『南總里見八犬傳』第九回
【外題】
「里見八犬傳 肇輯 巻五」
【本文】
南總里見八犬傳(なんさうさとみはつけんでん)巻之五
東都 曲亭主人編次
第(だい)九(く)回(くわい) 盟誓(ちかひ)を破(やぶり)て景連(かげつら)両城(りやうぜう)を囲(かこ)む\戲言(けげん)を信(うけ)て八房(やつふさ)首級(しゆきう)を献(たてまつ)る
却説(かくて)安西(あんさい)景連(かげつら)は、義実(よしさね)の使者(ししや)なりける、金碗(かなまり)大輔(だいすけ)を欺(あざむ)き畄(とゞ)めて、しのびしのびに軍兵(ぐんびやう)を部(てわけ)しつ、俄(にはか)に里見(さとみ)の両城(りやうぜう)へ、犇々(ひし/\)と推寄(おしよせ)たり。その一隊(ひとそなへ)は二千餘(よ)騎(き)、景連(かげつら)みづからこれを將(い)て、滝田(たきた)の城(しろ)の四門(しもん)を囲(かこ)み、昼夜(ちうや)をわかずこれを攻(せ)む。又(また)その一隊(ひとそなへ)は一千餘(よ)騎(き)、蕪戸(かぶと)訥平(とつへい)等(ら)を大將(たいせう)にて、堀内(ほりうち)貞行(さだゆき)が篭(こもり)たる、東條(とうでふ)の城(しろ)を囲(かこま)せ、両城(りやうぜう)一時(いちじ)に攻潰(せめつぶ)さん、といやがうへにぞ攻登(せめのぼ)る。その縡(こと)の為体(ていたらく)、稲麻(とうま)の風(かぜ)に戦(そよ)ぐ如(ごと)く、勢(いきほ)ひをさ/\破竹(はちく)に似(に)たり。
このとき里見(さとみ)の両城(りやうぜう)は、兵粮(ひやうろう)甚(はなはだ)乏(とも)しきに、民(たみ)荒年(くわうねん)の役(えき)に労(つか)れて、催促(さいそく)に従(したが)はず、只(たゞ)呆(あき)れたるのみなれ共、恩義(おんぎ)の為(ため)に命(いのち)を軽(かろん)じ、寄手(よせて)を屑(ものゝかす)ともせざる、勇士(ゆうし)猛卒(もうそつ)なきにあらねば、をさ/\防戦(ふせぎたゝか)ふものから、主客(しゆかく)の勢(いきほ)ひ異(こと)にして、はや兵粮(ひやうろう)に竭(つき)しかば、食(しよく)せざる事七日に及(およ)べり。士卒(しそつ)はほと/\堪(たへ)かねて、夜(よ)な/\、塀(へい)を踰(こえ)て潜出(しのびいで)、射殺(いころ)されたる敵(てき)の死骸(しがい)の、腰(こし)兵粮(ひやうろう)を撈取(さぐりとり)て、僅(はつか)に餓(うへ)に充(みつ)るもあり、或(ある)は馬(うま)を殺(ころ)し、死人(しにん)の肉(にく)を食(くら)ふもあり。義実(よしさね)いたくこれを患(うれ)ひて、杉倉(すぎくら)木曽介(きそのすけ)氏元(うぢもと)等(ら)、もろ/\の士卒(しそつ)を聚合(つどへ)、さて宣(のたま)ふやう、「景連(かげつら)は表裏(ひやうり)の武士(ぶし)、盟(ちかひ)を破(やぶ)り義(ぎ)に違(たが)ふ、奸詐(かんそ)は今(いま)さらいふにしも及(およ)ばねど、さのみおそるゝ敵(てき)にはあらず。彼(かれ)両郡(りやうぐん)の衆(ひと)を將(い)て、わが両城(りやうぜう)を攻撃(せめうて)ば、われも二郡(にぐん)の衆(ひと)をもて、彼(かれ)が二郡(にぐん)の衆(ひと)に備(そな)ふ。よしや十二分(ぶん)に勝得(かちえ)ずとも、午角(ごかく)の軍(いくさ)はしつべきに、わが徳(とく)足(た)らで五穀(ごゝく)登(みの)らず、内(うち)に倉廩(さうりん)空(むなしう)して、外(ほか)には仇(あた)の大軍(たいぐん)あり。甲乙(こうおつ)いまだわかたずして、ちから既(すで)に究(きわま)れり。縦(たとひ)百(ひやく)樊〓(はんくわい)ありといふとも、餓(うへ)ては敵(てき)を撃(うつ)によしなし。只(たゞ)義実(よしさね)が心(こゝろ)ひとつ、身(み)ひとつの故(ゆゑ)をもて、この城中(ぜうちう)にありとある、士卒(しそつ)を殺(ころ)すに忍(しの)びがたし。今宵(こよひ)衆皆(みなみな)烏夜(やみ)に乗(まか)して、西(にし)の城戸(きと)より走(はし)り去(さ)れ。辛(から)くも命(いのち)を全(まつたう)せん。その時(とき)城(しろ)に火(ひ)を放(かけ)て、且(まづ)はや妻子(さいし▼○ヤカラ)を刺殺(さしころ)し、義実(よしさね)は死(し)すべきなり。二郎(じろ)太郎(たらう)もとく落(おち)よ。その術(てだて)は箇様(かやう)々(/\)々」と精細(つばらか)に示(しめ)し給へば、皆衆(みな/\)これを聞(きゝ)あへず、「御諚(ごじやう)では候へども、その禄(ろく)を受(うけ)て妻子(やから)を養(やしな)ひ、難(なん)に臨(のぞみ)て苟且(かりそめ)にも、脱(まぬか)るゝことは要(えう)せず。只(たゞ)顕身(うつせみ)の息(いき)の内(うち)に、寄手(よせて)の陣(ぢん)へ夜撃(ようち)して、名(な)ある敵(てき)と刺(さし)ちがへ、君恩(くんおん)を泉下(せんか)に報(ほう)ぜん。この餘(よ)の事(こと)は露(つゆ)ばかりも、願(ねがは)しからず候」と辭(ことば)ひとしく回答(いらへ)まうすを、義実(よしさね)はなほ叮嚀(ねんごろ)に、説諭(ときさと)し給へども、承引(うけひく)氣色(けしき)なかりけり。
このとき義実(よしさね)のおん子(こ)、二郎(じろ)太郎(たらう)義成(よしなり)は、十六歳(さい)になり給ひつ。父(ちゝ)の仁愛(じんあい)、士卒(しそつ)の忠信(ちうしん)、よに有(あり)かたきこととのみ、うち聞(きゝ)てをはせしが、言果(ことはつ)べうもあらざれは、父(ちゝ)の氣色(けしき)を窺(うかゞ)ひて、「弱冠(じやくくわん)の某(それがし)が、異見(いけん)を申上るにあらねど、天(てん)の時(とき)は地(ち)の利(り)にしかず、地(ち)の利(り)は人(ひと)の和(くわ)にしかず。城中(ぜうちう)既(すで)に兵粮(ひやうろう)竭(つき)て、士卒(しそつ)飢渇(きかつ)に逼(せま)れ共、脱(のが)れ去(さ)らんと思ふものなく、併(しかしながら)死(し)を究(きわ)めしは、徳(とく)により、恩(おん)をおもふ、是(これ)只(たゞ)その和(くわ)の致(いた)す所(ところ)歟(か)。