『南總里見八犬傳』第十六回


【本文】
 第(だい)十六回(くわい) 〔白刃(はくじん)の下(もと)に鸞鳳(らんほう)良縁(りやうえん)を結(むす)ぶ天女(てんによ)の廟(やしろ)に夫妻(ふさい)一子(いつし)を祈(いの)る〕

 却説(かくて)大塚(おほつか)番作(ばんさく)は、浅痍(あさで)なれども一昼夜(いちちうや)、夥(あまた)の程(みち)を來(き)にけれは、疲労(つかれ)とともにその痍(きず)(いた)みて、通宵(よもすがら)いもねられず。枕(まくら)にかよふ松(まつ)の声(こゑ)、渓澗(たにかは)の音(おと)さわがしく、ぬるとはなしに目睡(まどろみ)けん、紙門(ふすま)(こし)にうち譚(かたら)ふ、声(こゑ)するに驚覺(おどろきさめ)、枕(まくら)を欹(そばたて)て熟(つら/\)(きけ)ば、老(およ)つけたる男(をとこ)の声(こゑ)也。されば菴主(あんしゆ)はかへりけん、渠(かれ)何事(なにごと)をいふにかあらん、と耳(みゝ)を澄(すま)して聞(き)く程(ほど)に、忽地(たちまち)女子(をなこ)の泣声(なきこゑ)して、「そは聞(きゝ)わきなし、むじんなり。衆生(しゆぜう)済度(さいど)は佛(ほとけ)のをしえ、よしそれまでに及(およば)ずとも、心(こゝろ)を穢(けが)す破戒(はかい)の罪(つみ)、法衣(ころも)に愧(はぢ)ず刃(やいば)もて、殺(ころさ)んとは情(なさけ)なし」といふは正(まさ)しく宿貸(やどかし)て、吾(われ)をとゞめし女子(をなこ)なり。原來(さては)菴主(あんしゆ)は破戒(はかい)の悪僧(あくそう)、妍(かほよ)き少女(をとめ)を妻(つま)にして、彼奴(かやつ)を餌(ゑば)に旅人(りよじん)をとゞめ、竊(ひそか)に殺(ころ)して物(もの)をとる、山賊(さんぞく)に究(きわま)れり。たま/\君父(くんふ)の怨(うらみ)を復(かへ)し、恥(はぢ)を雪(きよ)め、危難(きなん)を脱(のが)れて、こゝまで來(き)つるに阿容(おめ)(/\)々と、われ山賊(さんぞく)の手(て)に死(しな)んや。先(さき)にすれば人(ひと)を征(せい)す。こなたより撃(うつ)て出(いで)、鏖(みなころ)しにすべけれ、と思ひ决(さだ)めて些(ちつと)も騒(さわ)がず、竊(ひそか)に起(おき)て帶(おび)引締(ひきしめ)、刀(かたな)を腰(こし)に、かゝぐりかゝぐり、紙門(ふすま)のほとりへ潜(しの)びよりて、開闔(たてつけ)の間準(ひずみ)より、縡(こと)の容(やう)を闕窺(かいまみ)るに、その年(とし)四十あまりの悪僧(あくそう)、手(て)に一挺(いつてう)の菜刀(なかたな)をふり揚(あげ)て、女子(をなこ)に對(むか)ひて威(おど)しつ賺(すか)しつ、いふこと定(さだ)かに聞(きこ)えね共、われを撃(うた)んず面魂(つらたましひ)
【挿絵】「山院(さんいん)に宿(しゆく)して番作(ばんさく)手束(たつか)を疑(うたが)ふ」「菴主蚊牛」「たつか」「大塚番作」
女子(をなこ)はこれを禁(とゞめ)あへず、髪(かみ)ふり紊(みだ)してよゝと泣(なく)。害心(がいしん)(すで)に顕然(げんぜん)たる、為体(ていたらく)に番作(ばんさく)は、聊(いさゝか)も疑(うたが)はず、紙門(ふすま)を丁(ちやう)と蹴(け)ひらきて、庖〓(くりや)のかたへ跳出(おどりいで)、「山賊(さんぞく)われを殺(ころ)さん歟(か)。われまづ汝(なんぢ)を殺(ころ)すべし」と罵(のゝしり)あへず飛(とび)かゝれば、悪僧(あくそう)(おほ)きにうち驚(おどろ)き、拿(もつ)たる刃(やいば)を閃(ひらめか)して、〓(きら)んとする拳(こぶし)の下(した)を、潜(くゞ)り脱(ぬけ)つゝ足(あし)を飛(とば)して、腰眼(ゐのめ)のあたりを〓(はた)と蹴(け)る。蹴(け)られて前(まへ)へひよろ/\と、五六歩(いつあしむあし)(はし)り出(いだ)して、やうやくに踏駐(ふみとゞま)り、ふりかへつて突(つき)かくるを、右(みぎ)へ流(なが)し、左(ひだり)へ辷(すべ)らし、数回(あまたゝび)かけ、惱(なやま)して、疲労(つか)るゝ処(ところ)をつけ入(い)りて、竟(つひ)に刃(やいば)をうち落(おと)せば、悪僧(あくそう)いよ/\こゝろ慌(あはて)て、迯(にげ)んとすれは、番作(ばんさく)は、菜刀(なかたな)(て)ばやくとり揚(あげ)て、「賊僧(ぞくそう)天罰(てんばつ)思ひしれ」と罵(のゝし)る声(こゑ)ともろ共(とも)に、あびせかけたる刃(やいば)の電光(いなつま)、背條(せすぢ)をふかく劈(つんざい)たり。灸所(きうしよ)の痛痍(いたで)に、霎時(しばし)も得(え)(たへ)ず、悪僧(あくそう)は苦(あつ)と叫(さけ)びて、仆(たふ)るゝ胸膈(むなさき)、とゞめの刀尖(きつさき)、刺(さし)つらぬきて引抜(ひきぬく)菜刀(なかたな)、血(ち)を揮(ふり)たらして、刃(やいば)を拭(ぬぐ)ひ、〓惑(あはてまどひ)て迯(にげ)も得(え)ず、伏沈(ふししづ)みたる女子(をなこ)に對(むか)ひて、眼(まなこ)を〓(いか)らし声(こゑ)をふり立(たて)、「汝(なんぢ)は甲夜(よひ)に飯(いひ)を惠(めぐみ)て、一碗(いちわん)の恩(おん)あるに似(に)たり。又(また)賊僧(ぞくそう)がかへり來(き)て、われを殺(ころ)さんとするを禁(とゞ)めし。こは惻隱(そくいん)の心(こゝろ)なれども、この賊僧(ぞくそう)が妻(つま)となりて、是(これ)までいくその人(ひと)を殺(ころ)せし、是(これ)も亦(また)しるべからず。されば脱(のが)れぬ天(てん)の誅(せめ)、速(すみやか)に首伏(はくでう)して、刃(やいば)を受(うけ)よ。いかにぞや」と問(とは)れて僅(はつか)に頭(かうべ)を挙(あげ)、「その疑(うたが)ひは情由(わけ)しらぬ、おん身(み)が心(こゝろ)の惑(まよ)ひにこそ。わらはは固(もと)より然(さ)るものならず」といはせもあへず冷笑(あざわら)ひ、「浅(あさ)くも言(こと)を左右(さゆう)によせて、時(とき)を移(うつ)して小賊(こぬすびと)(ら)が、かへるをまちて夫(をとこ)のために、怨(うらみ)を復(かへさ)んと思ふ汝(なんぢ)が胸中(きやうちう)、われかばかりの伎倆(たくみ)に乗(のら)んや。告(つげ)ずはこれもていはせん」と打晃(うちひらめか)す菜刀(なかたな)の光(ひかり)と共(とも)に飛退(とびしりぞ)き、「やよ俟(まち)給へ、いふことあり」といへ共聽(ゆるさ)ぬ怒(いかり)の刀尖(きつさき)、何処(いづこ)までもと〓縁(つけまは)す、刃頭(はさき)に盾(たて)もなよ竹(たけ)の、雪(ゆき)に折(をれ)なん風情(ふせい)にて、右手(めて)を伸(のば)し、左手(ゆんて)を衝(つき)、片膝(かたひざ)(たて)て身(み)を反(そ)らし、後(うしろ)ざまに迯遶(にげめぐ)るを、番作(ばんさく)はなほ逃(のが)さじ、と撃(うて)ばひらき、拂(はら)へば沈(しづ)み、立(たゝ)んとすれば頂(いたゞき)の上(うへ)に閃(ひらめ)く氷(こふり)の刃(やいば)、脱(のが)れかた手(て)を懐(ふところ)へ、さし入るゝ間(ひま)もなく、〓(きら)んと進(すゝ)む目前(まなさき)へ、とり出(いだ)す一通(いつゝう)つきつけて、「これ見て疑(うたが)ひ散(はら)し給へ。聞(きゝ)わきなや」と両(りやう)の手(て)に、引延(ひきのば)したる命毛(いのちげ)の、筆(ふで)に示(しめ)せしその身(み)の素姓(すせう)。番作(ばんさく)(とく)と透(すか)し見て、思はず刃(やいば)をとり直(なほ)し、「こゝろ得(え)かたき書状(しよでう)の名印(ないん)。梵妻(ぼんさい)賊婦(ぞくふ)が艶書(ゑんじよ)(か)、と思ふには似(に)ず勇士(ゆうし)の遺書(かきおき)。やうこそあらめ、その情由(わけ)(かた)れ」と身(み)をひらかし、刃(やいば)を席薦(たゝみ)に突立(つきたて)て、膝(ひざ)折敷(をりしき)て目守(まもり)てをり。
