出板史上、十九世紀において最も注目すべき現象は、刊行された本の多くが〈絵入本〉であったことである。と同時に役者絵や美人画など様々な種類の多色摺りが施された浮世絵(錦絵)が売り出され、全国に広く流通していた。正月には私家版として、贅の凝らされた美しい歳旦摺物(絵入の狂歌、俳諧)や絵暦(大小)などが数多く出回っていた。各種の御披露目の会などでも、特別に誂えた絵入りの摺物が配布されることが少なくなかった。
これらの印刷物に摺られた目にも鮮やかな彩りの絵は、大部分が浮世絵師に拠って描かれたものである。本や摺物に於ける〈絵〉が占める割合は、東洋は勿論のこと、十九世紀の西欧においてすら、類を見ないほど多かったと断言して差し支えないだろう。十八世紀以降、重ね摺りなどの印刷技術が加速度的に発展し、三都を中心とした和本の流通機構が整備された。結果として、嘗ては江戸の地方出板物に過ぎなかった草双紙や錦絵などの江戸地本類が、広く全国に普及するようになったのである。
さて、美術史における浮世絵研究は、国内に残存する資料が限られているため、在外資料の調査研究が必須であった。日用品として消費されてしまう運命にあった一枚摺や錦絵は、十九世紀に来日し、西欧では見たことのない固有の美しさを発見した西欧人達に拠って欧羅巴にもたらされた。その後、欧州で開催された万博などに触発され、所謂日本趣味が流行した。日本では廃棄されかねなかった浮世絵や絵入本が、西欧で売れることを知った業者により輸出され、巴里などで競売に掛けられた。結果として、世界中の蒐集家の手に渡って美術品として蒐集に加えられ大切に保存された。美術品としての評価が定まったが故に、所有者の代替りに際して再び競売に掛けられ、散逸したものも少なくないが、多くは公的機関に拠って購入されたり、時には寄贈されたりして安定した管理下に安住の地を得たのである
▼1。
しかし、海外では専門知識を持った司書や学芸員が少なかったために、これらの資料は長年に亘って未整理のまま保管されてきた。日本に於ても浮世絵や和本をめぐる板本書誌学の進捗に拠り、幾つかのプロジェクトが立ち上げられて在外資料の調査が進められた ▼2。 さらに、在外機関の職員の研鑽と努力とが相俟って目録が整備され、十八世紀以降の絵入り資料研究は大幅に深化してきたのである。
同時に、浮世絵師の個別研究の進捗に拠って、浮世絵のみならず画工として挿絵(や口絵)を担当した絵入本にも目配りが行き届くようになり、文学研究と美術研究との共同研究も盛んになりつつある
▼3。
また、近年は、春画や春本に関しても所在情報の調査が進み、比較的自由に研究発表が行えるようになった。これらの非合法出板物に関しては、文化史研究の側面からの進捗が著しい分野である
▼4。
海外の蒐集では、資料の中心を十八世紀から十九世紀初頭に置くものが多い。一般的に古い時代のものを珍重するのは稀少価値からも致し方ないことではある。尤も、十八世紀は瀟灑で洗練された文人趣味の横溢する前期戯作時代であるが、十九世紀後半に化学染料が入ってきてからは、どぎつい色相と残虐な画柄とが増えたので、あながち稀少価値のみに起因するわけではなく、嗜好の問題なのかもしれない。
一方で、十九世紀以降は後期戯作と呼ばれ、商業資本主義の経済的発展の下に戯作が大衆化した時代である。読書層の拡大に伴う流行作品も生み出したが、天保改革に拠って水を差され十九世紀半ばには衰退に向かった。この十九世紀後半の在外資料を中心とした蒐集が少ないのは、浮世絵などの資料が日本趣味の影響下に輸出された時期に於いては、ほぼ同時代であり、さらに河鍋曉齋の如き突出した才能を他に多く見出し得ないことに起因するかも知れない
▼5。
ただ、美術史に於いては明治維新で時代を区分をしていない点に注目すべきである。日本文学史は明治維新で劃期してしまったために、高校の教科書も古典と現代文とに分断されており、研究者の所属する学会も異なる。その上、長期間に渉って文学史が近代至上主義的な所謂〈発展史観〉に囚われてしまい、幕末維新期を〈前近代〉と位置付け、近代に至る過渡期として定義してきた。この前近代という発想は、日本文学史に〈自我の発見史〉を見出してきた近代主義に基づくものであった。この所謂〈戦後民主主義〉的な傲慢な発想に対して、ポスト構造主義の流行に伴い疑義が差し挟まれることになる。この思想がもたらしたのは近代主義を相対化する視点である。所謂バブル経済崩壊後の政治的経済的閉塞期を生きる我々の時代を、近代以後として位置付けたのである。そのことに拠り、日本文学史を近代的主体形成を前提とする発展史観から解放したものとして捉えることができる。近代主義に支配されていては、真っ当な十九世紀文学史を見通せるはずがない。
十九世紀という時代区分に拠る文学史は、製版から活版へという印刷技術の変遷にも沿っており、二十世紀初頭が自然主義の擡頭する時期でもあるので、理に適った時代区分なのである。
絵と文
かつて美術史の側から次の発言があった
▼6。
画面に文章を入れることは、絵を絵だけで鑑賞の対象とするに耐えられないことを意味し、絵の貧困を示す物と考えられる。たとえば絵巻物でも、詞書と絵の部分が別々である時は藝術性が高く、それが入り混じるとしだいに藝術性が低下していくのと似た現象である。
