十返舎一九、式亭三馬、為永春水《道中膝栗毛》ほか

「娯楽読み物」の魅力
高 木  元 

19世紀の江戸では娯楽読み物が流行した。《道中膝栗毛》シリーズの十返舎一九、恋愛風俗小説を量産した為永春水らの作品に「消耗品」としての小説という文学の一側面を見る。

19世紀に江戸で流行した小説類は、洒落本・滑稽本・中本型読本・人情本・黄表紙・合巻・切附本という具合に多種多彩なジャンルの展開を示した。これらは後期戯作と呼ばれ、出版流通業の発展に支えられた娯楽大衆小説ではあったが、旧幕府から新政府へという転換期に、和装製板から洋装活版へとメディアを変えつつ、明治期にも継続して享受されていた。

近世文学の特徴は、内容と外観とが密接に関係した点にある。京坂中心の近世中期までは浮世草子のように、縹色無地表紙に標題を示す題簽を貼った大きく質素な装幀の本が多く、江戸での出版が盛んになる後期には小ぶりの華やかな装幀の本が多くなる。

これら後期戯作の普及は、地本問屋と呼ばれた錦絵などを扱う江戸の地方出版業者によって担われたものである。内容に則した装幀や版面はジャンルごとに顕著な特徴を持ち、主として大衆小説の標準である中本サイズ(B6判ほど)で流通した。たとえば洒落本・滑稽本・人情本は会話体、中本型読本は稗史小説を中心とする半紙本読本に対し世話物、草双紙は全丁絵入りの平仮名表記という具合であった。

これらのジャンルは互いに影響を与えつつ変化したが、明治期に活版印刷が普及し始めると、洋装活字本に適したものへと再編成されたのである。

後期戯作を中心になって担ったのは十返舎一九である。とくに東海道から金毘羅・宮島木曾・善光寺・草津を経て中仙道へと旅した弥次喜多の珍道中を描いた《道中膝栗毛》シリーズで全国に名を馳せた。この《道中膝栗毛》は長く読み継がれ多くの追従作やパロディを生んだが、作者の一九自身については、伝説化された逸話が実しやかに伝承され続けることになる。

 新企画にみせた独自の冴え

一九は後期戯作の全ジャンルを手掛け、多くの新企画を生み出した。浄瑠璃の作から始め、蔦屋重三郎に寄宿して出版システムを見聞きしつつ、絵師として錦絵を描いた。1795年(寛政7)に『心学時計草』など3作の黄表紙を自画作し、以後毎年多くの黄表紙を書き続けた。筆耕や画工を兼ねたので板元には重宝な作者であった。1796年(寛政8)の『化物・年中行状記』以降続々と化物もの黄表紙を出したが、1802年(享和2)の読本『深窓奇談』など怪談奇談集へと連なる時の流行に則したものである。

黄表紙から合巻への変遷にも一役を買い、長編化する黄表紙を合冊して「合巻」と銘打った『熊坂伝記・東海道松之白波』を1804年(文化元)に出した。草双紙と中本型読本との折衷様式を持つ幕末の切附本を先取りしたもので、以後、合巻という製本法に積極的だったのも一九であった。

一方、狂歌絵本を編んで挿絵を描き、洒落本や噺本の執筆をし続けた。1802年(享和2)に滑稽本『浮世道中・膝栗毛』の刊行が開始されるや、好評にて以後20年にわたって書き継いだ。この間に往来物や紅摺絵本、和歌書などを出す。中本型読本の作も多いのであるが、未完作が目立つ。

文政に入り、1820年(文政3)に人情本の嚆矢となる『清談峯初花』を出すが、これは貸本屋を通じて流布していた素人作の写本『江戸紫』をリライトしたもので、往来物などの実用書と同様に、一九の盛名を利用した板元の賢しらであった。が、後期戯作の持つ商品性を考慮すれば、あえて咎めだてされる筋合いのことでもなかったはずである。

 自分の発案と自慢

 式亭三馬は、『浮世風呂』(1809〜1813年)などの滑稽本作者として有名。『麻疹戯言』(1803年)以降、酒癖を扱った三部作『酩酊気質』(1806年)、『七癖上戸』(1810年)、『一盃綺言』(1813年)や、『四十八癖』(1812〜1818年)などは人間の性癖を描いたもの。また『戯場訓蒙図彙』(1803年)などの劇書と、その流れを汲む『忠臣蔵偏痴気論』(1812年)など、多くの中本こつけいぼんを出した。

