『南總里見八犬傳』第二十回


【本文】
 第(だい)二十回(くわい) 〔一雙(いつそう)の玉児(ぎよくじ)(ぎ)を結(むす)ぶ三尺(さんしやく)の童子(どうじ)(こゝろさし)を演(のぶ)
 信乃(しの)は庭(には)に人(ひと)ありて、呼禁(よびとゞむ)るその声(こゑ)を、聞(き)くといへども些(ちつと)も擬議(ぎき)せず、はや刺(つき)たてん、と刃(やいば)を挙(あぐ)るに、筋縮(すぢつま)り腕(かひな)〓麻(しび)れて、死(し)を速(すみやか)にすることかなはず。こは朽(くち)をし、といく遍(たび)か、死(しな)ん/\、とするほどに、真先(まつさき)に進(すゝ)むものは、是(これ)(すなはち)別人(べつじん)ならず、嚮(さき)にも來(き)つる糠助(ぬかすけ)なり。叶嗟(あなや)とばかり、騒(さわ)ぐものから、白刃(しらは)にやおそれけん、後(うしろ)のかたへ立遶(たちめぐ)りて、矢庭(やには)に信乃(しの)を抱禁(いだきとむ)れは、前(まへ)なるは蟇(ひき)六亀篠(かめさゝ)、左右(さゆう)より腕(かひな)を攬(とり)て、聊(いさゝか)も動(うごか)せず。「且(まづ)この刃(やいば)を放(はな)てよ」といへども信乃(しの)は手(て)を緩(ゆる)めず。「おん面(おもて)は認(みし)れども、名告(なのり)もあはざる伯母(をば)(きみ)(ご)夫婦(ふうふ)、何(なに)として來(き)ませしぞや」といはれて亀篠(かめさゝ)酸鼻(なみだぐみ)、「心(こゝろ)つよき親(おや)に似(に)て、そなたもさはいふにやあらん。黄童(わらはべ)なれどもさかしげ也。みづからよく辨(わきま)へ給へ。わらはは素(もと)より女子(をなこ)の身(み)として、弟(おとゝ)が所帶(しよたい)を奪(うばへ)るにあらず。父(ちゝ)も弟(おとゝ)も討死(うちしに)せし、と風(かぜ)の便(たよ)りに聞(きこ)えしころ、切(せめ)ては親(おや)の蹟(あと)を立(たて)ん、と思ふはかりに蟇(ひき)六どのを、壻(むこ)に招(とり)つゝ幸(さいはひ)に、庄園(せうゑん)を給はりて、村長(むらおさ)さへになり登(のぼ)りし、夫(をつと)に科(とが)はなきぞとよ。尓(しか)るに弟(おとゝ)は存命(ながらへ)て、故郷(こけう)にかへれど、足蹙(あしなへ)たり。職(つとめ)に堪(たへ)ざる身(み)を見かへらで、吾儕(わなみ)夫婦(ふうふ)をいといたう、憎(にく)みて義絶(ぎぜつ)せし事は、おのが心(こゝろ)の僻(ひがみ)にこそ。強顔(つれな)き弟(おとゝ)と思へども、腐爛(くさり)ても指(および)はきられず。此度(こだみ)御教書(みきやうしよ)破却(はきやく)の越度(おちど)、いかで親子(おやこ)を救(すくは)ん、と心(こゝろ)を盡(つく)す甲斐(かひ)もなく、番作(ばんさく)ははや自殺(じさつ)して、そなたも共(とも)にと、衝箚(つきつめ)しは、稚(をさな)こゝろに似(に)げなき短慮(たんりよ)。死(しぬ)るに及(およ)ばず、この末(すゑ)を、且(まづ)(きゝ)てよ」と諫(いさむ)れば、蟇(ひき)六瞼(まぶた)をしばたゝき、「番作(ばんさく)が生前(いきのうち)に、わが本來(ほんらい)の赤心(まこゝろ)を、しらせざりしは残念(ざんねん)也。切(せめ)てその子(こ)を養(やしな)ひとりて、女児(むすめ)濱路(はまぢ)を妻(めあは)せなば、先祖(せんぞ)の血絡(ちすぢ)断絶(だんぜつ)せず。世(よ)にも人(ひと)にも憎(にくま)れし、わが身(み)は後(うしろ)やすかりなん。やをれ信乃(しの)よく聞(き)けかし。御教書(みきやうしよ)の事(こと)、大(おほ)かたならぬ、越度(をちど)也とはいひながら、原(もと)畜生(ちくせう)の所為(わざ)にして、犬(いぬ)はさら也そのぬしたる、番作(ばんさく)が命(いのち)を隕(おと)せば、一切(つや/\)後難(こうなん)あるべからず。縦(たとひ)その子(こ)どもらに、おん咎(とがめ)ありといふとも、われ亦(また)よろしく申ときなん。嚮(さき)に糠助(ぬかすけ)が走(はし)り來(き)て、如此(しか)々々(/\)と告(つげ)しかは、固(もと)より義絶(ぎぜつ)の親族(しんぞく)たりとも、自殺(じさつ)の変(へん)を聞(きゝ)ながら、なほ讐敵(あたかたき)の思ひをせんや、と來(き)て見たればこそはからずも、汝(なんぢ)が必死(ひつし)を禁(とゞ)めたれ。はやく刃(やいば)をおさめよ」と言葉(ことば)を竭(つく)せば、糠助(ぬかすけ)も、共侶(もろとも)に諫(いさ)めけり。信乃(しの)はつら/\うち聞(き)くに、思ふには似(に)ず伯母(をば)夫婦(ふうふ)が、よに憑(たのも)しき慈愛(ぢあい)教訓(きやうくん)、宝刀(みたち)の事は一言(ひとこと)も、いはざるもこゝろ憎(にく)し。皆(みな)(これ)われを欺(あざむ)くならん。寔(まこと)におのが親(おや)ながら、人(ひと)をしる事聖(ひじり)の如(ごと)く、未然(みぜん)に察(さつ)し給ひぬる、父(ちゝ)が遺訓(いくん)はこれ也けり。かゝれば自殺(じさつ)を思ひとゞまり、且(しばら)く伯母(をば)に養(やしなは)れて、人(ひと)とならん、と尋思(しあん)しつ、やうやくにうち点頭(うなづき)、「思ひがけなき方(かた)ざまの、おん慈(いつくし)みを蒙(かうむ)りて、理(ことわ)り逼(せめ)て禁(とゞ)め給へば、死後(しにおく)れて候也。鎌倉(かまくら)制度(ざた)にも及(およば)ずして、大刀(たち)さへ出(いだ)すに及(およ)ばずは、命(おふせ)に従(したが)ひ奉らん」といへば蟇(ひき)六眉根(まゆね)をよせ、「宝刀(みたち)の事はわれしらず。