『南總里見八犬傳』第三十回


【本文】
 第(だい)三十回(くわい) 〔芳流閣(はうりうかく)(せう)に信乃(しの)血戦(けつせん)す坂東(ばんとう)河原(かはら)に見八(けんはち)(ゆう)を顕(あらは)す〕

 却説(かくて)その暁(あけ)かたに、近隣(きんりん)の荘客(ひやくせう)、村(むら)の翁等(おきなら)聚来(つどひき)て、事(こと)の趣(おもむき)を問諦(とひあきら)め、或(ある)は問注所(もんちうしよ)へ告訴(こうそ)し、或(ある)は額藏(がくざう)(ら)を、うち護(まも)りをる程(ほど)に天(よ)は明(あけ)て、六月(みなつき)廿日も、はや巳(み)の比及(ころおひ)になりにけり。
 浩処(かゝるところ)に、簸上(ひかみ)宮六(きうろく)が弟(おとゝ)、簸上(ひかみ)社平(しやへい)、軍木(ぬるで)五倍二(ごばいじ)が同僚(あひやく)、卒川(いさかは)菴八(いほはち)(ら)、許夛(あまた)の火兵(くみこ)を將(い)て、荘官(せうくわん)屋敷(やしき)に來(き)つ。荘客(ひやくせう)(ばら)に案内(しるべ)させて、書院(しよいん)の上坐(かみくら)に床几(せうぎ)を立(たて)させ、且(まづ)此彼(これかれ)の死骸(しがい)を展檢(てんけん)し了(をはり)て、額藏(がくざう)(ら)闔宅(やうち)の奴婢(ぬひ)を、悉(こと%\く)(よび)よせて、事(こと)の顛末(てんまつ)を訊問(たづねと)ふに、額藏(がくざう)は、「主命(しゆめい)によりて、一昨(おつゝひ)下総(しもふさ)なる栗橋(くりはし)へ赴(おもむ)き、昨夕(よんべ)更闌(こうたけ)て皈村(きそん)の折(をり)、主人(しゆじん)夫婦(ふうふ)が撃(うた)るゝを見るに忍(しの)びず、當坐(たうざ)に讐(あた)に報(むく)ふといへども、憖(なまじい)に若黨(わかたう)ばらに〓(さゝえ)られ、剰(あまさへ)傍輩(ほうばい)に抑畄(よくりう)せられて、軍木(ぬるで)殿(との)を撃漏(うちもら)し、遺恨(いこん)(かぎり)りなし」といふ。又(また)濱路(はまぢ)左母二郎(さもじらう)(ら)を、追(おふ)たりける僮僕(をとこ)(ども)は、「宮六(きうろく)濱路(はまぢ)が婚縁(こんえん)の事、并(ならび)に昨夕(よんべ)壻入(むこいり)の事、又(また)濱路(はまぢ)は甲夜(よひ)に逐電(ちくてん)せしかば、そを追畄(おひとめ)んとて、僉(みな)彼此(をちこち)へ奔走(ほんさう)し、遂(つひ)に得(え)(およば)ずしてかへる折(をり)、衡門(かぶきもん)のほとりにて、額藏(がくざう)が血刀(ちかたな)を引提(ひさげ)て、走(はし)り出(いづ)るに撞見(ゆきあひ)ければ、うち驚(おどろ)きて推畄(おしとめ)たるのみ。蟇六(ひきろく)夫婦(ふうふ)が撃(うた)れし事も、又(また)額藏(がくざう)が陣代(ぢんだい)を害(がい)せし事も、一切(つや/\)これをしらず」といへり。
 當下(そのとき)社平(しやへい)は声(こゑ)をふり立(たて)、「かゝれば額藏(がくざう)が申状(まうしでう)、始終(しゞう)(はなはだ)胡乱(うろん)也。われ既(すで)に実(じつ)を得(え)たり。彼奴(かやつ)は亀篠(かめさゝ)が甥(おひ)なりとか聞(きこ)えたる、犬塚(いぬつか)信乃(しの)を竊(ひそか)に資(たすけ)て、主(しゆう)の女児(むすめ)を盗出(ぬすみいだ)し、更(さら)に間戻(こもどり)して、主(しゆう)の金銭(きんせん)衣裳(いせう)なンどを、盗去(ぬすみさら)んとする程(ほど)に、あるじ夫婦(ふうふ)に咎(とがめ)られ、已(やむ)ことを得(え)ず、蟇六(ひきろく)亀篠(かめさゝ)を〓殪(きりたふ)して、逃去(のがれさ)らんとせし折(をり)に、わが兄(あに)宮六(きうろく)は、属役(しよくやく)五倍二(ごばいじ)共侶(もろとも)に、品革(しなかは)(はま)へ遠足(ゑんそく)のかへるさ、たま/\湯(ゆ)を乞(こは)んとて、蟇六(ひきろく)(がり)(たち)よりつゝ、不意(ふゐ)を撃(うた)れて命(いのち)を隕(おと)し、若黨(わかたう)さへに害(がい)せられて、五倍二(ごばいじ)一人ン脱(のが)れ去(さ)れり。こは五倍二(ごばいじ)が、告訴(こうそ)の趣(おもむき)にして、実説(じつせつ)とするに足(た)れり。いかにとなれば、年来(としごろ)(むら)の戸帳(とちやう)に載(のせ)たる、犬塚(いぬつか)信乃(しの)がをらずなりしは、第一(だいゝち)の不審(ふしん)也。