人(ひと)の性(さが)は善(ぜん)なれば、よしや寄手(よせて)の軍兵(ぐんびやう)なりとも、善悪(ぜんあく)邪正(じやせう)はしりつらん。又(また)兵粮(ひやうろう)に竭(つき)たれども、毎日(ひごと)に煙(けふり)をたてさせ給へば、敵(てき)かくまでとは思ひかけず、短兵急(たんへいきう)に攻撃(せめうた)ざるは、父(ちゝ)の武勇(ぶゆう)におそるゝ故(ゆゑ)也。このふたつをもて計(はか)るときは、大音(だいおん)なるものを擇(えらみ)て、城樓(やぐら)にのぼし、寄手(よせて)に對(むか)ひ、景連(かげつら)が非道(ひどう)の行状(おこなひ)、盟誓(ちかひ)を破(やぶ)り、恩(おん)を仇(あた)とし、不義(ふぎ)の軍(いくさ)を起(おこ)したる、その罪(つみ)を責(せめ)させ給はゞ、士卒(しそつ)忽地(たちまち)慚愧(ざんぎ)して、攻戦(せめたゝか)ふのこゝろ失(うせ)なん。そのとき城(しろ)より撃(うつ)て出(いで)、只(たゞ)一揉(ひともみ)に突崩(つきくづ)さば、勝(かた)ずといふことあるべからず。この議(ぎ)はいかゞ候はん」と言(こと)爽(さはやか)に演(のべ)給へば、衆皆(みな/\)只管(ひたすら)感佩(かんはい)して、「しかるべし」とまうすにぞ、義実(よしさね)は試(こゝろみ)に、その声高(こゑたか)きものを出(いだ)して、景連(かげつら)が不義(ふぎ)を数(かぞ)へ、その罪(つみ)を責(せめ)させ給ふに、日來(ひごろ)は声(こゑ)よくたつものも、餓(うへ)ては絶(たえ)て息(いき)つゝかず、城樓(やぐら)は高(たか)く堀(ほり)は廣(ひろ)し。腹(はら)の筋(すぢ)のよれるまで、口(くち)を張(は)り面(つら)を赤(あか)うし、心(こゝろ)ばかりは罵(のゝし)れども、敵(てき)の陣(ぢん)へは声(こゑ)届(とゞ)かず、果(はて)は涙(なみだ)にかきくれて、から咳(せき)をせくのみなれば、労(ろう)してその功(こう)なかりけり。
さる程(ほど)に義実(よしさね)は、憖(なまじい)に脱(のが)れ去(さら)ざる、士卒(しそつ)を救(すく)ふよしもがな、となほ肺肝(はいかん)を摧(くだき)給へど、輒(たやす)く敵(てき)を退(しりぞく)る、謀(はかりこと)を得(え)給はず。凝(こり)ては其処(そこ)に至(いた)らじとて、杖(つゑ)を曳(ひき)、園(その)に出(いで)、〓〓(そゞろあるき)し給へば、年來(としころ)愛(あい)させ給ふなる、八房(やつふさ)の犬(いぬ)は主(しゆう)を見(み)て、尾(を)を振(ふり)つゝ來(き)にけれど、久(ひさ)しく餓(うへ)たることなれば、踉々(ひよろ/\)として足(あし)定(さだま)らず。肉(にく)脱(おち)て、骨高(ほねたか)く、眼(まなこ)おちいり、鼻(はな)乾(かはけ)り。義実(よしさね)これを臠(みそなは)して、右手(めて)をもてその頭(かうべ)を拊(なで)、「嗚呼(あゝ)汝(なんぢ)も餓(うへ)たる歟(か)。士卒(しそつ)の飢渇(きかつ)を救(すくは)ん、と思ふこゝろにいとまなければ、汝(なんぢ)が事(こと)を忘(わす)れたり。賢愚(けんぐ)その差(しな)ありといへども、人(ひと)は則(すなはち)萬物(ばんもつ)の、霊(れい)たるをもてみな智惠(ちゑ)あり。教(をしえ)に従(したが)ひ、法度(はつと)を守(まも)り、礼讓(れいじやう)恩義(おんぎ)を知(し)るものなれば、欲(よく)を禁(とゞ)め、情(ぜう)に堪(たへ)、餓(うへ)て死(し)するも天命(てんめい)時運(じうん)、とおもはゞ思ひ諦(あきら)めなん。只(たゞ)畜生(ちくせう)にはその智惠(ちゑ)なし。教(をしえ)を受(うけ)ず、法度(はつと)をしらず、礼讓(れいじやう)恩義(おんぎ)を辨(わきまへ)ず、欲(よく)を禁(とゞむ)るよしもなし。只(たゞ)その主(しゆう)の養(やしな)ひに、一期(いちご)を送(おく)るものなれば、餓(うへ)て餓(うへ)たる故(ゆゑ)を得(え)しらず、食(しよく)を求(もとめ)てます/\媚(こぶ)。これも又(また)不便(ふびん)なり。現(げに)畜生(ちくせう)は恥辱(はぢ)を得(え)しらず、いと愚(おろか)なるものなれども、人(ひと)にますことなきにあらず。譬(たとひ)ば犬(いぬ)の主(しゆう)を忘(わす)れず、鼻(はな)をもてよくものを弁(べん)ずる、これらは人(ひと)の及(しか)ざる所(ところ)、性(せい)の勝(すぐ)るゝ所(ところ)也。されば古歌(こか)にも、「思ひぐまの、人(ひと)はなか/\、なきものを、あはれに犬(いぬ)の、ぬしをしりぬる。」慈鎮(ぢゝん)和尚(おせう)の詠(ゑい)とかおぼゆ。今(いま)試(こゝろみ)に汝(なんぢ)に問(とは)ん。十年(とゝせ)の恩(おん)をよくしるや。もしその恩(おん)を知(し)ることあらば、寄手(よせて)の陣(ぢん)へしのび入(いり)て、敵將(てきせう)安西(あんさい)景連(かげつら)を、啖殺(くひころ)さばわが城中(ぜうちう)の、士卒(しそつ)の必死(ひつし)を救(すく)ふに至(いた)らん。かゝればその功(こう)第一(だいゝち)なり。いかにこの事よくせんや」とうちほゝ笑(えみ)つゝ問(とひ)給へば、八房(やつふさ)は主(しゆう)の皃(かほ)を、つく/\とうち向上(みあげ)て、よくそのこゝろを得(え)たるが如(ごと)し。義実(よしさね)いよ/\不便(ふびん)におぼして、又(また)頭(かうべ)を摩(なで)、背(そびら)を拊(なで)、「汝(なんぢ)勉(つとめ)て功(こう)をたてよ。しからば魚肉(ぎよにく)に飽(あか)すべし」と宣(のたま)へば、背向(そがひ)になりて、推辞(いなめ)るごとく見えしかば、義実(よしさね)は戯(たはふ)れに、問(とひ)給ふこと又しば/\。「しからば職(つかさ)を授(さつけ)ん歟(か)、或(ある)は領地(れうち)を宛行(あておこなは)ん歟(か)。官職(くわんしよく)領地(れうち)も望(のぞま)しからずば、わが女壻(むこ)にして伏姫(ふせひめ)を、妻(めあは)せん歟(か)」と問(とひ)給ふ。此(この)ときにこそ八房(やつふさ)は、尾(を)を振(ふ)り、頭(かうべ)を擡(もたげ)つゝ瞬(またゝき)もせず主(しゆう)の顔(かほ)を、熟視(まもり)て「わゝ」と吠(ほえ)しかば、義実(よしさね)ほゝとうち笑(わら)ひ、「現(げに)伏姫(ふせひめ)は予(よ)に等(ひと)しく、汝(なんぢ)を愛(あい)するものなれば、得(え)まほしとこそ思ふらめ。縡(こと)成(な)るときは女壻(むこ)にせん」と宣(のたまは)すれば、八房(やつふさ)は、前足(まへあし)屈(をり)て拝(はい)する如(ごと)く、啼声(なくこゑ)悲(かな)しく聞(きこ)えにければ、義実(よしさね)は興(きやう)盡(つき)て、「あな〓(がま)や、あな忌々(ゆゝ)し。よしなき戯言(たはこと)われながら、慢(そゞろ)なりし」とひとりごちて、軈(やが)て奥(おく)にぞ入(い)り給ふ。
