとより)(な)を活(うら)ず数(しば)々徳(とく)を思(おも)ふをもて前(さき)には五十餘年来(よねんらい)星霜(せいさう)(ふり)ていと久(ひさ)しき虎之巻(とらのまき)の次篇(じへん)を綴(つゞ)りいさゝか書林(しよりん)に寛尓(につこり)させしは虎(とら)の威(ゐ)を借(かる)ゑせ作者(さくしや)‥‥

 以上のことから、『當世虎之巻後編』も『五三桐山嗣編』同様、春水の手に成るものと考えて良さそうである。ならば二つの『契情買虎之巻』の後日譚を手掛けたことになるのである。

   五 〈世界〉としての鳥山瀬川

 人情本は「いわゆる継作は自由自在といっていい」▼27本であったが、どうやらそういった点からも『契情買虎之巻』の位置が計測できそうである。しかし、「人情本発生の基礎と人情的性格の素地とを誘導確立した。」▼28というように、洒落本から人情本への変遷史の中だけでは捉えきれない部分があるのではないだろうか。つまり草双紙における展開では、逸早く善光寺出開帳の際物に材を提供したし、軽妙な黄表紙らしいパロディの対象にもなった。文政期になると合巻にも取り込まれ、柳亭種彦の『千瀬川(ちせがわ)一代記(いちだいき)(文政二年、国貞画、丸文板)では、浮世草子『けいせい哥三味線』(享保十七、其磧自笑作、八文字屋板)や、中本型読本『奴(やつこ)の小万』(文化四〜五年、種彦作、桃川画、山崎平八板)に用いられた趣向と撮合され▼29、市川三升(徳升代作)の『ぬしや誰問(たれととへど)白藤(しらふじ)(文政十一年、国芳画、佐野屋喜兵衛板)では、お俊白藤譚と付会されている。
 さらに、安政三年四月の中村座『一曲奏(ひとかなで)子宝(こだから)曾我(そが)』にも仕組まれている。この時には正本写『題(なに)大磯(おほいそ)虎之(とらの)巻筆(まきふで)(紅英堂板)が出ている。渥美清太郎「歌舞伎小説解題」▼30には

安政四年の出版、種清の編、國貞の畫、三編讀切で、前年の春、中村座初演、櫻田治助作の「一曲奏子宝曾我(ひとかなでこだからそが)」の中から、在來の夜討曾我の部分を抜いて綴つたもの。この狂言は、田螺金魚の「當世虎の巻」といふ洒落本を脚色したもので、有名な瀬川五郷だ。

とある。
 なお、この『題大磯虎之巻筆』には『瀬川五郷真情話』という改題後刷本がある。刊年は不明であるが、板元は蔦吉(紅英堂)のまま変わっていない▼31
 こうして見てくると、事実譚としての鳥山瀬川譚は、まず後日譚として「世話中編小説なる読本の一、もしくは江戸におけるその初出であったかも知れない」▼32といわれる『契情買虎之巻』に結実する。すると次に中本サイズの諸ジャンルにおいて次々と後日譚の後日譚が生みだされ、その結果、鳥山瀬川譚はあたかも一つの「世界」といっても良いほどの説話的普遍性を獲得してしまったと考えられるのである。