それはをんなの生賢(なまさかしら)にて、亀篠(かめさゝ)が心(こゝろ)ひとつに、しかせんとこそいひつらめ。親(おや)より讓受(ゆづりうけ)たる物(もの)は、和殿(わどの)が隨意(まに/\)せざらんや。斯(かう)うち觧(とけ)ては親族(しんぞく)がひに、心(こゝろ)くまなく相譚(かたら)ふべし。狐疑(こぎ)を散(はら)してわがいふよしに、うち任(まか)せずや」と真実(まめ)たちて、三方(みところ)より諫(いさむ)れは、信乃(しの)はいよ/\こゝろに暁(さと)りて、「しからばその手(て)を放(はな)ち給へ。聞(きゝ)わきて候」といふに僉(みな)(よろこ)びて、そが隨(まゝ)(すこし)退(しりぞ)けは、信乃(しの)は刃(やいば)を〓(さや)に納(おさめ)て、膝(ひざ)くみ直(なほ)せどおちつかぬ、身(み)の久後(ゆくすゑ)を思ひ難(かね)て、黙然(もくねん)として居(ゐ)たりける。
 當下(そのとき)(ひき)六亀篠(かめさゝ)は、糠助(ぬかすけ)を宿所(しゆくしよ)に走(はし)らせ、小廝(こもの)一両人(いちりやうにん)(よび)とりて、葬(ほうむり)の事(こと)を指揮(さしづ)し、その夜(よ)番作(ばんさく)が亡骸(なきから)をとり斂(おさ)めて、蟇(ひき)六は宿所(しゆくしよ)にかへりつ。亀篠(かめさゝ)糠助(ぬかすけ)はとゞまりて、棺(ひつき)に通夜(つや)して信乃(しの)を慰(なぐさ)め、次(つぐ)の日(ひ)なき人(ひと)を、菩提所(ぼだいしよ)へ送(おく)る程(ほど)に、里人(さとひと)(ら)これを悼(いた)みて、追慕(ついぼ)せずといふことなく、この日(ひ)(ひつぎ)を送(おく)るもの、無慮(すべて)三百餘人(よにん)なり。「信乃(しの)が為(ため)にはせめてもの、面目(めんもく)ならん」と人(ひと)みないひけり。
 さても蟇(ひき)六亀篠(かめさゝ)は、番作(ばんさく)が自殺(じさつ)を聞(きゝ)て、みづからその家(いへ)に赴(おもむ)き、信乃(しの)が自殺(じさつ)を禁(とゞ)めし事は、豫(かね)て番作(ばんさく)が謀(はか)りしに違(たが)はず。御教書(みきやうしよ)の事(こと)は詐欺(たばかり)なるに、犬塚(いぬつか)親子(おやこ)自殺(じさつ)せは、里人(さとひと)(ら)(いきどほ)りて、ことの破(やぶ)れになりもやせん。信乃(しの)をだに養(やしな)はゞ、里人(さとひと)(ら)が疑念(ぎねん)も觧(とく)べく、わが身(み)に恙(つゝが)なかるべし。と夫婦(ふうふ)(にはか)に商量(だんかふ)して、真実(まめ)やかにもてなすものから、信乃(しの)は素(もと)よりその性(さが)聰察(さと)し。父(ちゝ)の遺訓(いくん)に思ひあはせて、その詐欺(たばかり)を猜(すい)せしよしは、蟇(ひき)六亀篠(かめさゝ)はじめには、村雨(むらさめ)の大刀(たち)の事をいはず。信乃(しの)が「大刀(たち)さへ出(いだ)さすは」といひつるをはやうけて、蟇(ひき)六は宝刀(みたち)といひ、又われはしらずといへり。そのときに言舌(ことば)(にご)りて、顔(かほ)の色(いろ)さへ変(かは)りしかは、信乃(しの)はいよ/\心(こゝろ)(けつ)して、父(ちゝ)の先見(せんけん)明智(めいち)を感(かん)じ、さて自殺(じさつ)をば止(とゞま)りき。これらに由(よ)れば信乃(しの)はさらなり、番作(ばんさく)は智勇(ちゆう)の士(し)也。惜(おしい)かな不幸(ふこう)にして、志(こゝろざし)を得(え)ざりしかは、珠玉(しゆぎよく)いたづらに泥中(でいちう)に埋(うづも)れて、名(な)のみ口碑(こうひ)に遺(のこ)りけり。
 間話休題(あだしものかたりはさておきつ)、葬(ほうむり)の事果(はて)しかは、亀篠(かめさゝ)は又(また)(ひき)六と商量(だんかふ)して、信乃(しの)を召(よび)とらんとて、迎(むかひ)の人(ひと)を遣(つかは)せしに、信乃(しの)は「せめて亡親(なきおや)の中陰(ちういん)(はて)て後(のち)にこそ、命(おふせ)に従(したが)ひ奉らめ。且(しばら)く許(ゆる)させ給へ」といふ。「是(これ)も亦(また)(ことわ)りなれども、黄童(わらはべ)一人(ひとり)は置(おき)かたし。糠助(ぬかすけ)はその宿所(しゆくしよ)、いとちかきものなれは、朝(あさ)な夕(ゆふ)なに守(もり)をさすべし。額藏(がくざう)は年紀(としのころ)も、信乃(しの)には劣(おと)り勝(まさ)りせず、言葉(ことば)(かたき)になるものならん。然(しか)らばこの小廝(こもの)を」とて、「薪水(にたき)の労(わざ)をよく佐(たす)けよ」と分付(いひつけ)て、信乃(しの)がかたへぞ遣(つかは)しける。さはれ信乃(しの)は是(これ)さへに、わが本心(ほんしん)を探(さぐ)らんとての、間監(まはしもの)にや、とおもひしかは、苟(かりそめ)にも心(こゝろ)を放(ゆる)さず。みづから火(ひ)を打(たき)(みづ)を汲(く)み、父母(ふぼ)の靈牌(れいはい)につかへつゝ、喪(も)に籠(こも)りてをる程(ほど)に、早晩(いつしか)に花(はな)ちりて、若葉(わかば)(いろ)ます青山辺(あをやまべ)に、杜鵑(ほとゝぎす)(な)く比(ころ)にぞなりぬ。