歌麿の画力が衰退して行くという文脈での行文であり、絵だけの価値に焦点を当てたい意図は理解できなくもないが、安易に一般化されてしまっても納得するわけにはいかない。他方、文学研究者の中にも、いまだに「絵入本は低俗で、言葉こそが文学の本質だ」というような感覚は存在しているかと思われる。だがしかし、十九世紀絵入メディアを俎上に載せた上で、今我々は果たして芸術性などを語る必要があるのか。芸術性などという実証不能な主観的判断を、無前提に語ることこそ近代主義的発想の産物であり、葬り去るべき価値観なのではないだろうか。まして、絵と文との芸術的優劣など問題ではない。
ならば、ことさらに絵巻物まで遡らなくとも、十七世紀半ばには〈絵俳書〉が出され、菱川師宣に拠る〈墨摺絵〉や〈評判記〉〈名所記〉などが人気を得ていたが、いずれも絵と文とを兼ね備えていた。その後、十八世紀に掛けて〈絵入狂言本〉や『絵本徒然草』など絵入りの古典が流行する。同時に『訓蒙図彙』『和漢三才図会』などの事典や本草関係、農業工業書などでも各項目に添えられた絵の果たしている役割は小さくなかった。つまり、古くから日本文化に於いては、絵と文とが融合した作品群が一般に広く受け入れられていたのである。
〈雅〉文化の領域でいえば、絵の中に記された詩文として〈画賛〉がある。中国の詩書画において生まれたもので、画と響き合う独自の文学として展開していた。画を「無声句」、詩を「有声画」という有名な比喩があるが、中世の禅林美術の分野で画賛研究が進んでいる。一方、〈俗〉文化の領域では、屏風歌の流れを汲む〈和歌画賛〉があり、近世後期に盛んに行われていたことが明らかにされている
▼7。
この時期には、俳諧や川柳に絵を添えた八島五岳『俳諧画譜集』や、同『画本柳樽』なども出されていた。つまり、雅俗に渉って、詩文と絵画との融合は日本文学史上を通底する流れを形作っていることは間違いない。
そこで、本稿では絵だけが独立して描かれ、文字列が記されていない錦絵や、〈画譜〉や〈絵手本〉など文章を持たない本、絵と共に詩歌などが記されていても相互に有機的な関係が稀薄な〈狂歌絵本〉や、本文中に挿絵として絵が加えられた〈読本〉や〈人情本〉などの〈絵入本〉は、ひとまず措く。全丁に絵が入り一貫した筋を持つ本文を備えた本のうち、特に絵と文とが極めて緊密な関係を保持する〈草双紙〉に注目したい。この草双紙は、十七世紀末の赤本に始まり、青本・黒本、黄表紙、合巻、明治期草双紙と、表紙の様式や構成など体裁の変化に伴ってその内容を変化させながらも、息長く十九世紀末まで出板され享受され続けてきた。近世近代を通底した一ジャンルの息の長さという意味において、文学史上特異なものである。十九世紀に限って見るならば、合巻と明治期草双紙の時代ということになる。
ところで、錦絵の一部分にも、絵の余白に文章が書き込まれた画文が渾然一体と化した作品が存在していた。興味深いことに、草双紙と錦絵とは共に地本であり、江戸の地本問屋が刊行して売り弘めていたものである。双方ともに絵を描いていたのは浮世絵師であり、草双紙は当然のこと、錦絵に入れられた文章を記したのも戯作者が多かった。つまり、合巻と文章入りの錦絵とは、同じ環境の下で作成された十九世紀の絵入メディアとして存在した。今、其処に両者を比較検討する意義を見出したいと思うのである。
錦絵
十九世紀の浮世絵は基本的には色摺りが施された錦絵である。紙の判型としては大判や色紙判が標準的になり、印刷方法としては主に製版が用いられたが、明治期に入ると石版や銅版が用いられることもあった。ジャンルとしては描かれた対象に拠り、役者絵、美人画、名所絵、花鳥画、武者絵、相撲絵、鯰絵、死絵など、描かれ方や用途などに拠り、大首絵、柱絵、団扇絵、紅絵、浮絵、見立絵(やつし絵)、風刺画、判じ絵、疱瘡絵、春画、漫画、戯画などと分類されている。画面の意匠も工夫されており、小さな枠で囲まれた〈コマ絵〉を配したり、短冊や色紙などを〈貼交ぜ〉にした配置、画面を扇形にくり抜いた意匠などがある。
さて、このように多様な錦絵は如何に受容されていたのであろうか。三代豊国画の揃物「曽我八景自筆鏡・當世自筆鏡」合冊版(魚屋栄吉板、文久元年12月改)の最初に付された和泉屋市兵衛の序を見るに(句読点は私に補った)
皇國に倭繪と号しハ土佐の末流にして、 岩佐、菱川に起り、今歌川の流れ廣く、 浮世繪と称し、其時々の風俗をうつして 画工の名誉多し。猶諸國の勝景を模写し、其地に歩まずして名所を知らしめ、 且往古より近き世まで、目に見ぬ軍事の、 たけきさま/\なるを、今看る如く、いさましくも 描つらね、或ハやごとなき君たちの、四季折/\ 御遊覧まし/\給ふさまなど、都而筆者の丹情を こらし、東都にこれを製せバ東錦繪とぞ美称せり。此ハまた 御客達の應需じて、それかれを綴り合せ一覧に備ふと云尓。
江戸芝神明前書屋 甘泉堂 和泉屋市兵衛製本 ▼8。
とある。十九世紀半ば過ぎに於ける浮世絵史に関する当事者の把握と、地方から来た人々の江戸土産として人気のあった〈東錦絵〉の受容相の一端が知れる。現存している錦絵の多くは合綴され画帖仕立にされて保存されていることが多いが、それは持ち主が後から施したものであると思われる。揃物は本来、袋や畳紙に入れられて、時には目録や序を添えて売られていたのであろうが、右に見られるように後摺を合綴して売られる場合もあったのである。
