『南總里見八犬傳』第十七回


【外題】
里見八犬傳 第二輯 巻四
【本文】
南總里見八犬傳(なんさうさとみはつけんでん)(だい)(に)(しふ)巻之四
  東都 曲亭主人編次

 第(だい)十七回(くわい) 〔妬忌(とき)を逞(たくましう)して蟇六(ひきろく)螟蛉(ひとのこ)をやしなふ孝心(こうしん)を固(かたう)して信乃(しの)瀑布(たき)に禊(はらひ)す〕

 却説(かくて)犬塚(いぬつか)番作(ばんさく)は、年來(としごろ)の志願(しぐわん)(やゝ)(とげ)て、男子(をのこゞ)(すで)に出生(しゆつせう)し、母(はゝ)も子もいとすくよかに、産室(うぶや)(おさむ)るころにぞなりぬ。「さて児(ちご)の名(な)を何(なに)とか呼(よば)ん」と女房(にようばう)手束(たつか)に譚(かたら)へは、手束(たつか)は且(しばら)く沈吟(うちあん)じ、「よに子育(こそだて)のなきものは、男児(をのこゞ)なれば女(め)の子(こ)とし、女(め)の子(こ)には男名(をとこな)つけて、やしなひ育(たつ)れば恙(つゝが)なしとて、如此(しか)する人(ひと)も稀(まれ)には侍(はべ)り。我(わが)夫婦(ふうふ)に幸(さち)なくて、男児(をのこゞ)三人(みたり)(まうけ)しかど、みな殤子(みづこ)にてなくなりたるに、この度(たび)も又(また)男児(をのこゞ)なれば一トしほ心(こゝろ)よはくなりて、想像(おもひやり)のみせられはべり。この子(こ)が十五にならん比(ころ)まで、女子(をなご)にして孚(はぐゝま)ば、恙(つゝが)あらじと思ひ侍(はべ)り。その心(こゝろ)して名(なつ)け給へ」といへば番作(ばんさく)うちほゝ笑(え)み、「死生(しせい)(めい)あり、名(な)の咎(とが)ならんや。斎(ものいみ)(おほ)き俗(よ)の僻事(ひがこと)、いと信(うけ)がたき筋(すぢ)なれども、おん身(み)が心(こゝろ)やりにもならば、俗(よ)に従(したが)ふもわろきにあらず。古語(こご)に長(なが)きをしのといふ。『和名鈔(わめうせう)』に長竿(ちやうかん)を、しのめと訓(よま)せし、則(すなはち)(これ)なり。今(いま)も穂(ほ)の長(なが)き芒(すゝき)を、しのすゝきといふぞかし。繁(しげ)きすゝきとするは非(ひ)ならん。わが子(こ)の命(いのち)(なが)かれ、と祝(ことほぎ)のこゝろもて、その名(な)を信乃(しの)と喚(よぶ)べき歟(か)。昔(むかし)われ美濃路(みのぢ)にて、不思議(ふしぎ)におん身(み)と名告(なのり)あひ、信濃路(しなのぢ)にして夫婦(ふうふ)となりぬ。しのとしなのとその声(こゑ)(ちか)し。越鳥(ゑつちやう)は南技(なんし)に巣(すく)ひ、胡馬(こば)は北風(ほくふう)に嘶(いばふ)といへり。孰(たれ)かその原(はじめ)を忘(わす)れん。わが子(こ)もし發迹(なりいで)て、受領(じゆれふ)する事さへあらは、信濃(しなの)の守護(しゆご)にもなれかし、と亦(また)(ことほ)ぎのこゝろに稱(かな)へり。この名(な)は甚麼(いかに)」と実(まめ)たちて、問(とへ)ば手束(たつか)は聞(きゝ)あへず、「そはいとめでたき名(な)にはべり。冨人(とむひと)は五十日(いか)百日(もゝか)、と産室(うぶや)やしなひの賀(よろこび)に、酒(さけ)もり遊(あそ)ぶ日(ひ)も夛(おほ)かり。せめてこの子(こ)が名(な)ひらきに、竈(かまど)の神(かみ)に神酒(みき)(たてまつ)り、手習子(てらこ)と綿(わた)の弟子(をしえこ)に、もの食(くは)せ給はずや」といふに番作(ばんさく)うち点頭(うなづき)、「われもかくこそ思ふなれ。とく/\」といそがせは、手束(たつか)は隣(ちか)き媼(うば)(ら)を傭(やと)ひて、赤小豆(あづき)(いひ)に芝雑魚(しばざこ)の羹(しる)よ膾(なます)といそがしく、目(め)つらを掴(つか)み料理(りやうり)して、里(さと)の総角(あげまき)(ら)を召(よび)聚會(つどへ)、盛(もり)ならべたる飯(いひ)さへに、あからかしはの二荒膳(にくわうぜん)、箸(はし)とりあぐる髫鬟(うなゐ)(ら)が、顔(かほ)は隱(かく)るゝ親碗(おやわん)に、子(こ)の久後(ゆくすゑ)を壽(ことぶ)きの饗応(もてなし)にみな〓(あきた)りて、膝(ひざ)にこぼれし粒飯(つぶいひ)を、拾(ひら)ひもあへず、身(み)を起(おこ)し、歡(よろこ)びを述(のべ)て還(かへ)るもあり。人(ひと)より先(さき)に草〓(わらくつ)を、穿(はか)ん穿(はか)せじ、と囂(かしま)しく、〓(あはて)てかへるも夛(おほ)かりけり。
