一 江戸読本の体裁
わが国の19世紀小説を質量ともに代表する江戸読本。その魅力が伝奇的な起伏に富んだ筋の運びだけではなく装幀や挿絵にも存することは、おそらく保存状態のよい初印本に触れる機会を得た読者の一致した見解であろう。味気ない縹色無地表紙で、いかにも書物然として流布していた18世紀の浮世草子や前期上方読本に対して、江戸読本は次第に色摺りで華やかな意匠を凝らした表紙を持つに至る。袋こそあっさりとした文字だけのものが多かったと思われるが、見返しにはさり気なく内容に則した飾り枠などを用い、繍像には主な登場人物を描いてその運命を暗示する賛が入れてある。多くは漢文序を備え、目録は章回体小説に擬した独特の様式を持ち、さらに本文中には時に刺戟的な画柄の挿絵が入れられていた。
このような江戸読本の気取った華やかさは、読者に対する本自体の自己主張として意識的に造本された結果である。ひとたび手にとってみると、重ね摺りを施した華麗な口絵は展開を暗示し、目録は大まかな筋を示し、さらに挿絵に一瞥を加えると、もう読まずにはいられなくなるという具合に本が創られているのである。きわめて単純化してしまえば、同時期の草双紙が絵外題簽から錦絵風摺付表紙に移行していったように、商品としての魅力を持たせるための所為と見做せるかもしれない。
しかし、作品内容と体裁とが不可分な関わりを持ちつつ各ジャンルを形成していた近世文芸にあって、比較的格調高く堅い雰囲気を保持しようとした江戸読本が、なぜ派手な装いを持つに至ったのであろうか。おそらく〈読本〉という名称とは裏腹に、単に筋を読むだけのものから、次第に口絵や挿絵という視覚的な要素の比重が増し、現代の読者たちと同様に、モノとしての本自体の美しさをも愛玩するようになったからであろう。本というモノは本質的に手で弄んで読むものであり、単に文字列が記されていればよいという実用品ではないのである。
二 俊徳麻呂謡曲演義
初板初印の美しい江戸読本が、摺りたてのきわめてうぶな状態で保存されている作品の1つとして、広島市立図書館浅野文庫に所蔵されている振鷺亭主人作・蹄斎北馬画の『俊徳麻呂謡曲演義』(文化6〈1809〉年、石渡利助板)を挙げることができる▼1。現存本としては『国書総目録』に僅か2本を見るに過ぎないし、『古典籍総合目録』にも登載されていないが、現在までに管見に入ったものは端本を含めて13本余りある。これは江戸読本の残存本数からいえば平均的な数字だと思われる▼2。
この本には謡本の体裁に擬した大層凝った装幀が施されている。半紙本5巻5冊、栗皮色地に梅花氷裂を散らし、中央上部に長方形無郭の文字題簽「俊徳丸\巻之一\亀の井\まゝ子さん\門法楽」と、巻1の第1回から第3回までの見出しを曲名風に配置している。見返しには薄墨の飾り枠の内側を墨で潰し「謡曲演義俊徳丸」と白く抜いてある。自序「俊徳丸艸序」には節付と胡麻点とを付け▼3、雅楽器の意匠を用いた総目録を掲げている。これらは謡曲『弱法師』を強く意識したものと思われるが、それにしても徹底した凝り方をしている。
さて、謡曲『弱法師』や説経『しんとく丸』(正保5〈1648〉年)に結実した俊徳丸の世界は、次第にほかの世界と綯い交ぜにされて変容を遂げていった。浄瑠璃では謡曲『富士太鼓』の筋を加えた『莠伶人吾妻雛形』(享保18年初演)や、「愛護若」物の趣向を取り入れた『摂州合邦辻』(安永2〈1773〉年初演)などがある。小説では富士浅間と俊徳丸を結びつけた先行作として享保15〈1730〉年刊の八文字屋本『冨士浅間裾野櫻▼4』がある。振鷺亭はこれらの人口に膾炙した作品に題材を求めたのであるが、本作がこの八文字屋本によっていることは、すでに柴田美都枝氏が指摘している▼5。だが、新たに書き加えられた趣向も多く、作品全体には〈鏡塚の由来譚〉としての枠組が与えられている。口絵の最後に▼6、
