『江戸読本の研究』 序章

江戸読本研究序説
高 木  元 

  一 江戸出来の読本

読本よみほんは、近世小説ジャンルの中でもっとも知的で格調の高い小説ジャンルであった。生硬な中国臭の強い和漢混淆文によって綴られた伝奇小説に、今日まで多くの読者たちが魅せられてきた。

都賀庭鐘の『古今奇談英草紙はなぶさぞうし(寛延2〈1749〉年)や上田秋成の『雨月物語』(安永5〈1776〉年)などは、中国白話小説を翻案するという方法により、近世中期に上方の知識人の手で作られ、上方で出板された短編怪談奇談集で、これらを前期読本と呼んでいる。一方、山東京伝の『忠臣水滸傳』前後編(寛政11〈1799〉年・享和元〈1801〉年)以降、主として江戸の作者によって作られ、江戸で出板された中長編伝奇小説、たとえば曲亭馬琴の『南總里見八犬傳』(文化11〈1814〉年〜天保〈1842〉年)などを、後期読本あるいは江戸読本という。

この「江戸読本」という用語は、一般には後期読本と同義で用いられているが、ここではもう少し狭義の「江戸作者によって書かれ、江戸書肆の手を通じて刊行された読本」として用いたい。したがって、そこには上方書肆が相板元となっているものも含むが、上方書肆が主体となって刊行した「絵本もの読本」などは江戸読本とは呼ばないことにする。この定義は19世紀の江戸という土地における出板について考えてみたいからで、もちろん上方との関連を無視するものではない。なお、馬琴は江戸読本を前期読本と区別して「國字の稗史▼1」と呼んでいる。

さて、読本を前期後期に分ける文学史上の概括的把握は、もはや誰も疑う余地のない常識となっている。確かに中国小説を典拠として作られたという共通点は備えているものの、摂取や利用の方法から見れば、前期読本と江戸読本とは性格を異にする部分が多いのである。だが、そもそもジャンルというもの自体が、いわば研究者側の都合によって用意されたという側面を持っている。文学史上に多様性を持って存在する作品群を、細大漏らさず正確に定義して分類することなど所詮できるはずがない。たとえば、前述の定説によっては割り切れずに、前期後期のいずれへも位置付けようのない『〈童唄〉古實今物語こじついまものがたり(宝暦11〈1761〉年)、『後篇古實今物語』(明和2〈1765〉年)などのような作品も存在しているのである。もちろん、だからといって厳密を期するために、いたずらに分類を細分化していくのは不毛であろう。むしろ当時の人々がその差異をどのように認識していたかということを明らかにすべきなのである。

たとえば、当時すでに次のような観点からの区別が存在していた。

御伽這子おとぎばふこの書は漢土の小説を皇國みくにの事にうつしたる鎬矢はじめにて。文体いにしへにちかく猶物語の余波なごりしげ/\はなぶさの二書はこれをつぎまゝ皇國の事を飜案して古に非今に非。文章の竒絶國字小説第一といはんに論なし。莠草ひつぢぐさは強弩の末荒唐とりしめなく美を前書につぐ事を不得。新齋前席垣根草の諸篇文花くだるといへとも事によせて自己の識見を述。議論高にいたりては剪燈せんとうの書中。子胥笵蠡をのる流亞たぐひにして二書の美をうばふに足れり。ちかころ復讐の書世に行はるゝ竒事怪話百出すといへども勸懲を主として議論を不立。ひそかに羅氏の風韻による又國字小説の一變といふべし。
東家ひがしどなり女子あり年十二 予に従て書を讀一夕古人の名を命事を問ふ。明旦一冊子を携來ていふ名を命の教を受て戲に記と。巻を舒ば復讎の書にして二子に名つくる老蘇が言に依。閨秀を称ずる翠翹が行になずらふ美婦よきめぐしたる士。氏を鳴門と呼ひ。内衞を失へる翁。字を外衞といふ。志大ならざれば燕雀を以し。心定らざれば舩路を以す。鳩谷生鵲をあいして兒を生し。雪児春風にねたまれて身を亡。其國風わかのみちあげつらふにいたりては が生平の言を載たり。勸戒あり議論あり。妙年にして野史の才あるを愛て これを潤色し画家を労し題て濡衣冊子と号。題意は巻を披て知べし。
或難ていふ書は人の事跡情態を記。画は時の制度風俗を写。古記画軸徴とすべし。此書の如は文當時そのときの事を記て称呼言辞當時の言に非。画當時の形を写て服飾器財當時そのときの物に非。これを梓にゑる何の心ぞや。いふ戦國の時復讐殺戮の事を説とも耳目の馴處誰かこれを竒とせん。今昌平二百年復讐の〓を説は人競てこれを竒とせざるはなし太平の余澤に非すや。これを画。これを雕。これを鬻。これを讀者。すべて太平の余沢に浴に非や
   文化丙寅春
東都芍藥亭主人序