 是(これ)より手束(たつか)は信乃(しの)が衣裳(いせう)を、女服(をんなきぬ)にせざるもなく、三四才(みつよつ)の比(ころ)に及(およ)びて、髫髪(いたゞきかみ)おくほどにもなれば櫛挿(くしさゝ)せ、掻頭(かんさし)さゝせて、「信乃(しの)よ/\」と喚(よ)びしかは、しらざるものはこの児(ちご)を、女(め)の子(こ)ならんと思ひけり。されば蟇(ひき)六亀篠(かめさゝ)は、この為体(ていたらく)を見聞(みき)く毎(ごと)に、掌(たなそこ)(うち)て冷笑(あざわら)ひ、「凡(およそ)(ひと)の親(おや)たるもの、男児(をのこゞ)を挙(まうく)るを、面目(めんぼく)とせざるはなし。尓(しか)るに武士(ぶし)の浪人(らうにん)が、女(め)の子(こ)を願(ねが)ふはいかにぞや。結城(ゆふき)合戦(かつせん)に逃後(にげおく)れ、背疵(せきず)(うけ)しにいたく懲(こ)りて、軍(いくさ)といふもの夢(ゆめ)にも見せじ、と思ふてかくまで戲氣(たはけ)を盡(つく)す歟(か)。思ひしにます白徒(しれもの)也」と賢(さかしら)だちて譏(そし)れども、合鎚(あひつち)(はや)すものはなく、卻(なか/\)に里人(さとひと)(ら)は、信(し)のを愛(あい)して物(もの)をとらせ、迭代(かたみかはり)に抱(いだき)とりて、その母(はゝ)の手(て)を助(たす)けしかば、蟇(ひき)六夫婦(ふうふ)はいとゞしく、妬(ねた)きこと限(かぎり)なし。又(また)(うらやま)しく思へども、淫婦(いんふ)に石女(うまずめ)(おほ)しといふ、鄙語(ことわざ)に得(え)(もれ)ずして、亀篠(かめざゝ)四十にあまるまで、子(こ)どもひとりもなかりしかは、夫婦(ふうふ)(しきり)に商量(だんかふ)して、只管(ひたすら)養女(やうぢよ)を索(もとむ)るに、そが媒妁(なかだち)するものありて、「煉馬(ねりま)の家臣(かしん)〔武蔵(むさし)の煉馬(ねりま)(うぢ)は、豊嶋(としま)左衛門が一族(いちぞく)たり。煉馬(ねりまの)平左衛門といひしは是(これ)也。〕某甲(なにがし)といふものの女児(むすめ)、今茲(ことし)(はつか)に二才(ふたつ)になるあり。こはその親(おや)の忌(いむ)とかいふ、四十二の二ッ子(ご)なれは、生涯(せうがい)不通(ふつう)の約束(やくそく)にて、永楽銭(ゑいらくせん)七貫文(くわんもん)を齎(もたら)し、家系(すぢめ)(よろし)きかたもあらは、養女(やうぢよ)に遣(つかは)すべしといへり。件(くだん)の女(め)の子(こ)は生(うま)れ得(え)て、目鼻(めはな)だち愛(あい)らしく、痘瘡(もがさ)もこの春(はる)の比(ころ)、いとかろやかにしはてにけれは、寔(まこと)に疵(きず)なき玉(たま)になん。とばかりならで去歳(こぞ)の春(はる)、正月(むつき)のはじめに生(うま)れしかは、年(とし)つよとかいふ二才(ふたつ)(こ)也。かゝれば乳母(めのと)なしといふとも、孚(はぐゝ)みかたきことはあらじ、養(やしな)ひ給へ」と勧(すゝむ)れは、蟇(ひき)六亀篠(かめざゝ)は笑(えみ)片向(かたまけ)て、共(とも)に小膝(こひざ)の進(すゝ)むを覚(おぼえ)ず、聞(きゝ)(はて)て目(め)を注(みあは)し、「蜑(あま)が塩焼(しほやく)からき世(よ)に、子(こ)の齎(もたらし)とて永樂銭(ゑいらくせん)、七貫文(くわんもん)は些少(すけなき)にあらず。目今(たゞいま)和殿(わどの)がもの語(かたり)、譌(いつはり)なきものならば、素(もと)より望(のぞ)む所(ところ)なり。とくこしらへて見給へ」と夫婦(ふうふ)齊一(ひとしく)(いらへ)しかば、件(くだん)の男(をとこ)はこゝろ得(え)(はて)て、遽(いそがは)しく出(いで)てゆきつ。
 かくて五六日を経(ふ)る程(ほど)に、その縡(こと)(つひ)に整(とゝのひ)しかば、媒妁(なかだち)の男(をとこ)して、その子(こ)の親(おや)と、蟇(ひき)六と證文(あかしふみ)をとりかはし、彼(かの)七貫文(くわんもん)もろ共(とも)に、女(め)の子(こ)を大塚(おほつか)へ贈(おく)りにければ、亀篠(かめさゝ)やがて抱(いだ)きとりて、まづその顔(かほ)をうち熟視(ながめ)、又(また)(および)より蹠(あとうら)まで、泣(なく)をも管(かま)はず引伸(ひきのば)し、うちかへしつゝとくと見て、〓然(かや/\)とうち笑(わら)ひ、「三十二相(さう)(そろ)ひしとは、何処(いづこ)をさしていふにやしらねど、寔(まこと)にこの子(こ)は掘出物(ほりだしもの)なり。これ見給へ」とさしよすれば、蟇(ひき)六いよ/\憑(たのも)しくて、「よき子(こ)ぞ、勿泣(なくな)。物(もの)とらせん」と袂(たもと)へ右手(めて)をさし入れて、とり出(いだ)す果子(くわし)の花(はな)もみぢ、実(み)ならぬ親(おや)としらぬ子(こ)も、有繋(さすが)(くち)には孝行(こう/\)にて、朝四(ちやうし)暮三(ぼさん)の猿〓(さるくつわ)、銜(かけ)たるごとく泣止(なきや)みけり。