 當下(そのとき)女子(をなご)は一通(いつゝう)を、巻(まき)おさめつゝ目(め)を拭(ぬぐ)ひ、「わが身(み)(に)げなく道場(どうじやう)の、留守(るす)せし間(から)に今宵(こよひ)の厄難(やくなん)、搗(かて)て加(くはえ)ておん身(み)がうへに、聞(きゝ)とり給ふも無理(むり)ならず。今(いま)は匿(つゝ)むによしなやな。抑(そも/\)わらはは御坂(みさか)の人氏(ぢうにん)、井丹三(ゐのたんざふ)直秀(なほひで)が女児(むすめ)にて、手束(たつか)と喚(よば)るゝものに侍(はべ)り。父(ちゝ)直秀(なほひで)は鎌倉(かまくら)殿(との)〔持氏(もちうぢ)をいふ〕の、恩顧(おんこ)の武士(ぶし)で侍(はべ)りしかば、持氏(もちうぢ)朝臣(あそん)のおん滅亡(めつばう)、両(りやう)公達(きんだち)は結城(ゆふき)の城(しろ)へ、盾篭(たてこも)らせ給ふよし、聞(きく)とそがまゝ御坂(みさか)をうち起(たち)、手勢(てせい)(はつか)に十餘人(よにん)、倶(ぐ)して結城(ゆふき)に馳加(はせくはゝ)り、合戦(かつせん)(とし)を累(かさぬ)るものから、孺君(わかきみ)(ご)武運(ぶうん)ひらかせ給はず、いぬる月(つき)の十六日に、結城(ゆふき)の城(しろ)を陥(おと)されて、名(な)ある人々(ひと%\)もろ共(とも)に、父(ちゝ)直秀(なほひで)も撃(うた)れ侍(はべ)り。こはその今果(いまは)の遺書(かきおき)にて、落城(らくぜう)のその旦(あした)、家(いへ)の老僕(おとな)に資(もたら)して、御坂(みさか)へ還(かへ)し給ひにき。母(はゝ)は去年(こぞ)よりそなたの天(そら)を、瞻仰(ながめ)つくして、物(もの)思ひ、果(はて)は気病(きやみ)に病〓(やみさらば)ひて、命(いのち)(あやう)きをりも折(をり)、無常(むじやう)の風(かぜ)の便(たより)して、結城(ゆふき)の没落(ぼつらく)、父(ちゝ)が最期(さいご)、しらせに來つる老僕(おとな)さへ、痛痍(いたで)(お)ひつゝ途(みち)の疲労(つかれ)に、亦(また)(いく)べうもあらずとて、殉腹(おひはら)(きり)て即座(そくざ)に落命(らくめい)。家(いへ)に仕(つかふ)る奴婢(ぬひ)なンどは、縁坐(えんざ)の咎(とが)をおそれけん、憑気(たのもしけ)なく早晩(いつしか)に、逐電(ちくてん)して一人(ひとり)も遺(のこ)らず。何(なに)せんすべもわらはが身(み)ひとつ、看病(みとり)かねつゝ親(おや)と子(こ)が、音(ね)にのみぞ鳴(な)く磬蝉(うつせみ)の秋(あき)をも俟(また)でよわりゆく、母(はゝ)は本月(このつき)十一日に、卒(つひ)に縡(こと)(きれ)(はべ)りにき。葬(ほうむり)の事(こと)なども、はつかに親(ちか)き里人(さとひと)(ら)が、好意(なさけ)によりてその〓昏(ゆふくれ)に、この道場(どうしやう)に送(おく)り侍(はべ)り。きのふは父(ちゝ)の初月忌(しよぐわつき)にて、けふなん母(はゝ)の初七日(しよなのか)也。心(こゝろ)ばかりの布施(ふせ)(もたら)して、きのふもけふも亡親(なきおや)の墓参(はかまゐ)りする毎(ごと)に、菴主(あんしゆ)は慇懃(ねんごろ)に慰(なぐさ)めて、しばしが程(ほど)とて庵(いほり)の留守(るす)を、任用(うちまか)して出(いで)てゆきつる。これらの事(こと)は甲夜(よひ)の間(ま)に、既(すで)におん身(み)に告(つげ)(はべ)り。この道場(どうじやう)を拈華(ねんげ)といひ、菴主(あんしゆ)の法名(はふめう)は蚊牛(ぶんぎう)とやらん。彼此(をちこち)(ひと)の帰依(きえ)(そう)にて、わが家(いへ)も亦(また)檀越(だんゑつ)なれは、聊(いさゝか)(うたが)ふよしもなく、請(こは)るゝ隨(まゝ)に推辞(いなみ)かねて、菴(いほり)を守(まもり)て日(ひ)をくらし、菴主(あんしゆ)が還(かへり)て後(のち)に稍(やゝ)、こゝろありての所為(わざ)とはしりつ。浅(あさ)ましきかなこの法師(はふし)、何(いつ)の程(ほど)にか懸想(けさう)して、わらはを一宿(ひとよさ)(とゞめ)んために、詭欺(たばかり)て留守(るす)を誂(あつら)へ、小夜(さよ)(ふく)る比(ころ)かへり來(き)て、わらはを捉(とら)へて艶語(さゞめこと)、法師(ほふし)には又(また)あるまじき、婬(たは)けきかぎりに胸潰(むねつぶ)れ、阻(こば)みてほとりへよせ著(つけ)ねば、果(はて)は威(をどし)の菜刀(なかたな)を、うち閃(ひらめか)して挑(いど)む程(ほど)に、その声(こゑ)さへに高(たか)うなりて、いざときおん身(み)に疑(うたがは)れ、思ひかけなく殺(ころ)され侍(はべ)り。只(たゞ)(これ)過世(すくせ)の業因(ごういん)(か)。仏弟子(ぶつでし)として婬(いろ)を貪(むさぼ)り、詭(いつはり)をもてわらはを留(とゞ)め、強(しゐ)て姦(おか)さんとせし冥罰(めうばつ)は、立地(たちところ)にしてその身(み)に及(およ)べり。いと悲(かな)しむべきことになん。さればおん身(み)に宿(やど)せし事を、菴主(あんしゆ)に告(つぐ)るに遑(いとま)なくて、縡(こと)はやこゝに及(およべ)るものを、渠(かれ)いかにしてわらはが外(ほか)に、又(また)、人(ひと)ありとしるよし侍(はべ)らん。おん身(み)みづから思惟(おもひみ)て、その疑(うたが)ひを散(はら)し給へ。さればわらはは結城(ゆふき)の残黨(ざんたう)、他(ひと)の凋落(おちめ)を自(み)の利(り)にして、〓(からめ)て都(みやこ)へ牽(ひか)んとならば、脱(のが)るゝに路(みち)は侍(はべ)らじ。人(ひと)を殺(ころ)して物(もの)を畧(と)る、賊婦(ぞくふ)梵妻(ぼんさい)なンどとは、身(み)に被(き)せらるゝ濡衣(ぬれきぬ)なれば、乾(ほ)さでは死(し)なじ。これのみならで、亡親(なきおや)の名(な)を汚(けが)さじ、と思へばこそあれ惜(をし)からぬ、命(いのち)を惜(をし)み侍(はべ)るかし」といひかけて目(め)を押拭(おしぬぐ)ふ、雄々(をゝ)しき少女(をとめ)の物(もの)がたりに、番作(ばんさく)思はず小膝(こひざ)を拍(うち)、「原來(さては)おん身(み)は井丹三(ゐのたんざふ)直秀(なほひで)ぬしの息女(そくぢよ)なりし歟(か)。