草双紙合巻の史的変遷については、早くに鈴木重三氏の提示された時代区分(「合巻について」、大東急記念文庫、1961年)が備わるが、これを要約しつつ多少修正を加えて、
揺籃期 文化元年〜文化6年 短編読切
定着期 文化7年〜文化14年 短編読切
発展期 文政元年〜文政6年 短編読切が中心
転換期 文政7年〜天保14年 短編長編の併存
沈滞期 弘化元年〜明治9年 長編続物が中心
終息期 明治10年〜明治20年頃 新聞雑誌へ解消
という具合に整理できる。〈発展期〉が始まる文政元年や〈転換期〉が終わる天保14年には刊行数が極端に減っていて、ジャンル変遷の劃期として政治改革や取締りの影響が見られる。さらに〈沈滞期〉は、天保改革により株仲間が解散された後、嘉永4年の仮組として新興地本問屋が多数開業し、その結果として長編合巻が陸続と出し続けられることになる。蔦屋吉蔵「明治7年甲戌陽春開板標目」には11種の長編合巻が列挙されており、明治期後印本特有の黄色無地表紙を持つ辻岡文助求板『水鏡山鳥奇談』(秀賀作、國周画、元治2年原刊)の見返しには「假名垣魯文著\明治十四年四月新刻」と見え、〈終息期〉に入ってからも、長編合巻の続編のみならず旧作の後印本が出し続けられていたことがわかる。
さて、明治10年代に入ってから1編3冊(各冊9丁)という様式で刊行された草双紙については、佐々木亨氏の継続的な業績が備わり、「従来の〈江戸式/東京式〉合巻という呼称は文学史用語として相応しくない。すべからく〈明治期草双紙〉と称すべし」という提唱がなされており(早稲田大学モノグラフ21『明治戯作の研究―草双紙を中心として―』、早稲田大学出版部、2009年の序章参照、初出は「活版草双紙の誕生」、国文学研究資料館紀要32号、2006年など)一応は首肯すべき説だと思う。
以下、当時の資料に見られる言説を追いつつ検証してみたい。まず、梅星叟乙彦『新門辰五郎游侠譚』2編自序(明治12年5月、聚栄堂・文栄堂合梓)を見ると
草双紙を合巻と稱ふるハ、原五枚一冊を、二冊合して一冊とし、四冊を上下二冊一帙に、製したれバ〓いふなり。然るを方今の草双紙をも、書肆ハ是亦合巻と、稱ふるハ謂なし。(中略)文明の今日に至り、九枚三冊一帙の、製本と做るを以て、之をこそ九三草紙の、稱謂を得たれと云ハまく耳。(中略)遮莫傍訓新聞の、續雜報を再綴なる、世話狂言の新奇を競ふ、少壮編輯先生方にハ迚も及ばぬ梅星叟
とある。
9丁3冊だから「九三草紙」だという与太話は措いて、合巻の原義に触れて「明治期の板元がいう合巻は本来の合巻ではない」という点は正論である。
現に、「今度一帙三冊の合巻に綴りなして、三編を以て大尾となし」(伊東専三『水錦隅田曙』、明治12年、金松堂、3編自序)、 「是を晴着の合巻に……三袋揃ひ三枚着に」(同『綾重衣紋廼春秋』、明治12年、金松堂、初編自序)、 「濱の真砂のかず/\ある、合巻ものゝ賣口よき二三の中へ算へられ」(久保田彦作『浪枕江の嶋新語』、明治13年、延壽堂、3編自序)、 「巧妙を得し此合巻」(武田交來『霜夜鐘十時辻筮』、明治13年、錦壽堂、4編芳川春濤序)、 「余が机下の壮史渡邉文京彼顛末を筆記して本社新聞毎號に掲載する処書肆金松堂切に乞て別に合巻の小冊に製し」(文京舎文京『名廣澤邊萍』、明治13年、金松堂、2編金花猫翁序)、 「此合巻を綴れとある錦榮堂が切なる頼みにヲツト承知ハするものゝ」(梅素薫『黒白論織分博多\色成楓夕栄\僞甲當世簪』、猿若座當狂言・3冊讀切、明治15年、錦榮堂、自序)などという具合に「合巻」の用例は枚挙に遑がない。