現(げに)(かたくな)なるものは、その偏執(へんしう)の心(こゝろ)もて、わが物(もの)とだに名(な)をつくれば、傍(かたはら)いたく愛(あい)に溺(おぼ)れて、他(ひと)の嘲(そしり)をしるよしなきに、况(まし)て蟇(ひき)六亀篠(かめさゝ)は、妬(ねた)しと思ふ番作(ばんさく)夫婦(ふうふ)が、鼻(はな)をひしがんとのみ思ひしかば、件(くだん)の養女(やうぢよ)を濱路(はまぢ)と名(な)つけて、分(ぶん)に過(すぎ)たる綺羅(きら)を飾(かざ)らせ、是処(ここ)の遊山(ゆさん)、彼処(かしこ)の物詣(ものまうで)とて、下女(げぢよ)に抱(いだか)せ、小廝(こもの)に先(さき)を追(おは)せつゝ、四十老女(おんな)の亀篠(かめさゝ)さへ、鎌倉(かまくら)(やう)の衣(きぬ)を襲(かさ)ねて、月(つき)の中(うち)にはいく遍(たび)となく、出(いで)あるきに日(ひ)を費(ついや)し、銭(ぜに)を費(ついや)して、嘲(あざけり)を思はず。加以(それのみならで)わが女児(むすめ)の、髪置(かみおき)紐觧(ひもとき)とかいふ年(とし)には、身丈(たけ)十倍(ばい)の美服(びふく)を被(き)せて、健(すこやか)なるをとこの肩(かた)にのぼし、城〓(うぢかみ)(まうで)を假托(かこつけ)に、彼此(をちこち)(ひと)に弄賣(みせひらか)すに、よに阿諛(へつらひ)の言葉(ことば)(たくまみ)に、渠(かれ)を誉(ほむ)るものあれば、家〓(いへつと)の飴(あめ)、惜氣(をしけ)もなく、みなその人(ひと)に饋(おく)りしかは、寔(まこと)に甘(あま)き親(おや)といふめり。
 かくて濱路(はまぢ)が生育(おひたつ)(まゝ)に、やゝ東西(とうざい)をしる比(ころ)より、糸竹(いとたけ)の技(わざ)に師(し)を擇(えら)みて、朝(あした)より夕(ゆふべ)まで、うち囃(はや)し、舞躍(まひおどら)して、絶(たえ)て四隣(しりん)を憚(はゞか)らず、よろづ化(あだ)に養(やしな)ひたつるに、生(うまれ)(え)たる容止(かほばせ)の、人(ひと)なみなみに立(たち)まされば、鳶(とび)の子(こ)に鷹(たか)ありとて、女児(むすめ)を誉(ほむ)る陰言(かげこと)を、聞(き)く二親(ふたおや)はほゝ笑(えみ)て、われを嘲(あざけ)るよしを暁(さと)らず、「位(くらゐ)(たか)く、冨(とみ)さかえて、世(よ)に威徳(いきほひ)ある壻(むこ)ならで、えこそは招(と)らじ」と誇(ほこ)りけり。
 案下某生再説(それはさておき)、犬塚(いぬつか)番作(ばんさく)が一子(いつし)信乃(しの)は、はや九才(こゝのつ)になりしかは、骨(ほね)(たくま)しく膂力(ちから)あり。現(げに)尋常(よのつね)なる人(ひと)の子(こ)が、年(とし)十一二になるものより、身(み)の丈(たけ)一岌(ひとかさ)(たか)かるに、なほ女服(をんなきぬ)(き)せられて、雀(すゞめ)小弓(こゆみ)に紙鳶(いかのぼり)、印地打(いんぢうち)竹馬(たけうま)なンど、よろづの遊(あそ)びもあら/\しきまで、おのづから武藝(ぶげい)を好(この)めは、番作(ばんさく)ます/\鍾愛(せうあい)して、朝(あさ)には、里(さと)の総角(あげまき)とゝもに、手習(てならひ)させ、夕(ゆふべ)には儒書(じゆしよ)軍記(ぐんき)の句読(くとう)を授(さづけ)、又あるときは試(こゝろ)みに、釼術(けんじゆつ)拳法(やわら)を教(をしゆ)るに、素(もと)より好(この)む道(みち)なれは、その技(わざ)の進(すゝ)む事、親(おや)(すら)しばしば舌(した)を掉(ふるひ)て、すゑたのもしく思ひけり。
 父(ちゝ)はかくても母(はゝ)手束(たつか)は、わが子(こ)のいとも怜悧(さかしき)に、おのづからなる孝心(こうしん)の、挙動(たちふるまひ)に顕(あらは)れて、親(おや)さへ人(ひと)の稱誉(ほむ)るまでに、文(ふみ)の道(みち)、武(ぶ)の藝(たしなみ)、年(とし)には倍(ませ)てその器(き)に稱(かな)へは、もし短命(たんめい)にあらずや、と彼(かれ)を思ひ此(これ)を思ふに、とにかく心安(こゝろやす)からねば、夫(をつと)を諫(いさ)め、子(こ)を禁(とゞ)め、「習(なら)ひ学(まな)ぶはわろきにあらねど、縡(こと)(おほ)かたにせよ」といふ。さはれ信乃(しの)が心(こゝろ)ざま、よの童子(どうじ)とはうらうへにて、母(はゝ)の目影(めかげ)を匿(しの)びても、竹刀(ちくたう)を手(て)にとらざる日もなく、馬(うま)にさへ騎(のり)ならはん、と思ふ心(こゝろ)のつきたれども、田舎(ゐなか)は小荷駄(こにだ)のみにして、借馬(しやくば)などいふものはあらず。