1794年(寛政6)に黄表紙『天道浮世出星操』を出したのを始めとして、自画作を含めた多数の草双紙を書いており、草双紙作者としても優れていた。ただ、『侠太平記向鉢巻』(1799年)では火消人足の喧嘩を寓したことから筆禍を蒙って暫くは筆を爛くが、享和以降再び精力的な執筆を始める。1806年(文化3)に合綴して刊行された黄表紙『雷太郎強悪物語』は悪漢小説風の作で大当たりした。三馬は合巻体裁の草双紙が自分の発案であると自慢げに記している。その当否は措くとして、本作が合巻体裁の定着に大きな影響を与えたことは間違いない。

 自作で化粧水広告も

1808〜1809年(文化5〜6)には「絵入かなばかりのよみ本まがひ合巻」と呼ぶ『両禿対仇討』『昔唄花街始』『侠客・金神長五郎忠孝話』という3作の長編ものを出し、また「大合巻」と銘打った『おとぎものがたり』は半紙本6冊に3作の合巻を合冊したものであるが、これら草双紙を読本化する試みは定着しなかった。

1810年(文化7)の読本『阿古義物語』は、未完で完成度こそ高くないが、江戸読本のエッセンスが詰め込まれていて面白い。造本も大層凝っていて、とりわけ初摺本に付されたエッチング風の意匠が用いられている扉は大変に精巧な彫りで、これを担当したのは三馬の実父・菊池茂兵衛であった。報条(広告)や景物本(景品)などの広告も手掛けたが、自らも化粧品や薬品などを売り出し、なかでも「江戸の水」という化粧水は大好評で、1812年(文化9)には『江戸水福話』という合巻を出す。このように、自作の出版物を広告媒体として利用することも、当時の戯作者たちの通例であった。

 為永工房による量産

人情本の元祖と称した為永春水は、貸本屋や青林堂・越前屋長次郎という書肆を営んでいた。三馬に入門し三鷺と号し、また2代目振鷺亭とも号して伝奇的な人情本や読本合巻などを綴っていたが、瀧亭鯉丈や駅亭駒人、鼻山人らとの合作や代作が多かった。為永春水と名のったのは三馬没後の1829年(文政12)からであった。

『春色梅児誉美』(1832〜1833年)によって人気作者としての地位を手に入れる。『春色辰巳園』(1833〜1835年)、『春色恵の花』(1836年)、『春色英対暖語』(1838年)、『春色梅美婦禰』(1841〜1842年)という一連の《梅児誉美》シリーズは、美麗な表紙に色摺の口絵を備えた女性向きの装幀によって人気を博した恋愛風俗小説であった。

これらは「為永連」と呼ばれる門人グループによって量産されたもので、人情本は為永春水というブランドで、滑稽本の方は松亭金水というブランドで出すという、文字通り消費される大衆小説を供給する工房によるものであった。

この人情本の流行も、1842年、天保の改革に際して春水が手鎖50日の刑を受けて失意のうちに翌年没してからは急速に下火になり、2代目梅暮里谷峨や山々亭有人らによって明治期の通俗的な風俗小説へと繋がっていくことになる。

(高木 元)


◆弥次喜多像『道中膝栗毛発端』より
喜多川月麿画。門人等の賛が入っているが、一九の作とも見做されている。本書は『東海道中膝栗毛』完結後の1814年に本編から独立して発行されたもので、初編に一九自身が描いた弥次喜多とは多分に趣が異なる。東京、早稲田大学図書館蔵。

◆通油町の蔦屋重三郎店 『画本東都遊』(1802年)より
葛飾北齋の描く絵草紙店。暖簾に「耕書堂」、店先の看板には「紅絵問屋」とあり、店内に錦絵が積み上げられている。『画本東都遊』は狂歌集『東遊』(1799年)に彩色を加えた改題後印本。早稲田大学図書館蔵。

◆十返舎一九自画賛
一九は器用な人で、自画作はもちろん、自ら筆耕までこなした作もある。画賛も乞われるままに数多く描いたようだ。上戸の一九らしく、酔狂の体に自作の狂歌「一生を人にのまれずひとをのむくちに耳まで酒の一徳」を添えている。神奈川、東福寺蔵。写真 集英社

◆『化物太平記』
1804年、山口屋板の黄表紙。この頃化物草双紙が流行、一翼を担ったのが一九であった。本作は摘発され発禁そして絶板となった『絵本太閤記』を戯画化し、秀吉を蛇、信長を蛞蝓、蜂須賀小六を河童などに見立てたもの。当然、本作も絶板となり、一九も手鎖50日の処罰を受けた。都立中央図書館蔵。