按本傳俊徳麻呂姓氏未詳蓋俟識者之後勘也。一書曰眞徳或作新徳百済王之後裔稱山畑長者延暦年間之人也云云。時人稱其長者有徳而稱哉。今尚舊蹟存于河州高安郡山畑村中。土人呼之鏡冢雖不載紀傳口碑勒尚矣。嗚呼旌俊徳之美名永令為鑑萬代者乎。予此所記非稽査本拠。只掲出弱法師之謡曲以属詞為覧話本者而作也。亦唯深耻虚譚吁於俊徳人其捨諸乎。
と記してあるが、『河内志』の記述▼7や、『河内名所図會▼8』に見える、
真徳麿の古跡 山畑村の中にあり。土人、鏡塚と呼ぶ。一説に、俊徳あるいは新徳に作る。この人、姓氏分明ならず。あるが曰く、百済王の後にして、山畑長者と号し、延暦中の人なり。謡曲「弱法師」に見えたり。大坂天王寺南門の外に真徳街道あり
などという俗説により、俊徳丸を四天王寺救世観音の申し子で齋明王の弟調宰相の太子調子丸の再誕とし、級照姫を四天王寺庚申の申し子で前生を百齋王敬福の娘として設定したものと思われる。
また、口絵には俗にいう死神として『首楞嚴經』から「癘鬼」を引いてその姿を描き、巻1の最後にある4丁続きの挿絵では、秘伝の巻物を掴んだまま切り取られた腕▼9から煙が立ちのぼり、その中に『山海経』に「其ノ状黄嚢ノ如。赤コト丹火ノ如。六ノ足四ノ翼アリ。渾敦トシテ面目無。是レ歌舞ヲ識ル」とある「帝江」という奇態な天上之神の姿を描く。また挿絵でも『本艸綱目』によるという「山獺」や、「三尸」「九蟲」「三彭」「七魂」などの奇妙な虫などの絵を出している。画工の北馬が跋文に、
此書ハ元よりむかし物語なんどの様なるべき作者の意ならねばたゞ俤子の興ある為にとて九蟲なんどの形も本草綱目の名目のみに據り山獺てふものも其状を載ざれバたゞおどろ/\しう書なしつなべて繪虚事と見侍りてたびてんかし
と記す通り、これらは『冨士浅間裾野櫻』によったものではない。
このほかにも、詐術としての〓〓の刑、恋文を運ぶ雁、入定塚の前でのダンマリ模様、善悪邪正を映す善亀鏡という宝鏡、桓平白狐の子孫三足の白狐が妖術を使っての仇討、波瀲を惨殺すると腹中から傳胎知命という異形の虫が飛び去り楽譜の一書を得る趣向などなど、実に江戸読本らしい伝奇的で血腥い趣向に満ちた作品なのである。
三 冨士浅間裾野櫻
ところで、典拠として用いられた『冨士浅間裾野櫻』には『俊徳丸一代記』(天明8〈1788〉年)という改題本がある。体裁は大本5巻5冊、外題角書には〈新畫|圖入〉とある▼10。巻末に付された和泉屋卯兵衛の広告に、
俊徳丸一代記 ひらかな絵入五冊 俊徳丸一生日本の楽人住吉の冨士天王寺の浅間春藤仲光夫婦が忠臣俊徳丸天王寺西門におひて参詣の人々に顔をさらせし事迄いさいニ出ス
梅若丸一代記 ひらかなゑ入五冊 松若梅若兄弟の事を出し母班女天狗と契をむすひ兄松若を取もどせし事奥州角田川の由来等までくはしくしるす
愛護若一代記 ひらかな絵入五冊 あいごの若一生を委細にし并継母ざん言の事姫の成行ゑい山の阿闍梨志賀唐崎の一ツ枩の因縁迄いだす