ここで、錦絵に於ける文字の入れられ方について概観しておこう。何処まで一般化できるか心許ないが、十九世紀に入ると全く文字が記されていないものは少なくなるようだ。肉筆浮世絵には落款が在り、同時に〈賛〉として詩歌(和歌・狂歌・俳諧・漢詩文)が加えられたものが多数あるが、売り物の錦絵においても花鳥画などでは同様であり、とりわけ私家版である摺物には狂歌や俳諧が入れられて、関連する絵が摺られているのが普通である。
錦絵に題名が付されたり、揃物の場合には揃物名が記されている場合も多い。また、画工名や板元の略称や商標、改印などの出板にかかる書誌事項が記されるようになる。美人画の場合は、全盛の遊女の場合でも、没個性的な類型的美人として描かれるので、人名が書き込まれていないと何処の誰だか分からない。役者絵は似顔で描かれているのが普通であるが、それでも役者名が記されることが多くなる。時には評判になった舞台から切り取られた如くの場面が描かれ、その時の歌舞伎狂言の外題や、扮した役名が記される
▼9。
さらに、上演時に演奏された浄瑠璃等の詞章や、台詞そのものが余白に書き込まれることもある。風景画は、後に流行する絵葉書のように、基本的に定番の名所がお定まりの方向から描かれることが多いが、知らない人のために地名などが記されている。
錦絵も草双紙も同様に歌舞伎と近い関係を持ち続けていた。〈評判絵〉は『腕競東都之花形梨園』 ([寅三改]慶応2年3月)などのように、梨園での力関係や給金などを見立てた〈風刺絵〉である。
一方、〈死絵〉は役者などの死後に出されたもので、全体に水色や灰色を用いたものが多い。早くから見られるが明治30年代まで続いて出されていた。代表的なものとして、文化9年の春扇画、四代目宗十郎・菊之丞の死絵が挙げられるが、此処では魯文の書いた三代歌川豊国の死絵(大判二枚続、一鶯齋國周画、[改子十二](元治元年12月)、松嶋彫政、錦昇堂)を紹介しよう。「元治元甲子年十二月十五日寂\豐國院貞匠画僊大居士\二代目一陽齋歌川豊國翁 行年七十九歳\本所亀戸村天台宗 光明寺葬\門人一鶯齋國周謹筆」とあり、以下の追悼文と賛が載る。(私に句読点と括弧を補った)
東都浮世繪師、古今絶命の名工、二世歌川豊國翁ハ、前 一陽齋豊國先生の門人にして、初号 一雄齋國貞とよび、俗称角田庄藏と云。本所五ッ目の産にして、天明六 丙午年の出生なり。幼稚の頃より深く浮世繪を好み、未だ師なくして俳優似顔を画けり。其父傍に是を閲して其器を悟り、前豊國の門人とす。豊國始て監本を与へし時、淨書を一見して大に驚き「此童の後年推量る」 とて、称誉大抵ならざりしとぞ。 文化の初年、山東京山 初作の草紙、妹背山の板下を画きしより、出藍の誉世に高く、是より年歳發市せる力士俳優の似顔、傾城歌妓の姿繪、及び團扇、合巻の板下、大に行れ、画風をさ/\師に劣らず。 此頃ハ、居所五ッ目なる渡舟の株式其家に有をもて、蜀山先生、五渡亭の号を送らる。後、亀戸町に居を轉て、香蝶樓、北梅戸と号し、且、「家の中より冨岳の眺望佳景なり」とて、冨望山人と号し、京山、冨眺庵の号を送れり。翁國貞たりし壮年より、先師の骨法を学得て、別に一家の筆意を究め、傍に一蝶嵩谷が画風をしたひ、懇望の餘、天保四癸巳年嵩谷の画裔、高嵩凌の門に入て、英一〓と別号す。 此頃より、雷名都鄙遠近に普く、牧童馬夫に至るまで「浮世繪としいへバ國貞に限れり」と思ひ、斗升の画者を五指にかぞへず。故に錦繪合巻の梓客、門下に伏從して筆跡を乞もの群をなせり。中興、喜夛川歌麻呂が板下世におこなはれしも、九牛が一毛にして、比競するに足ざるべし。近世、錦繪合巻の表題、製工備美をつくしに尽し、東都名産の第一たるハ、全く此人の大功にして、前に古人なく、後に來者なき、實に浮世繪の巨挙といふべし。 于時、弘化二乙巳年、師名相續して二世豊國と更め、薙髪して肖造と称す。 將、嘉永五壬子年門人國政に一女を嫁して養子となし、國貞の名及亀戸の居をゆづりて、其身ハ翌年柳島へ隱居して、細画の筆を採ずといへども、筆勢艶容いよ/\備り、老て倍益壮んなり。殊更、近來ハ役者似顔に専ら密なる僻を画分、精神頗る画中にこもり、 其人をして目前に見るが如く、清女が枕の草帋にいへりし、徒に心をうごかすたぐひにや、似たらまし。そが中に、當時發市の俳優似顔繪の、半身大首の大錦繪今百五十余番に及び、近きに満尾に至らんとす。こハ翁が丹誠をこらし画れたりしものにして、百年以來高名の大立者等を、一列にあつめて見物せる心地ぞせらる。 嗚呼、翁の筆妙絶倫にして神に通ぜしゆゑ、普く世人の渇望せるも宜なるかな。可惜、當月中旬、常なき風に柳葉ちりて、蝶の香りを世にとゞむ。たゞかりそめの病気とおもひしことも、画餅となりし。錦昇堂の悼に代りて、知己のわかれをかこつものは、
遊行道人\鈍阿弥なりけり。
今年暮て今年の再來なく古人去て古人に再會なし
哥川の水原も涸て流行半月に變ずべし\水莖の跡ハとめても年波の寄せて帰らぬ名殘とそなる
應畧傳悼賛需\戯作者 假名垣魯文誌[印]
似顔画をかきたる人もにかほゑに\かゝれて世にも残りをしさよ 法齋 悟一 倭繪に魂こめて豊なる\神の皇國にのこすおもかけ 鱗堂 伴兄 豊なる稲の落穂や年の市 大笑坊 銀馬 さすかたを問ふすへもなし雪の道 一壽齋 國貞 砕く程あつき氷や筆のうみ 一雲齋 國久 口真似の師のかけふますに節季候 一鶯齋 國周