 信乃(しの)は日來(ひころ)額藏(かくざう)が、言行(たちふるまひ)にこゝろをつくるに、よろづ温順(おんじゆん)にして、村落(かたゐなか)の小廝(こもの)に似(に)ず。主(しゆう)なる庄官(せうくはん)の虎威(こゐ)を借(かり)て、われを侮(あなど)る氣色(けしき)はなく、いと老実(まめやか)に仕(つかへ)しかは、こゝろに深(ふか)く感佩(かんはい)して、是(これ)より夛(おほ)くは疑(うたが)はず。有一日(あるひ)額藏(がくざう)は、信乃(しの)が垢(あか)つき汚(よご)れしを見て、「なき人(ひと)の三七日(みなのか)も、はや過(すぐ)させ給ひしに、髪(かみ)は結(あげ)たまはずとも、行水(ぎやうずい)を引(ひき)給はずや。湯(ゆ)も沸(たぎり)て候は」といはれて信乃(しの)はうち点頭(うなつき)、「現(げに)卯月(うつき)の暑(あつさ)には、堪(たへ)がたき事もぞある。けふは南風(みなみ)が吹入(ふきい)れて、掻(かゝ)ざる垢(あか)もよれる日(ひ)ぞかし。よくこそしつれ。浴(ゆあ)みせん」とて、軈(やが)て縁頬(えんかは)のほとりに立(たち)て、衣(きぬ)を脱(ぬぎ)などする程(ほど)に、額藏(がくざう)は大盥(おほたらひ)に、湯(ゆ)をなみ/\と、汲入(くみいれ)つゝ水(みづ)さし試(こゝろ)み、やがてその背後(うしろ)に立遶(たちめぐ)りて、徐(しづ)かに垢(あか)を掻(かゝ)んとて、信乃(しの)が腕(かひな)の痣(あざ)を見て、「和君(わぎみ)にもこの痣(あざ)ある歟(か)。吾儕(わなみ)も又(また)(に)たることあり。是(これ)見給へ」といひかけて、推袒(おしはだぬ)きて背(そびら)を示(しめ)すに、現(げに)身柱(ちりけ)のほとりより、右(みぎ)の胛(かひほね)の下(した)へかけて、黒(くろ)く大(おほ)きなる痣(あざ)ありけり。その形状(かたち)、信乃(しの)が痣(あざ)にこれ一般(おなじ)。そのとき額藏(がくざう)は、袖(そで)を收(おさめ)て襷(たすき)をうち掛(かけ)、「吾儕(わなみ)が痣(あざ)はみづから見えねど、胎内(たいない)よりありと聞(きけ)り。和君(わきみ)も尓(しか)るや」と問(とふ)に、信乃(しの)は只(たゞ)(えみ)て答(こたへ)ず。額藏(がくざう)は又(また)(みどり)なす、庭(には)のかたに指(ゆびさ)して、「彼処(かしこ)なる梅樹(うめのき)のほとりに、新(あらた)に土(つち)を起(おこ)せし、とおぼしくて、些(すこし)(たか)き処(ところ)あり。彼(あれ)は什麼(そも)(なに)ぞ」と問(とふ)に、信乃(しの)(こたへ)て、「あれこそ其許(そこ)にもしられたる、犬(いぬ)を埋(うづめ)し処(ところ)よ」といふ。額藏(がくざう)(はぢ)たるおもゝちにて、「させる仇(あた)にもあらざるに、しうねき人(ひと)は畜生(ちくせう)に、傷(きずつ)けたるにも誇(ほこ)ることあり。吾儕(わなみ)も亦(また)(かの)(いぬ)を、打(うち)もし、刺(つき)もしたらんか、と和君(わきみ)に思れたるなるべし。さもあらずや」と事毎(こと%\)に、心(こゝろ)ありげにものいひかくれど、信乃(しの)は是(これ)にもうち笑(えむ)のみ。亦(また)その是非(ぜひ)をいふことなし。
 かくて信乃(しの)は浴(ゆあみ)し果(はて)て、まづその衣(きぬ)を揮(ふる)ひしかば、忽地(たちまち)(たもと)の間(あはひ)より、「一顆(ひとつ)の白玉(しらたま)(まろ)び落(おつ)るを、額藏(がくざう)はやくもとり留(と)めて、つく/\と見て、「不審(いぶかし)や、和君(わきみ)はこの玉(たま)(え)給ひし歟(か)。抑(そも/\)(また)家傳(かでん)の物(もの)(か)。由來(ゆらい)を聞(きか)まほしけれ」といひつゝ軈(やが)て返(かへ)すにぞ、信乃(しの)は玉(たま)を手(て)にとりて、「われ一朝(いつちやう)に親(おや)を喪(うしな)ひ、こゝろの憂(うれ)ひやるかたなくて、この玉(たま)を遺(わす)れたり。こはくさ%\の縁故(えんこ)あり」とばかり答(こたへ)て詳(つばら)に告(つげ)ねば、額藏(がくざう)こゝろ歡(よろこ)ばず。数回(あまたゝび)嘆息(たんそく)し、「人面(にんめん)(おな)じからざれども、他人(たにん)にもよく似(に)たるものあり。人心(じんしん)(おな)じからざれども、又(また)知己(ちき)なしといふべからず。和君(わきみ)吾儕(わなみ)を疑(うたが)ひ給ふや。吾(われ)(いさゝか)も蔽(かく)すことなし。是(これ)を見給へ」といひかけて、膚(はだ)なる護身(まもり)(ふくろ)より、一顆(ひとつ)の玉(たま)をとり出(いだ)せば、信乃(しの)も又(また)(いぶか)りて、これを掌(たなそこ)に受(うけ)つゝ見るに、わが玉(たま)と一点(つゆ)(こと)なることなし。但(たゞ)その文字(もんじ)(おな)じからで、義(ぎ)の字(じ)(あざやか)に読(よま)れたり。こゝに至(いたり)てはじめて感悟(かんご)し、恭(うや/\)しくその玉(たま)を、額藏(がくざう)に返(かへ)していふやう、「吾(われ)(とし)(をさな)く、才(さえ)(たら)ざれは、眼(まなこ)あれどもなきが如(ごと)く、はやく足下(そこ)を認(みし)らずして、初(はじめ)はふかく疑(うたが)ひき。日(ひ)ころ歴(ふ)る隨(まゝ)その言(こと)と、行(おこなひ)を試(こゝろみ)つるに、わが及(およば)ざる所(ところ)(おほ)かり。凡人(たゞひと)ならじと思ふものから、素性(すせう)を問(とふ)によしなくて、けふまでは黙止(もだし)たり。尓(しか)るにけふはからずも、身(み)に相似(あひに)たる痣(あざ)を見つ。又(また)この玉(たま)の等(ひと)しきあり。必(かならず)(これ)宿因(しゆくいん)の致(いた)す所(ところ)、一朝(いつちやう)の縁(えん)にはあらじ。先(まづ)わが玉(たま)の由來(ゆらい)を説(とく)べし。