今(いま)(しめ)されし一通(いつつう)に、直秀(なほひで)とは読(よみ)しかど、同名(どうめい)異人(ゐじん)なきにあらねば、縁由(ことのよし)をしるまでは、といまだわが名(な)を告(のら)ざりし。父(ちゝ)は鎌倉(かまくら)譜第(ふだい)の近臣(きんしん)、大塚(おほつか)匠作(せうさく)三戌(みつもり)が子(こ)に、番作(ばんさく)一戌(かずもり)とはわが事(こと)なり。両(りやう)公達(きんだち)に傅(かしつ)きて、篭城(ろうぜう)のはじめより、おん身(み)が父(ちゝ)とわが父(ちゝ)と、共(とも)に後門(からめて)を固(かた)めしかば、他事(たじ)なく相譚(かたらひ)候ひき。かくて落城(らくぜう)の日(ひ)に及(およ)びて、聊(いさゝか)思ふよしあれば、某(それがし)は父(ちゝ)もろ共(とも)、虎口(こゝう)を〓(のが)れて、両(りやう)公達(きんたち)のおん跟(あと)を慕(した)ひ奉(たてまつ)り、樽井(たるゐ)まで参(まゐ)りしに、孺君(わかきみ)其処(そこ)にて撃(うた)れ給ひ、父(ちゝ)匠作(せうさく)も討死(うちじに)せり。某(それがし)當坐(たうざ)に親(おや)の仇(あた)、牡蠣崎(かきさき)小二郎(こじらう)といふものを撃(うち)とめ、君父(くんふ)の首級(しるし)を奪(うば)ひとり、血戦(けつせん)して必死(ひつし)を脱(まぬか)れ、一昼夜(いつちうや)にして二十餘里(より)、既(すで)に迥(はるか)に來(き)にければ、三頭(みつのかうべ)を〓(うづめ)ん、と思ふ折から當寺(たうじ)の墓所(むしよ)、こゝ究竟(くつきやう)と新葬(あらほとけ)のほとりの壌(つち)を掘發(ほりおこ)し、竊(ひそか)に其処(そこ)へ埋(うづめ)(はて)て、さて宿(やど)りをば乞(こひ)しなり。固(もと)より、われは落人(おちうと)にて、吹(ふ)く風(かぜ)に尚(すら)(こゝろ)をおけば、嚮(さき)に法師(はふし)が為体(ていたらく)、そのいふよしをよくも得(え)(きか)ず、われを害(がい)するもの也、と思(おも)ひにければ霎時(しばし)も擬議(ぎゝ)せず、早(はや)りてこれを殺(ころ)せし事、おのが麁忽(そこつ)に似(に)たれども、しらずしておん身(み)を救(すく)ひ、はからずして悪僧(あくそう)を、誅(ちう)せしは是(これ)冥罰(めうばつ)ならん。斯(かう)いへば何(なに)とやらん、おん身(み)に意(こゝろ)あるが如(ごと)く、いといひがたき筋(すぢ)ながら、籠城(ろうぜう)の日(ひ)に直秀(なほひで)ぬし、わが父(ちゝ)に約束(やくそく)して孺君(わかぎみ)武運(ぶうん)ひらかせ給ひて、東國(とうごく)無異(ぶゐ)に属(しよく)しなば、われに一個(ひとり)の女児(むすめ)あり、子息(しそく)の婦(よめ)に進(まゐら)せん。それこそ公私(こうし)の幸(さいはひ)なれ、必(かならず)よ賜(たまは)らん、と契(ちぎ)りし親(おや)はもろともに、ほゐを得(え)(とげ)ず討死(うちじに)し、その子(こ)どもらはもろ共(とも)に、必死(ひつし)を脱(のが)れて名告(なのり)あふ。つれなきものは命(いのち)也。誠(まこと)にしらぬことながら、もし誤(あやまち)ておん身(み)を害(がい)し、後(のち)にそれぞとしるならば、なき親達(おやたち)へ掌(て)を合(あは)し、何(なに)といひとくよしあらん。危(あやう)かりし」と人(ひと)のうへ、わがうへさへに説諦(ときあか)す、誠心(まこゝろ)(ことば)にあらはれたり。
 手束(たつか)はこれをつく/\と、聞(きゝ)つゝ件(くだん)の一通(いつゝう)を、再(ふたゝ)びさらりと推披(おしひら)き、「豫(かね)てその名(な)は聞(きゝ)ながら、おもひがけなき番作(ばんさく)さま、こゝにて名告(なのり)あひし事、竭(つき)せぬ縁(えに)しに侍(はべ)るかし。これ臠(みそなは)せわが父(ちゝ)の、今果(いまは)に遺(のこ)す鳥(とり)の跡(あと)、とゞめかねたるかへす書(かき)、おん身(み)が事(こと)をいといたう、遺憾(のこりをし)とぞ聞(きこ)え給ふ。かゝる契(ちぎり)のむなしからで、君(きみ)と親(おや)との三(みつ)の頭顱(みぐし)を、〓(うづめ)給ひしその側(かたへ)なる、新葬(あらほとけ)はわらはが母(はゝ)の、墳塋(おきつち)にてぞ侍(はべ)るなる。親(おや)と親(おや)とが許(ゆる)したる、妹〓(いもせ)といはんもはづかしながら、けふよりして存亡(いきしに)を、おん身(み)と共(とも)にせまほしき、外(ほか)に情願(のぞみ)はなきぞとよ。能(よき)にはからせ給ひね」といひあへず顔(かほ)をうち掩(おほ)へは、番作(ばんさく)(きゝ)て感嘆(かんたん)し、「はからずこゝに舅姑(しうと/\め)、塚(つか)を並(なら)べて両(りやう)公達(きんだち)の遺骨(いこつ)を守(まも)るのみならず、約束(やくそく)かたき妹(いも)と〓(せ)に、環會(めぐりあは)せ給ひぬる、これ將(はた)(おや)のなき魂(たま)の、〓(みちび)き給ふに疑(うたが)ひなし。かゝればおん身(み)を携(たづさへ)て、深(ふか)く浮世(うきよ)を潜(しの)ふべし。然(さり)ながら、おの/\親(おや)の喪(も)にをれば、夫妻(つま)といはんも心(こゝろ)にず。十三月の服(ぶく)(はて)て、又(また)、更(あらた)めて夫婦(ふうふ)とならん」といふに手束(たつか)はうち点頭(うなづき)、「わらはも如右(しか)ぞ思ひ侍(はべ)る。おん身(み)(すで)に蚊牛(ぶんぎう)法師(はふし)を、殺(ころ)し給へば人(ひと)もぞしらん。後(のち)の殃危(わざはひ)なからずやは。こゝを思へば御坂(みさか)なる、わが家(いへ)にしも伴(ともな)ひがたし。信濃(しなの)なる筑摩(ちくま)には、母(はゝ)がたの由縁(ゆかり)あり。特(こと)に亦(また)彼処(かしこ)の温泉(いでゆ)は、刀瘡(きりきず)に効(こう)ありとなん。むかし浄見原(きよみはら)の天皇(すべらみこ)、此(この)(ゆ)に行幸(みゆき)あらんとて、輕部(かるべ)朝臣(あそん)足瀬(あしぜ)(ら)に、行宮(かりみや)を造(つく)らし給へは、今(いま)も御湯(みゆ)とぞ唱(とな)へ侍(はべ)る。誘(いざ)給へもろ共(とも)に、筑摩(ちくま)の里(さと)へ」と勸(すゝむ)れば、番作(ばんさく)これに隨(したが)ひて、「天(よ)あけぬ程(ほど)に」といそがしつゝ、更(さら)に手束(たつか)を伴(ともな)ふて、拈華庵(ねんげあん)を走(はし)り出(いで)、ゆくこと僅(はつか)に五六町、遙(はるか)に後方(あとべ)を見かへれば、道場(どうしやう)のかたに火(ひ)もえ出(いで)て、ゆく先(さき)さへにあかゝりけり。