〔注〕
▼1 向井信夫「松楼史語」(『続日本随筆大成』第九巻付録、吉川弘文館)
▼2 たとえば、大田南畝『半日閑話』巻十三(『太田南畝全集』十一巻、岩波書店、一九八八年)の安永四年十二月の項に「吉原松葉屋瀬川といへる妓を鳥山検校うけ出せしといふ事当年の是沙汰なり」とある。
▼3 向井信夫「松楼史語」(『続日本随筆大成』第九巻付録、吉川弘文館)
▼4 『歌舞伎年表』四巻(岩波書店、一九五九年)安永七年の条。
▼5 『譚海』(『日本庶民生活資料集成』八巻、三一書房、一九六九年)
▼6 『玉菊燈篭弁』(『洒落本大成』十巻、中央公論社、一九八○年)
▼7 三田村鳶魚「瀬川五郷」(『三田村鳶魚全集』第十九巻、中央公論社、一九七六年)
▼8 向井信夫「松葉屋瀬川の歴代」(『江戸文藝叢話』、八木書店、一九九五年、初出は一九七六年)
▼9 宮武外骨「瀬川考」(人物傳記専門雑誌『有名無名』二号、雅俗文庫、一九一二年六月二十五日)
▼10 前掲『歌舞伎年表』安永七年の条。なお、該項のあとに「日本盲人史」所載の町触などの史料が示されている。
▼11 『戯作評判花折紙』(『洒落本大成』二十二巻、中央公論社、一九八三年)
▼12 比留間尚「江戸開帳年表」(『江戸町人の研究』二巻、吉川弘文館、一九七三年)
▼13 園田豊氏より、これは歌舞伎役者初代坂東善次である旨の教示を得た。
▼14 この年の岩戸屋の絵外題簽中、本作だけ背景の意匠が異なり、亥の絵ではなく鳥という文字があしらわれている。あるいは「鳥山」から来たものとも考えられる。棚橋正博氏は「本書は安永八年中の刊行であったとしても、やや遅れた秋以降の刊行ではなかったかとも推察される。」(日本書誌学大系48-1『黄表紙総覧』前編、青裳堂、一九八六年、一八四頁)と述べている。
▼15 小池正胤「十返舎一九の黄表紙−鳳凰染五三桐山とその続編、合巻の発生と協作の問題について−」(「言語と文芸」、六巻三号、一九六四年五月)
▼16 棚橋正博氏は『黄表紙総覧』後編(青裳堂、一九八九年)で、天理図書館本と東洋文庫本に存する「寅春」の絵題簽を示し、叙文年記を削った再板本(改竄再摺本というべきか)が、文化三年に丸文から出板されていることと、初編が藤白屋太兵衛板であった可能性について言及している。
▼17 棚橋正博「寛政・享和期の洒落本作家像」(「江戸文学」創刊号、ぺりかん社、一九八九年)
▼18 向井信夫「人情本寸見」(『江戸文藝叢話』、八木書店、一九九五年、初出は一九八五年)
▼19 三谷一馬氏からは所蔵の中下巻について、画工が歌川国安である旨の教示を得た。なお、その後、中巻のみを入手した。
▼20 板元の記載はないが、初編下巻と同じ意匠の表紙が付されている。
▼21 熊谷市本は口ノ四を欠き、英之画の九大本とは別の口絵と文亭綾継の序文とを持つ。刊記は「東都 金龍 山人補綴\仝 米花齎英之画」「東都 馬喰町二町目 西村屋與八\南侍馬町三丁目 中村屋幸藏\南鍛冶町二丁目 和泉屋惣兵衞」とある。なお、鈴木圭一「『五三桐山嗣編』考(上・下)(「國學院雑誌」、一九九五年三、四月)が備わる。
▼22 「洒落本における後刷、後版の問題」(『中村幸彦著述集』五巻、中央公論社、一九八二年、初出は一九七四年)
▼23 浜田啓介「解題」(『洒落本大成』七巻、中央公論社、一九八〇年)
▼24 以下、中野三敏氏の教示による。
▼25 中野三敏「「傾城買二筋道」板本考」(『長沢先生/古稀記念・圖書學論集』所収、三省堂、一九七三年)
▼26 序題は「孝女両葉(かうぢよふたば)の錦(にしき)初編叙」、蓬左文庫尾崎久弥コレクション蔵〈尾一四・一ィ〉による。
▼27 前田愛「江戸紫−人情本における素人作家(アマチュア)の役割−」(『前田愛著作集』第二巻、筑摩書房、一九八九年、初出は一九五八年)
▼28 鵜月洋「田にし金魚の研究」(「国文学研究」第十五輯、一九四〇年十二月)
▼29 「千瀬川一代記」の項(暉峻康隆『江戸文学辞典』、富山房、一九四〇年)
▼30 渥美清太郎「歌舞伎小説解題」(「早稲田文学」二六一号〈草双紙の研究〉、一九二七年十月)
▼31 管見に及んだのは大阪府立中之島図書館本(乙四○三)だけであるが、全三編を一冊に合綴してあった。
▼32 中村幸彦「人情本と中本型読本」(『中村幸彦著述集』第五巻、中央公論社、一九八二年、初出は一九五六年)


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