この玉(たま)は箇様(かやう)々々(/\)、如此(しか)々々(/\)の事(こと)あり」と神女(しんによ)影向(えうこう)のはじめより、與四郎(よしらう)(いぬ)が死(し)を促(うなが)して、思はずもその〓口(きりくち)より、玉(たま)を獲(え)たる終(をはり)まで、猛(にはか)に痣(あざ)のいで來(き)し事(こと)、父(ちゝ)が先見(せんけん)遺訓(いくん)の趣(おもむき)、些(すこし)も蔽(かく)さず説示(ときしめ)せは、額藏(がくざう)は耳(みゝ)を側(そはだ)て、坐(そゞろ)に膝(ひざ)の進(すゝ)むを覚(おぼえ)ず。且(かつ)(かん)じ、且(かつ)(たん)じて、落涙(らくるい)を禁(とゞ)めあへず。且(しはらく)して貌(かたち)を改(あらた)め、「世(よ)に薄命(はくめい)なるものわれのみならぬ。和君(わきみ)がうへを聞(き)けば又(また)、後(すゑ)たのもしき心地(こゝち)せり。抑(そも/\)吾儕(わなみ)は伊豆國(いづのくに)、北條(ほふでう)の荘官(せうくわん)たりし、犬川(いぬかは)衞二(ゑじ)則任(のりたう)が一子(ひとりこ)に、乳名(をさなゝ)荘之助(さうのすけ)と呼(よば)れしもの也。嘗(かつて)吾儕(わなみ)が生(うま)れしときに、家(いへ)の老僕(おとな)なりけるもの、その胞衣(えな)を埋(うづめ)んとて、閾(しきみ)の下(もと)を掘(ほり)けるに、ゆくりなくこの玉(たま)を獲(え)たり。こは未曽有(みぞう)の祥瑞(せうずい)ならん、と人(ひと)はみないふめれど、わが背(そびら)にあやしげなる痣(あざ)あるをもて父(ちゝ)はなほ、心(こゝろ)もとなく思ひけん、その吉凶(きつけう)を問(とは)んとするに、伊豆(いづ)にはさせる博士(はかせ)なし。但(たゞ)(ごう)の黄檗寺(わうばくてら)に、関帝(くわんてい)の廟(ほこら)あり。わが父(ちゝ)年來(としころ)(しん)じにければ、まゐりて為(ため)に久後(ゆくすゑ)の命運(めいうん)を問(とひ)奉り、念(ねん)じて神籤(みくじ)を拈(とり)けるに、第(だい)九十八籤(せん)を獲(え)たり。その詞(し)に、
  経営百事(ひやくじをけいゑいして)費精神(せいしんをついやす) 南北奔馳(なんぼくにほんちして)運未新(うんいまだあらたならず)
  玉兎交時(ぎよくとまじはるとき)當得意(まさにゐをえべし)  恰如枯木(あたかもこぼくの)再逢春(ふたゝびはるにあふごとし)
とあり。わが父(ちゝ)(いさゝか)文字(もんじ)あり。詞(し)のこゝろを判(はん)するに、起句(きく)の文(もん)(きつ)ならず。只(たゞ)その結句(けつく)に頼(さいはひ)あり。玉兎(ぎよくと)は月(つき)の異名(いめう)なり。交(まじは)るときは満月(まんげつ)にして、十五夜(や)をいふなるべし。かゝればこの子(こ)十二三才まで、夛病(たびやう)などにやあらんずらん。しかれども年(とし)十五より、回陽(くわいよう)本復(ほんふく)して、如意(によゐ)延命(ゑんめい)の祥(さが)ならんとて、荘之助(さうのすけ)と名(なつ)けし、と母(はゝ)の物(もの)かたりに聞(きゝ)つ。荘(さう)は荘(さかり)(さかん)なるのこゝろなるべし。
 さる程(ほど)に鎌倉(かまくら)の武將(ぶせう)成氏(なりうぢ)朝臣(あそん)、京都(きやうと)將軍(せうぐん)とおん中(なか)よからず、両(りやう)管領(くわんれい)に攻(せめ)られて、許我(こが)へつぼませ給ひしかば、寛正(くわんせう)二年に京都(きやうと)より、前(ぜん)將軍(せうぐん)普廣院(ふくわういん)〔義教(よしのり)(こう)〕の第(だい)(よ)(なん)、政知(まさとも)とまうせしを、右兵衞督(うひやうゑのかみ)に拝任(はいにん)せられて、伊豆(いづ)の北條(ほふでふ)へ下(くだ)させ給ひ、堀越(ほりこし)の御所(ごしよ)と唱(となへ)て、諸國(しよこく)の賞罰(せうばつ)を掌(つかさとら)せらる。政知(まさとも)朝臣(あそん)武威(ぶゐ)に募(つのり)て、民(たみ)を憐(あはれ)むのこゝろ薄(うす)く、驕奢(おごり)を極(きわ)め給ふ程(ほど)に、不時(ふじ)の課役(くわやく)いと夛(おほ)かり。わが父(ちゝ)荘官(せうくわん)たるをもて、舊例(きうれい)を援(ひき)て、苛政(かせい▼カラキマツリコト)を諫(いさ)め、しば/\宥免(ゆうめん)を乞(こ)ひしかば、讒者(ざんしや)の為(ため)に弾(はぢ)かれて、御所(ごしよ)のおん怒(いか)り酷(はなはだ)しく、誅(ちう)せらるべし、と聞(きこ)えしかは、父(ちゝ)はます/\うち歎(なげ)きて、一通(いつゝう)の書(しよ)を遺(のこ)しつゝ、母(はゝ)にもしらさで自殺(じさつ)せり。時(とき)に寛正(くわんせう)六年(ねんの)(あき)九月十一日、吾儕(わなみ)は僅(はづか)に七歳(さい)なり。荘園(せうゑん)家財(かざい)は没官(もつくわん)せられ、従類(じゆうるい)奴婢(ぬひ)は東西(とうさい)に離散(りさん)して、身(み)に隨(したが)ふものもなし。さしも豪家(ごうか)といはれたる、犬川(いぬかは)の水(みづ)涸果(かれはて)て、妻子(さいし)を追放(ついほう)せられしかば、母(はゝ)は泣(なき)つゝ吾儕(わなみ)が手(て)を掖(ひき)て、是首(ここ)の由縁(ゆかり)、彼首(かしこ)の相識(しるべ)、と彼此(おちこち)に身(み)を置(おき)かねては、いとゞ悲(かな)しきその秋(あき)を、客宿(たびね)に送(おく)りて霰(あられ)(ふ)る、冬(ふゆ)もなかばになりにけり。