かくてその夜(よ)は大將(たいせう)も、士卒(しそつ)もこの世(よ)の名残(なごり)ぞ、と思ひ决(さだ)めし事なれば、義実(よしさね)は宵(よひ)の間(ま)は、且(しばら)く後堂(おく)にをはしまして、夫人(おくかた)五十子(いさらこ)、息女(そくぢよ)伏姫(ふせひめ)、嫡男(ちやくなん)義成(よしなり)をはじめまゐらせ、老黨(ろうだう)には氏元(うぢもと)等(ら)を、ほとり近(ちか)く召(めし)聚合(つどへ)て、おん盃(さかづき)を賜(たまは)りつ。さはれ長柄(ながゑ)の銚子(さしなべ)のみ、酒(さけ)一滴(いつてき)も
【挿絵】「戲言(けげん)を信(しん)じて八房(やつふさ)敵將(てきせう)の首級(しゆきう)を献(たてまつ)る」「里見よしさね」「杉倉氏元」「里見よし成」「伏姫」「八ふさ」
なかりしかば、水(みつ)をもてこれに代(かえ)、肴(さかな)には枝(えだ)つきの、果子(このみ)少々(せう/\)出(いだ)されたり。それも大(おほ)かた蝕(むしば)みて、生平(つね)には下司(げす)もたうべじ、と思ふ物(もの)だに時(とき)にとりては、いと忝(かたしけ)く、いと愛(めで)たし。席上(せきせう)殊(こと)に蕭(しめ)やかにて、只(たゞ)四表八表(よもやま)の物(もの)かたり、或(ある)は又(また)來(こ)しかたを、うち譚(かたらは)せ給ひつゝ、最期(さいご)のよしは一言(ひとこと)も、仰出(おふせいだ)さるゝことはなけれど、死(し)を究(きわ)めたる主従(しゆう/\)は、なか/\に勇(いさ)みあり。かゝるときにも武士(ものゝふ)の、妻(つま)とて子(こ)とて黒髪(くろかみ)の、ながき別(わかれ)を惜(をしみ)あへず、音(ね)にこそなかね、藻(も)に住(す)む虫(むし)の、われから衣(ころも)うら觧(とけ)て、濡(ぬ)るゝは袖(そで)の咎(とが)ならぬ、御心(みこゝろ)の中(うち)推量(おしはか)る、女房(にようぼう)達(たち)はもろ共に、涙(なみだ)の泉(いづみ)堰(せき)とめかねて、おなじ歎(なげ)きに沈(しづ)みけり。現(げに)理(ことわ)り、と氏元(うぢもと)等(ら)は、思はず斉一(ひとしく)嗟嘆(さたん)して、迭(かたみ)に目(め)と目(め)をあはすれば、七日已來(このかた)一粒(いちりう)も、食(しよく)せぬわれも人(ひと)も亦(また)、眼(まなこ)は凹(くぼ)み、頬骨(ほうほね)立(いで)、尚(まだ)死(し)なねども土(つち)となる、顔色(がんしよく)焦悴(おとろへ)枯稿(やせがれ)たり。「今宵(こよひ)十日の月(つき)没(いり)て、撃(うつ)て出(いで)ん」と豫(かねて)より、軍令(ぐんれい)を承(うけたまは)る、雜兵(ざふひやう)等(ら)も、思ひ思ひに、是首(ここ)彼首(かしこ)に集(あつま)りて、酒(さけ)と稱(たゝへ)て酌(く)みかはす、水(みづ)にもうつる星(ほし)の影(かげ)、鎧(よろひ)の袖(そで)におく霜(しも)も、やがて消(きえ)なん身(み)はうしや、丑三(うしみつ)比(ころ)になりにけり。「時刻(じこく)はよし」と義実(よしさね)父子(ふし)は、手(て)はやく鎧(よろひ)投(なげ)かけ給へは、五十子(いさらこ)伏姫(ふせひめ)、傅(かしつき)の老女(ろうぢよ)專女(おさめ)がもろ共(とも)に、手(て)に手(て)に取(とり)てまゐらする、大刀(たち)長刀(なぎなた)のさやかなる、風(かぜ)がもて來(く)る遠寺(ゑんじ)の鐘声(せうせい)、諸行(しよぎやう)無常(むじやう)と音(おと)すなり。
浩処(かゝるところ)に外面(とのかた)に、犬(いぬ)のなく声(こゑ)してければ、義実(よしさね)耳(みゝ)を側(そはた)てゝ、「彼(あれ)はまさしく八房(やつふさ)也。異(こと)なる声(こゑ)ぞ、皆(みな)聞(きか)ずや。出(いで)て見よかし」と宜(のたま)へば、「承(うけ給は)りつ」と應(いらへ)あへず、両三人(りやうさんにん)衝(つ)と立(たち)て、縁頬(えんかは)より指燭(しそく)を抗(あげ)、「八房(やつふさ)々(/\)々」と喚(よび)かけて、と見かう見れば、あやしきかな、生々(なま/\)しき人(ひと)の首(かうべ)を、縁端(えんばな)にうち載(のせ)て、八房(やつふさ)は踏石(ふみいし)に、前足(まへあし)かけてつく/\と、件(くだん)の首(かうべ)を守(も)りてをり。「こは/\いかに」とばかりに、観(み)るもの劇惑(あはてまど)ひつゝ、舊(もと)の処(ところ)に走(はし)り入(い)り、「かゝることこそ候へ」と忽卒(あからさま)に報知(つげ)奉(たてまつ)れば、主従(しゆう/\)男女(なんによ)聞(きゝ)あへず、驚(おどろ)きあやしまざるものなし。そが中(なか)に氏元(うぢもと)は、彼(かの)輩(ともから)を見かへりて、「餓(うへ)ては人(ひと)の亡骸(なきから)を、食(くら)ふも犬(いぬ)のならひ也。是(これ)見よかしに、もて來(き)たる、首(かうべ)は認(みし)れるものならずや。御(ご)達(たち)〔五十子(いさらご)伏(ふせ)姫(ひめ)をいふ〕もこゝにましますに、とく追遣(おひやら)ひ給ひね」といへば再(ふたゝ)びたゝんとする。そのものどもを義実(よしさね)は、「こや/\」と呼(よび)とゞめ、「犬(いぬ)はをるとも妨(さまたげ)なし。彼(かれ)もしいたく餓(うへ)たる隨(まゝ)に、躬方(みかた)の死骸(しがい)を傷(そこな)ひなば、そが侭(まゝ)にはさしおきがたし。