辞世
向に弥陀へまかせし気の安さ\只何事も南無阿弥陀佛七十九翁 豊國老人甲子晩冬中の五日 ▼10。
魯文の長い追悼文は伝記事項を含んでいて興味深いが、絵師の死絵としては破格のものであろう。
天保三年に香蝶樓国貞に拠って描かれ山本平吉から出された五代目瀬川菊之丞の死絵には、美艶仙女香の袋を手にした菊之丞の姿が描かれ、上部に「天保三年壬辰正月六日\行年三十一歳」「瀬川菊之丞\辞世\薺はやす音をとられつ松の風 路考」とある。国芳に拠って描かれ和泉屋市兵衛から出されたものもあり、こちらには数珠を手に立った姿で描かれ、左右に「本所押上大雲寺\勇譽才阿哲藝信士\去ル天保三年正月七日\俗名瀬川菊之丞」「風さわきむら雲まよふゆふべにも忘るゝ間なくわすられぬきみ\桃廼屋」とある。この時には、実に十数種に及ぶ死絵が出され、後摺もされたようで着物の模様が違う異板や、絵に拠って辞世の字句が多少異るものもある。
また、江戸の贔屓に別れを告げる口上と共に、演じた当たり役を似顔で三図描いた「中村歌右衛門一世一代御名残」(五渡亭国貞画、山庄板、〔文化12〕)など〈口上絵〉も絵と文が一体となったものである。例えば、香蝶樓国貞画「下り 芝翫改中村歌右衛門」(山本平吉板)は、天保9年3月の中村座「樓門詠千本」上演時のものと思われるが、四代目歌右衛門が上下を着け口上を述べている絵の上部に、その内容が記されている。
高うハござり升れど御免のかふむり升て是より口上を以て申上升。まづハ かやうにうるはしき御顔を拝し升る段。恐悦至極に奉存升。随て申上升るハ 私身分の儀にござり升。 往る巳年上方おもてへ参り升たる処。彼地にても 御贔屓に預り升たる段。全く其以前御當地にて御取立被下升たる 御余光ゆへと。心魂に徹し升て。有難き仕合奉存升。それより 京大坂をはじめ。所々方々めぐり升ても。東の方ハ恐れながら足にハいたし ませず。御取立の御高恩ねたまも忘れハおきませぬ。明暮おなつ かしく存升て。或ときハかけ出しても帰りたう存升たれど。師匠の 手前浮世の義理につながれ升て。心ならず月日を送り升たる 段。思召のほども恐れ入奉り升。併又候相かはらずかやうに 御目見いたし升る段。日頃念じ升たる心願とゞき。難有仕合に 奉存升。猶此上ながらいつ/\までも御かはりなふ。御贔屓の ほど偏に奉願上升。 わけて申上升るハ名前の儀にござり升。 不調法なる私。師匠の名跡相續の義。たつて辞退申し 升たれど。師匠梅玉申升るハ。イヤ/\わが身改名して帰れバ わしがゆくも同前。生涯の思ひ出に。今一度お江戸へ参り 各様の御顔を拝し。おぬしが御取立の御礼をも申たけれど。もはや 老年に及びたれバ此段を。御馴染の何れも様へおはなし申てくれいと 申付升てござり升。 まづハ久%\にて御目見へいたし升る御礼の口上。且ハ 改名の御披露。すみからすみまでさやうにおぼしめし下され升ふ
花に蝶もとの所へ舞戻る 一泉 ▼11。
これなどは、口上を記録し、贔屓連や関係者への配り物として出されたものと思われる。
また、〈団扇絵〉でも文字が書き込まれているものが大量にある。五渡亭国貞画「すしやの弥助坂東三津五郎」([酉改]、伊場屋仙三郎板)には、声色に用いる為であろうか
つるべすし\すしやの弥助坂東三津五郎 五渡亭國貞画
是迄こそ仮のなさけ夫婦となれバ二世のゑん結ふにつらき壱ッの云訳ヶ何をかくそふそれかしは國に殘せし妻子あり貞女両夫にまみへすのおきては同じ事二世のかためハゆるして下され
これ以外にも〈疱瘡絵〉の一部や〈双六〉などにも文字が入っているが、いずれにしても、此等の絵には文章が入っていなければ意味を持たないのである。
揃物
一枚の錦絵は、二枚続き、三枚続きと並べられることに拠って横長の視角が得られ、迫力を増すべく変化してきた。さすがに五枚続きになると圧倒されるが、歌舞伎舞台上の複数の役者たちを描く場合には必要な工夫であった。中には上下二枚続きとして高さを表現したものもある。いずれにしても、一場面の面積を広げる方向での拡張である。
一方、独立した一枚(時に複数枚)の錦絵を、ある主題の下で二点以上一括して出されたものは〈揃物〉と呼ばれる。揃物を企画することに拠って、たとえ三枚続きにしても一場面だけでは扱い切れない大きな主題を扱うことができる。絵画表現の場合、時間の経過や別の場所などを同時に一画面で表現するには工夫が必要であるが、一画面という制約がなくなる揃物にすれば表現できる規模は格段に広がる。とりわけ、『源平盛衰記』などの軍記物語や『前太平記』などの仮作軍記、『水滸伝』など長編稗史小説などには大勢の人物が登場し、説話の集合体としても把握出来るので絵画化する場面に事欠かない。
つまり、揃物では、一図では表現しきれなかった長編の鈔録が可能になり、名場面集としての〈組絵〉ないしは紙芝居的な性格を錦絵に付与できたのである。と同時に、従来の揃物でないものと同様に、一図(時に複数枚)だけの独立した鑑賞も可能であるが、折角なら全部を揃えたいという購買者の蒐集欲を刺戟することができる。また、完結後は大揃として目録や序を足して一括販売をすることも可能になる。場合に拠っては、他の板元に板木を一括売却することができるという利点もあったかもしれない。複数の板元が複数の画工や戯作者を動員して作成された揃物などもあることから、錦絵の揃物は地本問屋の営業戦略として企画されたものと捉えることができるのである。