 粤(こゝ)に安房(あは)の國司(こくし)、里見(さとみ)の家臣(かしん)蜑崎(あまさき)十郎輝武(てるたけ)といふものは、原(もと)は彼処(かしこ)の豪民(ごうみん)なり。母(はゝ)の従弟(いとこ)でありしかは、彼(かの)蜑崎(あまさき)を心(こゝろ)あてに、母(はゝ)は吾儕(わなみ)を扶掖(たすけひ)き、吾儕(わなみ)は母(はゝ)を慰(なぐさ)めつゝ、辛(からく)して鎌倉(かまくら)に赴(おもむ)き、安房(あは)へ便舩(びんせん)を求(もとめ)にけれども、今(いま)戦國(せんこく)の最中(もなか)なれば、海陸(かいりく)の通路(つうろ)たえて、彼処(かしこ)より舩(ふね)を出(いだ)さず。下総(しもふさ)なる行徳(ぎやうとこ)の港口(みなと)には、上総(かづさ)へ渡(わた)す舩(ふね)あり、と人(ひと)が誨(をしえ)て候へは、又(また)行徳(ぎやうとこ)をこゝろさして、稍(やゝ)この郷(さと)まで來(く)る程(ほど)に、路費(ろよう)を賊(ぞく)に掠(かすめ)とられて、宿(やど)(か)るべうもあらざれは、已(やむ)ことを得(え)ず、村長(むらおさ)の宿所(しゆくしよ)に赴(おもむ)き、云云(しか/\)のよしを告(つげ)て、その夜(よ)の宿(やど)りを乞(こふ)といへども、しらるゝごとき長(おさ)夫婦(ふうふ)、その銭(ぜに)なしと聞(きゝ)しより、摂待(せつたい)客舎(はたご)もいひ付(つけ)ず、小廝(こもの)(ら)さへに叱懲(しかりこら)して、うけ引(ひく)べうもあらざれば、切(せめ)て一夜(ひとよ)を柴(しば)小屋(こや)の、裡(うち)になりとも明(あか)させ給へ。とかき口説(くど)くにも許(ゆる)されず、小廝(こもの)して追出(おひいだ)させ、門(かど)さへ杜(とぢ)て見かへらず。日(ひ)ははや暮(くれ)て雪(ゆき)はふり來(き)ぬ。進退(しんたい)其処(そこ)に究(きわま)りて、親(おや)は音(ね)になく夜(よる)の鶴(つる)、子(こ)は又(また)(のき)の寒雀(やせすゞめ)
【挿絵】「七歳(しちさい)の小児(せうに)客路(たびぢ)に母(はゝ)を喪(うしな)ふ」「犬川衞二が妻」「荘之助」
(ねぐら)に迷(まよ)ふ行路(たびぢ)の艱難(かんなん)、強顔(つれな)き人(ひと)の門(かど)ながら、もし呼入(よびい)るゝこともや、とおぼつかなくも立在(たゝずめ)ば、雪(ゆき)はます/\をやみなく、雪吹(ふゞき)に五體(ごたい)を吹(ふき)きられ、風(かぜ)にとらるゝ破笠(やれかさ)の、骨(ほね)まで氷(こふ)る冬(ふゆ)の夜(よ)に、母(はゝ)は固(もと)より持病(ぢびやう)に積(しやく)あり。秋(あき)より後(のち)の患苦(くわんく)心労(しんろう)、客宿(たびね)と共(とも)につのり/\し、病著(いたつき)にとり逼(つめ)られ、いとも危(あやう)く見えしかば、勦(いたは)り騒(さわ)げど七才児(なゝつこ)が、何(なに)せんすべもしら雪(ゆき)に、先(さき)だつ親(おや)は果敢(はか)なく滅(きえ)て、よになき人(ひと)の員(かず)に入(い)りしは、十一月(しもつき)廾九日の事なり。空(むな)しき骸(から)にとり著(つき)て、號哭(さけびなき)つゝ天(よ)を明(あか)せば、長(をさ)はその為体(ていたらく)を、はじめてしりてうち呟(つぶや)き、吾儕(わなみ)を裡面(うち)へ呼(よ)び入(い)れて、夲貫(くにところ)を問(とは)れしかは、匿(つゝま)ず告(つぐ)るにうちも騒(さわ)かず、まづわが母(はゝ)の亡骸(なきから)を、棄(すつ)るが如(ごと)く埋(うづめ)させ、その日(ひ)吾儕(わなみ)を召出(よびいだ)し、汝(なんぢ)は母(はゝ)を旅(たび)に喪(うしな)ひ、かへるべき家(いへ)もなく、又(また)ゆくべき里(さと)もあらじ。安房(あは)の里見(さとみ)は成氏(なりうぢ)(がた)にて、當所(たうしよ)は管領家(くわんれいけ)の釆地(れうぶん)たり。かゝれば安房(あは)へは渡(わた)しがたし。汝(なんぢ)が母(はゝ)路費(ろよう)を喪(うしな)ひ、わが門(かど)にして死(しゝ)たれは、葬(ほうむり)の事何(なに)くれとなく、諸(しよ)雜費(ざつひ)(あまた)の没銭(いりめ)あり。汝(なんぢ)(いま)よりわれに仕(つか)へて、勉(つとめ)てこれを報(むくは)ずは、久後(ゆくすゑ)とてもよき事あらじ。さはれ年(とし)なほ幼稚(いとけな)し、三四年(ねん)は食損(くはせそん)也。物(もの)の用(よう)には立(たち)かたからん。尓(しか)れば年限(ねんき)も定(さだ)めかたし。夏(なつ)は貲布(さよみ)の帷子(かたびら)一ッ、冬(ふゆ)は小妻(こつま)の布子(ぬのこ)一ッとらすべし。それを過分(くわぶん)の給料(きうれう)也と思ひとりて、一生涯(いつせうがい)奉公(ほうこう)せよ。給銀(きうぎん)とらせぬそのかえには、養殺(かひころ)しにして得(え)させんず、といはれし時(とき)は恨(うらめ)しく、朽(くち)をしき事限(かぎ)りなけれど、繋(つなが)ぬ舟(ふね)の楫(かぢ)を絶(たえ)、よるべなき身(み)はいなともいはれず。これより長(おさ)が小廝(こもの)にせられて、五年(いつとせ)あまり送(おく)りにき。しかれども志(こゝろざし)、農業(のうぎやう)貨殖(くわしよく)を願(ねが)ふことなく、今(いま)戦國(せんこく)の時(とき)に生(うま)れて、身(み)を立(たて)、家(いへ)を興(おこ)さずは、よに男子(をのこ)たる甲斐(かひ)もなし。ともかくもして武士(ぶし)にならん、と思ひ决(さだめ)しは十才(とを)の春(はる)なり。素(もと)より長(をさ)は狐疑(こぎ)ふかく、物妬(ものねた)みする人(ひと)なれば、わが本心(ほんしん)を顕(あらは)さず。善悪(ぜんあく)に就(つき)て主命(しゆうめい)に、違(たが)ふことなく愚直(ぐちよく)を示(しめ)せば、いとゝ苛(いら)どく使(つかは)るゝ。