われみづからいゆきて見ん」といひかけてはや立(たち)給へば、氏元(うぢもと)等(ら)はいふもさら也、男房(なんばう)女房(にようばう)散動(どよめき)渡(わた)りて、或(ある)は燭(しよく)を秉(とり)て先(さき)に立(たち)、或(ある)は主(しゆう)の後(しり)につきて、僉(みな)もろ共に、縁頬(えんかは)狹(せま)し、と件(くだん)の頸(くび)を見る程(ほど)に、義実(よしさね)は眉根(まゆね)をよせ、「木曽介(きそのすけ)は何(なに)とか見たる。鮮血(ちしほ)に塗(まみ)れて定(さだ)かならねど、こは景連(かげつら)に似(に)たるかし。洗(あら)ふて見よ」と仰(おふす)れば、氏元(うぢもと)も亦(また)訝(いぶか)りながら、浄手鉢(てふづはち)のほとりへよせて、柄杓(ひさく)に水(みづ)を汲(くみ)みかけて、頸(くび)に塗(まみ)るゝ血(ち)をいく遍(たび)か、洗流(あらひながし)々(/\)々て、主従(しゆう/\)更(さら)にこれを見れば、「果(はた)して敵將(てきせう)景連(かげつら)が首級(しゆきう)に疑(うたが)ふべうもあらず。分明(ふんめう)なり」と宣(のたま)へば、僉(みな)疑(うたが)ひは觧(とけ)ながら、まだその故(ゆゑ)をしるよしなけれど、人(ひと)は及(およ)ばぬ軍功(ぐんこう)に、只管(ひたすら)犬(いぬ)を羨(うらやみ)けり。
當下(そのとき)義実(よしさね)嗟嘆(さたん)して、「斯(かう)竒怪(きくわい)なる事(こと)を見る、前象(せんせう)後兆(こうちやう)なきにあらず。今(いま)こそ思ひあはするなれ。僉(みな)わが為(ため)に蜻蛉(かげろひ)の、命(いのち)を捨(すて)ん、と思ひ决(さだ)めし、士卒(しそつ)をいかで救(すくは)ん、と思へ共思ひかね、慰(なぐさめ)かねてわが身(み)ひとつ、嚮(さき)には園(その)へ出(いで)たる折(をり)、この八房(やつふさ)がいといたう、餓(うへ)たるを又(また)見(み)るに得(え)堪(たへ)ず。彼(かれ)を思ひ、此(これ)を憐(あはれ)み、汝(なんぢ)もし寄手(よせて)の陣(ぢん)へ、忍(しの)び入(い)りて景連(かげつら)を、啖(くら)ひ殺(ころ)して城中(ぜうちう)なる、数百(すひやく)の士卒(しそつ)を救(すく)ふに至(いた)らば、日毎(ひごと)に魚肉(ぎよにく)に飽(あか)せん、といへども歡(よろこ)ぶ氣色(けしき)なし。さらずは所領(しよれう)を宛行(あておこなは)ん歟(か)、重職(おもきつかさ)を授(さづけ)ん歟(か)、といへども歡(よろこ)ぶ氣色(けしき)なし。さらずは生平(つね)に汝(なんぢ)を愛(あい)する、伏姫(ふせひめ)を取(と)らせん歟(か)、といひつるときに八房(やつふさ)は、歡(よろこば)しげなる氣色(けしき)にて、尾(を)をふりつゝ吠(ほえ)たる声(こゑ)、常(つね)にはあらでいと忌々(ゆゝ)し。戯言(けげん)なり共思ひより、出(いで)ずといふことなきものを、慢(そゞろ)なりし、とひとりごちて、そが侭(まゝ)後堂(おく)に人(ひと)を聚合(つどへ)、最期(さいご)の軍議(ぐんぎ)に暇(いとま)なくて、その事ははや忘(わす)れたるに、犬(いぬ)は却(なか/\)いはれし事を、忘(わす)れねばこそ狛劍(こまつるぎ)、わが虚言(そらごと)を実事(まこと)として、寄手(よせて)の陣(ぢん)へ潜(しの)び入(い)るとも、二三千騎(ぎ)の大將(たいせう)たる、景連(かげつら)を輒(たやす)く殺(ころ)して、その首級(しゆきう)を齎(もたら)すこと、不思議(ふしぎ)といふもあまりあり。竒(き)なり/\」と八房(やつふさ)を、さし招(まね)き呼(よ)び近(ちか)つけ、只管(ひたすら)賞嘆(せうたん)し給へば、氏元(うぢもと)等(ら)は又(また)さらに、駭然(がいぜん)として舌(した)を巻(ま)き、「畜生(ちくせう)にして人(ひと)にます、功(こう)ある事もみな君(きみ)が、仁心(じんしん)徳義(とくぎ)によるもの歟(か)。併(しかしながら)神明(しんめい)仏陀(ぶつた)の、冥助(めうぢよ)にこそ」と稱賛(せうさん)す。
かゝりし程(ほど)に斥候(ものみ)の兵(つわもの)、庭門(にはくち)より走(はし)り來(き)つ。「敵(てき)に異変(いへん)の事ある歟(か)、猛(にはか)に乱(みだ)れ騒(さわ)ぎ候。速(すみやか)に撃(うち)給はゞ、勝利(せうり)疑(うたが)ひあるべからず」とまうすを義実(よしさね)聞(きゝ)あへず、「さもありなん。時(とき)な移(うつ)しそ。撃(うつ)て出(いで)よ」といそがし立(たて)て、諸隊(もろて)に令(げぢ)を傳(つた)へさせ、大將(たいせう)みづから寄手(よせて)の陣(ぢん)を、襲(おそは)んとし給へば、冠者(くわんじや)義成(よしなり)すゝみ出(いで)、「景連(かげつら)既(すで)に死(し)したれば、縦(たとひ)寄手(よせて)は大軍(たいぐん)なりとも、追拂(おひはらは)んこといと易(やす)かり。然(さ)るをわが大人(うし)佻々(かろ/\)しく、出(いで)させ給ふは物体(もつたい)なし。只(たゞ)義成(よしなり)に氏元(うぢもと)を、さし副(そえ)られて事(こと)足(たり)なん。許(ゆる)させ給へ」と請(こひ)まうして、庭門(にはくち)より走(はし)り出(いで)、牽(ひき)もて参(まゐ)らす痩馬(やせうま)に、身(み)を跳(おど)らせてうち跨(のり)給へば、氏元(うぢもと)は士卒(しそつ)を激(はげま)し、「如此(しか)如此(しか)の事(こと)ありて、はや景連(かげつら)を撃(うち)とりぬ。後(おく)るゝものは犬(いぬ)に劣(おとら)ん。出(いで)よ、進(すゝ)め」と呼(よば)はりて、三百餘(よ)騎(き)を二隊(ふたて)にわかち、義成(よしなり)は前門(おほて)より、氏元(うぢもと)は後門(からめて)より、城戸(きど)を颯(さつ)と推開(おしひらか)せて、乱(みだ)れ騒(さわ)ぐ寄手(よせて)の陣(ぢん)へ、驀地(まつしくら)に突(つい)て入(い)る。勢(いきほ)ひ日來(ひごろ)に百倍(ひやくばい)して、當(あた)るべうもあらざれば、敵軍(てきぐん)ます/\辟易(へきゑき)して、逃亡(にげうす)るもの半(なかば)に過(すき)ず。みなはや降参(こうさん)したりしかば、鬱悒(いぶせ)かりつる人(ひと)の心(こゝろ)も、その夜(よ)もやがて明(あけ)にけり。