安政期に入ると仮名垣魯文が中心的に担った〈切附本〉という読本や実録を鈔録した末期の中本型読本が流行する ▼12。 この時期の戯作者たちは〈鈔録〉を得意としていたので、これまた揃物錦絵の説明部分を担当するのに相応しかったのである。
ところで、錦絵の揃物の名称には名数が用いられているものが多い。画工も時代も版元も様々であるが、見掛けた標目を挙げてみる。「相傘三幅対」「風俗四季哥仙」「風流酒屋五節句」「諸国六玉河」「今様七小町」「坐鋪八景」「婦人人相十品」「武勇見立十二支」「妙でんす十六利勘」「新歌舞伎十八番」「浮世二十四好」「月二十八景」「今様三十二相」「善悪三拾六美人」「浮世四十八手」「書畫五十三次」「源氏五十四帖」「東海道五拾三次」「木曽街道六十九次」「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」「名所江戸百景」。これらの数字は必ずしも揃物の枚数と一致しない場合もあるが、画題として普遍性のある「五節句」「六歌仙」「七福神」「瀟湘八景」などから採り、「今様」「風流」などを冠して新たに編んだことを明示した〈見立〉が多い。もちろん、数字を標題としない揃物も多くあるが、その場合も敢えて「五拾番続」などと揃物であることを明示したものもあり、明治期以降も陸続と出されている。
さて、揃物自体は早くから在ったが、大部の揃物となると文政末の一勇齋国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」が早いものであろうか。『水滸伝』の好漢を描いたものであるが、宋江が描かれないまま74図にて中断した。その中の一図「黒旋風李逵 一名 李鉄牛」に「沂洲沂縣百丈村の産\江洲白龍神の廟門を二斧を以て打毀つ」とある如く、筆者は記されていないが、描かれた人物についての簡単な説明が付されている。他方、同じ時期に出されたと思しき、国芳「水滸伝豪傑百八人」(加賀屋板)には天〓星36名と地〓星72名との全108名の好漢が、12枚に渉って名前と共に描かれている。さらに、天保以降の武者絵揃物の様式を決定付けたといわれる「本朝水滸傳豪傑八百人一個」が出されている ▼13。 これらの大部な揃物が出され始めたのが、文政末〜天保初(1830)年頃である点に注意が惹かれる。
一般的に、近世小説には幕末明治初期に向けて次第に長編化して行く現象が見られ、特に貸本屋を通じて読まれることが多かった読本では『南総里見八犬伝』全9輯106冊(文化11(1814)〜天保13(1842))が長編化の先鞭を付けた。貸本屋の顧客を継続的に維持する仕組みとして有効であったために、ほとんどの読本が長編していくことになる。人情本でも事情は同様で、文政期には2巻2冊か3巻3冊の短編読切であったのが、天保3年(1832)刊の為永春水作『春色梅児誉美』以降は続編が次から次へと出されることになる。折しも、文化期から流行していた読切短編合巻も、馬琴の『西遊記』を翻案した『金比羅船利生之纜』全8編(文政7(1824)〜天保2(1831))や、『水滸伝』の好漢を女性として翻案した『傾城水滸伝』初〜13編上巻(文政8(1825)〜天保6(1835))が出され始めた。中国白話小説の翻案という趣向が合巻の長編化を促して、柳亭種彦に拠る『源氏物語』の翻案作である『偐紫田舎源氏』(文政12(1829)〜天保)の流行を先導することになったのである。
この稗史小説長編化の流れは錦絵にも影響を与えたものと思われ、従来『前太平記』『平家物語』、時には『太閤記』などを利用していた武者絵の〈世界〉は、文化期から挿絵入りで出されていた『新編水滸画伝』や『南総里見八犬伝』などの読本や、合巻では美図垣笑顔等の『児雷也豪傑譚』43編(天保10(1839)〜慶応4(1868))などの長編稗史小説に〈世界〉を求めるようになった
▼14。
その結果として、多くの登場人物や場面を細かく描いた揃物が出されるようになったものと理解できる。天保改革以後は武者絵以外のものにも揃物が増え、とりわけ『偐紫田舎源氏』の続編が刊行されるに及び、『源氏物語』を〈世界〉として用いた〈源氏絵〉が大流行するようになる。
填詞
ところで、一惠齋芳幾戯画「芋喰僧正魚説法」(大錦二枚続、安政6年12月改、山本平吉板)という錦絵がある。講壇に座す蛸入道の前に、あまだい・かつを・みのがめ・ふぐ・まご九郎・あんかう・なまづ・たい・人魚・めばる・おとひめ・いなせ等が集まり説法を聞いている体が描かれる。(私に読点を補った。句点は原文のまま。)
填詞
此入道の漢名を。絡蹄といひ形容をさして海藤花と称。 花洛にてハ十夜鮹。又海和尚ともいふといへり、然るに 當時人界に。持奏ると聞ものから、許夛の魚類是をうらやみ。龍宮城に集會て蛸魚に對て故を問、入道例の口 を鋒せ。渠等に答て説るやう。善哉々々我ハ乍麼藥師如来 の化身にして圓頂赤衣ハ即身即佛八足に八葉の蓮華をかたどり八功徳水自在を行とす、 智力を論なバ但馬の大鮹 松に纏し巴蛇を。根ぐる蒼海へ 引汐の。調理ハ御身等が腹にほふむり、 万葉集の妹許も芋を堀との雅言將近来 の童謡にも。蛸の因縁報きて。おてがなら てと唄しハ欲を離た悟にして。 足袋八足の入費を厭ぬ。 珎宝休位清淨無垢。しかハあれども 折々ハ浮気の浪に乗がきて生れ ながらに酢いな身と。我から身を喰 足をくふ。破戒の罪を侵せしゆへ 此程市場辻街に、身を起臥の優つとめ火宅の釜にゆであけられ。煮られて喰るゝ堕獄の苛責。必ずうらやむことなかれと。床を叩て諭せしハ實に百日の説法も。芋の放屁にきゆるといへる。電光朝露のお文さま。あら/\ゆで蛸、疣かしこ/\、