これは狂歌師であった芍薬亭主人こと菅原長根の江戸読本『坂東竒聞濡衣雙紙ぬれぎぬぞうし(文化3〈1806〉年)の自序である。

読本を中国小説翻案による国字小説として捉え、浅井了意『伽婢子おとぎぼうこ(寛文6〈1666〉年)を筆頭に、都賀庭鐘の古今奇談3部作『英草紙』(寛延2〈1749〉年)、『繁野話しげしげやわ(明和3〈1766〉年)、『莠句冊ひつじぐさ(天明6〈1786〉年)に言及し、梅朧館主人『新斎夜語』(安永4〈1775〉年)、文栄堂『怪談前席夜話』(寛政2〈1790〉年)、草官散人『席上竒観垣根草』(明和7〈1770〉年)を列挙して前期読本の史的展開を踏まえている。さらに、その上で〈議論〉と〈勧懲〉という概念によって前期後期の読本を峻別した視点は新鮮である。江戸読本としては比較的早い文化3〈1806〉年の刊行であり、いわゆる長編史伝ものが出る以前の作である点を考慮しなければならないが、主張の主意は読本の格調に存するものと考えられる。

この『濡衣雙紙』は、序文に見えるように中国の才子佳人小説『金翹傳』の趣きを映しつつ、『説苑』による考証を趣向化したり、狂歌の論を展開するなど、勧懲を主眼とした単なる敵討ものから離れようとする工夫の跡が見られなくもない。

また、物語の時代設定と作中の風俗描写とは別であるとするのも、江戸読本の採った立場の1つである。そしてこのことは、江戸読本が盛んに考証を挿入するようになったことと、おそらく無関係ではないだろう。史的〈事実〉に対する徹底した考証なしには虚構小説を生み出すことはできない。なぜなら実体を幻視する装置、すなわちそれが考証という手段であり、これなしには幻想を紡ぎだすことはできなかったからである。また読み手の側も、考証を通じて知識を補完することにより、たとえ時代設定と風俗描写との齟齬があろうとも安心して理外の仙境に遊ぶことが可能だったのである。

  二 江戸読本と考証

ところで、江戸の読本作者たちは、考証を中心とした〈随筆〉を主として大本というサイズで出している。本の大きさは基本的にその本の格を示す指標であり、江戸読本が半紙本であるのに比べれば、大本である考証随筆の方が明らかに格が上である。たとえば、馬琴の『燕石雜志えんせきざつし(文化8〈1811〉年)や京伝の『骨董集』(文化11〈1814〉〜12〈1815〉年)、柳亭種彦の『還魂紙料かんごんしりよう(文政9〈1826〉年)などを見ると、近世風俗や伝承に関する文献を博捜し、多くの挿絵を交えつつ独自の考証を展開している。もちろん読本作者の著作だけではないが、これらの考証随筆の刊行はかなりの点数にのぼる。そして、興味深いことには、その板元となったのが江戸読本を出板した書肆と重なるのである。つまり、出板されたからにはそれなりの商品価値を持っていたと考えるのが自然であるし、後印本もよく見かけるので、おそらくかなり売れた本なのであろう▼2

ただし、貸本屋で読本を借りて読んでいた読者たちが、同様に考証随筆をも読んでいたとは思われない。ただこれらの考証随筆は、江戸読本や草双紙などと並行して執筆され刊行されたものであるから、相互にきわめて近い関連を持っていることは確かである。京伝は晩年に『骨董集』に全力を注ぎ、馬琴も数多くの考証随筆を書いているが、知的好奇心の赴くまま情報収集に努めて勘案し、それを一編の本として結晶させるのは、さぞかし楽しい知的作業であったことだろう▼3。また、それは同時に作品の趣向を集めるための調査取材でもあったわけで、作品の成立過程を知る手掛りとしても有効である▼4