 尓(しか)るに信乃(しの)が生(うま)るゝ比(ころ)、母親(はゝおや)手束(たつか)が瀧(たき)の川(かは)なる、岩屋(いはや)(まうで)のかへるさに、將(い)て來(き)つる狗(いぬ)の子(こ)は、信乃(しの)とゝもに大(おほ)きくなりて、今茲(ことし)は既(すで)に十才(さい)なり。この狗(いぬ)、背(そびら)は墨(すみ)より黒(くろ)く、腹(はら)と四足(しそく)は雪(ゆき)より白(しろ)くて、馬(うま)に所云(いはゆる)(よつしろ)なれば、その名(な)をやがて四白(よしろ)とも、又(また)与四郎(よしらう)とも喚(よ)ぶ程(ほど)に、年來(としごろ)信乃(しの)によく狎(なれ)て、打擲(うちたゝか)れても怒(いか)ることなく、手(て)に属(つき)その意(ゐ)に隨(したが)ふにぞ、信乃(しの)は件(くだん)の与四郎(よしらう)に、索〓(なはたづな)をかけてうち乗(の)れば、狗(いぬ)は主(しゆう)のこゝろを得(え)て、足掻(あがき)を早(はや)めて幾返(いくかへ)りかす。誰(たれ)(をしえ)ねどもその騎座(のりくら)、〓(たづな)さばきの御法(ぎよほう)に稱(かな)ふを、見るもの思はず立在(たゝずみ)て、技(わざ)と姿(すがた)の似(に)げなきに、腹(はら)をかゝえて笑(わら)ふもあり。又(また)この童子(どうじ)が為体(ていたらく)、平人(たゞもの)にはあらじとて、賞嘆(せうたん)するも夛(おほ)かりけり。現(げに)玉人(ぎよくじん)にあらざれば、〓〓(ぶふ)と真玉(まだま)とをしることなし。信乃(しの)が女(め)の子(こ)の打扮(いでたち)にて、武勇(たけくいさめ)る技(わざ)のみすなれば、里(さと)の総角(あげまき)(ら)は指(ゆびさ)し哢(あざ)みて、「陰嚢(ふぐり)なし」とぞ囃(はやし)たる。かくても信乃(しの)は物(もの)とも思はず、「彼奴(かやつ)(ら)は土民(どみん)の子(こ)なり。遊(あそ)び敵(かたき)になるものならぬに、論(ろん)は無益(むやく)」とわれから辟(さけ)て、一トたびも争(あらそ)はず。しかはあれどもわが身(み)ひとり、「よのわらべらとは異(こと)にして、女(め)の子(こ)めきたる衣(きぬ)をのみ、被(き)せらるゝはいかにぞや」とよに訝(いぶか)しく思ふものから、事(こと)に紛(まぎ)れて親(おや)には問(と)はず。襁褓(むつき)のうちより肌膚(はだ)につけ、
【挿絵】「思ひくまの人はなか/\なきものをあはれに犬のぬしをしりぬる」「犬塚しの」「亀笹」「はま路」
被馴(きなれ)し女服(をんなきぬ)なれば、愧(はづ)る氣色(けしき)はなかりけり。
 さる程(ほど)に、今茲(ことし)(あき)のころよりして、手束(たつか)は心地(こゝち)(つね)ならず、病(やまひ)の床(とこ)に臥(ふし)しより、鍼灸(しんきう)薬餌(やくじ)の驗(しるし)なく、冬(ふゆ)のはじめに至(いたり)ては、日(ひ)に/\よわるばかりなれは、番作(ばんさく)はいとゞしく、眉(まゆ)うちひらくよしもなく、夜(よ)とて安(やす)くは目睡(まどろま)ず。信乃(しの)は又(また)あさな/\、醫師(くすし)(がり)往還(ゆきゝ)しつ、湯液(くすり)をすゝめ、腰(こし)を捺(さす)り、四表八表(よもやま)の物(もの)かたりして、母(はゝ)の徒然(つれ/\)を慰(なぐさむ)るに、思はず涙(なみだ)(め)に盈(みち)て、やるかたなきを見る母(はゝ)は、胸(むね)ふたがりて泣皃(なきかほ)を、隱(かく)すよしなく鳩尾(みづおち)を、拊(なで)て痞(つかえ)に紛(まぎ)らかす。親子(おやこ)(かたみ)に思ふ事、いはねどしるき孝行(こう/\)慈愛(ぢあい)、こゝろぞ想像(おもひやら)れたる。
 かくてその詰旦(あけのあさ)、信乃(しの)は藥剤(くすり)とりにとて、いそしく出(いで)てゆきし後(のち)、番作(ばんさく)は妻(つま)の枕方(まくらべ)にて、小鍋(こなべ)に粥(かゆ)の塩(しほ)加減(かげん)して、半(なかば)(ひら)きし扇(あふぎ)の風(かぜ)に、火(ひ)を起(おこ)させて居(ゐ)たりしかば、手束(たつか)ははつかに頭(まくら)を擡(もたげ)、「常(つね)にはあらぬわが良人(つま)の、火打(ひたき)水汲(みづくみ)しどけなく、竈(かまど)(はたら)きし給ふこと、心苦(こゝろくる)しき限(かぎ)りに侍(はべ)り。加之(しかのみならず)(とを)にも足(た)らぬ、信乃(しの)が頃日(このごろ)大人(おとな)しく、親(おや)につかへて夜(よ)の目(め)あはせず、かくまでに憑(たのも)しき、良人(つま)とわが子(こ)の介抱(かいほう)を、受(うけ)ても卒(つひ)にゆく道(みち)の、別(わかれ)と思ひ侍(はべ)るかし。抑(そも/\)わらはが此度(こだみ)の病著(いたつき)、ゆゑありぬべきことになん。素(もと)より信乃(しの)は祈子(まうしこ)にて、云云(しか/\)の竒瑞(きずい)あり。かくて挙(まうけ)しひとり子(こ)なれども、年(とし)に倍(ませ)たる智(ち)は長(たけ)て、親(おや)はづかしきものに侍(はべ)れは、殤子(みづこ)でなくせし兄(あに)(ら)に懲(こり)て、もし短命(たんめい)にあらずやと思ひしはきのふけふならず。