デジタル環境下における国文学

高 木  元 

人文学にデジタル技術を活用する「デジタル・ヒューマニティーズ(以下DH)と呼ばれている学問分野が確立している。国内では立命館大学が昨年度よりグローバルCOEを獲得し「日本文化DH拠点」形成へ向けて精力的な活動を行っている。

もとより国文学(日本文学)のみならず人文学と情報工学との協調を目指したもので、国内のみ成らず世界各地に散在する一次資料の画像データや芸能の動画等を蒐集してアーカイヴ化し、そのメタデータ(書誌情報)のデータベース化を目指している。ただし、デジタルカメラで撮影した画像データに書誌情報を付加して公開するといっても、撮影現場での経験蓄積が不可欠である。我々素人が撮った画像とは比較にならない程の品位で撮影するためのノウハウと、撮ってきたデジタルデータのホワイトバランス調整などの画像処理技術を一朝一夕で修得することは不可能である。それらのノウハウの伝承を、大学院生などに対する教育プログラムを通じて実施している点も見逃すことができない。具体的なプログラムとその成果については、立命館大学のサイトで逐一公開されているのでご参照いただきたい。

一方、天理図書館では3年間連続のステップアップ式「天理古典籍ワークショップ」が開催されてきた。国際交流基金の助成を受けつつ、ヨーロッパやアメリカなど世界各地の日本古典籍を所蔵する機関の現場担当者20人ほどを集めて開かれたものである。天理図書館の蔵する素晴らしい原資料を用い、永年に亘ってその整理を担当してきた天理図書館員等に拠る講義と演習とは、世界各地で孤立して奮闘している担当者達にとって、具体的な資料整理の智識と技術を得るために甚だ有意義なプログラムであったはずである。

現在、日本古典籍のデジタルアーカイブ化が積極的に進められ、国会図書館の近代デジタルライブラリーや早稲田大学図書館の古典籍総合データベースなど、インターネット上で広く公開する機関が増加しているが、撮影やインターフェイスなどの技術的な問題はさることながら、現資料の整理や目録作成(データベース化)には、伝統的な書誌文献学の蓄積に基づく知見が不可欠のはずである。

ところが、国内の大学から「国文学」という学科や専攻が急速に消滅しつつある。勤務先の千葉大学文学部も「国文学科」は「日本文化学科(現在は人文学科日本・ユーラシア文化コース)」へと改組されて久しい。文学研究の有様はメディア史や社会史などを視野に入れた広がりのある学問へと急速に変化してきたにもかかわらず、「文学離れ」という受験生の嗜好におもねった「改称」という小手先の姑息な「改組」に過ぎなかったはずであった。しかし、この状況が10年以上続いてきた現在、困ったことに書誌文献学という従来は国文学がその一分野として担ってきた学問を継承する教育システムが破壊され途絶えてしまったのである。

司書資格を取得できる大学も増えてきたが、まともな古典籍の扱いを教えられるシステムを持っている鶴見大学のような機関は少ない。中野三敏氏が提唱する「和本リテラシー」という、たかだか100年ほど以前に流通していた書物を読んだり扱ったりする能力を教育できる場を早急に再建しなければ、我が国の古典籍を扱える専門家が絶滅してしまう日も遠くないであろう。

たとえインターネット上で世界各地の一次資料が参照できるようになっても、実物を一見したことがなければ具体的な質感などのイメージは得られないだろうし、まして活字化されていない文献資料が大部分である現在、崩し字が読めないのでは利用したくてもできない。

ひるがえって我々の書誌調査も、嘗てないほど効率的に調査が進捗できるようになり、大量の情報が容易に入手できるようになってきた。その一方で蒐集した膨大なデータを整理する時間が得られないというジレンマに陥っている。と同時に、鈴木重三氏のように四十年前に一見しただけの本の細部に就いてまで記憶に留めることなど、我々には到底できなくなってしまった。

果たしてこのようなデジタル環境の発展進歩が本当に仕合わせなことなのかどうかは、今はまだ分からない。


# 「日本古書通信」2009(平成21)年8月号 第961号 所戴
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