とあり、同時に3作の八文字屋本を改題改修本として出している▼11。これらの3作には、序文と目録、挿絵を新たに作り直すというまったく同様の改修が加えられている。享保末期から天明8〈1788〉年までには約50年の年月を経過しており、板元も移ったのであるから化粧直しが施されても別段不思議はないのであるが、ただし加えられた改変の意味は一考に値する。まず、巻1の目録を並べてみる。
冨士浅間裾野桜 一之巻
目録
第一 舞台の調子圖に乗て来る女中乗物
大御堂の荘厳光輝く星月夜鎌倉繁昌
よい種を薪捨て開きかゝる我身の栄花
表門ハ悪の口明裏へ廻る女の走リ智惠
第二 親子の縁を切艾熱さ覚る紙子の火打
吸付た乳守の大夫縁の有結ぶの帋子姿
家の秘曲の傳受ハ請ずに勘當を請た身
恩愛の中垣いふにいはれぬ親子の義理詰
第三 思ひもよらぬ災難身にかゝる縄目の恥
望ひらくる庭桜花をふらす舞の袖
楽所の障子さしてとる舞楽の大事
てん/\と舞の太鼓討手ハしれぬ父の敵
この浮世草子特有の言語遊戯的な凝った目録様式は、読んでも直ちに内容のわかる書き方がなされていない。それが改題改修本では次のように変えられている。
俊徳丸一代記 巻一
目録
一、北條武蔵守平高時安部長者を召さる事
一、楽人冨士が妻女乗打家老口論の事
一、冨士信吉が家形へ来る事
一、冨士が一子左京之進勘気のわびする事
一、萬秋楽の舞傳授の事
一、阿左京之進信吉が屋敷に忍ぶ事
一、冨士横死の事
一、左京之進捕われとなる事
この「〜事」で終るという書式は簡潔に内容を表わしていて、目録を追っただけで一通りの筋がわかるようになっている。実録体小説風もしくは読本風に直されているのである。そして、この書式は化政期以降の江戸読本の全盛期に至っても、上方出来の後期読本に継承される体裁上の顕著な特徴でもある。
また、挿絵も画面をいくつかに区切った細かい異時同図法で詞書が入れられているものから、一場面を大きく描き文字の入らない体裁に変更されている▼12。これも、読本風に直されたといっても差し支えないと思われる。
これらの体裁改変を直ちに浮世草子の読本化を意図したものと断定することはできないが、和泉屋卯兵衛ただ一人の気まぐれではない。享保18〈1733〉年の八文字屋本『那智御山手管瀧』も、寛政9〈1797〉年に『袈裟物語』と改題改修されて浅田清兵衛から出されており、これまた序文目録挿絵を彫り直し、巻頭見出しも読本風に直された改題改修本であった。
浮世草子には分類されていないが、宝暦4〈1754〉年刊『和州非人敵討實録』(多田一芳序、和泉屋平四郎板)も文化6〈1809〉年に『復讐・繪本襤褸錦』(播磨屋新兵衛板)という改題本が出されているが、全丁に絵の入った絵本体裁で「享和酉の夏五月雨の頃 浪華の漁翁誌す」という序を持つ改刻本である▼13。さらに後になってから『敵討綴之錦』(河内屋藤兵衛板)▼14という、鼠色表紙に意匠を凝らした題簽を貼り、見返しと法橋玉山の手になる口絵挿絵を加えた江戸読本仕立ての改題改修本が出されている。これには「享和酉の夏五月雨の頃 浪華の漁翁誌す」という序に加えて、宝暦板にあった一芳の序を「跋」と象嵌して付けられている。つまり、旧作の様態を読本風に変えて改題改修した本は浮世草子だけには限らないのである。
一方、横山邦治氏は「「都鳥妻恋笛」から「隅田川梅柳新書」へ▼15」で、『梅若丸一代記』と改題改修された八文字屋本『都鳥妻恋笛』が、天保13〈1842〉年には『梅花流水』と改題され、大本5冊ながらも表紙と題簽に色摺りが施され、繍像と挿絵が追加されて、あたかも江戸読本かと見紛う体裁で出されていることを紹介し、浮世草子と読本の連続性を考えてみるべきだと説いている。