かくて義成(よしなり)氏元(うぢもと)は、山(やま)のごとく積貯(つみたくはへ)たる、寄手(よせて)の兵粮(ひやうろう)殘(のこ)りなく、城中(ぜうちう)へとり入(い)れて、則(すなはち)縡(こと)の趣(おもむき)を、義実(よしさね)に報知(つげ)奉(たてまつ)れは、降参(こうさん)せしものどもを、悉(こと/\く)釋(とき)ゆるして、氏元(うぢもと)に領(あづけ)給ひつ。今朝(けさ)より實(まこと)に煙(けふり)を立(たて)て、篭城(ろうぜう)せし兵(つわもの)等(ら)に、白粥(しらかゆ)を給はるに、一碗(いちわん)の外(ほか)ゆるし給はず。久(ひさ)しく餓(うへ)て食(しよく)に飽(あけ)ば、忽地(たちまち)命(いのち)を隕(おと)す故(ゆゑ)也。加以(これのみならず)彼(かの)兵粮(ひやうろう)の半(なかば)を散(ちら)し、城外(ぜうぐわい)なる民(たみ)に賜(たま)ふて、をさ/\飢渇(きかつ)を救(すくひ)給へは、拝(はい)し受(うけ)てこれを頒(わか)ち、鼓腹(こふく)して命(いのち)を延(のぶ)。その縡(こと)の為体(ていたらく)、轍魚(てつぎよ)の水(みづ)を獲(え)たる如(ごと)し。
かゝりし程(ほど)に、東條(とうでふ)の城(しろ)を攻(せめ)よとて向(むけ)られたる、安西(あんざい)景連(かげつら)が老黨(ろうだう)、蕪戸(かぶと)訥平(とつへい)等(ら)は、十重(とへ)廾重(はたへ)に囲(かこ)みつゝ、昼夜(ちうや)をわかず攻撃(せめうて)ども、件(くだん)の城(しろ)は滝田(たきた)にまして、なほ半月(はんげつ)の貯禄(たくはへ)あり。貞行(さだゆき)は敵(てき)を拂(はら)ふて、滝田(たきた)の後詰(ごつめ)をせんとのみ、はじめより心(こゝろ)にかけて、雨(あめ)の夜(よ)、風(かぜ)の夕(ゆふべ)には、敵陣(てきぢん)へ夜討(ようち)すること、再三(ふたゝびみ)たびに及(およ)びにけれども、躬方(みかた)の勢(せい)に比(くらぶ)れば、寄手(よせて)は大軍(たいぐん)なるをもて、捷(かつ)といへども烈風(れつふう)の、塵(ちり)を拂(はら)ふが如(ごと)きに至(いた)らず、敵(てき)は新隊(あらて)を入(い)れかえて、弱(よは)る氣色(けしき)はなかりけり。かくてある日(ひ)の事なりき。景連(かげつら)は果敢(はか)なく撃(うた)れて、滝田(たきた)の囲(かこ)み、頓(とみ)に釋(とけ)、御曹司(おんぞうし)義成(よしなり)に、杉倉(すぎくら)氏元(うぢもと)を副(そえ)られて、大軍(たいぐん)當処(たうしよ)へ援來(たすけく)るよし、誰(たれ)いふとはなく風聞(ふうぶん)す。城兵(しろのつわもの)はこれを聞(きゝ)て、勇気(ゆうき)日來(ひごろ)に百倍(ひやくばい)し、寄手(よせて)の兵(つわもの)等(ら)は是(これ)を聞(きゝ)て、劇騒(あはてさわ)ぐこと大(おほ)かたならず。はじめの程(ほど)訥平(とつへい)は、聞(きけ)ども聞(きか)ぬおもゝちして、士卒(しそつ)を罵(のゝし)り激(はげま)すものから、きのふにけふはいやまして、風聞(ふうぶん)ます/\〓(かまびす)し。現(げに)虚言(そらごと)にはあらざるべし、と思へばいよ/\怖氣(こわげ)づきて、軍兵(ぐんびやう)等(ら)には示(しめし)あはせず、訥平(とつへい)は身親(みちか)きもの、両三人(りやうさんにん)を従(したが)へて、烏夜(やみ)に紛(まぎ)れて落(おち)うせたり。天明(よあけ)て寄手(よせて)の軍兵(ぐんびやう)は、大將(たいせう)逐電(ちくてん)せしよしを、やうやくに知(しり)てければ、衆皆(みな/\)呆(あき)れ惑(まど)ひつゝ、生(なま)大將(だいせう)の憎(にく)さよ、とうち腹(はら)たつのみ。せんすべなければ、諸軍(しよぐん)斉一(ひとしく)評議(ひやうぎ)して、城中(ぜうちう)へ使者(ししや)を遣(つかは)し、皆(みな)阿容(おめ)々(/\)々と降参(こうさん)す。貞行(さだゆき)は「これらのよしを、滝田(たきた)殿(との)へまうせ」とて、騎馬(きば)の使者(ししや)をまゐらせつ。その使者(ししや)と滝田(たきた)より、勝軍(かちいくさ)を告來(つげき)つる、兵士(つわものら)にゆきあへり。かくて諚使(じやうし)は、東條(とうでふ)へ來著(らいちやく)して、景連(かげつら)が命(いのち)を隕(おと)せし、ことの趣(おもむき)を告(つげ)しらせ、又(また)御曹司(おんぞうし)〔義(よし)成(なり)〕を大將(たいせう)にて、杉倉(すぎくら)氏元(うぢもと)を副(たすけ)とし、不日(ふじつ)に出陣(しゆつぢん)のよしを告(つげ)、これは當地(たうち)の敵(てき)を拂(はら)ふて、舘(たて)の両城(りやうぜう)を攻(せめ)ん為(ため)也といふ。貞行(さだゆき)は謹(つゝしん)て、君命(くんめい)をうけ給はり、再(かさね)て使者(ししや)をまゐらせて、勝軍(かちいくさ)を賀(が)し奉(たてまつ)り、御曹司(おんぞうし)の出陣(しゆつぢん)を、今(いま)か/\とまつ程(ほど)に、豫(かね)て義実(よしさね)の徳(とく)を慕(した)ふ、安房(あは)朝夷(あさひな)の士庶(ししよ)良賤(りやうせん)、「景連(かげつら)亡(ほろ)びぬ」と聞(き)くとやがて、舘(たて)の両城(りやうぜう)へとりかけて、その守將(しゆせう)を攻滅(せめほろぼ)し、蕪戸(かぶと)訥平(とつへい)等(ら)が首級(しゆきう)を齎(もた)して、老(おも)だちたるもの数(す)十人、東條(とうでふ)へ來(き)つる日(ひ)に、義成(よしなり)氏元(うぢもと)著陣(ちやくぢん)して、貞行(さだゆき)等(ら)もろ共(とも)に、縡(こと)の趣(おもむき)を書写(かきしたゝ)め、滝田(たきた)の城(しろ)へ注進(ちうしん)して、件(くだん)の首級(しゆきう)を献(たてまつ)れは、義実(よしさね)は、安房(あは)朝夷(あさひな)のものどもを召(めさ)せ給ひて、物(もの)夥(あまた)被(かつけ)させ、御曹司(おんぞうし)と氏元(うぢもと)等(ら)に、御教書(みきやうしよ)を給はりて、舘(たて)の両城(りやうぜう)を守(まも)らし給ふ。