彼(かれ)が定業(じやうごう)(のが)れかたくて、生育(おひたゝ)ぬものならば、母(はゝ)が命(いのち)を換(かえ)させ給へ、と瀧(たき)の川(かは)なる岩屋(いはや)殿(との)、神(かみ)に佛(ほとけ)に年來(としころ)より、願望(ねぎこと)(つひ)に空(むなし)からで、信乃(しの)は襁褓(むつき)の中(うち)よりして、〓気(むしけ)もあらず風(かぜ)ひかず、軽(かろ)き疱瘡(もがさ)の神送(かみおく)り、〓子(わらべ)の疫(やく)を病果(しはて)ても、男児(をのこゞ)には怪我(けが)ありといふ、七才(なゝつ)の巓(とほげ)(こえ)させて、今茲(ことし)わらはが身(み)まからは、わが子(こ)の久後(ゆくすゑ)念願(ねんくわん)成就(ぜうじゆ)、かはる命(いのち)は惜(をし)からで、悲(かな)しきは只(たゞ)死別(しにわか)れ。ひとりは缺(かく)る垂乳女(たらちめ)の、母(はゝ)はなくとも〓々(てゝご)だに、よにましまさば光(ひかり)もて、何(なに)(くら)からず生育(おひたち)なん。久(ひさし)くもをらぬ娑婆(しやば)と思へは、可惜(あたら)(たから)を費(ついや)して、湯薬(くすり)たべんは無益(むやく)に侍(はべ)り。うち捨(すて)ておき給ひね」といひあへず涙(なみだ)さしくみて、呼吸(いきのを)(ほそ)る覚期(かくご)の言(こと)の葉(は)、脆(もろ)きは袖(そで)の露霜(つゆしも)に、よわり果(はて)たる秋(あき)の蝶(てふ)、片羽(かたは)(もが)るゝ思ひなる、番作(ばんさく)しば/\嘆息(たんそく)し、「異(こと)なることを聞(き)くものかな。わが子(こ)の命(いのち)にかはらんとて、かはらるゝものならば、世(よ)に子(こ)を喪(うしな)ふ親(おや)はあらじ。さる惑(まよ)ひより病(やみ)もすれ。よしなく物(もの)を思はんより、薬(くすり)を服(のみ)、粥(かゆ)をも啜(すゝ)りて、気長(けなが)く保養(ほよう)し給へ」と理(ことわ)り盡(つく)して諭(さと)しけり。
 冬(ふゆ)の日(ひ)なれば短(みじか)くて、はや巳(み)のころになりしかど、生平(つね)にもあらで信乃(しの)はかへらず。「渠(かれ)路草(みちくさ)を食(くふ)ものにあらず。いかにしつらん」と子(こ)を思ふ親(おや)の心(こゝろ)はおちつかず。番作(ばんさく)は外面(とのかた)へ、出(いで)て見んとて障子(せうじ)を開(ひら)けは、思ひがけなく縁頬(えんかは)に、薬剤(くすり)のかよひ筥(はこ)はあり。こは訝(いぶか)しと紐(ひも)ときて、蓋(ふた)かいとれは薬剤(くすり)もあり。さもこそ、と片頬(かたほ)に笑(え)みつゝ、件(くだん)の筥(はこ)を携(たづさへ)て、遽(いそがは)しく裡面(うち)に入(い)り、「手束(たつか)よ、薬剤(くすり)は彼処(かしこ)にあり。何(なに)の程(ほど)にか信乃(しの)は還(かへ)りて、気鬱(きうつ)を散(はら)しに出(いで)にけん。寔(まこと)に童(わらべ)こゝろぞかし。おん身(み)が病著(いたつき)の初(はじめ)より、おのが事には苟(かりそめ)にも、外(と)に立(たつ)こともなかりしに、いかばかりおもしろき、もの見かけて歟(か)(かへ)りたる、よしをも告(つげ)ず又(また)(いで)たり」といふに手束(たつか)は稍(やゝ)おちゐて、「たま/\の事なるに、必(かならず)な叱(しか)り給ひそ。還(かへ)るに程(ほど)ははべらじ」といひつゝもその顔(かほ)見ねば、片心(かたこゝろ)にぞかゝりける。
 かくてはや、未(ひつじ)のあゆみ過(すぎ)にけん、〓(ひかげ)(なゝめ)になるころまで、俟(まて)ども/\信乃(しの)は還(かへ)らず。「よしや遊(あそび)に惚(ほれ)たりとも、餓(うへ)なば興(きやう)も竭(つく)べきに、物(もの)をも食(く)はで何処(いづこ)にをる、こゝろ得(え)かたき事也」と父(ちゝ)(すら)いへば母(はゝ)はなほ、重(おも)き頭(まくら)をいく遍(たび)か、挙(あげ)て瞻望(なかむ)る外面(とのかた)に、板(いた)金剛(こんごう)の音(おと)すれば、それかとぞ思ふ、誑(だま)されて、浪速(なには)の浦(うら)に刈(かる)といふ、人(ひと)のあしさへ恨(うら)みけり。妻(つま)が喞(かこ)てば番作(ばんさく)も、立(たつ)て見居(みゐ)て見、まち不楽(わび)て、思はずも嘆息(たんそく)し、「わが足(あし)、舊(むかし)のごとくならば、只(たゞ)一走(ひとはし)りに走廻(はしりめぐ)りて、かならず索(たづね)て將(い)て還(かへら)んに、日景(ひかげ)(みじか)き小六月(ころくぐわち)、夕陽(ゆふひ)を瞻(み)つゝ杖(つゑ)に携(すがり)て、何地(いづち)までゆかるべき。然(さり)とて暮(くれ)なばいよ/\便(びん)なし。菅菰(すがも)までも」と一刀(ひとこし)を、挿(さし)て竹杖(たけつゑ)、衝(つき)こゝろみ、はや外面(とのかた)に出(いで)んとす。