もちろん、作風や題材も決して無関係ではなかったと思われるが、いま見てきた例などは、中身はまったく同じものにもかかわらず、表紙と目録と挿絵という、いわば一番目立つ箇所の様式を新たにすることによって、従来の浮世草子とは別の(場合によっては読本としての)読まれ方を期待したものと考えられるのである。
つまり、本というモノにとって、機能と意匠とは決して別の次元の問題なのではなく、体裁という外面的様式こそが享受されるべき内容を規定してしまうという側面を持っているのである。
四 俊徳丸一代記
以下、近代になってからの問題に移るが、手許に『俊徳丸一代記』という内題を持つ、明治23〈1890〉年刊の洋装活版本1冊がある。表紙は破損しており外題は不明、大きさは縦21.5×横14.5糎の菊判。変体仮名をも字母とする5号活字が用いられ、ほぼ総ルビで、組みは29字詰11行。天に空白が多く取られた印面の大きさは、ボール表紙本と同様の四六判ほど。「明治23年9月2日 山口徳太郎\櫻井三世仁兄玉案下」とある書翰体の「換序」2頁と、「耕作」という署名の入った口絵3図(6頁)を含めて全部で280頁。内題下に「東京櫻井三世口述\仝 山口徳太郎速記」と見え、長短はあるものの第1席から第31席までに区切られ、中途に口絵と同筆の挿絵5図(10頁)が入っている。これは俗に「赤本」とも呼ばれていた速記本講談小説▼16で、刊記は次のようになっている。
明治廿三年十月七日印刷
同 年十月九日出版
明治卅一年五月五日再版
京橋區元數寄屋町一丁目三番地
*** 著作者 岩 本 五 一
*版* 淺草區南元町二十五番地
*権* 發行者 鈴 木 與 八
*所* 下谷區御徒町一丁目七番地
*有* 大山活版所
*** 印刷者 山 田 仙 藏
發 行 所 淺草區南元町二十五番地 盛陽堂
巻末の「附言」には出版に至った経緯について次のように記されている▼17。
附言に申上升近頃此速記學と申ものが流行に相成ましたので彼處でも此處でも此速記を致させますが是れは文章と違ひ御覧遊ばすには至極お譯り易うござゐ升……書肆三林堂主人は三世と一日四方山の談話に亘りました序……主人の申しますには何にか速記法で宜さそうものを一版印刷て見たいが何にか、善い種はないかとの話から致して此俊徳丸の説に亘りました近頃は兎角文學の世界とは申しながら、未だ中々學術の進歩は容易では御座いません、表斗り進歩致して居りましても其業に長けんければ眞の進歩と云ふ譯けには相成りません然れば生地、自稱天狗で文章を賣る先生よりは、返つて此速記方の方が余ツ程宜しうござゐ升、三世も是れが初めてゝございますから、何んな事を看客に申上て宜いか殆と相分りませんが三林堂主人の申しますのには人が聽ひて面白いのが一番だから、先ァ遣て見ろとの勸めを便りと致してヤツト大尾までこぢつけましたが、何に致しても深く取調べます間が御座いませんので、充分看客の御意に入るか、入らぬかわ相わかりませんが、從來祭文讀みが唄ひますやうな物とはチト事が變ッて居ります、故人振鷺亭と申す作者が著りました、俊徳麻呂謡曲演義と申す稗史がございます小生參考の爲め一閲致しましたが、古人の作と云ひ當世から見ると余り虚々敷い事が書てあッて、夫に讀み難うござゐ升から小生は偶意をもつて、別に趣向を相立てまして御機嫌を伺ゝひ升タ、元より歴然と致した、正史を以つて、編りましたものでハ御座いません只俊徳丸、合法の古跡を仮りて忠信孝貞の形状を口にまかせて演べました丈けのものでございますから振鷺亭の著作と小生の口演とお見並べを願ひ升焉