手束(たつか)はこれを驚(おどろ)き見て、「あな鈍(おぞ)ましや、出(いづ)るときに、心(こゝろ)(あはて)て火(ひ)を滅(け)さず。されは過失(あやまち)してけり」とうち呟(つぶや)くを、番作(ばんさく)は、聞(きゝ)あへずほゝ笑(え)みて、「手束(たつか)さのみな驚(おどろ)き給ひそ。拈華庵(ねんげあん)は山院(さんいん)にて、浮世(うきよ)に遠(とほ)き佳境(かきやう)なれども、乱(みだれ)たる世(よ)は清僧(せいそう)(まれ)也。彼(かの)蚊牛(ぶんぎう)(すら)(いろ)を貪(むさぼ)り、漫(そゞろ)に不良(ふりやう)のこゝろを起(おこ)せり。渠(かれ)(し)して後住(ごぢう)なくは、卒(つひ)に山賊(さんぞく)の寨(すみか)とならん、と思ひにければ出(いづ)るとき、埋火(うづみひ)を掻起(かきおこ)し、障子(せうじ)(すだれ)をよせかけおきつ。こゝをもて彼(かの)庵室(あんしつ)は、はや灰燼(くわいじん)となりつる也。蚊牛(ぶんぎう)(まこと)にその罪(つみ)あり。但(たゞ)(かれ)いまだ欲(よく)を得(え)(とげ)ず、はやくわが手(て)に死(し)せし事(こと)、憐(あはれ)むにしもあらざれど、心(こゝろ)に愉(こゝろよ)しとせず。されば法師(ほふし)を火葬(くわそう)して、その恥(はぢ)をかくし得(え)させしは、わが一片(いつへん)の老婆心(ろうばしん)。彼処(かしこ)は君父(くんふ)の墳塋(おきつち)あり、これを燎(やく)ことよきにあらねど、賊(ぞく)の塞(すみか)とするに忍(しの)びず。これ已(やむ)ことを得(え)ざればなり。われ〓(もし)(のち)に大(おほ)かたならぬ、志(こゝろさし)を得(え)たらんには、彼処(かしこ)に伽藍(からん)を建立(こんりう)すとも、いとなし難(がた)きことかは」と諭(さと)せば手束(たつか)ははじめて暁(さと)りて、且(かつ)(かん)じ、且(かつ)(たん)じ、件(くだん)の猛火(めうくわ)を燭(あかし)にして、後(あと)に跟(つ)き、又(また)(さき)に立(たち)、いよ/\塗(みち)をいそぎけり。
 話分両齣(ここにまた)、武蔵(むさし)なる、大塚(おほつか)の郷(さと)に母(はゝ)もろ共(とも)、年來(としごろ)潜居(しのびゐ)たりける、大塚(おほつか)匠作(せうさく)が女児(むすめ)亀篠(かめさゝ)は、前妻(せんさい)の子(こ)なりしかは、番作(ばんさく)には異母(はらかはり)の姉(あね)にはあれど、心(こゝろ)ざま、父(ちゝ)にも弟(おと)にも似(に)ざるものにて、親(おや)同胞(はらから)の篭城(ろうぜう)を、想像(おもひや)る気色(けしき)もなく、况(まい)て継母(けいぼ)の千辛(せんしん)萬苦(ばんく)を、露(つゆ)ばかりも念(こゝろ)とせで、生(なま)こゝろつきし比(ころ)より、結髪(かみあげ)化粧(けはひ)に、春(はる)の日(ひ)を長(なが)しとせず、情郎(おもふをとこ)としのびあふ日(ひ)は、秋(あき)の夕(ゆふべ)を、短(みじか)しとせる、嗚呼(をこ)の婬婦(たをやめ)なりといへども、生(なさ)ぬなかとて母親(はゝおや)は、仂(はした)なくこれを懲(こら)さず、傍(かたはら)いたく思ふのみ、いとゞ夛病(たびやう)になりにけり。されば亀篠(かめざゝ)は、同郷(おなじさと)なる、弥々山(やゝやま)(ひき)六といふ破落戸(いたつらもの)と、ふかく契(ちぎ)りて、その情(ぜう)鰾膠(にべ)もて接(つぎ)たるごとく、皮(かは)なくは君(きみ)とわれ、比目(ひもく)連理(れんり)に身(み)をなして、霎時(しばし)もほとりを離(はな)れじ、と思ふ心(こゝろ)は日(ひ)にまして、存亡(そんぼう)不定(ふじやう)の父(ちゝ)が篭城(ろうぜう)、母(はゝ)の劬労(くろう)を幸(さいはひ)にすなれど壻(むこ)を招(と)るべき折(をり)にあらねば、とさまかうさま思ふ程(ほど)に、結城(ゆふき)の城(しろ)をおとされて、父(ちゝ)匠作(せうさく)は美濃路(みのぢ)なる、樽井(たるゐ)にて討死(うちしに)し、弟(おとゝ)番作(ばんさく)は往方(ゆくへ)しれず、と今茲(ことし)七月(ふつき)上浣(はじめつかた)、大塚(おほつか)に聞(きこ)えしかば、さらぬだに思ひほそりて、病(やむ)を常(つね)なる母親(はゝおや)は、こは什麼(そも)いかに、と歎(なげ)きかなしみ、その日(ひ)よりして頭(まくら)あがらず、湯水(ゆみづ)も咽喉(のんど)に下(くだ)らねば、死(し)をまつより外(ほか)にすべなし。亀篠(かめざゝ)は「わが手(て)ひとつに、母(はゝ)の病著(いたつき)(み)とりがたし。月來(つきころ)より憑(たのも)しき、人(ひと)と思へば此(この)せち也。蟇(ひき)六どのを傭(やとは)ん」とて、そがまゝ渠(かれ)を引入(ひきい)れて、人目(ひとめ)ばかりの湯液(くすり)三昧(ざんまい)、母(はゝ)のうへをは外(よそ)にして、蟇(ひき)六と共(とも)に食(しよく)し、共(とも)に寝(いぬ)るを又(また)あるまじき、樂(たのしみ)とのみ思ひけり。
 さる程(ほど)に母親(はゝおや)は、その月(つき)の晦(つごもり)に、四十(よそぢ)の月(つき)を見のこして、卒(つひ)にはかなくなりしかど、烏(からす)の外(ほか)に泣(なく)ものなく、何(なに)がし寺(てら)へ送(おく)られて、標(しるし)の石(いし)は苔(こけ)(む)せども、詣(まうづ)るものは稀(まれ)なりき。かくて亀篠(かめざゝ)は、情願(のぞみ)の如(ごと)く、蟇六(ひきろく)と夫婦(ふうふ)になりて、一両年(いちりやうねん)を送(おく)る程(ほど)に、嘉吉(かきつ)三年の比(ころ)かとよ、前(さきの)管領(くわんれい)持氏(もちうぢ)朝臣(あそん)の季(すゑ)のおん子(こ)、永壽王(ゑいじゆわう)と申せしは、鎌倉(かまくら)滅亡(めつぼう)のとき、乳母(めのと)に抱(いだか)れ、信濃(しなの)の山中(さんちう)に脱(のが)れ給へば、郡(ぐん)の安養寺(あんようじ)の住僧(ぢうそう)は、乳母(めのと)が兄(あに)なるをもて、精悍(かひ/\)しくとりかくし、譜第(ふだい)の近臣(きんしん)大井(おほゐ)扶光(すけみつ)と心(こゝろ)を合(あは)して、年來(としごろ)養育(よういく)し奉(たてまつ)る、と鎌倉(かまくら)に風聞(ふうぶん)せしかば、管領(くわんれい)憲忠(のりたゞ)の老臣(ろうしん)、長尾(ながをの)判官(はんくわん)昌賢(まさかた)、これを東國(とうこく)の諸將(しよせう)と相謀(あひはか)り、遂(つひ)に鎌倉(かまくら)へ迎(むかへ)とりて、八州(はつしう)の連帥(れんすい▼○ソウタイセウ)と仰(あふ)ぎ奉(たてまつ)り、則(すなはち)元服(げんふく)させまゐらせて、左兵衛督(さひやうゑのかみ)成氏(なりうぢ)とぞまうしける。