 浩処(かゝるところ)に、番作(ばんさく)が背門(せど)の前面(むかひ)なる荘客(ひやくせう)に、糠助(ぬかすけ)と喚(よば)るゝもの、右手(めて)に一條(ひとすじ)の釣竿(つりさを)と、一箇(ひとつ)の魚籠(びく)を携(たづさへ)て、左手(ゆんで)に信乃(しの)を扶掖(たすけひ)き、遽(いそがは)しく詣來(まうき)つゝ今(いま)外面(とのかた)へ出(いで)んとする、番作(ばんさく)と面(おもて)をあはして、呵々(かや/\)とうち笑(わら)ひ、「犬塚(いぬつか)(うぢ)(か)。其処(そこ)にゐませり。秋(あき)の稼(かせぎ)もしはてたる、骨休(ほねやす)めにとわれとわが、一チ日の暇(いとま)を給はり、けふは未明(まだき)にうかれ出(いで)て、神谷川(かにはがは)に雜魚(ざこ)(つり)(くら)し、瀧(たき)の川(かは)をかへり來(く)れは、こゝなる息子(むすこ)が不動(ふどう)の瀧(たき)に、水垢離(みづこり)(とり)て、身(み)は冷徹(ひえとほ)り、息(いき)も絶(たゆ)べき形勢(ありさま)を、見つけし時(とき)は膽潰(きもつぶ)れて、周章(あはてふため)き引出(ひきいだ)し、そがまゝ坊(ばう)へ將(い)てゆきつ。藁火(わらび)に煖(あたゝ)め、薬(くすり)を服(のま)せ、法師(はふし)(ばら)共侶(もろとも)に、勦(いたは)ること半〓(はんとき)(ばかり)、はじめてわれに復(かへ)りしかば、湯飯(ゆつけ)(もら)ふて〓(はら)を肥(こや)させ、縁故(ことのもと)を尋(たづぬ)れは、母(はゝ)の大病(たいびやう)平愈(へいゆ)の祈祷(きとう)に、水垢離(みづこり)をとりしといふ。十(とを)にも足(た)らぬ童(わらべ)には、儔稀(たぐひまれ)なる大(だい)孝行(こう/\)、法師(はふし)(ばら)も感心(かんしん)せられて、求(もとめ)ざれども當(たう)(びやう)平愈(へいゆ)の、神符(ごふう)洗米(せんまい)を給はりぬ。件(くだん)の瀧(たき)は寺(てら)へ遠(とほ)くて、わが外(ほか)に人(ひと)しらざりき。寔(まこと)に危(あやう)き事なりし。かくまで賢(さかし)き子(こ)也、親(おや)なり、佛神(ぶつじん)見はなち給はんや。母御(はゝご)は本復(ほんふく)(うたが)ひなし。いざ子(こ)たからを受(うけ)とり給へ。暮(くれ)かゝればはや退(まか)る也。病人(やむひと)によくこゝろ得(え)てよ。要(えう)あらば背戸口(せどくち)から、竹螺(たけほら)(なら)して呼(よび)給へ。和子(わこ)よ、翌(あす)はあそびに來(こ)よ。この魚(うを)(あぶ)りて食(はま)せんに」とおのがいふ事いひ誇(ほこ)り、人(ひと)の挨拶(あいさつ)(きゝ)(はて)ず裡面(うち)にも入(い)らでかへりけり。
 さては、とばかり番作(ばんさく)は、わが子(こ)の肩(かた)を杖(つゑ)に換(かえ)、陟框(あがりかまち)を足引(あしひき)の山道(やまぢ)(こえ)たるこゝちして、そがまゝ奥(おく)へしらすれば、手束(たつか)も縡(こと)の趣(おもむき)を、洩聞(もれきく)からに病苦(びやうく)を忘(わす)れて、わが子(こ)をほとり近(ちか)く侍(はべ)らし、「信乃(しの)よくものをこゝろ得(え)よ。孝行(こう/\)つくすも程(ほど)あるもの也。身(み)を〓(あやぶ)めて怪我(けが)あらは、親(おや)の歎(なげ)きはいかなるべき。かくては孝(こう)が不孝(ふこう)ぞかし。親(おや)いとをしと思ふ子(こ)の為(ため)には、祈(いの)らでも神(かみ)は守(まも)り給はん。危(あやう)き所行(わざ)をし給ふな」と諭(さと)せば信乃(しの)は酸鼻(なみだぐみ)、「宣(のたま)ふ所(ところ)こゝろ得(え)(はべ)り。今朝(けさ)醫師(くすし)(がり)(おもむ)きて、薬剤(くすり)給はりて還(かへ)りし折(をり)、家尊(かぞ)に家母(いろは)の物(もの)かたり、信乃(しの)が命(いのち)の長(なが)かれ、と勿体(もつたい)なくもわが母(はゝ)は、命(いのち)を贄(にゑ)に神明(かみ/\)へ、祈(いの)らせ給ひし驗(しるし)にや、長(なが)き病著(いたつき)に臥(ふし)給ふ、と宣(のたま)はせしを竊聞(たちきゝ)て、哀(かな)しきこと限(かぎ)り侍(はべ)らず。涙(なみだ)に濡(ぬ)るゝ片袖(かたそで)を、泣声(なきこゑ)たてじと噬締(かみしめ)て、縁頬(えんがは)についゐたりしが、親(おや)の願望(ねぎごと)(しるし)あらば、わがねぎごとも驗(しるし)ありなん。いかでこの身(み)を贄(にゑ)にして、母(はゝ)の命(いのち)にかはらんと、思ひ决(さだ)めつ。もてかへりし、薬剤(くすり)を其処(そこ)に密(そ)と措(おき)て、年來(としごろ)母御(はゝご)の信(しん)じ給ふ、瀧(たき)の川(かは)に走(はし)りゆき、岩屋(いはや)の神(かみ)に思ふ事、くり返(かへ)したる瀧(たき)の糸(いと)、心強(こゝろつよ)くも身(み)を撲(うた)し、一トたびは死(しに)(はべ)りけん、そのゝちの事しらず侍(はべ)り。さてあるべきにゆくりなく、糠助(ぬかすけ)(をとこ)に妨(さまたげ)せられて、活(いき)て還(かへ)るは願望(ねぎごと)を、神(かみ)は受(うけ)させ給はぬにや。