速記を用いた舌耕文芸の単行本活字化の早い例としては、三遊亭圓朝の人情話を若林[王甘]藏と酒井昇造とが速記した『怪談牡丹燈篭』(東京稗史出版曾社刊、1884年)が有名である。一方、明治19〈1886〉年からは「やまと新聞」に圓朝の作品が連載され始め、好きな時に好きな場所で読めるという速記本講談小説の流行に一層の拍車がかかった。この速記本講談小説について神田伯治口演、吉岡欽一速記の『自來也▼18』に付された呑鯨主人の「序」に、
速記術なる言語の寫眞を以て記せし冊子は近來の普通小説に優るも劣る事なし去れば小説の出版數多しといへども都下有講談師が十八番とする物を選び之に加るに老練の速記者をして記せる講談小説には遠く及ぶ處にあらず
とある。つまり、速記という「言語の寫眞」によった講談小説は、高座での語りを髣髴とさせ耳目に入りやすいから「普通小説」に劣らないというのである。ところが、同体裁の『自雷也物語』という本▼19があり、こちらは紛れもなく江戸読本『報仇竒談自來也説話』▼20の翻刻本なのである▼21。
速記本講談小説『自來也』の方は、どちらかといえば合巻の『児雷也豪傑譚』に基づく神田伯治の創作といってよい。つまり、この時期の大衆読物には、実録体小説種の速記本講談小説と近世小説の翻刻という二つの潮流があったのである。
五 速記本講談小説
ところで、前に引いた速記本『俊徳丸一代記』の付言に振鷺亭の江戸読本『俊徳麻呂謡曲演義』に基づくとあったように、単なる翻刻でも自由な創作でもなく、いわば江戸読本の講談化とでもいうべき作品も行なわれていたのである。改めて序を見ると、
換序
排呈御口演の俊徳丸一代記清書出來に付き御印刷へお廻送被下度。就ひては再讀致し候處。是れは貴君が別に御著作遊ばされ候ものと存じ候。小生も。御案内の如く。小説は飯よりも好にて。從來印板に附し世に流布するものは大概閲ざるものなし(是れは自稱天狗)と申ても宜き次第に御坐候然れば天明時代の作者。振鷺亭と申す人が著作れし俊徳麻呂謡曲演義と申す稗史も。一度閲讀仕候得共。如何にせん。作り物語を目前へ出し。虚とし見。實として窺ふに足ず。殊に支那の説を諸書より引用して作るものをもつて往々空々敷き箇處澤山に相見へ候。貴君の御著作ハ之れと反して温故知新。能く其情態を穿ち。以て今様風に御著作せられしハ是れ眞に今日の童蒙婦幼をして讀むに適し其感を抱かしむ可し。元來俊徳丸は古説と雖も。事を其間に存し以て風俗を疇昔に當て而して其實を現時に説れしは實に小生感腹の外無之候本文、荻葉と奇妙院と小冠者と神經談、春緒、小式部の薄命、俊徳丸、合法の心裡一々其人を目撃するが如くにして眞に愉快を相覺へ候よつて筆序に小生の想像を申上可く候敬具
明治廿三年九月二日
山口徳太郎拝呈櫻井三世仁兄玉案下
と、速記者が講釈師の提灯持ちをしているが、基本的な筋は原話を逸脱していない上に、口絵と挿絵は描き直されているものの、明らかに北馬の手になる原画を踏まえたものである。改変されているものは、「波瀲」という女敵役を「荻葉」という名前に変えて〈毒婦〉と形容している点。また、「其性淫毒なり」という山獺の趣向や、合邦道人が級照媛の体内から三尺九虫三魂七魄を追い出す場面の描写、さらには狐の怪異や入定の詐術などという、振鷺亭が好んで書き込んだと思われる江戸読本らしい伝奇的モチーフは悉く排除され、ことさらに道徳教訓的な叙述が補われているのである。これらは「作り物語を目前へ出し。虚とし見。實として窺ふに足ず。殊に支那の説を諸書より引用して作るものをもつて往々空々敷き箇處澤山に相見へ候」と巻末附言にいう部分を、敢えて避けたということになるだろう。