されば結城(ゆふき)にて討死(うちしに)せし家臣(かしん)の子孫(しそん)を、召出(めしいだ)させ給ふよし聞(きこ)えしかは、又(また)(かの)弥々山(やゝやま)蟇六(ひきろく)は、「時(とき)を得(え)たり」と歡(よろこ)びつゝ、俄頃(にはか)に大塚(おほつか)(うぢ)を冒(おか)して、鎌倉(かまくら)へ参上(さんぜう)し、美濃(みの)の樽井(たるゐ)にて討死(うちしに)せし、おん兄(せうと)春王(しゆんわう)安王(やすわう)(りやう)公達(きんたち)の傅(かしつき)たる、大塚(おほつか)匠作(せうさく)が女壻(むこ)なるよしを訴(うつた)へて、恩賞(おんせう)を乞(こひ)しかば、昌賢(まさかた)やがて豊嶋(としま)なる、大塚(おほつか)へ人(ひと)を遣(つかは)し、縡(こと)の虚実(きよじつ)を糾明(きうめい)せしに、「匠作(せうさく)が女児(むすめ)にそふ事、既(すで)に分明(ふんめう)なり」といへ共、蟇六(ひきろく)が人(ひと)となり、武士(ぶし)になるべきものにあらねは、僅(はつか)に村長(むらおさ)を命(めい)ぜられ、帶刀(たいとう)を許(ゆる)されて、八町(ちやう)四反(したん)の荘園(せうゑん)を宛行(あておこなは)れ、彼地(かのち)の陣代(ぢんだい)大石(おほいし)兵衛尉(ひやうゑのぜう)が下知(げぢ)を承(うけ)て、勤(つと)むべき旨(むね)を仰(おふせ)らる。是(これ)よりして蟇六(ひきろく)は、瓦廂(かわらひさし)に衡門(かぶきもん)、いかめしく造(つく)り建(たて)て、奴婢(ぬひ)七八人(ン)召使(めしつか)ひ、荘客(ひやくせう)(ばら)を譴債(せめはた)りて、おのが田(た)へのみ水(みづ)さへ引(ひけ)ば、その久後(ゆくすゑ)はしらねども、豊(ゆた)けき人(ひと)になりにけり。
 不題(さても)大塚(おほつか)番作(ばんさく)一戌(かずもり)は、曩(さき)に手束(たつか)を伴(ともな)ひて、信濃(しなの)の筑摩(ちくま)に赴(おもむ)きつ。こゝにて湯治(とうぢ)する程(ほど)に、手足(てあし)の痍(きず)は〓(いえ)たれども、膕(こむら)の筋(すぢ)や縮(つま)りけん、是(これ)より行歩(ぎやうぶ)自在(じざい)ならず。よりてそが侭(まゝ)筑摩(ちくま)にとゞまり、一年(ひとゝせ)あまり送(おく)る程(ほど)に、父(ちゝ)の喪(も)は果(はて)ながら、まだ武蔵(むさし)なる母(はゝ)を得(え)(とは)ず。今茲(ことし)は杖(つゑ)に携(すがり)ても、大塚(おほつか)に赴(おもむか)ん、と思ふに甲斐(かひ)なくこの夏(なつ)は、瘧疾(わらはやみ)に犯(おか)されて、秋(あき)(はつ)るまで頭(まくら)あがらず、憂苦(ゆうく)の中(うち)に年月(としつき)たちて、嘉吉(かきつ)も早(はや)三年(さんねん)にぞなりぬ。世間(よのなか)(せま)き身(み)をかへり見ず、なほ大塚(おほつか)と告(の)らんこと、その憚(はゞかり)なきにあらねば、筑摩(ちくま)に足(あし)を駐(とゞめ)し日(ひ)より、大塚(おほつか)の大(だい)の字(じ)に、一点(いつてん)を加(くはえ)つゝ、犬塚(いぬつか)番作(ばんさく)と名告(なの)るものから、定(さだ)めたる世(よ)の経営(いとなみ)もあらず。手束(たつか)は僅(はつか)に織績(おりつむ)ぐ、その麻衣(あさきぬ)の麻糸(あさいと)より、細煙(ほそきけふり)を立(たて)かねつ。かり染(そめ)ながら三年(みとせ)の流浪(るらう)に、貯禄(たくはへ)(すで)に竭果(つきはて)て、いかにせまし、と思ふ折(をり)、「春王(しゆんわう)安王(やすわう)のおん弟(おとゝ)永壽王(ゑいじゆわう)成氏(なりうぢ)朝臣(あそん)、長尾(ながを)昌賢(まさかた)が計(はから)ひにて、鎌倉(かまくら)の武將(ぶせう)と仰(あふが)れ、戦死(せんし)の家臣(かしん)の子(こ)どもらが、彼此(をちこち)に潜居(しのびを)るを、召出(めしいだ)し給ふ」となん、筑摩(ちくま)の温泉(いでゆ)に湯治(とうぢ)する、行客(たびゝと)(ら)が物(もの)かたりす。風声(ふうぶん)(おほ)かたならざれは、番作(ばんさく)夫婦(ふうふ)はふかく歡(よろこ)び、「今(いま)は何(いづれ)の時(とき)をか俟(また)ん。縦(たとひ)行歩(ぎやうぶ)は不自由(ふじゆう)なりとも、ともかくもして武蔵(むさし)へ赴(おもむ)き、母(はゝ)と姉(あね)とに對面(たいめん)して、直(たゞ)に鎌倉(かまくら)へ推参(すいさん)し、春王丸(しゆんわうまる)のおん像見(かたみ)、村雨(むらさめ)のおん佩刀(はかせ)を、成氏(なりうぢ)朝臣(あそん)に献(たてまつ)りて、父(ちゝ)匠作(せうさく)がうへはさら也、舅(しうと)、井直秀(ゐのなほひで)が忠死(ちうし)の趣(おもむき)を告(つげ)(たてまつ)りて、わが進退(しんたい)を君(きみ)に任(まか)せん。然(さ)は」とて夫婦(ふうふ)(いそがは)しく、起行(かしまたち)の准備(ようゐ)して、年來(としごろ)(かげ)を蒙(かふむ)りし、由縁(ゆかり)の里人(さとびと)(ら)に別(わかれ)を告(つげ)て、武蔵(むさし)の大塚(おほつか)にぞおもむきける。
 さはれ番作(ばんさく)は、隻脚(かたし)(なへ)たり。杖(つゑ)を力(ちから)に道(みち)すがら、女房(にようばう)手束(たつか)に扶掖(たすけひか)れ、数町(すてう)にしてはや憩(いこ)ひ、三四里(り)にして日(ひ)をくらせば、思ひの外(ほか)に日数(ひかず)(つも)りて、八月(はつき)に信濃(しなの)を出(いで)しかど、十月(かんなつき)のすゑに及(および)て、やうやく舊里(ふるさと)(ちか)くなりつ。番作(ばんさく)は今(いま)さらに、母(はゝ)のうへ心(こゝろ)もとなく、郷(さと)より些(すこ)しこなたなる、白屋(くさのや)に立(たち)よりて、「大塚(おほつか)匠作(せうさく)てふ人(ひと)の、妻(つま)と女児(むすめ)は恙(つゝが)なしや」と外(よそ)がましげに問(とひ)しかば、亭主(いへぬし)とおぼしき翁(おきな)、稲(いね)(こき)ながら夫婦(ふうふ)を見かへり、「原來(さては)和達(わたち)は彼方(かのかた)ざまの、發迹(なりいで)つる事しらざるよ。母親(はゝおや)は身(み)まかりて、二年(ふたとせ)あまり、三年(みとせ)にもなるべし。そが病著(いたつき)を看(み)とりはせで、女(め)の子(こ)が不孝(ふこう)淫奔(いたつら)は、告(つぐ)るも傍痛(かたはらいた)かるべし。そが女壻(むこ)弥々山(やゝやま)(ひき)六は、爪弾(つまはぢき)せざるものなき、破落戸(いたつらもの)で候ひしが、箇様(かやう)(/\)々の由緒(ゆいしよ)をまうして、八町(はつてう)四反(したん)の荘園(せうゑん)を給はり、刀(かたな)をさへ許(ゆる)されて、村長(むらおさ)をうけ給はり、今(いま)では大塚(おほつか)(ひき)六といふ也。その宅地(やしき)は並桐(なみきり)のあなた、如此(しか)(/\)々の処(ところ)にこそ」と叮嚀(ねんころ)に誨(をしえ)しかば、番作(ばんさく)(きゝ)あへずうち驚(おどろ)き、なほ姉(あね)亀篠(かめざゝ)が為体(ていたらく)、蟇(ひき)六が人(ひと)となりさへ、詳(つばらか)に問(とひ)(つく)して、外面(とのかた)へ退(しりぞ)き出(いで)、手束(たつか)もろ共(とも)言葉(ことば)はなくて、頻(しきり)に涙(なみだ)さしぐみけり。