いと朽(くち)をしく、かなしく侍(はべ)り」といひかけ目(め)をおし拭(ぬぐ)へば、手束(たつか)はよゝと泣沈(なきしづ)み、「よに子(こ)をもたぬ親(おや)はなけれど、けふ死(し)するともわが身(み)ばかり、幸(さち)あるものはなきぞとよ。八九才(やつこゝのつ)の稚(をさな)こゝろに、賢(さか)しや親(おや)にかはらん、と祈(いの)る誠(まこと)を神明(かみ%\)の、受(うけ)給へばこそ瀧壷(たきつぼ)の、水屑(みくず)とならで還(かへ)りけめ。かくまでに命運(めいうん)つよき、わが子(こ)のうへを見るからに、久後(ゆくすゑ)さへに憑(たのも)しく、歡(よろこば)しさに涙(なみだ)のみ、はふれおちて禁(とゞ)めがたし。母(はゝ)がおん身(み)にかはらんとて、祈(いの)りしは惑(まよ)ひなり、驗(しるし)あるべき事ならぬに、かへす/\もよしもなき、願(ぐわん)たてなし給ひそ」と涙(なみだ)の隙(ひま)に諭(さと)しけり。
 番作(ばんさく)は何(なに)ともいはず、つく%\と聞(きゝ)て形(かたち)を改(あらた)め、「信乃(しの)よ、あはれわが子(こ)なり。その至孝(しいこう)にあらざりせば、慈母(ぢぼ)の惑(まよ)ひを觧(とく)よしあらんや。周公(しうこう)金縢(きんとう)の書(しよ)の如(ごと)きは、神(かみ)に祝(いはふ)て成王(せいわう)の病(やまひ)にかはらん、と願(ねがひ)給へり。儻(もしく)は當時(たうじ)の寓言(ぐうげん)(か)。亦(また)(これ)至誠(しせい)至感(しかん)の徳(とく)のみ。さはれ物(もの)の命数(めいすう)は、人(ひと)のよくする所(ところ)にあらず。もし果(はた)してこれをよくせば、忠臣(ちうしん)孝子(こうし)がかはらずして、孰(たれ)か君父(くんふ)を病床(びやうせう)に喪(うしな)ふべき。さはれそのかはらん、と願(ねが)ふものは、誠(まこと)の至(いた)れる所(ところ)なり。遂(つひ)に感應(かんおふ)ありといふとも、命数(めいすう)は増(まし)かたからん。汝(なんぢ)幼弱(ようじやく)にしてその才智(さいち)、大人(たいじん)にますことあり。既(すで)に道理(どうり)をしるべきもの歟(か)。言(こと)よく小耳(こみゝ)にとゞめよ」と説示(ときしめ)す語(こと)の次(ついで)に、祖父(おほぢ)匠作(せうさく)が忠死(ちうし)の形勢(ありさま)、結城(ゆふき)落城(らくぜう)の後(のち)、春王(しゆんわう)安王(やすわう)(りやう)公達(きんだち)の、最期(さいご)の為体(ていたらく)を物(もの)かたり、又(また)(はゝ)手束(たつか)が一子(いつし)を祈(いのり)て、瀧(たき)の川(かは)の廟(やしろ)よりかへるさに、神女(しんによ)を面(まの)あたりに拝(おが)み奉(たてまつ)り、授(さづ)け給ふ玉(たま)をえとらで、与四郎(よしらう)〔狗(いぬ)の名也〕を將(い)て還(かへ)りしより、いく程(ほど)もなく有身(みこもり)て、信乃(しの)が生(うま)れしことさへに、その夜(よ)とゝもに説明(ときあけ)す、言葉(ことば)に注(ちう)をくだしていふやう、「吉事(きちじ)には禎祥(よきさが)あり、凶事(けうじ)には妖〓(あやしみ)あり。必(かならず)手束(たつか)が孕(はら)むべき、時(とき)(いた)りしかば竒特(きどく)を見たり。さはれ神女(しんによ)は辨才天(べんさいてん)(か)、又(また)山媛(やまひめ)などいふものか。或(ある)は狐(きつね)(うじな)の所為(わざ)(か)。そのよしをしらずして、汝(なんぢ)を神(かみ)の授(さづ)け給ふ、と我(われ)も思ひ、人(ひと)にも告(つげ)なば、愚人(ぐにん)の夢物語(ゆめものかたり)に似(に)て、世(よ)の胡慮(ものわらひ)にならんのみ。只(たゞ)(ち)あり勇(ゆう)ある子(こ)を、孕(はら)むべき祥(さが)也けり、とこゝろに秘(ひ)して母(はゝ)さへに、口(くち)を禁(とゞめ)てけふまでは、さてぞ汝(なんぢ)に告(つげ)ざりし。これらも理義(りぎ)をわきまへよ」と叮嚀(ねんころ)に教諭(をしえさと)せば、信乃(しの)は小耳(こみゝ)を側立(そはだて)て、聞(きく)こと毎(ごと)に感激(かんげき)し、手束(たつか)も霎時(しばし)病苦(びやうく)を忘(わす)れて、興(きやう)あることに思ひけり。