又(また)わが兄(あに)宮六(きうろく)が濱路(はまぢ)を娶(めと)るなンどいふは、究(きは)めたる虚言(そらこと)也。いかにとなれば、陣代(ぢんだい)は嚴官(げんくわん)也、村長(むらおさ)は卑職(ひしよく)也。この婚縁(こんえん)相応(ふさはし)からず。况(まいて)城主(ぜうしゆ)の免許(めんきよ)を請(こは)ずして、壻入(むこいり)すといふ事あらんや。加旃(しかのみならず)、昨夕(よんべ)圓塚(まるつか)の山中(やまなか)にて、網乾(あぼし)左母二郎(さもじらう)(ら)、すべて四人ンを〓殺(きりころ)して、怪(あや)しき榜(ふだ)を建(たて)たるものあり。これも亦(また)、信乃(しの)(か)額藏(がくざう)(め)が所為(わざ)にして、件(くだん)の濱路(はまぢ)は、左母二郎(さもじらう)に、害(がい)せられたりといはする、底(そこ)ふかき伎倆(たくみ)なるべし。且(かつ)下郎(げらう)の分際(ぶんざい)にて、陣代(ぢんだい)を害(がい)する事、律(りつ)において大逆(だいぎやく)たり。何(なに)ぞ仇討(あたうち)といふよしあらんや。われ今(いま)彼奴(かやつ)を八〓(やつさき)にして、兄(あに)の怨(うらみ)を復(かへ)さんことは、かたくもあらぬ所行(わざ)なれども、いまだ主君(しゆくん)の免許(めんきよ)を得(え)ずして、私怨(しゑん)を報(むく)ふによしなし。よりて宮(きう)六が亡骸(なきから)をとり斂(おさ)め、且(かつ)その讐(あた)を搦捕(からめとら)ん為(ため)に、卒川(いさかは)(うぢ)を相伴(あひともな)へり。はやく額藏(がくざう)(め)を縛(いまし)めよ」と威勢(いきほひ)(たけ)く下知(げぢ)すれば、承(うけ給は)る、と応(いらへ)もあへず、群立(むらたち)かゝる夥兵(くみこ)(ら)を、〓(さゝゆ)る額藏(がくざう)(ちつと)も騒(さは)かず、「そは殿原(とのばら)の仰(おふせ)とも覚(おぼえ)候はず。犬塚(いぬつか)信乃(しの)は一昨(おつゝい)の暁(あかつき)、許我(こが)へとて起立(たびたち)ぬ。衆人(もろひと)のしる所(ところ)也。當坐(たうざ)の羞(はぢ)を暗(くろ)めんとて歟(か)、鷺(さぎ)を烏(からす)と宣(のたま)ふとも、蟇六(ひきろく)夫婦(ふうふ)が横死(わうし)の事は、婢女(をんな)どもこそよく知(しり)たれ。忠義(ちうぎ)に貴賎(きせん)の差別(さべつ)なし。主人(しゆじん)の讐(あた)を撃(うち)たりとて、大逆(だいぎやく)とせられては、縛(いましめ)を受(うけ)かたし。夥(あまた)の證人(せうにん)ありながら、臆断(おくだん)をもてせられんは、甘心(かんしん)せざる所(ところ)也。さでも公道(おほやけ)なるべきや」と理(ことわり)(せめ)たる大勇(たいゆう)に、夥兵(くみこ)(ら)は手(て)を下(くだ)し得(え)ず、阿容(おめ)々々(/\)として護(もり)てをり。これにより菴(いほ)八は、婢女(をんな)(ばら)を推並(おしならば)して、その夜(よ)の為体(ていたらく)を訊問(たづねと)ふに、僉(みな)社平(しやへい)が氣色(けしき)におそれて、果敢(はか)々々(/\)しく回答(いらへ)せず、しば/\問(とは)れて一両人(いちりやうにん)、太刀(たち)(おと)のおそろしさに、背門(せど)より逃去(にげさり)(はべ)りしかば、すべては知(し)らずと答(こたへ)けり。社平(しやへい)(きゝ)て冷笑(あざわら)ひ、「さればこそ蟇六(ひきろく)(ら)が、害(がい)せらるゝを見たるものなし。そを證人(せうにん)とするよしあらんや。彼奴(かやつ)いたく鞭(むちうた)ずは、いかでかは実(じつ)を吐(はか)ん。とく縛(いまし)めよ」と焦燥(いらたつ)(をり)から、簀子(すのこ)の下(した)に人(ひと)ありて、〓(うめ)く声(こゑ)してければ、衆皆(みな/\)驚怪(おどろきあやし)みつゝ、三四人ンをり立(たち)て、軈(やが)て引出(ひきいだ)して見るに、是(これ)(すなはち)別人(べつじん)ならず、蟇(ひき)六が老僕(おとな)背介(せすけ)也。昨夕(よんべ)五倍二(ごばいじ)に小〓(こびん)を〓(き)られて、簀(すの)子の下(した)へ滾入(まろびい)り、遂(つひ)に息絶(いきたえ)たるか、今(いま)(やうやく)に甦生(そせい)して、幽(かすか)に声(こゑ)を立(たて)たる也。