しかし、「一向正史にのみ因バ、合巻の御花主にハ、倦れて不向なる故に」(桃川燕林編輯『賞集花之庭木戸』、明治13年、金松堂、2編轉々堂主人序)、 「此合巻」(久保田彦作『荒磯烹割鯉魚腸』、明治14年夏、青盛堂、叙)、 「河竹氏が。新作の仕組を。そつくり其儘やき直し。即席合巻の上下綴にと」(野久和橘莚『月梅薫朧夜』、明治21年、栗園堂、自序)、巻末「このきやうげんの合巻」(同前)というように「合巻」と訓む場合もあった。
ならば、武田交來の正本写に頻出する「演劇とともに此草双紙も瓢箪/\」(『鏡山錦〓歯』、明治12年、錦榮堂、自序)、 「世話演劇、其脚色に挿畫をした、相も変らぬ草双帋」(『星月夜見聞實記\霜夜鐘十時辻筮』、新富座新狂言、明治13年、錦榮堂、自叙)、 「舞臺の形容夫を其侭復冩て當今流行る草双紙になさんと錦壽堂の主人が目論見」(『霜夜鐘十時辻筮』、歌舞伎新報抜萃、明治13年、錦壽堂、初編自序)、 「初春きやうげん毎日替る手習鑑、けいこがてらの草双紙も源蔵ならぬ筆耕の業を兼たる吉書始め」(『松梅雪花三吉野』、新富座新狂言、明治14年、錦榮堂、自序)など、正本写に用いられている「草双紙」とも意味が通うものと考えられる。
一方、『新門辰五郎游侠譚』の叙で「傍訓新聞の、續雜報を再綴なる、世話狂言の新奇を競ふ、少壮編輯先生方」という部分は、「草双紙の趣向に於るや、黄表紙の滑稽其色と共にさめ、覆討流行せしが、其後竒術の賊話しも、柯空を論じて幼稚衆も手にとらず。依て繪入新聞の内、人情ものハ箱田の大人が、妙筆を抄録為ものハ月兎泥亀池の編輯人」(篠田仙果『藻汐草近世竒談』、明治11年、青盛堂、初編自序)とあるように、新聞記事の抄録(再綴)をすることを「編輯」と称している。また、岡本起泉の「兼て東京新聞にて御評判に預りし毒婦お竹が來歴を幻阿竹噂聞書と題し三編讀切の古今無類極面白き冊子に綴り引つゞき出板仕り升れバ高覧の程を願ひ上升」(『澤村田之助曙草紙』、明治13年、島鮮堂、5編巻末)という自作の予告が見られ、同様に新聞記事を「近頃流行三編讀切」(久保田彦作『浪枕江の嶋新語』、明治13年、延壽堂、初編自序)にして出すといっている。
この「三編讀切」という明治期草双紙の新形式は久保田彦作『鳥追阿松海上新話』(3編、明治11年、錦榮堂)を濫觴とするといわれてきた如く、「鳥追阿松の新作から、稗史の廢れを興し、當今流行の讀法に、折衷たる功績ハ、是なん久保田先醒が、假名讀記者の繁机の餘暇、硯の海の干潟を開墾き、鋤鍬ならぬ筆頭もて、耕す文の熟實よけれバ」(同『菊〓延命嚢』、明治11年、錦榮堂、3編、岡丈紀序)とあり、さらに同4集自序に「亦第四編を版元の、錦栄堂が頻りと催促。是も昨年鳥追於松が、稀の當りの味をしめ、再び苗字の大倉入、利潤を得んとの結構なれど、あれハ所謂僥倖、决して僕が功にハあらずと思へど聊か己惚て、扨此編の筆を執り、調度九月の發兌に、大吉利市の斧琴を、きくを力と有の侭」などと述べている。この「稗史の廢れ」は、江戸期からの所謂合巻の衰退を謂っているのである。
さて、衰退の原因については、「疾が勝の今の世の中。合巻もまた時世に連れ初編を出せバ引續いて、二編三編結局まで、間なく出さねバ看客方が、飽て後さへ見たまはず」(伊東専三『月雲鳫玉章』、明治15年春、青盛堂、初編自序)とあるように、長編合巻の冗長な筋立てと長期にわたる刊行が時勢に合わない上に、平仮名ばかりの表記にも起因していたものと思われる。となると、川上鼠邉序「流行の三冊合巻の讀切に著たる趣向」(春亭史彦『白糸主水・戀情縁橋本』3冊、明治14年、金永堂)などの謂いから、「草双紙類一代記讀切本類品々」(明治11年『五人殲苦魔物語』初編、延壽堂、奥目録)の「草双紙」は(江戸から続く)合巻を、「讀切本」は明治期草双紙(切附本)を意識した謂いであると考えて良いのかもしれない。