◆『十返舎一九戯作種本』画題簽
1798年の黄表紙、榎本板。書物の見返しなどに縁起を担いで捺される魁星(文章を司る星)印に擬す。筆を持った鬼が右足を龍の上に乗せ、左足は升を後方に蹴り上げ、背後には星を配すという定型を踏まえ、鬼を作者に替えている。都立中央図書館蔵

狂歌刷物
文政末頃、歌川国貞画。宿屋飯盛(石川雅望)を中心とする五側と呼ばれた狂歌グループが作成した歳旦の配り物。歌舞伎『菅原伝授手習鑑』の「車曳きの段」を見立て、左から桜丸(菊五郎)・梅王丸(団十郎)・松王丸(幸四郎)を役者似顔で描く。狂歌は戯作者の嗜みでもあった。個人蔵。

◆『江戸水福話』
1812年の合巻、歌川国貞画、鶴屋金助板。式亭三馬が売り出した「江戸の水」という化粧水などを商う売薬店の賑わいを描く。軒下の水引き暖簾に「式亭正舗」とあり、左には「江戸の水」の看板、右には「仙方延寿丹」と書かれた日除け暖簾も見える。国立国会図書館蔵。

◆『阿古義物語』前編
1810年刊の式亭三馬作の読本の見返し。「尋常ノ左面版五枚ヲ摺合シテ紅毛銅版ノ細密ヲ偽刻ス 工夫ハ三馬并二写ス雕工ハ菊地茂兵衛 摺工ハ信濃長蔵ナリ」とあり、「あこきの歌」をローマ字風に入れる。左下に「擬紅毛銅版三馬自製造」とあり三馬の凝り性ぶりが知られる。『絵入文庫』より。

◆『春告鳥』
為永春水作、歌川国直画。1836〜37年、丁子屋平兵衛板。「東都人情本の元祖」と序文に記し、『春色梅児誉美』の春水が、名実共に人情本のブランドとして定着した頃の作品。当時流行を描いた彩色摺の口絵は、読者として想定された若い女性の目を惹き付けたに相違ない。早稲田大学図書館蔵。

◇十返舎一九(1765〜1831)
本名は重田貞一。菩提寺は東京・中央区の東陽院。膝栗毛もので有名であるが、絵や筆耕も自分でこなした草双紙や、洒落本、人情本なども残している。

◇式亭三馬(1776〜1822)
本名は菊地泰輔。菩提寺は東京都目黒区の正泉寺。『浮世床』初〜2編(1813〜1814年)など滑稽本で有名であるが、実は独特の作風を見せた草双紙作者としての仕事も優れている。

◇為永春水(1790〜1843)
本名は鷦鷯(佐々木)貞高。菩提寺は東京都世田谷区の妙禅寺。書肆から実作者になり門人たちによる工房を作って人情本を流行させた。

◇作品紹介 《道中膝栗毛》(1802〜1822)
十返舎一九の代表作。好評を博し続編を含めて43冊の長編となった。東海道から金毘羅詣で、宮島参詣、木曽街道、善光寺道中、上州草津温泉道中と続いて、享和2年の初編から文政5年の続編第12編まで、御存知の彌次喜多が江戸に戻るまでに21年を費やすことになった。旅先の名所旧跡や風俗等を描くというよりは、道中のドタバ喜劇に狂歌や狂詩を散らした通俗読み物という感が強い。現代の我々から見ると、話柄自体が低俗で、その上その笑いは少なからず差別的であるとの印象は拭えない。東海道中が完結した後の1814年に付け加えられた『道中膝栗毛発端』1冊には特にその傾向が強い。いずれにしても、一九の代表作として長く読み継がれてきたことは事実で、その追従作も少なくない。また、『方言修行金草鞋』(1813〜1834年)は、滑稽本の道中記という趣向を合巻化してみせたもので、絵のウエイトが重い分こちらは名所案内記風の要素がやや強い。

●滝亭鯉丈(?〜1841)/●鼻山人(1791〜1858)/●梅暮里谷峨・2代目(1826〜1886)/●山々亭有人(1832〜1902)
(参考図書)「十返舎一九集」(棚橋正博校訂、国書刊行会、1997)/「式亭三馬集」(棚橋正博校訂、国書刊行会、1992)/「人情本集」(武藤元昭校訂、国書刊行会、1997)−いずれも叢書江戸文庫/「式亭三馬」(棚橋正博著、ぺりかん社、1994)/「十返舎一九」(棚橋正博著、新典社、1999)



#「娯楽読み物」の魅力 十返舎一九、式亭三馬、為永春水 《道中膝栗毛》ほか
# 週刊朝日百科 世界の文学88 日本II「南総里見八犬伝」(2001.4.1 朝日新聞社)
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