書評『組版/タイポグラフィの廻廊』(府川充男ほか著、白順社)
高 木  元

府川充男氏畢生の超大著『聚珍録 圖説=近世・近代日本〈文字−印刷〉文化史』(2005年2月、三省堂)の刊行から3年、本来はその販促を意図して編まれたという『組版原論 タイポグラフィと活字・写植・DTP』(1996年4月、太田出版)から12年もの歳月が過ぎようとしている。この間に和文組版の現場には、写植からフル・デジタル化されるという書物作りに関する革命的な環境変化がもたらされた。このような状況の下、前著『印刷史/タイポグラフィの視軸』(2005年10月、実践社)が入門書を装った論文集であったとすれば、本書は広義のタイポグラフィ=組版(図書の構造設計全般)の現場を担う人々に対して、とりわけ写植における組版の手捌きを知らない世代に対して、改めて啓蒙的な問題提起を意図して編まれたものである。

巻頭「タイポグラフィーの視線」は、若干の図版を差替え省略し、一部字体の変更を伴っているものの、内容的には12年の歳月を経たにもかかわらず一向に色褪せることなく、はなはだ新鮮である。ここでは、書記法や印刷組版に関する具体例を挙げて実証的考察を施し、歴史的意味に対する基本的な智識の欠如に拠り本来的文脈を逸脱して誤用されている物事に対しては厳しく揶揄し批判を加える。加えてタイポグラファーとして要求されるセンス(美意識)と哲学(美学)について、所詮先験的な規範などあり得ず経験則でしかない歴史的経緯というものを、いたずらに絶対化することなく、ありのままに認識した上で、なおかつ組版規則(哲学)もまた不可欠であるとする。この両者の瞹昧でいて危うい関係は、今後も普遍的課題であり続けるはずである。

一方、組版現場での漢字に関わる問題に対してもその見識が問われている。我が国の不見識な国語政策と不定見な日本工業規格との狭間で、組版の現場でもお莫迦な仕事が多く見られることに対する批判は正鵠を得ている。ただし問題の所在は、当然のことではあるが所謂「拡張新字体」だけではない。漢字字体の問題の根柢には、人が書く文字と印刷される文字との乖離という、極めて現実的な現象に対する冷静な洞察が備わっている。この指摘は写本板本と活字本との間に永久に存在する差異の指摘でもあり、メディア史に対峙する時に不可欠な認識であることを示唆している。

近年『アイデア』誌に連載された「和文活字を見る眼」という一連の座談会、すなわち『異体字の世界』(河出文庫)の小池和夫氏との「字体を見る眼」、『明朝体活字字形一覧』(文化庁文化部国語課)の小宮山博史氏および日下潤一氏との「仮名と書体を見る眼」、前田年昭氏との「約物と組版設計を見る眼」も、問題の所在を整理して明らかにした上で、具体的な事例を提示しつつ原則的な価値観を提示しており、同時に最新の情報に満ちていて興味に尽きない。

また、巻末に据えられた大熊肇氏の「字体の変遷−甲骨文から常用漢字まで」は、『説文解字』や『康煕字典』を絶対視して形成された多くの常識を、実際の用例を博捜することに拠って覆した新見に満ちた労作である。「既知の智識を無批判的に絶対化すべきではない」という本書の一主題に、一層の重みを加えたものといえよう。

(たかぎ・げん=千葉大学教授・国文学専攻)


# 書評『組版/タイポグラフィの廻廊(府川充男ほか著、白順社)「週刊読書人」2731号 2008年3月28日号掲載
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