〈作者卵割|二代の蘖〉忍川市隱 岳亭春信戲誌「天蓋を身の\袈裟ころも八葉の\蓮華に坐せる\蛸の入道\みなそこに\こそりてありか鯛ひらめ\すくひ給へや\南無あみの目に\假名垣 魯文」 ▼15。
この絵に付された戯文は二代目の岳亭 ▼16 に拠って書かれたもので、魯文による二首の狂歌が賛として添えられている。蛸の豊漁で街中に多く出回った際の風刺画であるが、絵に付された文章のことを「填詞」と記している。
本来〈填詞〉とは、「漢詩の一體。樂府から變化した一種の詞曲で、樂府の譜に合はせて字句を填入したもの。宋末に詩餘といひ、明の呉訥及び徐師曾に至つて填詞といふ。一定の圖式により字を填めるからいふ。」(『大漢和辞典』)とあるように、中国の詩文形式の名称であった。
何時から、錦絵の賛や解説を〈填詞〉と呼ぶようになったかは定かではないが、「源氏雲浮世画合」(一勇齋國芳画、伊勢市板、改印「渡」〔弘化3〕、54枚揃)は、各巻に則して巻中歌を色紙風に記した下に、芝居の登場人物を一部役者似顔を用いて描き、花笠文京に拠る説明文が付されたもの。葵の巻は、
葵\はかりなき ちひろのそこの みるふさの おひゆくすゑは われのみぞ見ん
金王丸\水源清くして東に流れ。系圖正しき鱗の加茂ならねども。葵の影を首に戴き。源氏の籏の白を其まゝ。白魚と命し也。原来草分の江戸そだち。魚にして屋敷の地を給はる事。実に有が鯛といふとも。中々に及びがたし。獨活に白魚の魁ハ初春の一備にて見上る鯱金王童。手網に魚をすくはんより。奚内海に主家の難を救はざらんや
填詞 花笠外史
という具合にあり、全てではないが、その文末に「填詞」と記す。
また、「一席 東錦浮世稿談
幕府
ば く ふ の泰命たいめい 。泰山たいさん を輕かろし とし。壮士さ う し の馬術はじゆつ 飛鳥とぶとり を欺あざむ く。曲木ま が き につなぐ意こゝろ の駒こま 。心猿しんゑん 端綱は つ な を採とる ときんバ。愛宕あ た ご の石階せきがい 百段だん を短みじかし とせん。檀溪だんけい をこゆる劉りう 玄徳げんとく も。百生なり やつる一ひと すぢの意傳心いでんしん 。なんぞ藝術げいじゆつ の巧拙こうせつ に依よ らん。遮莫さばれ 曲木まがき の馬術ばじゆつ の精妙せいめう 。彼かの 小栗をぐり 氏うぢ が碁盤ごばん 乗のり の先手せん をゆく業わざ とやいはむ填詞 假名垣魯文
とあり、やはり「填詞」とある。
「〈春色|今様〉三十六會席」(山々亭有人・假名垣魯文戲述、一惠齋芳幾筆、亀遊堂・集玉堂・愛錦堂・亀松堂板、改印[巳四改]〔明治2年4月〕、36枚)は、序文に
花
はな ハ盛さか りに月ハ隈くま なきを見み て春秋しゆんじう 長きを楽たの しむハ東京とうけい の餘澤よ た く にして。九夏き う か の炎暑あ つ さ を兩國りやうごく の橋間は し ま 。隅田川すみだがは の中州な か ず にながし。玄冬げんとう の素雪そ せ つ を巨燵こ た つ ぶとんに眺なが めて。家根舟やねぶね の簾すだれ をかゝぐ四時し い じ 歡樂くわんらく 。その主しゆ とするハ食しよく にあり。 されバ割煮れ う り 通つう の通家つ う か を撰えらみ て。是これ に祥瑞しやうずい の歌妓う つ わ を添そゆ るは。惠齋けいさい 大人う し の筆頭ひつとう に發おこ り。並なら んで寸楮すんちよ に戲文け ぶ ん を述のぶ るハ。魯文ろふん 有人ありひと の兩兄りやうけい が筆端ひつたん に成な れり。此この 三子さんし 當世たうせい 画作くわさく 中ちう の三聖さんせい にして。所謂いはゆる 酢嘗すなめ の粋達すいたち なれバ流行りうかう 此この 画ゑ の中うち に籠こも り。製巧せいこう の美び 至いた れり尽つく せり。時製糟じせいそう の案内し る べ 。是これ より穿うが でるハなしとせん応需 秋津齋我洲戯述
とあるように、芳幾の絵に、山々亭有人と魯文が「填詞」している揃物である。
以上、見てきたように、弘化の源氏絵、慶応の講談、明治の割烹と、扱われる主題は変化するものの、「填詞」という言葉は定着してきたものと思われる。「填詞」以外の語彙では「記」「筆記」「酔題」「操觚」「暗記」「賛辞」「誌」「略傳」などが見られる。書き手の肩書きとしては「稗官」「舌師」「略傳史」などがあるが、要は戯作者たちである。
揃物として扱われる主題の中でも多いのが武者絵の系列であり
▼18
、歌舞伎や稗史実録に登場する虚実交えた英雄豪傑等が描かれるが、一作品の銘々伝でない限りは、様々な〈世界〉から取り込まれることになる。つまり、複数の原作からの選集