 當下(そのとき)信乃(しの)は思ふやう、わが母(はゝ)神女(しんによ)の授(さづ)け給ふ、玉(たま)をえとらで、狗(いぬ)をのみ、携(たづさへ)て還(かへ)り給ひし故(ゆゑ)(か)、吾儕(わなみ)に羔(つゝが)なけれども、母御(はゝご)は生平(つね)に持病(ぢびやう)(おほ)くて、竟(つひ)に危窮(きゝ)に及(およ)び給へり。しからんには彼(かの)(たま)を、再(ふたゝ)びこゝに索獲(たづねえ)ば、本復(ほんふく)し給ふこともありなん。ともかくもしてその玉(たま)を、得(え)まほしとのみ思ひしかば、更(さら)に佛神(ぶつじん)に祈請(きせう)して、望(のぞみ)をこゝにかくれども、見し事もなき玉(たま)の再(ふたゝ)び出(いづ)べきよしもなく、母(はゝ)の病(やまひ)は日(ひ)にまして、十日あまりを經(ふ)る程(ほど)に、けふを限(かぎ)りと思ひけん、手束(たつか)は細(こま)やかに遺言(いげん)しつ、應仁(おふにん)二年(ねん)十月下旬(げじゆん)、亨年(きやうねん)こゝに四十三才(さい)、その朝霜(あさしも)と共侶(もろとも)に、睡(ねふ)るが如(ごと)く生気(いき)(たえ)けり。番作(ばんさく)が歎(なげ)きはさら也。信乃(しの)は地(ち)に伏(ふし)、天(てん)にあくがれ、紅涙(こうるい)(そで)に溢(はふ)れつゝ哽咽(むせかへ)り転輾(ふしまろ)び、声(こゑ)をえたゝず泣(なき)しかは、隣(ちか)き黨(ともがら)(あつま)りて、或(ある)は信乃(しの)を諫(いさ)め激(はげま)し、或(ある)は番作(ばんさく)に力(ちから)を戮(あは)して、後(のち)の事(こと)を相謀(あひはか)り、次(つぐ)の日(ひ)の黄昏(たそがれ)に、卒(つひ)に棺(ひつぎ)を擡出(もたげいだ)して、番作(ばんさく)が母(はゝ)の墓(つか)の側(かたへ)にぞ葬(ほうむ)りける。
 この日(ひ)も信乃(しの)は衣裳(いせう)を更(かえ)ず、綿(わた)をもて面頬(おもて)を包(つゝ)み、すべて女(め)の子(こ)の打扮(いでたち)して、母(はゝ)の棺(ひつぎ)を送(おく)りしかば、見るもの笑(わら)ひを忍(しの)びあへず、ゆきしより還(かへ)るまで、指(ゆびさ)し密語(さゝやか)ざるものなし。信乃(しの)はこの好景(ありさま)に、日來(ひごろ)はとまれかくもあれ、人(ひと)の愁(うれ)ひをたのしげに、われを嘲(あざけ)る白徒(しれもの)かな、と思へども色(いろ)にも出(いだ)さず。母(はゝ)の中陰(ちういん)(はて)て後(のち)、はじめて父(ちゝ)に云云(しか/\)と、送葬(そう/\)の日(ひ)の事(こと)を告(つげ)、「抑(そも/\)吾儕(わなみ)は男子(をのこ)なるに、などて女(め)の子(こ)にせらるゝやらん。吾儕(わなみ)がうへは厭(いと)ふに足(た)らず。親(おや)さへに譏(そし)らるゝは、朽(くち)をしき事に侍(はべ)り。その故(ゆゑ)あらばしらまほし、しらせ給へ」と生平(つね)にはあらで、怒氣(どき)を合(ふくみ)て問(とひ)しかば、番作(ばんさく)はうち笑(わら)ひ、「そを憤(いきどほ)る事やはある。さらば先(まづ)そのよしをしらせん。汝(なんぢ)には兄(あに)三人(みたり)あり。襁褓(むつき)の中(うち)にみな死(しゝ)たり。かくて汝(なんぢ)を挙(まうけ)しかは、母(はゝ)はこの子(こ)も育(そだ)たずに、喪(うせ)もやすべき、心(こゝろ)もとなし。俗(よ)の慣〓(ならはし)にしたがひて、女(め)の子(こ)にして孚(はぐゝ)まば、恙(つゝが)あらじ、と婦人(ふじん)の愚癡(ぐち)も、惑(まと)ひを釋(とく)べき證迹(あかし)を獲(え)ざれは、われもその意(ゐ)に任(まか)しつゝ、則(すなはち)信乃(しの)と名(な)つけしは、如此(しか)(/\)々の義(ぎ)を取(と)れり。かくは婦人(ふじん)の忌諱(きき)を信(うけ)たる、僻事(ひがこと)に似(に)たれども、心(こゝろ)なくて許(ゆる)さんや。むかしも今(いま)の男児(をのこゞ)は、十五歳(さい)まで女(め)の子(こ)に比(たぐ)へて、額髪(ひたひかみ)を剃落(そりおと)さず、袂(たもと)(なが)き衣(きぬ)を被(き)て、紅裏(こううら)さへに許(ゆる)されしは、女(め)の子(こ)に比(たぐ)へし證据(あかし)也。又(また)櫛笄(くしかんさし)は婦女(ふぢよ)のみならで、或(ある)は冠(かんむり)を串(とむ)るため、或(ある)は烏帽子(えほうし)の尻(しり)を昂(たか)くせん為(ため)、むかしは男子(をのこ)も挿(さし)たる也。尓(しか)るをいと醜(みにく)しとて、これを笑(わら)ふはしらずして、〓(しゆく)と忽(こつ)とが渾沌(こんとん)(し)を、敗(そこな)ひたる惑(まど)ひにおなじ。人(ひと)いつまでか幼稚(をさな)かるべき。汝(なんぢ)もその年(とし)二八に至(いた)らば、當(まさ)に一個(いつこ)の男子(なんし)なるべし。是(これ)を笑(わら)ふは知(し)らざるなり。彼(かれ)を怒(いか)るはその智(ち)(た)らず。うち捨(すて)ておきね」といふ、只(たゞ)一言(ひとこと)に諭(さと)されて、信乃(しの)は忽地(たちまち)(うたが)ひ觧(とけ)、これに就(つき)(かれ)につけて、なき母親(はゝおや)の慈(いつくし)み、かくまでにありける歟(か)、と思へば哀(かな)しく慕(したは)しく、泣顔(なきがほ)(かく)して退(しりぞ)きぬ。


# 『南総里見八犬伝』第十七回 2004-09-23
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