櫻姫全傳曙草紙等の〈清玄〉
高 木  元 

清玄の悲劇は、偶然に桜姫の姿を見てしまったことから始まった。

春爛漫の清水寺の境内、清玄の眼が艶やかな桜姫の姿を捉えたその瞬間「一陣いちゞん冷風れいふうさとふきおろしてこずへはなをちらし清玄せいげん皮肉ひにくにぞつとひえとほる」と、清玄は深い恋の淵に陥ちてしまった。一旦その美しさに魅せられてしまった心は、どう足掻いても取り戻しようがなく、かなわぬ想いは次第に募って執愛と化し「わが執着しうぢやく一念いちねんにていづくにありともたづね出しおもひをとげておくべきか」と寺を出る。時は過ぎ、零落して鳥部山の菴室で墓守をしている清玄の前に桜姫の棺が運ばれてくる。死してもなお美しい遺体に無常を観じて流した清玄の涙が桜姫の口に入ると、姫はたちまち蘇生する。「にわか一陣いちじん冷風れいふうさとふき清玄せいげんうちにひえとほるとひとしくたちまち心中しんちう恍惚くわうこつとしてふたゝび愛着あいぢやくおもひしやうじ」て、かきくどく。「われ日来ひころ恋慕こひしたひつる一念いちねんとゞきし今日唯今たゞいまいかでかむなしくすごすべきたとひ戒行かいぎやうやぶ阿鼻地獄あびぢごくするともひめゆゑならばいとはじはういかりをうけ世間せけんおもてをむけがたきとなりしもみなこれ姫を思ひしゆゑなり」「いざ/\わが執念しうねんをはらさせよ」と桜姫に迫ったその時に、たまたま居合わせた弥陀二郎に殺されて、ついに亡霊と化した清玄は「あなうらめしやはらたちや目前もくぜん修羅しゆらを見るハたれゆゑぞひめゆゑにいきながら地獄ぢごくするこのうらみいきかハりしににかハり思ひしらさでおくべきか」と、「清玄せいけん姿すがたやなぎこずゑにあらハれてなほもやらじとうしろかみ引戻ひきもどす」が、弥陀二郎は桜姫を連れて館へ帰る。

この京伝読本の代表作とも称すべき『櫻姫全傳曙草紙』(文化二〈1805〉年刊)に描かれた清玄の救いのなさは一体何故であろうか。古浄瑠璃『一心二がびやく道』以来の清玄桜姫説話や仏教長編説話『勸善櫻姫傳』に基づいていることはもちろんだが、清玄が桜姫に眷恋したのは彼女の美しさ故であると書かれている。さらに清玄自身は何も積極的に行動を起こしたわけではなく、むしろ自らの内なる恋情をもてあまして、ただひたすら苦しみ、そして流離零落し最後には殺されてしまうのである。この悲惨な人生を悲劇と呼ばずして何と呼ぼう。

そもそも恋とは、相手に意思にかかわらず一方的に想いを募らせ、なおかつその熱情を相手に突きつけていく過程に過ぎない。そして恋の始まりの多くが異性の容貌に魅せられたことに発するのだとすれば、外見的な美しさにこそ罪があるはずである。

たとえば、清水の観音が桜姫の前に老僧として現れ「やあいかに櫻姫。おこと古今の美人ゆへ。人のおもひのかづつもり。罪障の山たかく。るてんしやうしの海ふかし。とりわけみやこきよ水の。せいげんが執心にて。御身夫婦もふたおやも。おつつけかれにとりころされ。死してはならくにをちいらん。」(半太夫節『櫻姫ねやのつげ』)と告げるこのテキストは、形式的には桜姫の発心譚となっているが、桜姫の罪障性を認めたものであるといえよう。

ところで、清玄説話の一変奏として、近松半二『花系圖都鏡』(宝暦12〈1762〉年竹本座)やその改作である近松半二・三好松洛・竹本三郎兵衛等『〈菊池|大伴〉こんれいそでかがみ』(明和2〈1765〉年9月竹本座)などの浄瑠璃に仕組まれた岩倉宗玄説話がある。早くに飯塚友一郎『歌舞伎細見』が指摘しているように、この宗玄が折琴姫に迫る庵室の場はそのまま清玄庵室の場に踏襲されているのである。一方、西沢一鳳『脚色余録』初編下に「総体清玄は清水場と庵室の場より外に狂言なく跡は執着の所作事となれば一日の趣向にたらずゆへにいつも抱合せの狂言は変るとしるべし」とあるように、基本的なプロットに変更はなかったものの、鶴屋南北『隅田川花御所染』(文化11〈1814〉年3月市村座)では女清玄や加賀見山とない交ぜにされたり、黙阿弥『戀衣雁金染』(嘉永5〈1852〉年正月河原崎座)では雁金五人男と抱合わせにされたりしている。しかし、歌舞伎の方では清玄桜姫の前生を設定し生世話の作劇の面白さをつくした南北の『櫻姫東文章』(文化14〈1817〉年3月河原崎座)が代表作であろう。

さて、京伝の『曙草紙』に戻るが、最初の引用で気付かれたであろうか。実は「一陣の冷風」という表現によって、すべての清玄の行為は、正妻野分方になぶり殺しにされた妾玉琴の怨念に拠るものであったことが暗示されていたのである。それも直接野分方に祟るのではなく、我が子である清玄をして野分方の子どもである桜姫に恋着させるという、親子の情愛を媒介した間接的な手段を用いた復讐劇である。すなわち結末になって明らかにされる通り、清玄と桜姫は「別腹の兄弟」だったというかなり際どい設定だったのである。はたして桜姫と結ばれなかった清玄は却って救われたということになるのであろうか。

最後に関連する作品を挙げておこう。『曙草紙』を歌舞伎化したものとしては『櫻姫操大全』(文化4〈1807〉年9月大阪)や奈河篤助『清水清玄廓室曙』(文化5〈1808〉年5月京都北側布袋屋座)があり、合巻では『櫻姫筆再咲』(文化8〈1811〉年刊、京伝作)や『姥櫻女清玄』(文化7〈1810〉年刊、馬琴作)、『朝櫻曙草紙』(文政3〈1820〉年刊、京山作)、『櫻姫面影草紙』(嘉永5〈1852〉年刊、京山作)など、読本でも『小櫻姫風月竒観』(文化8〈1811〉年刊、京山作)がある。このように清玄桜姫説話は〈世界〉として定型化して近世後期小説や演劇の中に長くその生命を保ったのである。


# 學燈社「國文學」1995年6月号 特集:古典の中のゴーストたち 所収
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#                      高木 元  tgen@fumikura.net
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