かくてぞ四郡(しぐん)一个國(いつかこく)、義實(よしさね)管領(くわんれう)し給へば、威徳(いきほひ)朝日(あさひ)の昇(のぼ)るごとく、徳澤(めぐみ)は時雨(あめ)の潤(うるほ)すごとく、奸民(かんみん)は走去(はしりさ)り、善人(ぜんにん)は時(とき)を得(え)たり。是(これ)よりして夜(よる)戸(と)を鎖(さゝ)ず、又(また)遺(おち)たるを拾(ひら)ふものなし。久後(ゆくすゑ)は卒(いざ)しら濱(はま)に、波風(なみかぜ)立(たゝ)ずなりしかば、隣國(りんこく)の武士(ぶし)いへばさら也、持氏(もちうぢ)の末子(ばつし)、成氏(なりうぢ)朝臣(あそん)、鎌倉(かまくら)へ立(たち)かへりて、はや年來(としころ)になりしかば、このとき滝田(たきた)へ書(しよ)を贈(おく)りて、一國(いつこく)平均(へいきん)の功業(こうぎやう)を稱賛(せうさん)し、室町(むろまち)將軍(せうぐん)へ聞(きこ)えあげて、則(すなはち)里見(さとみ)義実(よしさね)を、安房(あは)の國主(こくしゆ)にまうしなし、剰(あまさへ)治部(ぢぶの)少輔(せうゆう)に、補(ふ)せらるゝよし聞(きこ)えしかば、義実(よしさね)歡喜(くわんき)雀躍(じやくでき)して、京(きやう)鎌倉(かまくら)へ使者(ししや)を進(まゐ)らせ、土産(とさん)種々(くさ/\)献(たてまつ)る。〔持氏(もちうぢ)の季子(すゑのこ)を、成氏(なりうぢ)といふ。いぬる嘉吉(かきつ)三年に、長尾(ながを)昌賢(まさかた)執(とり)なして、鎌(かま)倉(くら)へ迎(むか)へ入れ、管領(くわんれい)になしまゐらせて、はや十餘(よ)年(ねん)を経(へ)にけれども、故(ゆゑ)ありて成氏(なりうぢ)は、鎌倉(かまくら)に居(を)ることかなはず、康永(こうゑい)の年間(ころ)下総(しもふさ)なる、許我(こが)へ移住(いぢう)し給ひけり。こゝに年序(ねんじよ)を僂(かゞなう)れは、この年(とし)の事ならん歟(か)。成氏(なりうぢ)の事『九代記(くだいき)』に見えたり。この下(しも)に話(ものがたり)なし。〕
斯(かう)歡(よろこ)ぶべく祝(ことほ)ぐべき、事のみうちも続(つゞ)くものから、義実(よしさね)はとにかくに、こゝろにかゝるはそのはじめ、安西(あんざい)に糧(かて)を乞(こ)へとて、彼処(かしこ)へ使者(ししや)に遣(つかは)したる、金碗(かなまり)大輔(だいすけ)が事也かし。「渠(かれ)は年(とし)なほわかけれども、阿容(おめ)々(/\)々と手(て)を束(つかね)て、敵(てき)に擒(とりこ)となるものならず。欺(あざむか)れて撃(うた)れしか。又(また)その勢(せい)の夛少(たせう)を計(はか)らず、憖(なまじい)に寄手(よせて)を〓(さゝへ)て、可惜(あたら)命(いのち)を隕(おと)せしか、さらずは昨(きのふ)けふまでも、かへり参(まゐ)らぬ事(こと)はあらじ。われ不憶(ゆくりなく)土地(とち)を闢(ひら)き、こゝに富貴(ふうき)を受(うく)る事は、彼(かれ)が親(おや)の資(たすけ)によれり。かゝればその臨終(りんしう)に、その子(こ)を長挟(ながさ)の郡司(ぐんじ)とし、東條(とうでふ)の城主(ぜうしゆ)にせん、といひつる事(こと)をいまだ果(はた)さず。加以(これのみならず)わがこゝろに、許(ゆる)せし事さへありけるものを、うたてや渠(かれ)が亡骸(なきから)だも、見るよしなきは遺憾(のこりを)し。樹(き)を伐(かり)、草(くさ)を刈拂(かりはら)ひても、そが存亡(そんぼう)をしらせよ」とて、豫(かね)て八方(はつほう)へ人(ひと)を出(いだ)し、さき/\までも徇(ふれ)しらして、隈(くま)なく索(たづね)させ給へど、往方(ゆくゑ)は絶(たえ)てしれざりけり。
さる程(ほど)に義実(よしさね)は、老黨(ろうだう)士卒(しそつ)の勲功(くんこう)を、ひとり/\に攷(かむがへ)正(たゞ)して、所領(しよれう)を増(ま)し、職(つかさ)を進(すゝ)め、大方(おほかた)ならず勸賞(けんせう)を、行(おこな)はせたまふ事(こと)のはじめに、八房(やつふさ)の犬(いぬ)をもて、第一(だいゝち)の功(こう)と定(さだ)め、朝暮(あさゆふ)の食(しよく)、起臥(おきぶし)の衾(ふすま)、美(び)を盡(つく)さずといふことなく、これが為(ため)に犬養(いぬかひ)の職(つかさ)を置(おき)、奴隷(しもべ)夥(あまた)冊(かしつ)けて、出(いづ)るときは先(さき)を追(おは)せ、入(い)るときはうち護(まも)らせ、寵愛(ちやうあい)耳目(じもく)を驚(おどろか)せども、八房(やつふさ)は頭(かうべ)を低(たれ)、尾(を)をふせて、食(くら)はず、睡(ねむ)らず、いぬる宵(よ)敵將(てきせう)景連(かげつら)が、首級(しゆきう)をもて來(き)し縁頬(えんかは)の、ほとりに参(まゐり)て立(たち)も去(さ)らず、主君(しゆくん)の出(いで)させ給ふを見(み)れば、縁端(えんはな)に前足(まへあし)を、懸(かけ)つゝ尾(を)をふり鼻(はな)を鳴(な)らし、乞(こひ)もとむる事あるが如(ごと)し。しかれども義実(よしさね)は、そのこゝろを得(え)給はず、手(て)づから魚肉(ぎよにく)餅(もちひ)なンどを、折敷(をしき)にすえて賜(たび)にけれども、八房(やつふさ)は見もかへらず、なほ求(もとむ)る事頻(しき)り也。箇様(かやう)の事(こと)度(たび)かさなれば、義実(よしさね)は大(おほ)かたに、犬(いぬ)のこゝろを推量(おしはか)りて、もしこれにもや、とおぼせしかば、忽地(たちまち)愛(あい)を失(うしな)ひて、端近(はしちか)くは出(いで)給はず。犬養(いぬかひ)等(ら)して八房(やつふさ)を、遠(とほ)く牽(ひき)もて去(さ)らせ給へど、動(やゝも)すれは哮狂(たけりくる)ひて、犬養(いぬかひ)等(ら)が手(て)に従(したが)はず。果(はて)は〓(くさり)を引断離(ひきちぎり)て、禁(とゞむ)る人(ひと)を啖(くら)ひ倒(たふ)し、彼(かの)縁頬(えんがわ)より跳登(おどりのぼ)りて、奥(おく)まりたる処々(ところ/\)、彼此(をちこち)となく奔走(ほんさう)す。しかれどもこれを追(お)ふ、犬養(いぬかひ)等(ら)は、憚(はゞかり)の関(せき)の戸(と)あれば、手(て)を抗(あげ)て、「あれよあれよ」と叫(さけ)ぶのみ。男子(をのこ)の手(て)にだに乗(まか)せぬ犬(いぬ)が、哮狂(たけりくる)ふ事にしあれば、侍女(をんな)們(ばら)は一〓(ひとなだれ)に、おそれ惑(まど)ひつ立騒(たちさわ)ぎ、彼首(かしこ)へ走(はし)れば、是首(ここ)へ迯(にげ)、此方(こなた)で追(お)へば、彼方(かなた)へ走(はし)る。犬(いぬ)もろ共に人(ひと)も狂(くる)ひて、障子(せうじ)蒸襖(むしふすま)を推倒(おしたふ)し、叫(さけ)び喚(よばゝ)り、おもはずに、伏姫(ふせひめ)のをはします、後堂(おくざしき)へ追入(おひい)れたり。