且(しばらく)して番作(ばんさく)は、杖(つゑ)をとゞめて、嘆息(たんそく)し、「身(み)の病著(いたつき)とはいひながら、うたてや筑摩(ちくま)に年(とし)をかさねて、母(はゝ)の終焉(しうゑん)にあひ奉(たてまつ)らず、加以(これのみならず)(ちゝ)が忠死(ちうし)を、蟇(ひき)六とやらに掠(かすめ)られ、大塚(おほつか)の苗字(めうじ)を穢(けが)さる。今(いま)このよしを訴(うつたへ)んに、村雨(むらさめ)の宝刀(みたち)わが手(て)にあり。勝利(せうり)(うたが)ひなしといふとも、栄利(ゑのり)の為(ため)に姉(あね)と争(あらそ)ひ、骨肉(こつにく)(かき)を鬩(せめ)ぐが如(ごと)きは、わがせざる所(ところ)也。かゝれば此(この)おん佩刀(はかせ)も、鎌倉(かまくら)殿(どの)に献(けん)じがたし。わが姉(あね)は不孝(ふこう)の人(ひと)也。壻(むこ)(ひき)六は不義(ふぎ)にして冨(とめ)り。憑気(たのもしげ)なき姉(あね)夫婦(ふうふ)に、ものいふべうも思はぬかし。さはあらずや」と呟(つぶや)けば、手束(たつか)は涙(なみだ)を拭(ぬぐ)ふのみ、そを理(ことわ)りともいひかねつ、慰(なぐさめ)かねつ、目(め)をあはし、斉一(ひとしく)嗟嘆(さたん)したりける。
 これによりて番作(ばんさく)は、蟇(ひき)六許(がり)(おもむ)かず、故老(こらう)の里人(さとひと)(ら)を音(おと)つれて、わがうへ妻(つま)のうへさへに、落(おち)もなく是(これ)を告(つげ)、志気(こゝろざし)を説示(ときしめ)して、親(おや)の墳墓(ふんほ)を護(まもら)ん為(ため)、この地(ち)に住(すま)ひせんといふ。里老(さとのおとな)は番作(ばんさく)が、薄命(はくめい)をあはれみて、愉(こゝろよ)くうけ引(ひき)つ、彼此(をちこち)(ひと)を召集合(よびつどへ)て、件(くだん)の事(こと)をしらすれば、衆皆(みな/\)(きゝ)て憤(いきどほり)に得(え)(たへ)ず。「わが村(むら)はむかしより、大塚(おほつか)(うぢ)の采地(れうぶん)たり。一旦(いつたん)断絶(だんぜつ)するといへども、本領(ほんれう)安堵(あんど)の今(いま)に至(いたり)て、実子(じつし)は日蔭(ひかげ)の花(はな)と凋(しぼ)み、姉夫(あねむこ)とはいひながら、破落戸(いたつらもの)の蟇(ひき)六に、すべて横領(わうれう)せられし事、これにましたる不幸(ふこう)やある。さりとても今(いま)さらに、争(あらそは)んは、世話(せわ)にいふ、證文(あかしぶみ)の出後(いでおく)れにて、労(ろう)して功(こう)なき訟(うつたへ)なるべし。弱(よは)きを扶(たす)けて、強(つよ)きを折(くぢ)くは、東人(あつまうど)の生平(つね)ぞかし。憎(にく)しと思ふ蟇(ひき)六が面(つら)あてに、番作(ばんさく)ぬしをはともかくも、當(たう)村中(むらちう)が引承(ひきうけ)て、養(やしな)ふてまゐらせん。足(あし)は蹇(なえ)ても、手(て)は折(くぢ)けても、心(こゝろ)やすく思ひ給へ」と一人(ひとり)がいへは僉(みな)(うべな)ひて、囂(かしがま)しきまで憑(たのも)しく、立地(たちところ)に衆議(しゆぎ)一决(いつけつ)して、番作(ばんさく)夫婦(ふうふ)を款待(もてなし)けり。
 かくて件(くだん)の里人(さとひと)(ら)は、番作(ばんさく)が為(ため)に、その居宅(すみか)を卜(さだむ)るに、蟇(ひき)六が宅地(やしき)の前面(むかひ)に、ふるくもあらぬ空房(あきや)あり。これ究竟(くつけう)と購求(あがなひもとめ)て、番作(ばんさく)夫婦(ふうふ)を彼処(かしこ)へ移(うつ)し、又(また)(ぜに)を出(いだ)し集(あつ)めて、些(ちと)の田園(たはた)を購求(あがなひもと)め、これを番作田(ばんさくた)と唱(となへ)つゝ、夫婦(ふうふ)が衣食(いしよく)の料(れう)にせり。是(これ)その舊主(きうしゆ)の恩(おん)を思ひ、番作(ばんさく)が薄命(はくめい)を、相憐(あひあはれ)むのみにあらず、憎(にく)しと思ふ蟇(ひき)六夫婦(ふうふ)に、物(もの)を思はせんとての所行(わざ)なるべし。剛毅(こうき)木訥(ぼくとつ)は仁(じん)にちかしといひけん、聖語(せいご)もこれらがうへに稱(かな)へり。かゝりしかば番作(ばんさく)は、里人(さとひと)(ら)が好意(なさけ)にて、冨(と)むにはあらねど、貧(まづし)きに苦(くるし)まず。苗字(めうじ)は姉夫(あねむこ)に奪(うばは)れたるに、今更(いまさら)大塚(おほつか)に復(かへさ)んも無益(むやく)なりとて、なほ犬塚(いぬつか)と唱(となへ)つゝ、里(さと)の総角(あげまき)(ら)に、手蹟(しゆせき)の師範(しはん)して、親(おや)たるものゝ恩(おん)に報(むく)ひ、手束(たつか)は里(さと)の女(め)の子(こ)(ら)に、絮(わた)を延(つみ)、衣(きぬ)を縫(ぬ)ふ事(わざ)を教(をし)えて、親(おや)たるものゝ恩(おん)に報(むく)ひしかば、里人(さとひと)(ら)は歡(よろこ)びて、野菜(やさい)の初穂(はつほ)、何(なに)くれとなく、物(もの)を贈(おく)るも夛(おほ)かりけり。〔時(とき)に嘉吉(かきつ)三年なり。去年(きよねん)安房(あは)にて伏姫(ふせひめ)(うま)れ、今茲(ことし)は義成(よしなり)誕生(たんぜう)せり。事(こと)は肇集(ぢやうしふ)(だい)八回(くわい)に見えたり。〕
 さる程(ほど)に蟇(ひき)六亀篠(かめさゝ)は、死(し)せりと思ひし番作(ばんさく)が、廃人(かたは)にはなりたれども、妻(つま)さへに將(い)て還(かへ)り來(き)つ、里人(さとひと)(ら)に尊信(そんしん)せられて、わが家(いへ)の向斜(むかひなゝめ)に、卜居(やうつり)せし為体(ていたらく)、見もし聞(きゝ)もする毎(ごと)に、妬(ねた)き事限(かぎ)りなし。けふはわが方(かた)へや來(き)つる、翌(あす)は人(ひと)していはする歟(か)、とやすき心(こゝろ)もせざりしに、百歩(ほ)の間(あはひ)に住居(すまゐ)しながら、渠(かれ)一トたびも姉(あね)を訪(と)はず。今(いま)はとて腹(はら)にすえかね、有一日(あるひ)亀篠(かめざゝ)は、蟇(ひき)六と商量(だんかふ)し、人(ひと)をもて、番作(ばんさく)にいはするやう、「わらは女(をんな)のかひなき身(み)にて、母(はゝ)を看(み)とりて怠(おこた)らず。親(おや)の遺言(ゆいげん)黙止(もだし)かたくて、蟇(ひき)六どのを招(まね)き入(い)れ、絶(たえ)たる家(いへ)を興(おこ)せし事、人(ひと)のしる所(ところ)なり。