僮僕(をとこ)(ども)はこの為体(ていたらく)に、復(また)(おどろか)ざるものもなく、「昨夕(よんべ)和主(わぬし)がかへらねば、もし野狐(のきつね)に魅(ばか)されずや、とそこら一遍(いつへん)(たづ)ねたり。いかにして痍(て)を負(おふ)たる。縁由(ことのよし)を申あげよ。あな鈍(おぞ)ましや」と勦(いたは)りつゝ、縁頬(えんかは)へ推上(おしのぼす)れば、菴(いほ)八間近(まちか)く立(たち)よりて、そのいふよしを糺明(きうめい)するに、背介(せすけ)は、「昨夕(よんべ)傍輩(ほうばい)に先(さき)たちてかへり來(き)つ。蟇(ひき)六夫婦(ふうふ)が撃(うた)るゝ折(をり)、しらずして縁頬(えんかは)より、書院(しよいん)の障子(せうじ)を開(あけ)しかば、五倍二(ごばいじ)に小〓(びん)を〓(き)られて、仰(のけ)ざまに滾落(まろびおち)、そがまゝ簀子(すのこ)の下(した)に躱(かく)れて、額藏(がくざう)が仇(あた)を撃(うち)たる、為体(ていたらく)はよくしれり。かゝりし程(ほど)に金瘡(たちきず)(いた)みて、その後(のち)の事を覚(おぼえ)ず。但(たゞ)簸上(ひかみ)殿(との)軍木(ぬるて)殿(どの)に、あるじ夫婦(ふうふ)が撃(うた)れし事は、一定(いちじやう)相違(さうゐ)なし」といひけり。
 既(すで)にこの證人(せうにん)あれば、社平(しやへい)は今(いま)さらに、誣(しひ)かたかるべき事なるに、さもなくて、菴(いほ)八にうち對(むか)ひ、「衆人(もろひと)はしらずして、獨(ひとり)背介(せすけ)が側杖(そばつゑ)(うた)れ、闘諍(たうじやう)の為体(ていたらく)を、見きといふは訝(いぶか)しからずや。虚実(きよじつ)は夛聞(たぶん)によるものを、渠(かれ)一人ンを證(あかし)としがたし。察(さつ)するに背介(せすけ)(め)も、額藏(がくざう)が支黨(どうるい)ならん。さは思ひ給はずや」といへば菴(いほ)八異議(ゐぎ)もなく、「現(げに)さる事も候はん。且(まづ)額藏(がくざう)(ら)を禁獄(きんごく)して、事(こと)の趣(おもむき)を、鎌倉(かまくら)へ聞(きこ)えあげ、尉(ぜう)の殿(との)〔大石(おほいし)兵衛尉(ひやうゑのぜう)をいふ。この時(とき)なほ在(さい)鎌倉(かまくら)也。〕のおん下知(げぢ)に任(まか)すべし。かゝれば退(まか)りて老輩(ろうはい)と商量(だんかふ)し、舎兄(しやけう)の為(ため)に恥(はぢ)を雪(きよ)め、貴所(きしよ)の為(ため)に怨(うらみ)をかへす、そのよしなしとすべからず。こゝにて是非(しひ)を論(ろん)せんは、なか/\に外聞(ひときゝ)わろし、且(まづ)穏便(おんびん)に退(まかり)給へ」と耳語(さゝやき)(こび)て和觧(なだめ)けり。これにより、社平(しやへい)は准備(こゝろがまへ)の轎子(のりもの)に、兄(あに)宮六(きうろく)が亡骸(なきから)を扛乗(かきのせ)させて、彼(かの)若黨(わかたう)が死骸(しがい)共侶(もろとも)宿所(しゆくしよ)へ遣(つかは)し、又(また)額藏(がくざう)には〓(てかせ)を被(か)け、背介(せすけ)を〓(はんだ)にうち乗(の)せて、荘客(ひやくせう)(ら)に舁(かゝ)しつゝ、卒川(いさかは)(いほ)八共侶(もろとも)に、城(しろ)の問注所(もんちうしよ)を投(さし)てかへり去(さ)れば、夥兵(くみこ)(ら)は額藏(がくざう)を牽立(ひきたて)て、後(あと)に従(したが)ひ、先(さき)に立(たち)、陸續(りくぞく)として退(まか)りけり。
 話分両頭(ものかたりふたつにわかる)。さる程(ほど)に、犬塚(いぬつか)信乃(しの)戌孝(もりたか)は、十九日の朝(あさ)まだきに、栗橋(くりはし)の驛(うまやぢ)にて額藏(がくざう)と袂(たもと)をわかち、幾里(いくり)もあらで許我(こが)に赴(おもむ)き、城下(ぜうか)の町(まち)に旅宿(りよしゆく)を卜(さだめ)て、御所(ごしよ)の案内(あんない)を問究(とひきは)め、執權(しつけん)横堀(よこほり)(ふひと)在村(ありむら)が第(やしき)にいゆきて、名簿(めうぶ)を投(いた)し、由緒(ゆいしよ)を述(のべ)、亡父(ぼうふ)犬塚(いぬつか)番作(ばんさく)が遺訓(いくん)に隨(したが)ひ、昔(むかし)御所(ごしよ)の兄君(いろねきみ)、春王(しゆんわう)殿(との)より預(あづか)り奉(たてまつ)りたる、村雨(むらさめ)の宝刀(みたち)を將(い)て、推参(すいさん)せし事(こと)の趣(おもむき)、則(すなはち)執次(とりつぎ)の若黨(わかたう)によりて、愁訴(しうそ)してけり。