このとき姫(ひめ)は間入(とぎ)もなく、書案(ふつくゑ)に肘(ひぢ)をもたして、『枕(まくら)の草紙(さうし)』を御覧(ごらん)ずるに、翁丸(おきなまろ)といふ犬(いぬ)が、勅勘(ちよくかん)を蒙(かふむ)りて、捨(すて)られし縡(こと)の趣(おもむき)、又(また)ゆるされてかへり参(まゐ)りし為体(ていたらく)を、いと愛(めで)たくぞ書(かき)たりける、清少納言(せいせうなごん)が才(さえ)を羨(うらや)み、「昔(むかし)はかゝる事こそあれ」とひとりごちつゝその段(だん)を、繰返(くりかへ)し給ふ折(をり)、侍女(をんな)們(ばら)が叫(さけ)ぶ声(こゑ)して、背後(うしろ)へ走(はし)り來(く)るものあり。その疾(とき)ごと飛(とぶ)がごとく、牀(とこ)に立(たて)たる筑紫琴(つくしこと)を、横(よこ)ざまに倒(たふ)しかけて、裳(もすそ)の上(うへ)へ〓(はた)と臥(ふ)すを、吐嗟(あはや)とばかり見かへり給へば、是(これ)則(すなはち)八房(やつふさ)也。その面魂(つらたましひ)生平(つね)ならず。「こは病(やまひ)つきたるならん。あなうたや」と書案(ふづくゑ)を、掻遣(かいや)り立(たゝ)まくし給ふに、犬(いぬ)の臥(ふす)とき前足(まへあし)を、長(なが)き袂(たもと)に突入(つきい)られて、進退(しんたい)特(こと)に不便(ふべん)なり。現(げ)に十年(とゝせ)畜育(かひたて)て、大(おほ)きなること犢(ことひ)に等(ひと)しく、ちから剛(つよ)かる老犬(おほいぬ)が、壓(おし)になりたる事なれば、われから後方(あとべ)に引(ひき)すえられて、頻(しきり)に人(ひと)を呼(よば)せ給へは、專女(おさめ)、小扈従(ここせう)、女(め)の童(わらは)、應(いらへ)もあへず走來(はしりき)つ、この為体(ていたらく)にいよゝます/\、うち驚(おどろ)くのみ近(ちか)つき得(え)ず。引提(ひきさげ)來(きた)れる箒(はゝき)もて、席薦(たゝみ)を鼕々(とと)とうち敲(たゝ)き、叱々(しし)といひつゝおそる/\、追遣(おひやら)んとすれば、八房(やつふさ)は、眼(まなこ)を〓(いか)らし、牙(きば)を見(あら)はし、號(うな)れる形勢(ありさま)凄(すさま)じけれは、侍女(をんな)們(ばら)は箒(はゝき)を捨(すて)て、逡巡(あとしさり)せぬものもなし。
浩処(かゝるところ)に義実(よしさね)は、縡(こと)はやしらせ給ひけん、短鎗(てやり)引提(ひさげ)て來(き)給ひつ、戸口(とくち)に立(たち)ておそれ惑(まど)ふ、女(め)の童(わらは)等(ら)を叱(しか)り退(しぞ)けて、遽(いそがは)しく進(すゝ)み入(い)り、「やをれ畜生(ちくせう)、とく出(いで)よ、出(いで)よ/\」と、引提(ひさげ)たる、短鎗(てやり)の石衝(いしつき)さし延(のべ)て、追(お)ひ出(いだ)さんとし給へども、八房(やつふさ)は些(ちつと)も動(うご)かず、佶(きつ)と向上(みあげ)て牙(きば)を張(は)り、ます/\哮(たけ)る声(こゑ)凄(すさま)じく、囓(かみ)もかゝらん形勢(ありさま)なり。義実(よしさね)は勃然(ぼつぜん)と、怒(いか)りに堪(たへ)ず声(こゑ)をふり立(たて)、「理(り)も非(ひ)も得(え)しらぬ畜生(ちくせう)に、ものいふは無益(むやく)に似(に)たれど、愛(あい)する主(しゆう)をばしりつらん。しらずは思ひしらせん」と敦圉(いきまき)あへず、鎗(やり)とり直(なほ)して突殺(つきころさ)んとし給へば、伏姫(ふせひめ)は身(み)を盾(たて)に、「やよ待(まち)給へ家尊(かぞの)大人(うし)。貴(たと)きおん身(み)をいかなれば、牛打童(うしうつわらべ)に等(ひとし)うして、畜生(ちくせう)の非(ひ)を咎(とが)め、おん手(て)を下(くだ)し給ふ事、物体(もつたい)なくは侍(はべ)らずや。聊(いさゝか)思ふよしも侍(はべ)れば、枉(まげ)てゆるさせ給ひね」といひかけて目(め)を拭(ぬぐひ)給へば、義実(よしさね)は突(つき)かけたる、短鎗(てやり)を引(ひき)て挾(わきはさ)み、「異(こと)なる姫(ひめ)が諫言(かんげん)かな。いふよしあらばとく/\」といそがし給へば、はふり落(おつ)る、涙(なみだ)を禁(とゞ)め、貌(かたち)を改(あらた)め、「いと憚(はゞかり)あることに侍(はべ)れど、今(いま)も昔(むかし)も、和(やまと)も漢(から)も、かしこき君(きみ)の政事(まつりこと)、功(こう)あれば必(かならず)賞(せう)あり、罪(つみ)あれば必(かならず)罰(ばつ)あり。もし功(こう)ありて賞(せう)行(おこなは)れず、罪(つみ)ありて咎(とがめ)なくは、その國(くに)亡(ほろ)び侍(はべ)りなん。譬(たとひ)ばこの犬(いぬ)の如(ごと)き、功(こう)侍(はべ)れども賞(せう)行(おこなは)れず、罪(つみ)なうして罰(ばつ)を蒙(かうむ)る。不便(ふびん)にはおぼさずや」といふを義実(よしさね)聞(きゝ)あへず、「おん身(み)が異見(いけん)甚(はなはだ)たがへり。剛敵(ごうてき)頓(とみ)に滅(ほろび)しより、犬(いぬ)の為(ため)に職(つかさ)を置(おき)、食(しよく)には珎〓(ちんぜん)美味(びみ)を與(あた)へ、〓(しとね)に錦綉(きんしう)綾羅(れうら)を賜(たま)ふ。かくてもその賞(せう)なしといふや」と詰(なじ)り給へば、頭(かうべ)を擡(もたげ)、「綸言(りんげん)汗(あせ)の如(ごと)しとは、出(いで)てかへさぬ喩(たとへ)に侍(はべ)らん。又(また)君子(くんし)の