奉公(ほうこう)の片手業(かたてわざ)、夜(よ)は深(ふく)るまで手習(てならひ)し、昼(ひる)は秣(まくさ)を刈(かる)(なへ)に、人目(ひとめ)をしのび/\つゝ、石(いし)を挙(あげ)、木(き)を打(うち)て、ひとり撃劍(けんじゆつ)拳法(やわら)を試(こゝろ)み、教(をしえ)なうして、とやらかうやら、大刀(たち)すぢを暁(そらんし)(え)たり。固(もと)よりをのが志(こゝろざし)を、傍輩(ほうばい)に尚(すら)しらせねば、人(ひと)みな嘲(あざ)みて愚蠢(あほう)といふ。彼等(かれら)はすべて斗〓(とせう)の小輩(せうはい)、一郷(いちごう)(とも)に謀(はか)るに足(た)らず。豫(かね)てぞ思ふ君(きみ)が俊才(しゆんさい)。その孝行(こう/\)さへ聞(きゝ)もしつ、見もせしからに慕(したは)しく、これらの人(ひと)と交(まじは)らは、億萬人(おくまんにん)に値偶(ちぐ)せんより、憑(たのも)しからん、と思へども、長(をさ)とは義絶(ぎぜつ)の親族(しんぞく)なる、その人(ひと)の子(こ)でをはすれは、間(ま)ちかく住(すま)へど物(もの)もいはれず。折(をり)もあらばいかでわが志(こゝろざし)をしらせん、と思ひしはきのふけふのみならず。尓(しか)るに大人(うし)の自殺(じさつ)によりて、忽地(たちまち)に路(みち)ひらけ、〓(あまさへ)和君(わぎみ)の間人(とぎ)にとて、吾儕(わなみ)にこゝへゆけといふ、主命(しゆうめい)はわが為(ため)に、千金(せんきん)にます賜(たま)もの也。天(てん)の祐(たすけ)と竊(ひそか)に歡(よろこ)び、心(こゝろ)いそしく來(き)て見れは、和君(わぎみ)はふかく疑(うたが)ひて、日(ひ)ごろ経(ふ)れどもうち觧(とけ)給はず。吾儕(わなみ)も又(また)その意(ゐ)を猜(すい)して、麁忽(そこつ)に宿志(しゆくし)を告(つげ)まうさず。且(しばら)く時節(じせつ)を俟(まつ)ほどに、良縁(りやうえん)(つひ)に空(むなし)からで、迭(かたみ)に異(こと)なる肢體(みのうち▼エダ)の痣(あざ)、又(また)一雙(いつそう)の白玉(しらたま)さへ、媒〓(なかたち)となりしかば、肝膽(かんたん)を吐(はく)ことを得(え)たり。方(まさに)(これ)病雀(びやうじやく)(はな)を啖(ついば)みて、飛騰(ひとう)の翅(つはさ)を摶(うつ)ごとく、轍魚(てつぎよ)(あめ)を受(うけ)て、〓〓(けんぐ)の吻(くちさき)を潤(うるほ)すに似(に)たり。一生(いつせう)の歡會(くわんくわい)、何事(なにこと)かこれに過(まさ)ん。望(のぞみ)(た)りて候」と縡(こと)(つばらか)に物(もの)かたりて、志(こゝろさし)を示(しめ)すになん。信乃(しの)はその薄命(はくめい)を、わが身(み)のうへに思ひくらべて、聞(きく)(こと)(ごと)に嘆賞(たんせう)し、「驚(おどろ)きおもふ和殿(わどの)の大志(たいし)、わがよく及(およ)ぶ所(ところ)にあらず。現(げに)この玉(たま)が媒妁(なかだち)して、忽地(たちまち)水魚(すいぎよ)の思ひをなす事、因縁(いんえん)なくはあるべからず。譬(たとひ)ば今(いま)(しめ)されし、関帝籤(くわんていせん)の詞(し)の結句(けつく)に、玉兎交時(ぎよくとまじはるとき)當得意(まさにゐをえべし)、恰如枯木(あたかもこぼくの)再逢春(ふたゝびはるにあふごとし)とは、今日(こんにち)の事なるべし。夫(それ)(つき)を玉(たま)に譬(たとへ)、玉(たま)を又(また)(つき)に喩(たと)ふ、和漢(わかん)にその證(あかし)(おほ)かり。されば玉兎(ぎよくと)の交(まじは)るとき、當(まさに)に意(ゐ)を得(え)つべしとは、ふたつの玉(たま)が媒灼(なかたち)して、こゝに交(まじはり)を結(むす)ぶをいふ歟(か)。枯木(こぼく)(ふたゝ)び春(はる)にあふとは、今(いま)この両人(りやうにん)(もつとも)薄命(はくめい)、譬(たとひ)ば樹(き)の幹(みき)(おほ)かた枯(かれ)て、片枝(かたえ)(はつか)に残(のこ)るが如(ごと)し。しかれども不憶(ゆくりなく)、刎頸(ふんけう)の友(とも)を得(え)て、迭(かたみ)に補助(たすけ/\)られ、名(な)を揚(あげ)(いへ)を興(おこ)すに至(いた)らば、枯木(こぼく)の春(はる)にあふにあらずや。後栄(こうゑい)(とも)にしるべきのみ。神(かみ)は人(ひと)の求(もとむ)るが為(ため)に、鑒納(かんなう)を垂(たれ)給ふ。関帝(くわんてい)の神慮(しんりよ)いとかしこし。又(また)はじめの二句(く)のこゝろは、尊(そん)大人(たいじん)自殺(じさつ)して、和殿(わとの)母子(ぼし)南北(なんぼく)に奔走(ほんさう)し、命運(めいうん)(しばら)く吉(よ)からざるを示(しめ)し給へり。されば、経営百事(ひやくじをけいゑいして)費精神(せいしんをついやす)。南北奔馳(なんぼくにほんちして)運未新(うんいまだあらたならず)といへり。豈(あに)(また)(き)ならずや」と説示(ときしめ)せば、額藏(がくざう)、詞(し)の意(ゐ)を感悟(かんご)して、信乃(しの)が才学(さいがく)の大(おほ)かたならざるを稱賛(せうさん)し、且(かつ)(はぢ)て額(ひたひ)を撫(なで)、「吾儕(わなみ)は僅(はつか)に手習(てならひ)して、俗字(ぞくじ)を諳(そらん)じ得(え)たるのみ。文(ぶん)を学(まな)ぶの餘力(よりよく)なし。和君(わなみ)の觧(とか)せ給ふにあらずは、かくまで神慮(しんりよ)の灼然(いやちこ)なるを、いかにしてしるよしあらん。願(ねが)ふは今(いま)より和君(わきみ)を師(し)として、竊(ひそか)に学問(がくもん)を奨(はげま)んに、教(をしえ)給へかし」といふ。信乃(しの)(きゝ)て、頭(かうべ)を掉(ふり)、「吾儕(わなみ)は僅(はつか)に十一歳(さい)、襁褓(むつき)の中(うち)より学(まな)ぶといふとも、何事(なにこと)をかしるに足(た)らん。