しかるに和殿(わとの)は阿容(おめ)(/\)々と、戦場(せんじやう)を逃(のが)れ去(さり)、鼬(いたち)の如(ごと)く走(はし)り隱(かく)れて、母(はゝ)の今果(いまは)にあふよしもなく、命(いのち)(たすか)りたるを幸(さいはひ)に、世間(せけん)(ひろ)くなるまゝに、婦女子(をうなこ)を携來(たづさへき)て、里人(さとひと)(ら)を詐欺(たぶら)かし、既(すで)にその蔭(かげ)を蒙(かうむ)りて恥(はぢ)とせず。間近(まちか)き住居(すまゐ)をこれ見よかしに、一トたびもわらはを訪(と)はず、他人(たにん)を親(したし)み、骨肉(こつにく)を遠(とほざ)けて、無礼(なめ)なるはいかにぞや。われはともあれわが良人(つま)は、大塚(おほつか)の家督(かとく)にして、既(すで)に一郷(いちごう)の長(をさ)たり。よしや人(ひと)ならぬ心(こゝろ)を挾(さしはさ)み、胡越(こゑつ)の思ひをなすとても、國(くに)に貴賤(きせん)の差別(さべつ)あり、人(ひと)に長少(ちやうせう)の礼譲(れいじやう)あり。もしこれをしも知(し)らずといはゞ、わが村(むら)に措(おき)かたし。他郷(たけう)へ立去(たちさり)給へ」とぞいはせける。番作(ばんさく)(きゝ)て冷笑(あざわら)ひ、「某(それがし)(まこと)に不肖(ふせう)なれども、父(ちゝ)とゝもに篭城(ろうぜう)して、主君(しゆくん)の為(ため)に命(いのち)を惜(をし)まず、戦場(せんじやう)にて死(しな)ざりしは、君父(くんふ)の先途(せんと)を見ん為(ため)なりき。さればこそ樽井(たるゐ)にて、父(ちゝ)の仇(あた)を撃(うち)とめて、君父(くんふ)の首級(しるし)を隱(かく)しまゐらせ、はからずも親(おや)の結(むす)びし、女房(にようばう)手束(たつか)に名告(なのり)あふて、筑摩(ちくま)の御湯(みゆ)に手痍(てきず)を保養(ほよう)し、僅(はつか)に平愈(へいゆ)したれども、行歩(ぎやうぶ▼アシモト)不自由(ふじゆう)にして、長途(ちやうど)に得(え)(たへ)ず。去歳(こぞ)は又(また)長病(ちやうびやう)に、一年(ひとゝせ)を化(あだ)に過(すぐ)しつ。今茲(ことし)(ふたゝ)びおもひ起(おこ)して、杖(つゑ)に携(すが)り、妻(つま)に扶(たすけ)られ、稍(やゝ)(き)て聞(き)けは母(はゝ)の終焉(しうゑん)、わが姉(あね)の不孝(ふこう)淫奔(いたつら)、人(ひと)のよくしるところ也。姉夫(あねむこ)何等(なにら)の功(こう)ありて、重職(ちやうしよく)をうけ給はり、大禄(たいろく)を賜(たまは)りけん、是(これ)わがしらざる所(ところ)也。某(それがし)(ちゝ)の遺命(いめい)によりて、春王(しゆんわう)(きみ)のおん佩刀(はかせ)、村雨(むらさめ)の一腰(ひとこし)を、領(あづか)り奉(たてまつ)りてこゝにあり。然(さり)ともこれを鎌倉(かまくら)殿(との)に献(たてまつ)らず、聊(いさゝか)(あらそ)ふ心(こゝろ)なきは、わが姉(あね)夫婦(ふうふ)の幸(さいは)ひならずや。番作(ばんさく)(まこと)に不肖(ふせう)なれ共、不孝(ふこう)の姉(あね)を見るに忍(しの)びず、不義(ふぎ)の姉夫(あねむこ)には諛(へつら)ひかたし。かくても當所(たうしよ)を追(おは)んとならは、是非(ぜひ)の及(およば)ざる所(ところ)なり。鎌倉(かまくら)へ訴(うつたへ)(たてまつ)りて、公裁(こうさい)に任(まかす)べし」とぞ答(こたへ)ける。その人(ひと)(たち)かへりて、「云云(しか/\)」と告(つげ)しかば、亀篠(かめさゝ)はさらにもいはず、蟇(ひき)六は直(ひた)と呆(あき)れて、無念(むねん)(はらわた)を絞(しぼ)れども、「毛(け)を吹(ふき)、疵(きず)を求(もとめ)んか」とやうやくに思ひかへして、このゝちは音(おと)もせず。番作(ばんさく)は杖(つゑ)に携(すがり)て、母(はゝ)の墓参(はかまゐり)する折(をり)に、求(もとめ)ずして蟇(ひき)六と、面(おもて)を對(あは)することはあれども、ものいふ事はなかりけり。
 かくて又(また)十年(とゝせ)あまりの春秋(はるあき)を歴(へ)て、享徳(きやうとく)三年十二月、鎌倉(かまくら)には成氏(なりうぢ)朝臣(あそん)、亡父(ぼうふ)の怨敵(おんてき)なればとて、管領(くわんれい)憲忠(のりたゞ)を忻(たばかり)よせて誅(ちう)せらる。是(これ)より東國(とうこく)(ふたゝ)び乱(みた)れて、次(つぐ)の年(とし)康正(こうせい)元年(ぐわんねん)〔義實(よしさね)篭城(ろうぜう)、安西(あんざい)(かげ)(つら)滅亡(めつぼう)の年(とし)なり。〕には、成氏(なりうぢ)の軍(いくさ)(やぶ)れて、憲忠(のりたゞ)の弟(おとゝ)房顕(ふさあき)、その臣(しん)長尾(ながを)昌賢(まさかた)(ら)が為(ため)に、鎌倉(かまくら)を追落(おひおと)され、下総(しもふさ)許我(こが)の城(しろ)に篭(こも)りて、合戦(かつせん)亦複(また/\)数年(すねん)に及(およ)べり。此(この)ころ大塚(おほつか)番作(ばんさく)は、つく/\と思ふやう、「今(いま)戦國(せんこく)の習(なら)ひとて、臣(しん)たるもの、その君(きみ)を征(せい)し、冠履(くわんり)(ところ)
【挿絵】「庚申塚(こうしんつか)に手束(たつか)神女(しんによ)に謁(ゑつ)す」「たつか」
(こと)にせる、世(よ)のたゝずまひを見るにつけても、わが薄命(はくめい)は歎(なげ)くに足(た)らず。只(たゞ)(のち)なきを不孝(ふこう)とすなるに、女房(にようばう)手束(たつか)を娶(めとり)てより、十四五年(ねん)が間(あはひ)には、男児(をのこゞ)三人(みたり)まで産(うま)せたれども、襁褓(むつき)の中(うち)になくなりて、一人(ひとり)として生育(おひたつ)ものなし。われと手束(たつか)は同庚(おなじとし)にて、渠(かれ)はや三十(みそぢ)の齢(よはひ)に過(すぎ)たり。又(また)(こ)を見ん事難(かた)かるべし。これのみ遺憾(のこりをし)」といふ。喞(かごと)がましき夫(をつと)の述懐(じゆつくわい)、手束(たつか)もおなじうらみには、姥捨山(おばすてやま)に見る月(つき)ならで、とにかく慰(なぐさ)めかねたるが、忽地(たちまち)に思ふやう、「瀧(たき)の川(かは)なる辨才天(べんざいてん)は、此(この)わたりなる古廟(こびやう)にて、靈驗(れいげん)ありと人(ひと)はいふなる。祈(いの)らば應報(おうほう)なからずやは」と思へばやがて夫(をつと)に告(つげ)て、次(つぐ)の日(ひ)より朝(あさ)とく起(おき)て、件(くだん)の廟(やしろ)に日参(につさん)し、一子(いつし)を祈(いの)りて他念(たねん)なし。今茲(ことし)長禄(ちやうろく)元年(ぐわんねん)の秋(あき)よりはじめて、〔伏姫(ふせひめ)八房(やつふさ)に伴(ともなは)れて、冨山(とやま)のおくへ入(い)りし年(とし)也。〕三年(みとせ)が間(あはひ)、一チ日も懈(おこた)らず。