このような江戸読本を典拠とする速記本講談小説は、ほかにもいくらか挙げられると思われるが▼22、たとえばこれも同じく菊判洋装本『苅萱石堂丸』▼23は、第1回の冒頭部で、石堂丸の実伝は芝居狂言などとは大いに違うので「一口も幼年の砌より、二三の原書に基いて、樣々に苦心を致し、至らぬながらその事實に潤色を加へ、言葉に文を飾ッて演じ」るといいながら、実のところ中身は馬琴の中本型読本『苅萱後傳玉櫛笥』▼24の筋をなぞっただけのものである。基本的には安政期に流行した切附本▼25の一部に見られる読本を抄出したものと同趣である。ただ、『苅萱石堂丸』は典拠を秘匿しているだけ非良心的であるといえるかもしれないが、にもかかわらず、剽窃とか抄出として片付けてしまうわけにはいかない。切附本との最大の相違は、高座で口演されたものを速記した(という様式を採る)読み物であるという点である。当然、速記術という「言語の寫眞」技術の確立が前提になるわけであるが、実はその速記された原稿に、さらに後から手を入れたようである。つまり、講談という場の枠を嵌めた口述筆記という装置を仮設することによって作られたものが、速記本講談小説という様式なのである。
江戸読本の翻刻本が大量に出版された近代の一時期に、よく知られている「八犬士伝」や「自来也」など以外にも、江戸読本に題材を求めた講談や速記本講談小説が存在したことは看過できない。そして、それらの本が同様の菊判洋綴装にカラー表紙という体裁を持っていたということは、前述した通り造り手側が同じ読まれ方を想定しているということであるから、ほぼ同一の読者層を想定してもよいかと考えられるのである。
六 意味としての体裁
ところで、翻刻本によって江戸読本の原文を読むのと、講談速記本によって語り手の独演を媒介とした会話体で同様の筋を読むのとでは、本質的にどこが違うのであろうか。言文一致の問題を持ち出すまでもなく享受の位相は違う。作品世界に対して文字通りの〈語り手〉が具体的な存在としてあらかじめ設定された文体は、〈語り手〉による要約や注釈や脱線が自在である。と同時に作品世界の情報はすべて〈語り手〉の管理下におかれているわけで、前述の『俊徳丸一代記』のように近代合理主義的な発想で、本来的な江戸読本の魅力を削ぎ落して、いたずらに教訓化されてしまいかねないのである。このことは、江戸読本の文体にも多声的な叙述が備わっていることに改めて気付かせてくれる。つまり、叙述を問題にせずに筋や登場人物の行動がすべてであるかのごとき錯覚を持って近世後期小説を読むことはできないのである。
『俊徳丸一代記』という題名を持った作品を追いつつ明治期の出版についても見てきたが、最初に触れた『俊徳麻呂謡曲演義』にも翻刻が備わっている。四六判錦絵風摺付表紙の和装本『俊徳丸白狐蘭菊』(明治18年3月24日翻刻御届\同年7月 (ママ)日出版、野村銀次郎)と、四六判洋装『古今小説名著集』第17巻(明治24年、礫川出版會社)とである。これらは、四六判であり、菊判洋装という現代の文芸雑誌風の速記本講談小説の類とは別の存在として見るべきである。何度か述べてきたように、本の大きさや体裁とは確実にその享受の様相を規定したものだからである。
注
