書評『馬琴書翰集成』

 文学の末芸

高 木   元 

書翰とは特定の個人へ向けた言説が記された紙葉の謂いであり、それが書かれた時点では、長きにわたって保存され不特定多数へ公開されることなどは全くもって念頭にはなかったに相違いない。そもそも手紙を書くという行為は、相手に合わせて話柄や文体を選び双方の間で完結することを想定した謂わば閉じられた言語表出行為のはずである。

近代人である我々は、こんな具合に勝手に判断してしまうかもしれない。ところが、斯様な規定は近世人には通用しないのである。馬琴こと滝沢解が「加北にて室鳩巣の書簡を集めて、『兼山麗沢秘策』と名づけ候珍書有之候。是ハ、正徳・享保中、官府の秘事ヲ、加賀の門人方へ申遣し候手簡ニ御座候。」(第1巻、194頁)と認めているように、有名人の書翰は貴重な資料として書写されて密かに回覧されていたのである。滝沢解書翰にあっても、ほぼ同様に扱われたであろうことは、本人が良く承知して書いていたものと思われる。すなわち、文政元年10月28日鈴木牧之宛書簡の最後に、草双紙の板元である地本問屋達が肝煎名主に対して賄賂を使った件を記述した部分に関して、「右禁忌の処ハ、御覧後、必々御引裂被下度、奉希上候。」(第1巻、81頁)と書いているのを見るにつけても、他の部分はともかくも、他人に見られては困るところだけは絶対に破却して欲しいと思っていることが理解できるからある。しかしながら、その希望が適えられなかったために現在の我々が読むことが出来るわけではあるが、いずれにしても、滝沢解という一個性によって160年程前に書き残された書翰が、斯くも大量に遺されていること自体は、その資料的価値が知られていただけに、別に驚くべきことでもないわけである。

書翰自体に対する興味は、稗史小説家である滝沢解が「曲亭馬琴」あるいは「著作堂主人」と明記して公刊した書物に書き記した公の発言ではなく、特定の相手に対して切々と私的な心情を吐露しているのが見て取れる点にあるといっても過言ではないだろう。ただし、滝沢解としての私的な発言であるからといって、無条件に本音が表れていると見るのはやや楽天的に過ぎよう。相手に対する虚勢やポーズをも含めた上で、多様な内的な有り様を知らしめてくれるテキストであると考えるべきだと思うからである。

しかし、那辺に本音があるのかを見いだすことはさほど困難でもない。とりわけ地方のファンが相手の場合は、時としてその文体や口吻から相手とのスタンスを読むことができる。また、複数の相手に対する書翰中で繰り返し記されている、戯作とは「文学の末芸」であるという主張、もしくは「詩歌は学問の余末なり。況戯文・俳諧等をや」等という謂いは、例え格好を付けたものであっても、やはり単なる建前ではなく本心を漏らしたものであると読めるからである。また同時に、「作者の専文」「見物の了簡と作者の用心」などという言葉を交えて、満足に校正もさせてくれない板元の不実を託ち、所詮商業出版の一部を担っている〈戯作者〉という職人でしかないという深い悲哀は、もしかしたら現代の物書きの心性と相通じるものなのかもしれない。

さて、今回の馬琴書翰集成という企画の眼目は、何よりも現存する書翰のほぼ全てを実際に編者が確認している点であり、同時に従来は所蔵機関別に翻刻紹介されていた400余通の書翰群が、時系列に秩序付けられて整理集大成された点にある。昨年12月に第2回配本として出された第2巻目は、作家としても充実していた時期だと思われる天保2〜3〈1831〜32〉年の間に記されたものであるが、これを最初から通読していくと、多大な時間と労力が費やされて書かれた長大な書翰の執筆過程を、あたかも追体験しているかの如き錯覚に陥る。相手も話題も多岐にわたるが、その混在ぶりが一層リアリティを感じさせるのである。さらに、別巻として内容細目一覧と索引が予定されており、日記ではうかがい知れない細かな事情が容易に検索し得るように成ることは実にありがたい。

出不精であった馬琴は出入りの本屋からの情報が外界との大きなパイプだったと想像され、江戸での生活情報や出板事情、書物に関する情報などが得られるのは勿論であるが、やはり私信を繙いているわけで、卑俗な覗き見趣味に陥るのを自制しつつも、気になるのは他では知り得ない噂話であったりもするのである。

(千葉大学教授・国文学)

『馬琴書翰集成』全7巻
(柴田光彦・神田正行編、八木書店、2002年9月刊行開始、A5判平均350頁 本体各9800円)


# 「図書新聞」2616号(2003年2月1日号)掲載
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