かくて俟(まつ)こと稍(やゝ)(ひさしう)して、在村(ありむら)(いで)て對面(たいめん)し、なほその父祖(ふそ)の由緒(ゆいしよ)と、軍功(ぐんこう)を糺明(たゞしあきら)め、「御所(ごしよ)ざま〔成氏(なりうぢ)をいふ。〕鎌倉(かまくら)に在(ゐま)せし比(ころ)、持氏(もちうぢ)朝臣(あそん)の舊臣(きうしん)、結城(ゆふき)にて討死(うちしに)せしものゝ、子孫(しそん)を悉(こと%\く)(め)されし折(をり)、番作(ばんさく)は得(え)(まゐ)らず、宝刀(みたち)さへに披露(ひろう)せざりしは、いかなる故(ゆゑ)ぞ」と詰問(なじりと)ふに、信乃(しの)は親(おや)番作(ばんさく)が深痍(ふかて)によりて、遂(つひ)に廃人(はいじん)となりし事、又(また)伯母夫(をばむこ)大塚(おほつか)蟇六(ひきろく)が事を告(つげ)て、遅参(ちさん)の疑(うたが)ひをいひ釋(とく)に、その辨論(べんろん)(さはやか)にして、敢(あへて)伯母(をば)と伯母夫(をばむこ)の奸悪(かんあく)を顕(あらは)さず。又(また)(たゞ)亡父(ぼうふ)の義氣(ぎゝ)を隱(かく)さず。言寡(ことすくなう)して條(すぢ)よく融(とほ)り、趣意(しゆゐ)(こま)やかにして、聞(きこ)えざることなし。在村(ありむら)は、その才幹(さいかん)に驚(おとろき)て、こゝろにこれを忌(いむ)といへども、さて已(やむ)べきにあらざれば、霎時(しばし)沈吟(うちあん)していふやう、「由緒(ゆいしよ)かくの如(ごと)くにして、持参(ぢさん)の宝刀(みたち)相違(さうゐ)なくは、なほ老臣(ろうしん)(ら)と相譚(かたらふ)て、近日(きんじつ)御所(ごしよ)ざまに聞(きこ)えあげん。旅舘(りよくわん)に退(まか)りて俟(まち)さむらへ」といふにやうやく安堵(おちゐ)たる、信乃(しの)は唯々(ゐゝ)として領承(れうぜう)し、軈(やが)て客店(はたごや)に立(たち)かへれば、その日(ひ)は既(すで)に暮(くれ)にけり。
 かくてその詰旦(あけのあさ)、信乃(しの)は忽地(たちまち)に思ふやう、村雨(むらさめ)は名刀(めいたう)なれば、先考(わがちゝ)年来(としごろ)、これを巨竹(おほたけ)の〓(つゝ)に藏(おさ)めて、梁(うつばり)に掛(かけ)給ひしか共、一点(つゆ)ばかりも錯(さび)たる事なし。大人(うし)の身(み)まかり給ひては、われ亦(また)年来(としごろ)(こし)に帶(おび)、枕(まくら)に建(たて)て盗難(とうなん)に、あはじと思ひしのみにして、抜試(ぬきこゝろみ)る事なかりき。さればとて、今(いま)許我(こが)殿(との)へ進(まゐ)らするに、刃(やいば)の塵埃(ほこり)をも拭(ぬぐは)ざらんは、准備(こゝろがまへ)なきに似(に)たり。かくは旅宿(たびね)の徒然(つれ/\)なるに、よき手(て)すさみにこそと思ふ、傍(かたへ)に人(ひと)のなき隨(まゝ)に、やをら障子(せうじ)を引閉(ひきたて)て、床柱(とこはしら)のほとりに坐(ざ)を占(し)め、件(くだん)の大刀(たち)を左手(めて)に拿(とり)て、まづ鞆糸(つかいと)の塵埃(ほこり)を拂(はら)ひ、しづかに〓(さや)を推拭(おしぬぐ)ひ、引抜(ひきぬ)きて刃(やいば)を見るに、村雨(むらさめ)にはあらざりけり。是(これ)はいかに、と驚(おどろ)きつゝ、又(また)とり直(なほ)して熟視(つら/\み)るに、その長短(ちやうたん)は等(ひと)しけれども、焼刃(やきは)は無下(むげ)に似(に)るべくもあらず。思ひかけなき事なれば、胸(むね)うち騒(さわ)ぎて駐(とゞま)らず。又(また)つく/\と想像(おもひや)るに、われこの大刀(たち)を片〓(かたとき)も、傍(かたへ)に置(おか)ざる時(とき)もなく、腰(こし)に帶(おび)ざる日(ひ)もなかりしに、いかにして搨替(すりかえ)られけん。それ歟(か)と思ひあはするは、神宮河(かにはかは)の舩中(せんちう)のみ、荘官(せうくわん)が網(あみ)につられて、水中(すいちう)へ陥(おちい)りしは、われを害(がい)せん為(ため)のみならで、左母二郎(さもじらう)さへ相譚(かたらは)れ、わが荘官(せうくわん)を救(すくは)んとて、続(つゞき)て水(みづ)に入(い)りしとき、独(ひとり)彼奴(かやつ)は舩(ふね)に在(あ)り。そのとき搨替(すりかえ)たるならん。