幸(さいはひ)に父(ちゝ)の遺書(いしよ)あり。和殿(わどの)もし、学(まなば)んとならば、貸(か)すべし。顧(おも)ふに人(ひと)は善悪(ぜんあく)を友(とも)とす。善(ぜん)に善友(ぜんゆう)あり、悪(あく)に悪友(あくゆう)あり。擇(えらみ)て志(こゝろざし)(おなじ)きときは、四海(しかい)みな兄弟(きやうだい)なり。吾儕(わなみ)は孤(みなしこ)となりつ、和殿(わどの)も又(また)同胞(はらから)なし。今(けふ)より義(ぎ)を結(むすび)て、兄弟(きやうだい)とならんことを願(ねが)ふのみ。和殿(わとの)のこゝろいかにぞや」と問(とは)れて額藏(がくざう)(おほ)きに歡(よろこ)び、「そは固(もと)より願(ねが)ふ所(ところ)なり。よしや楽(たのしみ)を共(とも)にせずとも、憂(うれひ)を與(とも)にせざることなく、艱難(かんなん)(し)をもて相(あひ)(すくは)ん。もし聊(いさゝか)もこの盟(ちかひ)に背(そむ)かば、天雷(てんらい)立地(たちところ)にわれを撃(うた)ん。こゝに恭(うや/\)しく上天(せうてん)に告(つぐ)。急々(きう/\)如律令(によりつれう)」と天(てん)に向(むか)ひて誓(ちか)ひしかは、信乃(しの)も又(また)(おほ)きに歡(よろこ)び、もろ共(とも)に誓(ちか)ひつゝ、水(みづ)をもて酒(さけ)に擬(なぞら)へ、汲(くみ)かはしてその約(やく)を固(かたう)し、さてその年(とし)の夛少(たせう)を問(とふ)に、額藏(がくざう)は長禄(ちやうろく)三年〔伏姫(ふせひめ)自殺(じさつ)の翌年(よくねん)なり〕十二月朔日(ついたち)に生(うま)れて、十二才也。信乃(しの)は七个月(かつき)(おと)りしかは、則(すなはち)額藏(がくざう)を兄(あに)とし、信乃(しの)は再拝(さいはい)して、みづから弟(おとゝ)と稱(せう)しつゝ、共(とも)に歡(よろこ)びを竭(つく)しけり。
 さはれ額藏(がくざう)は上坐(かみくら)にをらず。信乃(しの)又頻(しきり)にすゝむれは、額藏(がくざう)(かうべ)をうち掉(ふり)て、「年(とし)の夛少(たせう)はとまれかくまれ、その才(さえ)をもていへば、おん身(み)こそわが兄(あに)なれ。莫逆(ばくぎやく)をもて兄弟(きやうだい)たり。長少(ちやうせう)の座(ざ)は定(さだ)むべからず。嚮(さき)に告(つげ)たるごとく、わが乳名(をさなゝ)は荘之助(さうのすけ)也。いまだ實名(なのり)をつけられず。おもふにおん身(み)は孝(こう)をもて、一郷(いちごう)に聞(きこ)え給へり。且(かつ)その実名(なのり)は戌孝(もりたか)ならずや。これに由(より)てか彼(かの)白玉(しらたま)に、孝(こう)の字(じ)あるも、寔(まこと)に竒(き)也。又(また)わが玉(たま)には義(ぎ)の字(じ)あり。父(ちゝ)は犬川(いぬかは)衞二(ゑじ)則任(のりたう)といへり。よりてわが乳名(をさなゝ)、荘之助(さうのすけ)の之(の)の字(じ)を省(はぶ)き、犬川(いぬかは)荘助(さうすけ)義任(よしたう)と名告(なの)るべし。しかれどもこれらのよしを、人(ひと)に告(つぐ)べきことにはあらず。只(たゞ)われとおん身(み)とのみ。欲(ほり)する所(ところ)(ぎ)に仗(より)て、名(な)を汚(けが)さじと思ふはいかに」と問(とは)れて信乃(しの)はうち点頭(うなつき)、「名(な)は主人(しゆじん)に従(したが)ふもの也。義任(よしたう)(もつとも)しかるべし。人(ひと)めばかりはなほ額藏(がくざう)と、呼(よ)びもせん呼(よば)れ給へ」といへば莞尓(につこ)とうち笑(えみ)て、「そは勿論(もちろん)の事也かし。おん身(み)とわれと月(つき)をかさねて、起(おき)ぶしを共(とも)にせしかは、陽(うへ)には親(した)しくすべからず。長(をさ)夫婦(ふうふ)に對(むか)ひては、われをり/\おん身(み)を譏(そし)らん。おん身(み)は吾儕(わなみ)を嘲(あざけ)り給へ。かくの如(ごと)くするときは、嫌疑(けんぎ)をその間(あはひ)に置(おか)ず、迭(かたみ)に後(うしろ)やすかりなん。われ既(すで)に聞(きけ)ることあり、その故(ゆゑ)は箇様(かやう)々々(/\)」と糠助(ぬかすけ)が亀篠(かめさゝ)に、賺(すか)されてかへりしとき、蟇(ひき)六がいひつる事、その為体(ていたらく)を詳(つばら)に告(つげ)、「そのとき吾儕(わなみ)は臺子(だいす)の間(ま)に、陽睡(たぬきねふり)して縡(こと)みな聞(きゝ)つ。寔(まこと)におん身(み)の先考(なきちゝきみ)は、人(ひと)をしるの先見(せんけん)(たか)し。行状(ぎやうでう)國士(こくし)無雙(ぶそう)といはまし。をしむべし/\」といひあへず。頻(しきり)に嗟嘆(さたん)したりしかは、信乃(しの)も共(とも)に嘆息(たんそく)し、「吾儕(わなみ)は父(ちゝ)の遺命(いめい)にしたがひ、宝刀(みたち)を護(もり)て、腹(はら)くろき、伯母(をば)の家(いへ)に同居(どうきよ)せば、おん身(み)が資(たすけ)によらずして、宝刀(みたち)を奪(うばゝ)れざること難(かた)し。示(しめ)さるゝ縡(こと)の趣(おもむき)、そのこゝろを得(え)て候」と恭(うや/\)しく諾(うけ)ひしかは、額藏(がくざう)(しばら)く沈吟(うちあん)し、「しからはわれ又(また)おん身(み)とゝもに、久(ひさし)くこゝに在(あら)ん事、後々(のち/\)の為(ため)にわろし。翌(あす)は病(やまひ)に假托(かこつけ)て、一トたび、母屋(おもや)へ皈(かへ)りなん。