▼1.和泉書院の読本善本影印叢刊の一冊として入れられる予定なので、書誌および諸本研究はそちらへ譲りたい。
▼2.一概にはいえないが『国書総目録』や国文学研究資料館のデータベースに登載されていなくても、どこかに所蔵されていることがある。したがって現存本の数を問題にする時に『国書総目録』の登載本数を根拠にするのは危険である。ただし、中には当時の出板記録類に記されながらも現存本が発見されていない振鷺亭作北斎画『安褥多羅賢物語』などもある。いずれにしても保存のよい初印本は稀であり、とりわけ不当に価値を貶められた再刻本(改題再刻本)の方の善本となると伝本は少ないようだ。また、当時評判になって売れたとしても、本が多数残っているわけではないし、逆に馬琴が売れなかったと記して有名な山東京伝の『雙蝶記』ですら幕末の後印本を確認できるのである。
▼3.栗杖亭鬼卵作『謡曲春榮物語』(文化15年、河内屋嘉七板)も同体裁の序文を持つ謡曲に基づく作であり、三熊野文丸作『小説竒談峯の雪吹』(文化7年、玉集堂板カ)も同様の序を備えている。また、馬琴の『旬殿實々記』巻之9でも龍宮の珠取として謡曲「海土」の一部分が引用されている。
▼4.大本5巻5冊、序「享保十五戌の\としの始作者其磧\作者自笑」、刊記「享保十五年戌ノ正月吉日\ふ屋町通せいぐはんじ下ル町八文字屋八左衛門」。
▼5.柴田美都枝「江戸読本の展開 文化年間」(『読本の世界―江戸と上方―』、世界思想社、1985年)53頁。
▼6.火炎太鼓風の絵の中に書かれている。なお、句点を私に補った。
▼7.享保21〈1736〉年刊『日本輿地通志』河内之7、2丁表に、「鏡冢 山畑村ニ在。俗云眞徳麻呂ノ舊蹟。事ハ與呂法師曲詞ニ見。或曰女孺従五位下百濟王眞徳ノ墓。延暦中ノ人」とある。
▼8.享和元〈1801〉年刊。『日本名所風俗図会』11巻(角川書店、1981年)所収。
▼9.この場面は歌舞伎の舞台を髣髴とさせる画組である。しかし、巻物を掴んだ腕ごと切り落すのは『莠伶人吾妻雛形』に見られる趣向であり、本文中の記述とは齟齬している。
▼10.序末「天明七つのとし\未正月吉日」、柱「富士」、刊記「天明八年戊申正月吉日\書林\大坂心斎橋北詰 和泉屋卯兵衛」。さらに、刊記を「大坂上難波町 播磨屋新兵衛\同心斎橋博労町 勝尾屋六兵衛」と改めた後印本も存。
▼11.長谷川強『浮世草子考証年表―宝永以降―』(日本書誌学大系42、青裳堂書店、1984年)によれば、『梅若丸一代記』は享保19年正月刊『都鳥妻恋笛』の改題改竄本、『愛護若一代記』は享保20年正月刊『愛護初冠女筆始』の改題本とある。
▼12.神谷勝広「浮世草子の挿絵―様式の変遷と問題点―」(「近世文芸」50号、日本近世文学会、1989年6月)によれば、絵入狂言本の挿絵から影響を受けて八文字屋が意識的に採用した詞書入異時同図法様式は、享保末年にはほぼ定着し、また、それが次第に読本風に変化していくとする。
▼13.刊記脇の広告に「繪入敵討綴之錦 全部六冊 敵討の始末ひらかなニ委敷して面白きよみ本也 出来」とあり、原板木に改修を加えた本ではない。
▼14.刊記には河内屋藤四郎以下河内屋藤兵衛まで3都9書肆が列記されている。宝暦板の改題改修板の後印本だと思われる。
▼15.>横山邦治「序にかえて」(『讀本の研究―江戸と上方と―』、風間書房、1974年)。