では、これらの揃物は一体誰が編輯企画し、如何なる人物を集めて配列したのであろうか。画像として粉本とすべきものは(上方)読本の挿絵や ▼19 、歌舞伎の舞台などであろうが、描かれる人物に相応しい衣装や姿勢、そしてその場面に見合う背景などの画面配置を按配した上で、人物と場面との説明が必要とあらば、やはり戯作者の教養知識が不可欠であろう。化政期以降の読本や草双紙も、全て作者が画稿を描いてから画工に清書を託していたことから考えて、文章入りの錦絵の場合も同様ではなかったかと推測されるのである。
現代の我々は当然のこと、当時の人々ですら知らないような〈英雄豪傑〉を描いた絵に関しては、人物と場面に関する説明文が付いていなければ、絵を十全に理解することができない。著名ではない人物を取り上げたのは何故であろうか。此等については、絵の粉本を博捜するのみならず、文章に就いても典拠研究や注釈を施して読む必要がある。また、絵と文とに内容的な齟齬が見られ、戯作者と画工との意思疎通がうまく行かなかったと思われる場合もある。錦絵は、浮世絵師の名前を商標として売るものであるから、文字通り〈絵が主で文が従〉なのであろうが、従来のように浮世絵師の業績として見做すだけでは不充分であろう。複数の戯作者が填詞を担当している揃物もあり、一概に画工か戯作者とのどちらが主導したかを決めつける必要はないかもしれない。いずれにしても、資本を先行投資した板元の企画制作
戯作者の逸文
近年になってインターネット上で急速に浮世絵の画像が公開されつつあり、本稿の執筆時にも、大型の重い美術書や図録を繰りながら、公開された浮世絵画像には大きな恩恵を蒙った。国会図書館、早稲田大学演劇博物館、東京都立中央図書館、立命館大学アートリサーチセンターなどのサイトには、検索可能なタグが付されてデータベース化された浮世絵画像が数万枚の規模で公開されている。書誌記述の精粗や画像の解像度の疎密の差はあるものの、海外の機関が公開しているものを含めれば、出版されている美術書を遙かに上回る画像が既にインターネット上で閲覧できると思われる。
ところが、填詞とその筆者に関しては関心がなかったのか、多くの書誌解題
ただし、絵巻研究でも同様であるが、浮世絵に関しても描かれている物品に関する関心は高まっており、画像内容検索の模索が始まっている ▼20。
しかし、文学研究の立場からいえば、ある一人の人物が書き残した言葉を、可能な限り蒐集したいという願望は断ちがたいものがある。填詞入り揃物錦絵では、柳下亭種員筆記とある「小倉・擬百人一首」(国芳画、伊場仙板、〔嘉永〕、100枚)や「曽我物語圖會
京伝・京山・三馬・馬琴・一九の賛が添えられた「豊国十二ヶ月」(一陽齋豊國画、鶴屋金助板、文化8年11月)は、鳥羽絵風の戯画で年中行事を描いたものである。文化期に活躍した戯作者達が一堂に会した珍しい揃物である。(次の図版と、各月の見出しとは、国会図書館サイトに拠る)
〈一月萬歳〉山東京傳「福来るかとに舞つゝ萬歳の 先笑はする春の山/\」
〈二月初午〉山東京山「初午
はつむま の時とき の狂画きやうぐわ の狐きつね つり いくこん/\もすぎた酒もり 」
〈三月花見〉山東京傳「人の散るそはからひらく弁當は 花に賑ふ春の野遊ひ」
〈四月初鰹〉式亭三馬賛「鳶飛て天にさらひ犬地に走る鰹の狼狽それ上下大さわきなるかな\ゆだんした跡では騒ぐ二本橋 棒にふつたる初鰹かな」
〈五月端午節句〉曲亭馬琴賛「 ほとゝきすなくや五尺のあやめ太刀 こしりを引てのきにさゝせん」
〈六月夏祭〉馬琴賛「 市中はこのみ草のみひやし麦 口に土用の入るあつさかな」
〈七月盆踊〉式亭三馬「 はつ雁にさきたち衆のひとつらは 夜風に聲のまよふ盆うた」
〈八月月見〉山東京傳「 空と水合せかゝみのつきあひは 月にさからふ雲もあるまし」
〈九月重陽〉式亭三馬賛「いにしへのなぞ/\に座頭の坊とかけて楠正成の紋ととけりそのこゝろはみずにきくなりといへりしざれことをおもへばかなは違へどもおもむきハたくみなり今はからずも此繪にかなひたるはをかし\ざとの坊わたるあたまの丸木橋 おい老 をせくなよ菊の下水」
〈十月恵比須講〉山東京山「 これもまた東あづま のにしき恵比寿ゑ び す 講こう 鳥羽と ば の筆意ひつい をお目にかけ鯛」
〈十一月婚礼〉十返舎一九賦「陰陽のふた柱といへとも陽にハはしらありて陰に柱なし蛤にハ貝の柱あり川柳点のやなき樽にみ子を見てふとしくたてる宮柱とよみたるは是陽のはしらなりされと爰にハ\ みやしろの大黒はしらなりけらし 大あなむちの神子の愛敬」
〈十二月煤掃〉十返舎一九賦「借金の山うしろに崩れかゝれともひくともせす質のなかれ前にさかまけともへちまともおもはす節分の悪魔をはらふ西の國に百万石のあるし顔して餅のかはりに嘘をつき煤とともに太平樂をはきちらして\ 戸障子をはつして見れは大廣間 大名竹に煤やはらはん」
というものであるが、それぞれの個性が出ていて興味深い。このような浮世絵師と戯作者との合作ともいえる錦絵揃物は、早くに寛政期から出されたのである。
以上、粗々としか述べられなかったが、近代文学風にいえば〈逸文〉とでもいえる此等の画賛や填詞入りの錦絵群は、文学研究としても無視するわけには行かない資料群であり、今後の研究課題となっているのである。
注 付記