 時(とき)に長禄(ちやうろく)三年(さんねん)、〔伏姫(ふせひめ)自殺(じさつ)の翌年(よくねん)なり。〕九月廾日あまりの事なるに、手束(たつか)は時(とき)をとりあやまちて、明(あけ)(のこ)る月影(つきかげ)を、東(ひがし)しらみにけりと思ひて、遽(いそがは)しく宿所(しゆくしよ)を出(いで)て、瀧(たき)の川(かは)なる岩屋(いはや)殿(との)に参詣(さんけい)し、既(すで)に下向(げこう)に赴(おもむ)けども、その夜(よ)はいまだ明(あけ)ざりけり。「鈍(おぞ)ましや」とひとりごちて、稲葉(いなば)の露(つゆ)を掻払(かきはら)ひつゝ、立(たち)かへる田(た)の畔(くろ)に、背(せ)は黒(くろ)く、腹(はら)は白(しろ)き狗(いぬ)の子(こ)が、棄(すて)られたりとおぼしくて、人(ひと)まち皃(がほ)に尾(を)を掉(ふり)て、手束(たつか)が裙(すそ)にまつはりつ、追(おひ)かへせば又(また)(した)ひ來(き)て、離(はな)るべうもあらざれは、もてあましつゝ立駐(たちとゞま)り、「かくまで人(ひと)を慕(した)ふものを、いかなる人(ひと)が棄(すて)たりけん。見ればこは牡狗(をいぬ)なり。狗(いぬ)は夥(あまた)の子(こ)を産(うむ)ものにて、その子(こ)はかならず育(そだつ)もの也。よりて赤子(あかこ)の枕辺(まくらべ)に、狗張子(いぬはりこ)を置(おく)ぞかし。神(かみ)に歩(あゆみ)を運(はこ)ぶまで、一子(いつし)を祈(いの)る心(こゝろ)もて、いかでかこれを拾(ひら)はざらん。將(い)てかへらん」とひとりごちて、抱(いだ)きとらんとする折(をり)から、南(みなみ)のかたに靉靆(あいたい)と、紫(むらさき)の雲(くも)たな引(ひき)て、地(ち)を去(さ)ること遠(とほ)からず、と見れば嬋娟(せんけん)たる一個(ひとり)の山媛(やまひめ)、楚(そ)の宋玉(さうぎよく)が夢(ゆめ)に見(まみ)えし、神女(しんぢよ)の俤(おもかげ)をとゞめ、魏(ぎ)の曹植(そうち)が筆(ふで)を託(たく)せし、洛神(らくじん)の顔(かほばせ)をうつして、黒白(こくびやく)斑毛(まだら)の老犬(おほいぬ)に尻(しり)うち掛(かけ)、左手(ゆんで)に数顆(あまた)の珠(たま)を拿(もち)て、右手(めて)に手束(たつか)を招(まね)きつゝ、辭(ことば)はなくて一ッの珠(たま)を、投與(なげあたへ)給ふになん。手束(たつか)は今(いま)この竒特(きどく)を見て、おそる/\ついゐたるが、遽(いそがは)しく手(て)をさし伸(のべ)て、件(くだん)の珠(たま)を受(うけ)んとせしに、珠(たま)は手股(たなまた)を漏(もり)て、輾々(ころ/\)と、雛狗(こいぬ)のほとりに落(おち)しかば、其首(そこ)か彼首(かしこ)かと索(たづね)ても、索(たづね)ても又(また)あることなし。あな訝(いぶか)し、とばかりに、そなたの天(そら)をうち仰(あふ)げは、霊雲(れいうん)忽地(たちまち)(あと)なくなりて、神女(しんによ)も共(とも)に見え給はず。こは平事(たゞこと)にあらずと思へは、ふたゝび雛犬(こいぬ)を抱(いだ)きあげて、いそしく宿所(しゆくしよ)に還(かへ)りつゝ、件(くだん)の縡(こと)の趣(おもむき)を、夫(をつと)番作(ばんさく)につげていふやう、「拝(おがま)れ給ふ神女(しんによ)の姿(すがた)は、山姫(やまひめ)といふものめきて、辨才天(べんざいてん)に似(に)給はず。そが授(さづ)け給ふなる、珠(たま)は子胤(こたね)でありけんものを、取失(とりうしな)ひ侍(はべ)りしかば、願望(ねぎこと)かなはぬ祥(さが)にやあらん。こゝろに懸(かゝ)り侍(はべ)るかし」といへば番作(ばんさく)沈吟(うちあん)じ、「いな/\それにはよるべからず、件(くだん)の神女(しんによ)は黒白(こくびやく)班毛(まだら)の老犬(おほいぬ)に乗(のり)給ふにあらずや。わが氏(うぢ)は大塚(おほつか)なれども、犬塚(いぬつか)と更(あらた)めき。又(また)わが名(な)は一戌(かずもり)也。一戌(かずもり)の戌(もり)の字(じ)は、則(すなはち)支干(ひよみ)の戌(いぬ)なれば、名詮自性(めうせんじせう)いと憑(たのも)し。加旃(しかのみならず)おん身(み)さへ、今(いま)(もとめ)ずして雛狗(こいぬ)を獲(え)たり。念願(ねんぐわん)成就(しやうじゆ)の祥(さが)なるべし。その狗(いぬ)をな走(はし)らし給ひそ、畜育(かひたて)給へ」と諭(さと)されて、手束(たつか)は有理(げにも)と思ひかへすに、憑(たのも)しき事いふべうもあらず。現(げに)番作(ばんさく)が判(はん)ぜしごとく、手束(たつか)はいく程(ほど)もなく身(み)おもくなりて、寛正(くわんせう)元年(ぐわんねん)(あき)七月(ふつき)、戊戌(つちのえいぬ)の日(ひ)に及(およ)びて、いと平(たひら)かに男児(をのこゝ)を産(うみ)けり。この児(ちご)は是(これ)(な)にしおふ、八犬士(はつけんし)の一人(ひとり)にして、犬塚(いぬつか)信乃(しの)と呼(よば)れしは是(これ)なり。信乃(しの)が事(こと)はつばらかに、なほ後々(のち/\)の巻(まき)に觧(とか)なん。

 右(みぎ)犬塚(いぬづか)信乃(しの)が列傳(れつでん)は、父祖(ふそ)のうへを詳(つばら)にして、その他(た)の事を省畧(せうりやく)す。是(これ)より下(すゑ)、七士(しちし)の傳(でん)に至(いたつ)ては、家譜(かふ)を省畧(せうりやく)して、只(たゞ)その人(ひと)のうへを詳(つばら)にするものあり。文(ぶん)を綴(つゞ)り義(ぎ)を演(のぶ)る、用心(ようじん)(いつ)にあらず。看官(みるひと)よろしく察(さつ)すべし。
里見八犬傳第二輯巻之三終


# 『南総里見八犬伝』第十六回 2004-09-23
# Copyright (C) 2004-2012 Gen TAKAGI
# この文書を、フリーソフトウェア財団発行の GNUフリー文書利用許諾契約書ヴァー
# ジョン1.3(もしくはそれ以降)が定める条件の下で複製、頒布、あるいは改変する
# ことを許可する。変更不可部分、及び、表・裏表紙テキストは指定しない。この利
# 用許諾契約書の複製物は「GNU フリー文書利用許諾契約書」という章に含まれる。
#               千葉大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
# Permission is granted to copy, distribute and/or modify this document under the terms of the GNU
# Free Documentation License, Version 1.3 or any later version by the Free Software Foundation;
# A copy of the license is included in the section entitled "GNU Free Documentation License".
Lists Page