彼(かの)左母二郎(さもじらう)が人(ひと)となり、遊藝(ゆうげい)歌曲(かきよく)をよくするのみ、武器(ぶき)を好(このめ)るものならず、と日(ひ)ごろ思へば、由断(ゆだん)して、その折(をり)(やいば)を抜(ぬき)ても見ず、且(かつ)夜間(よは)の事(こと)にして、荘官(せうくわん)の入水(じゆすい)を救(すく)ひし、事(こと)に紛(まぎ)れて疑(うたが)はず。その宵(よ)よりきのふまで、わが一身(いつしん)の進退(しんたい)に、他事(たじ)を見かへる遑(いとま)なければ、事(こと)(つひ)にこゝに及(およ)べり。唯(たゞ)前門(ぜんもん)に虎(とら)を禦(ふせぎ)て、後門(こうもん)より狼(おほかみ)を、進(すゝ)めらるをしらざりしは、われながら愚(おろか)也。既(すで)に宝刀(みたち)を喪(うしな)ひては、父(ちゝ)に不孝(ふこう)の子(こ)なるべく、君(きみ)に不忠(ふちう)の臣(しん)たるべし。こは何(なに)とせん、とばかりに、怒(いか)れる眼光(まなさし)(すさま)じく、刃(やいば)を撲地(はた)と擲(なげうち)て、腸(はらわた)を断(たつ)遺恨(いこん)後悔(こうくわい)、よにせんすべはなかりけり。かくてあるべきにあらざれば、刃(やいば)を〓(さや)に納(おさ)めつゝ、數回(あまたゝび)歎息(たんそく)し、宝刀(みたち)は贋物(にせもの)なる事を、しらざりし日(ひ)はすべもなし。今(いま)その事を知(しり)ながら、許我(こが)殿(との)の召(めし)を俟(また)ば、われ亦(また)貴人(きにん)に偽(いつは)る也。はやく訴(うつたへ)まうさんとて、櫛笥(くしげ)をとう出(で)て、〓(びん)を掻拊(かきなで)、袴(はかま)の紐(ひも)を結(むす)びあへず、両刀(りやうたう)を跨(よこたへ)て、出立(たちいで)んすする程(ほど)に、忽地(たちまち)城中(ぜうちう)より、横堀(よこほり)在村(ありむら)が使(つかひ)(きた)れり。信乃(しの)はいよ/\安(やす)からず、軈(やが)て對面(たいめん)するに、使(つかひ)は若黨(わかたう)両人(りやうにん)也。奴隷(しもべ)を招(まね)きて、柳筥(やないはこ)より、一領(ひとかさね)の衣裳(いせう)をとう出(で)て、これを信乃(しの)に進(すゝ)めていふやう、「此度(こだみ)進上(しんぜう)せらるゝ宝刀(みたち)の事、今日(こんにち)老臣(ろうしん)(たち)の一覧(いちらん)を歴(へ)て、御所(ごしよ)の見参(けんざん)に入(い)るべければ、速(すみやか)に登営(とうゑい)し給へ、よりて時装(じそう)一領(ひとかさね)を賜(たまは)るものなり。横堀(よこほり)殿(との)の指揮(さしづ)によりて、おん迎(むかへ)に來(きた)れり。とく/\出(いで)給へ」といふ。信乃(しの)(きゝ)て承諾(せうだく)し、「仰(あふせ)(うけ給は)り候ひぬ。某(それがし)も亦(また)申上べき事あれば、横堀(よこほり)殿(との)まで参(まゐ)らんとて、旅店(りよてん)を出(いづ)る折(をり)にこそあれ。聊(いさゝか)思ふ旨(むね)あれば、賜(たま)ものゝ衣裳(いせう)は、且(しばら)く領(あづ)け奉(たてまつ)らん、誘(いざ)給へ」といひかけて、遽(あはたゝ)しく走(はし)り出(いづ)れは、使(つかひ)の若黨(わかたう)奴隷(しもべ)(ら)は、こゝろ得(え)かたく思ひつゝ、喘々(あへぎ/\)ぞ従(したが)ひける。
 さる程(ほど)に犬塚(いぬつか)信乃(しの)は、頻(しきり)に進(すゝみ)て、在村(ありむら)が第(やしき)に赴(おもむ)き、あるじの對面(たいめん)を請(こひ)にけれども、はや登営(とうゑい)して、宿所(しゆくしよ)に在(あ)らず。せんすべなさに又(また)(さら)に、件(くだん)の若黨(わかたう)に導(みちび)きせられて、営中(ゑいちう)へ参(まゐ)る程(ほど)に、今(いま)は衣裳(いせう)を更(かえ)ざらんも、不敬(ふけい)なるべし、と思ふになん、局(つぼ)のほとりにて、彼(かの)礼服(れいふく)に更(あらた)めつゝ、こゝより謁者(まうしつぎ)の甲乙(たれかれ)に〓(しるべ)せられて、遠侍(とほさむらひ)に赴(おもむ)けば、縡(こと)はや嚴重(げんぢう)にして、在村(ありむら)が在(をる)ところをしらず。この故(ゆゑ)に、信乃(しの)は宝刀(みたち)紛失(ふんしつ)の趣(おもむき)を、訴(うつたふ)るによしなくて、いよゝ心(こゝろ)を苦(くるし)めけり。