おん身(み)も中陰(ちういん)(はつ)るをまたず、凡(およそ)三十五日にして、はやく伯母(をば)(ご)に身(み)をよせ給へ。既(すで)に義(ぎ)を結(むす)びては、おん身(み)が父(ちゝ)はわが父(ちゝ)也。けふより心喪(こゝろのも)に服(をり)て、報恩(ほうおん)謝徳(しやとく)の信(まこと)を竭(つく)さん。何(なに)でふ女々(めゝ)しく花(はな)を手向(たむけ)、経(きやう)を誦(よむ)のみ孝(こう)とせんや」と奨(はげま)して、共(とも)に番作(ばんさく)が靈牌(れいはい)を拝(はい)しつゝ、この日の事を告(つぐ)る折(をり)から、跫然(けうぜん)と足音(あしおと)して、外面(とのかた)より來(く)るものありけり。この人(ひと)は誰(た)そ。看官(みるひと)三輯(さんしふ)嗣次(しじ)の日(ひ)を等(まて)。更(さら)に次(つぎ)の巻(まき)の端(はしめ)に觧(とか)なん。
作者(さくしや)(いはく)、予(よ)この巻(まき)を草(さう)するとき、或人(あるひと)(かたへ)より閲(けみ)して、難(なん)じて云(いはく)、信乃(しの)荘助(さうすけ)(ら)、英智(ゑいち)宏才(くわうさい)ありといふとも、原(もと)(これ)黄口(くわうこう)の孺子(じゆし)、その年(とし)いまだ十五に足(た)らず。しかるに智辨(ちべん)(はなはだ)(たか)し。絶(たえ)て童子(どうじ)の氣象(きせう)なし。寓言(ぐうげん)といふとも甚(はなはだ)(すぎ)たり。蓋(けだし)小説(せうせつ)は、よく人情(にんぜう)を鑿(うがつ)をもて、見る人(ひと)(あか)ず。今(いま)この二子(にし)の傳(でん)の如(ごと)きは、情(ぜう)に悖(もと)るにあらずや、といへり。予(よ)(こたへ)ていふ。しからず。蒲衣(ほい)は八才にして、舜(しゆん)の師(し)たり。〓子(やくし)は五歳(さい)にして、禹(う)を佐(たす)く。伯益(はくゑき)五才(さい)にして、火(ひ)を掌(つかさど)り、項〓(こうたく)五歳(さい)にして、孔子(こうし)の師(し)たり。いにしへの聖賢(せいけん)、生(うまれ)ながらにして、明智(めいち)俊才(しゆんさい)、億万(をくまん)(にん)に傑出(けつしゆつ)す。固(もと)より夙(はやく)(さとる)の列(なみ/\)にはあらず。この他(た)の神童(しんどう)(また)(おほ)かり。謝在〓(しやざいこう)(かつて)集録(しふろく)して、一編(いつへん)の文釆(ぶんさい)をなせり。今(いま)毛挙(かぞへあぐ)るに遑(いとま)あらず。『五雜俎(ござつそ)』中(ちう)において見るべし。八犬士(はつけんし)の如(ごと)きも、亦(また)これに亜(つぐ)もの歟(か)。便(すなはち)(これ)(よ)が戲(たはむれ)に、その列傳(れつでん)を作(つく)る所以(ゆえん)也。
(また)いふ。蜑崎(あまさき)十郎輝武(てるたけ)が溺死(できし)は、長禄(ちやうろく)二年(ねん)の事(こと)也。又(また)犬川(いぬかは)荘助(さうすけ)が父(ちゝ)、衞二(ゑじ)が自殺(じさつ)せしは、それより八年(はちねん)を歴(へ)て、寛正(くわんせう)六年(ねん)の事也。しかれども海陸(かいりく)の路(みち)(たえ)て、衞二(ゑじ)が妻(つま)は、輝武(てるたけ)が死(し)をしらず。安房(あは)へ赴(おもむか)んとて、逆旅(ぎやくりよ)に身まかれり。婦幼(ふよう)の疑惑(ぎわく)を觧(とか)ん為(ため)、筆(ふで)の序(ついで)に自評(じひやう)すといふ。

家傳神女湯 一包代百銅 婦人諸病の良剤にして第一産前産後ちのみちに即功ありよのつねのふり出し薬と同からず功のうこの書の前集にくはしく載たれはこゝに畧す
精製竒應丸 偽薬をのぞき去り真物をえらみ家傳のかげんを守りて分量すべて法にしたがひ製法尤つゝしめりこゝをもてその功神の如し別に能書あり今畧之 大包代銀貳朱 中包代壹匁五分 小包代五分 但はした賣不仕候
婦人つぎむしの妙藥 毎月つぎむしにいためらるゝに用ひて即功神のごとし産後のをりものくだりかねたるに用ひて尤よし 壹包六十四銅 半包三十貳銅
製薬并ニ弘所 江戸元飯田町中阪下南側四方みそ店向 瀧澤氏製 [乾坤一草亭]
 取次所 江戸芝神明前いつみや市兵衛 大坂心齋橋筋唐物町かはちや太助
里見八犬傳第二輯巻之五終

編述      著作堂馬琴稿本[乾坤一草亭]
 總巻浄書   千形仲道謄冩
出像      柳川重信繪畫[柳川]
 繍像棗人   朝倉伊八郎刊
○曲亭新著出像國字小説畧目 山青堂開版
美濃舊衣八丈綺談(みのゝふるきぬはちぢやうきだん) 北嵩重宣画 全本五册 お駒才三郎が竒談を作り設け因果の二字をもて局を結べり。実に未曾有の稗説也
南總里見八犬士傳(なんさうさとみはつけんしでん) 柳川重信画 初輯 全五册 甲戌の冬開版賣出しおき申候
朝夷巡嶌記(あさひなしまめぐりのき)初編(しよへん) 歌川豊廣画 全五册 乙亥の春開版うり出しおき申候
里見八犬傳(さとみはつけんでん)第二輯(だいにしふ) 柳川重信画 全五册發行
朝夷巡嶋記(あさひなしまめぐりのき)第二輯(だいにへん) 歌川豊廣画 全五册 近日嗣次開版追々賣出し可申候
里見八犬傳(さとみはつけんでん)第三輯(だいさんしふ) 歌川豊廣画 全五册 來丑の冬月無遅滞賣出し可申候

文化十三年歳次丙子/冬十二月吉日發販
刊行書肆
大坂心齋橋筋唐物町  河内屋太助
江戸馬食町三町目   若林清兵衛
江戸本所松坂町二町目 平林庄五郎
筋違御門外神田平永町 山崎平八


# 『南総里見八犬伝』第二十回 2004-09-29
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