しかし、明治期草双紙を意味する用例としては、「講談に演ずる群馬縣の新説を繪入讀本に編輯せよと需に應じて」(松林伯圓『新編伊香保土産』2編、明治12年1月、松延堂、自叙)や、 「此稗史は奇中の奇を示して」(岡本起泉『花岡奇縁譚』初編、明治15年2月、嶋鮮堂、芳川春濤序)、 「今流行の三冊物に、……繪草紙の、趣向ハ實ある花紅ひ」(川上鼠邊『腕競心三俣』3編、明治13年4月、金松堂、初編魯文序)等が見い出せ、「絵入読本」「稗史」「絵草紙」等ということもあった。(ちなみに『腕競心三俣』3編下冊(8ウ9オ)に金松堂(辻岡文助)の店頭が描かれている。)
様式的には切附本が先行する明治期草双紙(拙稿「草双紙の十九世紀−メディアとしての様式−」、『江戸読本の研究』所収、ぺりかん社、1995年)の発生に関して、佐々木亨氏は明治10年に集中的に刊行される西南戦争ものの影響を明証している(早稲田大学モノグラフ21『明治戯作の研究―草双紙を中心として―』、早稲田大学出版部、2009年参照、初出は「西南戦争と草双紙」、「近世文藝」69、1999年)が、一方で江戸以来の伝統を持つ正本写の系譜も考慮に入れる必要があるかもしれない。例えば、「狂言の筋書ハ歌舞伎新報の株に等しく尚亦目今賣出しの諸藝新報の社に於ても活版を以て直に摺立遅速を争ひ刊行なせバ今の世界に劇場の合巻抔ハ因循ならんと版元の主人に断りしも是ハ子供衆のお眠気覚しに御覧に入る草紙なれバ画組ばかりで苦しからずと再應の依頼に任せ聊餘白の埋草に荒筋のみを綴合せ……」(竹柴琴咲『御殿山桜木草紙』、明治14年、榮久堂、自序)とあるが、「劇場の合巻」とは市村座の正本写で10丁2冊もののことである。江戸時代の正本写は台帖風であったが、次第に筋書風に変遷することになるが、紛れもなく合巻体裁(10丁1冊)を継承しているのである。
実際のところ10丁1冊を単位とする明治期の合巻も少なくないのである。『大久保仁政談』(第1〜4号、各8丁、明治11年、紅木堂)、『時代模様鼠染色』(20丁2冊、明治14年、松延堂)、『心筑紫博多今織』(10丁3冊、後補奥目録に宮田伊助)、『筑紫潟箱崎文庫』(20丁2冊、永島孟齋畫、松延堂)、『梅加賀金澤實記』(20丁2冊、松延堂)、『伊達評定奥之碑』(20丁2冊、松延堂)、『大久保政談 松前屋五郎兵衛一代記』(2編20丁、明治14年、宮田孝助)、『おしゆん傳兵衞・赤縄の猿曳』(上下2冊各10丁、國政画、明治16年、関根孝助。後印「明治20年1月\沢久次郎」)等々、赤色を基調とする安っぽい摺付表紙を備えた草双紙で、多くは大西庄之介(松延堂)板である。これら文字通りの合巻に関しては調査が充分に及んでおらず、今後の精査が必要である。
新しい様式の明治期草双紙が明治10年代に大量に出され、京阪の活字版や、轉々堂主人『巷説兒手柏』(2編4冊、明治12年、文永堂)や同『松之花娘庭訓』(全3冊讀切、明治12年、具足屋)等を先駆として、20年代に入ると次第に活版化してゆくことになるが、活版のものは全丁に絵が入っているわけではなく、最早〈草双紙〉とは呼べない。つまり、固より〈東京式合巻(活版草双紙)〉など存在し得なかったのである。その一方で、萬亭應賀の美麗な新刊合巻と平行して、全丁絵入の切附本の如き廉価な合巻が出し続けられていたことも忘れてはならない。
なお、本稿の主旨については拙稿「十九世紀の草双紙―明治期の草双紙をめぐって―」(隔月刊「文学」第10巻第6号、2009年11・12月号)に具体的に展開したのでご参照いただきい。
(たかぎ げん・千葉大学教授)
#「草双紙の〈明治〉」(日本古典文学大系《明治編》『明治戯作集』月報 2010年2月)
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