(しばらく)して件(くだん)の謁者(まうしつぎ)(ら)、又(また)信乃(しの)を〓(しるべ)して、瀧見(たきみ)の間(ま)に赴(おもむ)けば、上壇(ぜうだん)に翠簾(みす)を垂(たれ)て、成氏(なりうぢ)朝臣(あそん)の〓(しとね)を儲(まうけ)、そが下(もと)に、横堀(よこほり)(ふひと)在村(ありむら)、その他(た)の老臣(ろうしん)侍坐(ぢざ)したる、左右(さゆう)には、夥(あまた)の近臣(きんしん)(ゐ)ながれたり。又(また)廊下(ほそとの)の邊(ほとり)には、身甲(はらまき)したる武士(ぶし)(す)十人ン、齊々(せい/\)として非常(ひじやう)を警(いまし)め、整々(せい/\)として列(なみ)を正(たゞ)せり。その為体(ていたらく)、いと晴(はれ)がましく見えたりける。
 既(すで)にして、成氏(なりうぢ)著座(ちやくざ)し給ひつ、いまだ翠簾(みす)をば揚(あげ)られず。當下(そのとき)横堀(よこほり)在村(ありむら)は、遥(はるか)に信乃(しの)にうち對(むか)ひ、「結城(ゆふき)の城(しろ)にて戦歿(うちしに)の舊臣(きうしん)、大塚(おほつか)匠作(せうさく)三戌(みつもり)が孫(まご)、犬塚(いぬつか)信乃(しの)、その亡父(ぼうふ)番作(ばんさく)が遺言(いげん)に隨(したが)ひ、當家(たうけ)の什宝(しうほう)、村雨(むらさめ)の一ト刀(こし)を献(たてまつ)る事、神妙(しんめう)に思召(おぼしめ)さる。且(まづ)吾們(わがともがら)一見(いつけん)すべし。大刀(たち)を進(まゐ)らせ候へ」といはれて信乃(しの)は一期(いちご)の浮沈(ふちん)、と思へど騒(さわ)がず頭(かうべ)を擡(もたげ)、「さン候件(くだん)の宝刀(みたち)は、年来(としころ)(ぬす)みとらんとて、隙(ひま)を窺(うかゞ)ふもの候ひき。かくて某(それがし)、今朝(けさ)しも刃(やいば)を拭(ぬぐは)んとて、引抜(ひきぬき)見れば浅(あさ)ましや、舊(もと)の刃(やいば)にあらずして、いつの程(ほど)にか搨替(すりかえ)られたり。思ひかけなき事なれば、且(かつ)(おどろ)き且(かつ)(くひ)て、臍(ほぞ)を噬(かめ)どもその甲斐(かひ)なし。よりてはやくこの事を訟(うつたへ)申スべき為(ため)に、推参(すいさん)せんと思ふ折(をり)、おん使(つかひ)を給はりて、慚愧(ざんぎ)に堪(たへ)ず、所存(しよぞん)齟齬(そご)せり。あはれ數日(すじつ)の宥免(ゆうめん)を蒙(かうむ)りて、失(うせ)たる宝刀(みたち)を穿鑿(せんさく)せば、とり復(かへ)さゞることはあらじ。この義(ぎ)を願(ねが)ひ奉(たてまつ)る」といはせも果(はて)ず在村(ありむら)は、忽地(たちまち)(いか)れる声(こゑ)をふり立(たて)、「そは甚(はなはだ)しき麁忽(そこつ)也。失(うせ)たりといふ證据(せうこ)はあらじ、いかにぞや」と敦圉(いきまき)(せめ)たる、氣色(けしき)に信乃(しの)は些(ちつと)も臆(おく)せず、「おん疑(うたが)ひは理(ことわり)也。遠侍(とほさむらひ)に閣(さしお)きたる、某(それがし)が持参(ぢさん)の一ト刀(こし)、取(とり)よせて御覧(ごらん)せよ。その刃(やいば)こそ村雨(むらさめ)ならね、鍔(つば)も〓(めぬき)も縁頭(ふちかしら)も、その表裝(こしらへ)は舊(もと)の侭(まゝ)也。これ搨(すり)かえられたる證(あかし)にこそ」といふをば聽(き)かで冷笑(あざわら)ひ、「嘉吉(かきつ)より今(いま)に至(いたり)て、はや四十年(ねん)に近(ちか)し、六七十(むそぢなゝそぢ)の翁(おきな)ならずは、よく認(みし)るもの稀(まれ)ならん。只(たゞ)その證(あかし)とすべきものは、刃(やいば)より立(た)つ水氣(すいき)のみ。思ふに這奴(しやつ)は敵(てき)がたの、間諜者(まはしもの)に疑(うたが)ひなし、とく生拘(いけと)れ」と焦燥(いらたて)ば、廊下(ほそとの)に列坐(なみゐ)たる、夥(あまた)の力士(りきし)群立(むらたつ)たり。信乃(しの)は横堀(よこほり)在村(ありむら)が、漫(そゞろ)に權(けん)を弄(もてあそ)びて、賞罰(せうばつ)を己(おの)がまゝにし、人(ひと)を容(い)るゝの器量(きりやう)なきに、われ阿容(おめ)々々(/\)と虜(とりこ)にならば、竟(つひ)に渠(かれ)が手(て)に死(し)なん。