▼16.新島広一郎編著『講談博物志』(私家版、1992年)では、多くの版元とその手掛けた講談本シリーズについて、長年にわたって蒐集された実物のカラー図版を示して解説している。なお、国立劇場演芸図書室蔵の『合邦辻敵討俊徳丸』(錦城齊貞玉口演、加藤由太郎速記、明治39年、春江堂)はまったく別のもの。
▼17.旧稿に引用した架蔵本には一部破損していて不明の部分があった。此処の引用(web版)では、後日入手した次の刊記を持つ別の再版本『俊徳丸一代記』に拠った。
明治四十年一月十九日再版印刷
明治四十年一月十九日再版發行
{明治廿三年十月七日印刷/同年十月九日出版}
京橋區元數寄屋町一丁目三番地
*** 著作者 岩 本 五 一
*版* 東京市淺草區三好町七番地
*權* 發行者 大 川 錠 吉
*所* 東京市淺草區南元町廿六番地
*有* 印刷者 川 崎 清 三
*** 東京市淺草區南元町廿六番地
印刷所 大 川 屋 印 刷 所
東京市淺草區三好町七番地
發行所 聚榮堂 大 川 屋 書 店
▼18.大正元年11月25版、大川屋書店。初版(未見)は明治29年。
▼19.洋装、菊判、183頁、序「明治三十一年秋十月、志摩 蒼海漁夫識」、刊記「明治三十三年二月十四日印刷\明治三十三年二月十九日出版\飜刻發行者・東京市日本橋區通三丁目十三番地・内藤加我\印刷者・東京市日本橋區新和泉町一番地・瀧川三代太郎\發行所・東京市日本橋區通三丁目十三番地・金櫻堂\印刷所・東京市日本橋區新和泉町一番地・今古堂活版所」。
▼20.感和亭鬼武作、高喜斎校合、蹄斎北馬画、半紙本5巻6冊、文化3年丙寅歳孟春、中村藤六板。蛇足ながら、この序文に洋装菊判という体裁について「現今流行の洋綴製」と記されているのが興味深い。
▼21.序末に「以て巻端の半丁を塞ぐと云爾」とあるにもかかわらず、2頁にわたって序文が書かれているのが妙だと思っていたら、ボール表紙本『兒雷也豪傑物語』(四六判、洋装、115頁、内題「自來也物語」、明治20年1月10日御届、同22年4月30日印刷、同年5月1日再版、柳葉亭繁彦閲、漫遊曾發兌)に付された序文と、振仮名の多寡を除けばまったくの同文であった。この本は明治20年に鶴聲社から出されたものの再版と目されるが、さらに早く明治17年に四六判の和装本として共隆社からも柳葉亭繁彦閲で出されており、版元や版型を変えながら何度も出版されたようだ。ただしその間にいく度か挿絵の描き換えと活字の組み直しを行なっており、どうやら前版を原稿として用いたものと思われる。近代に入ってからの、このような江戸小説翻刻本出版をめぐる様相は、なお一層の資料収集が必要であり、版元の関係を含めて今後の課題として残されている。
▼22.鬼卵の読本『長柄長者繪本黄鳥墳』(文化8〈1811〉年)にも、同様の速記本講談小説『鴬塚復讐美談』(錦城齋貞玉講演・今村次郎速記、いろは書房、明治30年11月)があり、同時に『今古實録鴬墳物語』(上下1巻、榮泉社、明治17年11月)に翻刻され、さらに四六判和装『鴬墳物語』(榮泉主人序、巻末破損で書誌事項不明)も出ている。この鴬塚の話は合巻でも扱われ、演劇にも仕組まれ、山々亭有人・松亭金水『鴬塚千代廼初声』(全4編、安政3年〜明治2年)という人情本にもなっている。これらの検討は別稿「草双紙・読本の雅俗−黄鳥塚説話の諸相−」 (「國文學」學燈社 1999/02)に譲りたい。
▼23.石川一口講演、中村卯吉速記、明治40年再版、駸々堂。
▼24.曲亭馬琴作、葛飾北斎画、3巻3冊、文化4年、榎本惣右衛門・同平吉板。
▼25.本書第二章第五節参照。