▼1. 嘗ては「文化財の流出」などといわれてきたが、松野陽一氏は「現在海外各国の図書館・個人の所蔵する日本関係書籍は日本のものではない。(中略)基本的にはそれぞれの国の日本研究者が活用すべき資料なのである。」「在外書籍は既にそれぞれの国の文化資源です。ぜひその国の研究者と共同調査、研究の形をとって、それぞれの国の研究者による日本学研究の発展に寄与できるように配慮していただけたらと思います。これこそが「国際化」の本道なのではありますまいか。」(『書影手帖』、笠間書院、2004)と述べられている。浮世絵などに関しては、そもそも資料の価値を発見したのは西欧人であり、当時の日本人の扱いを認識することなく、被害者面して「流出」などというのは、傲慢な国粋主義的発想である。それは、一部の超保守主義者達に拠る太平洋戦争に関する被害者的な総括と同様に、甚だしく不見識であり、世界規範
▼2. 国文学研究資料館の各プロジェクトのほかに、十数年来継続している九州大学の松原孝俊氏や中野三敏氏等を中心とする海外和本調査プロジェクトや、立命館大学アートリサーチセンターの赤間亮氏等に拠る在外浮世絵や和書に関する調査プロジェクトなどが成果を挙げ、目録やデータベースとして公開されている。
▼3. 2004年以来、実践女子大学(文芸資料研究所)の佐藤悟氏等による「絵入本ワークショップ」が開催されており、絵や絵入本に関する文学と美術とを越境した国際的な研究交流の場として機能している。
▼4. 立命館大学アートリサーチセンターや国際日本文化研究センター等に拠る「春画プロジェクト」が成果を上げ、2009年にシンポジウム「近世春本・春画とそのコンテクスト」が、「林美一コレクション春画展」と共に開催された。また、石上阿希氏等に拠る「近世艶本総合データベース」も公開されている。これらは GCOE「日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点」の研究活動に引き継がれ、その成果の一端は2013年に大英博物館で開催された「春画展」に結実した。残念なことに、この「春画展」が国内で開催できる見通しが立たなかったのであるが、ようやく2015年秋に永青文庫で開催された。
▼5. ヴィクトリア・アルパート博物館のように19世紀末の錦絵を多数所蔵する蒐集も存在する。一級の芸術
▼6. 山口桂三郎「189 歌麿 教訓親の目鑑 もの好
▼7. 田代一葉『近世和歌画賛の研究』(汲古書院、2013)。
▼8. 国会図書館蔵(寄別2-7-2-3〜001)に拠る。
▼9. 文化元(1804)年5月17日に町年寄であった奈良屋市右衛門より「繪双紙問屋行事共、年番名主共え申渡」が出され、度々町触を出したが守られていないとして、「一枚絵草双紙類に天正以来の武者の名前や紋所、合印、名前を記すな。」「一枚絵に和歌の類いや景色の地名、相撲取や歌舞伎役者、遊女の名前は特に、その他の詞書きは一切書くな。」「絵本や双紙の彩色摺りは無用」という三点を禁じている。また、天保13(1842)年から弘化3(1846)年は天保改革により、特に厳しく役者似顔が禁じられるが、岩切友里子「天保改革と浮世絵」(「浮世絵芸術」143、2002、国際浮世絵学会)に拠れば、万延元(1860)年から役者名の記載された役者絵が再び出されるようになるという。
▼10. Chazen Museum of Art, University of Wisconsin-Madison.
▼11. 立命館大学アートリサーチセンター(Ebi0283)。
▼12. 高木元「末期の中本型読本 ―いわゆる〈切附本〉について―」(『江戸読本の研究 ―十九世紀小説様式攷―』、ぺりかん社、1995)参照。
▼13. 岩切友里子「歌川国芳「本朝水滸伝豪傑(剛勇)八百人一個」について」(「浮世絵芸術」138、2001、国際浮世絵学会)参照。
▼14. 前項、岩切論文で、武者絵が読本などからも取材し始める契機となった揃物である点に関して考証されている。
▼15. Museum of Fine Arts Boston, (11.41219a-b). William Sturgis Bigelow Collection.
▼16. 初代と混同されていた二代目岳亭については、「二代目岳亭の戯号・交友関係攷」(『近世文藝』100号、2014、日本近世文学会)を始めとする康志賢氏に拠る一連の研究が備わる。
▼17. 桃川燕山、一立斎文車、伊東凌潮、 旭堂麟正、神田伯龍、 柴田南玉斎、邑井貞吉、伊東湖琉、 田邉南龍、伊東花清、田辺南鶴、 伊東〓鶴、清草亭英昌、伊東燕尾、森川馬谷、伊東燕来、松林斎琴鶴、花井晴海、森川馬龍
▼18.菅原真弓「武者絵の十九世紀―葛飾北齋から歌川国芳へ」(『浮世絵版画の十九世紀』、ブリュッケ、2009)参照。
▼19.鈴木重三「月岡芳年筆「和漢百物語」解題」(町田市立国際版画美術館)参照。
▼20. 本多亜紀・内田保廣「浮世絵の構成要素を対象とする検索方法の検討」(共立女子大学総合文化研究所紀要第19号、2013 )や、武藤純子「歌舞伎の画証的研究―浮世絵データベースを活用して―」(科研報告書、2011)など一連の研究報告が出されている。
本稿の一部は絵入本ワークショップ VII (2014年12月20日、於 同志社大学)に於いての発表に基づく。また、内田保廣・佐藤悟氏には様々の御教示に与った。心より感謝申し上げます。