脱去(のがれさ)らばや、と思ひしかば、組(くま)んと競(きそ)ふ力士(りきし)(ら)を、右(みぎ)に〓(さゝ)え、左(ひだり)に投退(なげのけ)、後(うしろ)にたつをば丁(ちやう)と蹴倒(けたふ)し、飛鳥(ひちやう)の如(ごと)く身(み)を働(はたらか)して、ほとりへもよせ附(つけ)ず。翠簾(みす)の内(うち)には成氏(なりうぢ)朝臣(あそん)、その性烈(さがはげ)しき短慮(たんりよ)の大將(たいせう)、〓(しとね)を蹴放(けはな)ち、身(み)を起(おこ)して、彼(あれ)撃畄(うちとめ)よ、と下知(げぢ)し給へば、承(うけ給は)る、と夥(あまた)の近臣(きんしん)、おの/\刃(やいば)を抜翳(ぬきかざ)して、透間(すきま)もなく攻撃(せめうち)たる、白刃(しらは)の下(した)をかい潜(くゞ)る、信乃(しの)は畳薦(たゝみ)を蹴揚(けあげ)つゝ、篭楯(こだて)を取(とり)て防(ふせ)ぎ畄(とめ)、隙(ひま)を揣(はか)りて飛(とび)かゝり、先(さき)に進(すゝ)みし一人ンが、刃(やいば)を奪(うば)ふて〓殪(きりたふ)し、なほ八方(はつはう)へ撃靡(うちなび)けて、十餘人(よにん)に痍(て)を負(おは)せ、八九人ンを〓伏(きりふ)せて、廣庭(ひろには)に跳出(おどりいで)、軒端(のきば)の松(まつ)を木傳(こつた)ふて、閃(ひら)りと屋上(やね)に飛登(とびのぼ)れば、或(あるひ)は鎗(やり)を突揚(つきあげ)て、蛭巻(ひるまき)より〓断(きりをら)れ、或(あるひ)は矢庭(やには)に追登(おひのぼ)りて、深痍(ふかて)を負(おひ)つゝ一ト雪崩(なだれ)に、滾落(まろびおつ)るも夛(おほ)かりけり。暫時(ざんじ)の闘戦(たうせん)その甲斐(かひ)なく、信乃(しの)一人ンに〓立(きりたて)られて、血(ち)は〓鹿(たくろく)の野(や)を浸(ひた)し、屍(かばね)は朝歌(ちやうか)に累々(るい/\)たり。信乃(しの)も浅痍(あさて)を負(おふ)たりければ、鮮血(ちしほ)を畷(すゝり)て咽喉(のんど)を潤(うるほ)し、屋根(やね)より屋根(やね)にうち登(のぼ)りて、脱去(のがれさ)るべき方(みち)を揣(はか)るに、要害(えうがい)の物見(ものみ)とおぼしき、三層(さんそう)の樓閣(ろうかく)ありけり。
 これは是(これ)、遠見(とほみ)の為(ため)に建(たて)られて、芳流閣(はうりうかく)と名(な)つけたり。信乃(しの)は脱(のが)るゝ路(みち)を見んとて、辛(からう)じて攀登(よぢのぼ)れば、城溝(そとほり)は渺々(びやう/\)たる
【挿絵】「君命(くんめい)によつて見八(けんはち)信乃(しの)を搦捕(からめとら)んとす」「犬飼見八」「犬塚信乃」
大河(たいが)にして、流(ながれ)を閣(かく)の下(もと)に引(ひき)たる、水際(みきは)に快船(はやふね)を繋(つな)ぎたり。こは俗(よ)に坂東(ばんとう)太郎(たらう)と唱(とな)へて、八州(はつしう)第一番(だいゝちばん)の大河(だいが)たり。その下流(すゑ)は葛飾(かつしか)なる、行徳(ぎやうとこ)の浦曲(うらわ)より、巨海(こかい)に朝(ちやう)する咽喉(のどくび)たり。更(さら)に後方(あとべ)を見かへれば、是首(ここ)の廣庭(ひろには)、彼首(かしこ)の城戸(きと)に、数百(すひやく)の士卒(しそつ)(たむろ)して、射(い)て落(おと)さんと弓杖(ゆんつゑ)(たて)たり。進退(しんたい)ほと/\究(きはま)りつ、よき敵(てき)あらば登(のぼ)りも來(こ)よ、組(くみ)て戦歿(うちしに)せんものを、と思ふ外(ほか)他事(たじ)なかりけり。さる程(ほど)に、前(さきの)管領(くわんれい)成氏(なりうぢ)は、夥(あまた)の士卒(しそつ)を撃(うた)せつゝ、ます/\怒(いか)りて力士(りきし)を聚會(つどへ)、「信乃(しの)を搦捕(からめと)るものには、加恩(かおん)(せん)貫文(くわんもん)を賜(たまは)るべし」とおちもなく徇(ふれ)させたれども、彼(かの)武藝(ぶげい)に看懲(みこり)して、承(うけ給は)らんといふものなし。