【挿絵】「義実(よしさね)怒(いかつ)て八房(やつふさ)を追(おは)んとす」「伏姫」「八ッ房」「里見よしさね」
援引事實 昔(むかし)高辛氏のとき。犬戎(けんじゆう)之寇(こう)有(あ)り。帝(みかど)其(そ)の侵暴(オカシアルヽヲ)を患(うれひ)て。征伐すれども克(か)たず。乃(すなは)ち天(あめ)が下に訪ひ募(モトメテ)。能(よ)く犬戎(けんじゆう)之(の)將呉將軍を得(え)る者(モノ)有(あ)らば。黄金千鎰(せんいつ)。邑萬(ゆうまん)家を賜(たまは)ん。又妻(めあは)すに少女を以(もつて)せんとなり。畜狗(ちくく)有(あ)り。其(そ)の毛五彩(ごさい)。名つけて槃瓠(はんこ)と曰(い)ふ。令を下す之(の)後。槃瓠俄頃(にはか)に一頭を銜(くわえ)て闕下(けっか)に泊(とま)る。群臣怪(あやしみ)て之(これ)を診(み)れは。乃(すなは)ち呉將軍が首也(なり)。帝(みかど)大(おおい)に喜(よろこび)玉(たま)ふ。且(か)つ謂(オモヘラク)。槃瓠は之(これ)に妻(めあは)すに女(むすめ)を以(もつて)すべからず。又封爵(ほうしやく)之(の)道無(な)し。議して之(これ)に報(むくひ)んと欲(ほつ)す。而(しか)れども未(いま)だ宣(せん)する所を知らず。女(むすめ)聞て以為(オモヘラク)。皇帝令(れい)を下して信(しん)に違(たが)ふべからずと。因(より)て行(いか)んと請(こ)ふ。帝已(やむ)ことを得ず。女(むすめ)以(もつ)て槃瓠に妻(めあ)はす。槃瓠女(むすめ)を得て。負(おふ)て南山なる石室の中に走り入れり。險絶(けんぜつ)にして人跡(じんせき)至らず。三年を経(へ)て。六男六女を生(う)めり。槃瓠因(より)て自(みずか)ら妻(つま)に决(ワカル)。好色の衣服。製裁皆(みな)尾有(あり)。其(その)母後に状を以(もつて)帝に白(もう)す。是(ここ)に於(おいて)諸子を迎へ玉(たま)ふに。衣装蘭斑(らんはん)。言語侏離(しゆり)なり。好て山壑(さんがく)に入る。平曠(へいこう)を樂(たのしま)ず。帝其(その)意に順(したがひ)て。賜(たまふ)に名山廣澤(こうたく)を以(もつて)す。其(その)の後(シソン)滋蔓(じまん)せり。號(ごう)して蛮夷(ばんい)と曰(い)ふ。今(いま)長沙武陵の蛮(エビス)是(これ)也(なり)。』又北狗國は。人身(じんしん)にして狗首(くしゆ)。長毛にして衣(ころも)せず。其(その)妻は皆(みな)人なり。男を生めば狗(いぬ)と為(な)り。女を生めば人(ひと)と為(な)となると云ふ。五代史に見えたり。一言(いちごん)は駟馬(よつのうま)も及(およ)びかたし、と聖経(ひじりのふみ)にありとなん、物(もの)の本(ほん)にも引(ひき)て侍(はべ)る。悲(かな)しきかな父(ちゝ)うへは、景連(かげつら)を討滅(うちほろぼ)して、士卒(しそつ)の餓(うへ)を救(すくは)ん為(ため)、この八房(やつふさ)を壻(むこ)がねに、わらはを許(ゆる)し給ふにあらずや。假令(たとひ)そのこと苟且(かりそめ)のおん戯(たはふ)れにましますとも、一トたび約束(やくそく)し給ひては、出(いで)てかへらず、馬(うま)も及(およ)はず。かゝれば犬(いぬ)が乞(こひ)まうす、恩賞(おんせう)は君(きみ)が隨意(まに/\)、許(ゆる)させ給ふ所(ところ)に侍(はべ)り。渠(かれ)大功(たいこう)をなすに及(およ)びて、輒(たちまち)に約(やく)を変(へん)じ、代(かふ)るに山海(うみやま)の美味(うまき)を賜(たま)ひ、又(また)錦綉(あやにしき)の衣衾(ふすま)を給ふて、事(こと)足(たり)なんとせらるゝこと、もし人(ひと)ならば朽(くち)をしく、恨(うらめ)しく思ひ奉(たてまつ)らん。畜生(ちくせう)にして人(ひと)にます、大功(たいこう)あるも、又(また)その賞(せう)に、わらはを許(ゆる)させ給ひしも、皆(みな)前世(さきつよ)の業報(ごうほう)と、思ひ决(さだ)めつ。國(くに)の為(ため)、後(のち)の世(よ)の為(ため)、棄(すて)させ給ふ、子(こ)を生(いき)ながら畜生道(ちくせうどう)へ、侶(ともなは)せても政道(せいとう)に、偽(いつは)りのなきよしを、民(たみ)にしらして、安(やす)らけく、豊(ゆた)けく治(おさ)め給はずは、盟(ちかひ)を破(やぶ)り約(やく)に叛(そむ)きし、彼(かの)景連(かげつら)と何(なに)をもて、異(こと)なりて人(ひと)申さんや。いと浅(あさ)はかなるをうな子(ご)の、鼻(はな)の先(さき)なる智惠(ちゑ)の海(うみ)も、濁(にご)らねばこそなか/\に、深(ふか)き歎(なげ)きはこのゆゑと、心(こゝろ)くみみてけふよりは、恩愛(おんあい)ふたつの義(ぎ)を断(たち)て、わが身(み)の暇(いとま)給はれかし。子(こ)として親(おや)に棄(すて)よと乞(こ)ひ、異類(ゐるい)に従(したが)ふ少女子(をとめこ)は、大千(だいせん)世界(せかい)を索(たづね)ても、わらはが外(ほか)は侍(はべ)らじ」とかき口説(くどき)給ふ袖(そで)の上(うへ)に、落(おち)てたばしる露(つゆ)の玉(たま)、こゝへのみ來る秋(あき)なるべし。
【原文】援引事實 昔高辛氏。有犬戎之寇。帝患其侵暴。而征伐不克。乃訪募天下。有能得犬戎之將呉將軍者。賜黄金千鎰。邑萬家。又妻以少女。有畜狗。其毛五彩。名曰槃瓠。下令之後。槃瓠俄頃銜一頭泊闕下。群臣怪而診之。乃呉將軍首也。帝大喜。且謂。槃瓠不可妻之以女。又無封爵之道。議欲報之。而未知所宣。女聞以為。皇帝下令不可違信。因請行。帝不得已。以女妻槃瓠。槃瓠得女。負而走入南山石室中。險絶人跡不至。経三年。生六男六女。槃瓠因自决妻。好色衣服。製裁皆有尾。其母後以状白帝。於是迎諸子。衣装蘭斑。言語侏離。好入山壑。不樂平曠。帝順其意。賜以名山廣澤。其後滋蔓。號曰蛮夷。今長沙武陵蛮是也』又北狗國。人身狗首。長毛不衣。其妻皆人。生男為狗。生女為人云。見五代史。