書評『本と活字の歴史事典』
高 木   元 

それにしても本や活字という物は何故に斯くまで人を惹き付けるのであろうか。

印刷史研究者6人による論考が納められている本書は、B5版2段組510頁という甚だ大部な論文集で、多数の貴重で美しい資料図版が惜しみなく掲出されている。それ故に通読するだけでも少なからぬ精力が要求されるのであるが、まずは執筆者達の活字に対する熱い想いに圧倒される。のみならず、いずれの論からも究めて精緻な実証的手捌きが垣間見え、従前の研究史を書き換える新見に満ち溢れている点にも驚かされる。

とりわけ既に執筆者等にとっては常識となっている事柄であるようだが、本木昌造神話から解放された視点での印刷史観は、我々を全く新しい地平に導いてくれる。例えば日本で最初に活字を製作したのが本木昌造であるという「伝説」が捏造されたものであるという指摘に留まらず、その生成過程までが精密な考証によって明らかにされている。また三谷幸吉が説いた鯨尺に基づいた号数制を本木が発明したという「定説」も、実は上海にあった北米長老派印刷所美華書館の館長ウイリアム・ガンブルが導入したフールニエ・ポイントが日本に持ち込まれたものであったことまで、1点の疑いもなく解き明かされている。

印刷史に限ったことではないが、必要以上に修辞的な歴史記述は発展史観的文脈で偉人伝説を生み出すことがある。その一方で等閑に付されていた大鳥圭介・島霞谷・志貴和介等の業績を精確に確認し、幕末から明治初期に至る活字開発の実相を現存する資料と言説から復元していく作業には軽い興奮すら覚える。

従来の近代文化史は、この活版印刷の発展における技術的側面のみを個人の業績として過大に評価してきた嫌いがある。もちろん20世紀を代表する劃期的な技術の実用化であることは間違いないのであるが、基本的に経済原理に拠らなければ成立しなかったものである。近世期の製版による出板が仏書や実用書の需要に見合って進捗したように、明治期には兵学書や医学書、官報などの需要に則して発展してきた。そして淵源には西欧における分合活字の工夫などを経た中国沿岸部でのミッションプレスの活動などの蓄積が存在したという指摘は、文字通り世界的視野のなかで鳥瞰的な視座を提示しているともいえよう。一方時間的にも近世初期のきりしたん版や駿河版の研究を始めとして、幕末の洋書の書誌学にまで及ぶ息の長い金属活字の歴史が示されている。また活字書体史という視点から、視認性や可読性といった実用性を見極めつつ明朝体という書体の標準化の追求がなされたことも、偏執的といい得るほど詳細な資料収集の成果の提示によって一目瞭然である。

興味深いのは、印刷術に不可欠な実用性が芸術性と相半ばして存在している点で、職人としての技術や見識と同時に美的なセンスが問われるという側面があり、この点が人を惹き付けて止まない魅力の一端なのかもしれない。この想いは本書の造本を眺めているとより一層強くなっていったのである。

最後に、ないものねだりになるが、本自体についての言及が少ないのが残念であった。所謂「南京綴じ」など初期洋装本の製本技術の解明が進めば、より一層明治以降の活版本が物として起ちあがる現場が見えてくるものと思われるからである。

(千葉大学教授 国文学専攻)


『本と活字の歴史事典』
(印刷史研究会編、柏書房、2000年6月5日、ISBN4-7601-1891-8 C3521 \9500E)


# 「週刊読書人」2351号(2000年9月1日号)掲載
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