 當下(そのとき)執權(しつけん)在村(ありむら)は、成氏(なりうぢ)に稟(まう)すやう、「獄吏(ひとやつかさ)、犬飼(いぬかひ)見八(けんはち)信道(のぶみち)は、おん抜萃(とりたて)の職役(しよくやく)を固辞(いなみ)まうし、〓(あまさへ)(しひ)て身(み)の暇(いとま)を乞(こひ)(たてまつ)りし咎(とが)により、月(つき)ごろ禁獄(きんごく)せられたり。渠(かれ)は、古人(こじん)二階松(にかいまつ)山城介(やましろのすけ)が武藝(ぶげい)允可(いんか)の高弟(こうてい)にて、就中(なかんつく)捕物(とりもの)拳法(やはら)は、本藩(ほんはん)無双(ぶそう)の力士(りきし)也。且(しばら)くその罪(つみ)を寛(なだ)めて、信乃(しの)を搦捕(からめとら)せ給へ。その功(こう)(な)らば、見八(けんはち)が死罪(しざい)を赦(ゆる)さん。又(また)信乃(しの)に撃(うた)るゝ共、惜(をし)むべきものにあらず。この議(ぎ)はいかゞ」と真(まめ)たちて、薦(すゝめ)まうせば、うち頷(うなつ)き、「汝(なんぢ)が意見(いけん)(きはめ)てよし。とく/\」と仰(おふ)するにぞ、在村(ありむら)は時(とき)を移(うつ)さず、件(くだん)の犬飼(いぬかひ)見八(けんはち)を、獄舎(ひとや)より牽出(ひきいだ)させて、その縛(いましめ)を釋放(ときゆる)し、君命(くんめい)を述傳(のべつた)へて、大刀(たち)、身甲(はらまき)、肱盾(こて)、臑盾(すねあて)に、十手(じつて)を添(そえ)て取(とら)せにければ、見八(けんはち)(いら)ふ氣色(けしき)なく、謹(つゝしん)で領承(れうせう)し、犇々(ひし/\)と鎧(よろ)ひつゝ、居縮(ゐすく)まりたる足踏(あしふみ)(こゝろ)み、在村(ありむら)に辞別(ぢべつ)して、三間(さんけん)階子(はしこ)を走登(はしりのぼ)るに、猴(ましら)の杪(こすゑ)を傳(つた)ふが如(ごと)し。孫廂(まごひさし)のあなたより、芳流閣(はうりうかく)の筥棟(はこむね)に、血刀(ちかたな)引提(ひさげ)て立(たつ)たる信乃(しの)を、遥(はるか)にうち瞻(み)て、些(ちつと)も擬議(ぎき)せず。雲(くも)を凌(しのげ)る樓閣(ろうかく)の、甍(いらか)を踏(ふみ)て進(すゝ)む程(ほど)に、成氏(なりうぢ)は、在村(ありむら)(ら)老黨(ろうだう)近習(きんじゆ)(あまた)(い)て、廣庭(ひろには)に床几(せうぎ)を立(たて)させ、うち仰(あほ)ぎ瞻(み)つ、主従(しゆう/\)は、〓(あやぶま)ざるものなかりけり。畢竟(ひつきやう)犬塚(いぬつか)犬飼(いぬかひ)両雄(りやうゆう)の勝負(せうぶ)如何(いかん)。そは編(へん)を嗣(つ)ぎ、巻(まき)を更(かえ)て、第(だい)(し)(しふ)の端(はじめ)に觧(とか)ん。出像(さしゑ)を観(み)て餘韻(よいん)を味(あぢは)ふべし。
里見八犬傳第三輯巻之五終

編述 曲亭馬琴稿本[乾坤一草亭]
淨書 千形仲道謄冩[中蹊]
出像 柳川重信繪画[柳川]
棗人 中村喜作
家傳神女湯 一包代百銅 婦人諸病の良剤にして第一産前産後ちのみちに用ひてその功神の如し又うちみによし手おひに用ひて急へんをすくふべしくはしくは包紙にしるせり
精製竒應丸 偽薬をのぞき去り真物をえらみ家傳の加げんをもつて分量すべて法にしたがひ製方尤つゝしめりこゝをもてその功神の如し別に能書あり今畧ス之ヲ 大包二百粒餘入代弐朱 中包三十六粒入代壱匁五分 小包十一粒入代五分
婦人つぎむしの妙薬 毎月つぎむしにいためらるゝに即効あり又産後をり物くだりかねたるによし 壱包代六十四銅 半包代三十二銅
製藥弘所 江戸元飯田町中坂下南側四方みそ店向 瀧澤氏製[乾坤一草亭]
同家出張所 昌平橋通神田明神石坂下同朋町東新道 瀧澤宗伯
取次所 江戸芝神明前 いつみや市兵衛 大坂心斉橋筋唐物町 かはちや太介
著作堂隨筆 玄同放言 三巻(ミマキ)天地ノ部草木ノ部人事ノ部の上まで出板 全九冊
○著作堂新編畧目 江戸書肆 山青堂藏梓
江戸著作堂主人編輯 越後雪譜 大夲全六巻 越後塩沢鈴木牧之考訂 近刻 この書ハ北越冬春の間大雪の奇観なだれ吹雪倒レの光景・ソリ・カンジキ・スカリ・スンヘイ等の図説霊山名所異魚怪獣年中行事等もらすことなく画図にあらはす尤珎書なり
朝夷嶋めぐりの記 初編二編三編迄出板 毎編おの/\全五冊 第四へん五冊 来卯冬十二月嗣出 歌川豊廣画
里見八犬傳 第四輯 全五冊 来卯ノ冬十二月賣出し可申候
犬夷評判記 横本三冊 八犬傳初へん二編巡嶋記初へんの大評判いと興ある草子也
みのゝふる衣八丈綺談 全五冊 ゑ入よみ本古今ぶざうの因果物かたり也

文政二年己卯/正月吉日發販
刊行書肆 大坂心斎橋筋唐物町 河内屋太助/江戸馬喰町三丁目 若林清兵衛/江戸夲所松坂町二丁目 平林庄五郎/筋違御門外神田平永町 山崎平八


# 『南総里見八犬伝』第三十回
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