尤も、江戸読本における具体的な考証過程や構想への関与の仕方などについては、個別の作品に即して分析していく必要がある。つまり、注釈しながら読み進めていく以外に途はないのであるが、その作業を通じて構想の組み立てられた過程が見える場合がある。しかし、短絡的にそれを〈作者〉の構想や意図へと収斂させようとするのは問題がある。作品の本文や図画の注釈によって明らかにできるのは、文字通り典拠との相互テキスト性なのであり、注釈とはそれを確認するための手段にほかならないからである。また、執筆に際して用いられた資料のすべてが考証随筆などの中に提示されているわけではなく、秘匿された典拠の発見や、伝承的な想像力に思いを馳せなければ読めない作品も少なくないのである▼5

さて、京伝と馬琴とでは嗜好の位相が相違するものの、江戸読本を構想し組み立てていく過程では二人とも徹底した考証をしている。

京伝の場合は近世初期の風俗考証の成果が、表紙の意匠など本自体の装幀や見返し口絵などにいかされている。『昔話稲妻表紙むかしがたりいなづまびようし(文化3〈1806〉年)の保存状態のよい初印本▼6などは溜め息が出るほど美しいし、『雙蝶記そうちようき(文化10〈1813〉年)の凝った仕立てにも感心させられる▼7。これらは、みな考証によって得た情報の反映であり、その表現なのである。

一方、馬琴も造本には決して無頓着ではなかったと思われるが、むしろ本文の方に特徴が出ている。ある時には序文や跋文に関連文献を抄出して自説を開陳し、ある時には一見すると本筋に関係がないとしか思えない口絵や挿絵を入れたりもする。さらに、本文中に多くの割注を挿入したり、匡郭外に頭注を施すことさえもある。とくに『そのゝゆき』(文化4〈1807〉年)は外題角書に「標注」と冠したように、頭注を配すること自体を趣向化している。

このような傾向は京伝と馬琴以外の作者の場合も同様で、三馬は『流轉數囘阿古義物語あこぎものがたり(文化7〈1810〉年)の巻頭に「勢州阿漕浦事蹟竝地名考證」を載せ、さらに巻末「阿古義物語撮引書目」に仰々しく63種の文献を列挙しているが、これこそが江戸読本というジャンルの特徴なのである▼8。また、小枝繁は『經島履歴松王物語』(文化9〈1812〉年)の巻之6を「附録」とし「幼童の惑いを諭」すために丸ごと1冊全部を考証資料に充て、『景清外傳松の操』(文化13〈1816〉年〜15〈1818〉年)でも巻末附録として考証を加えている。

これらを〈俗〉文学における〈雅〉志向の反映と見ることも可能であろうが、いずれにしても、彼らの個性に還元した考証癖としてのみ片付けられる問題ではない。いまここで問題にしたいのは、考証随筆と読本との密接な関係や方法の問題ではなく、江戸読本が考証を内在化させることの可能な様式をもって成立したという点である▼9。京伝をはじめとする作者や板元が、新しい小説ジャンルにふさわしい造本様式を積極的に創り出したのである。つまり、本文のみならず〈本〉自体をテキストとして表現し得る体裁を持った大衆小説として造型されたのが江戸読本なのであった。

  三 江戸読本の構造

江戸読本の多くは、稗史小説よみほんという宛字的表記があるように、基本的には歴史小説という側面を持っている。だから歴史叙述を避けて通れない構造を文学形態自体が保有しているのである。時代設定と場所、そして登場人物たちの固有名詞は自在に設定できるわけではなく、演劇世界で培われた伝統的な枠組であるいわゆる〈世界〉に規制されている▼10。つまり制度化された歴史叙述の様式的方法からいかに離れられるかが、草双紙とは異質な江戸読本にとっての一つの課題でもあったのである。

京伝が『忠臣水滸傳』において、忠臣蔵の〈世界〉と『水滸傳』とを組み合わせたことに端を発した江戸読本は、確実に新鮮なものであったはずである。ところが、基本的には既知の話柄の少しく意外な撮合に過ぎず、むしろ中国語彙に傍訓した生硬な文体がもたらした新味さが強烈であったと思われる▼11。この『水滸傳』との関係でいえば、悪漢小説の系譜として位置付けられる読本がいくらかあり、これらでは『前太平記』の〈世界〉が受け皿として機能していたようである。従来、『水滸傳』がなければ江戸読本が成立しなかったかのように説かれてきた文学史も、〈水滸伝もの〉が江戸読本の中でも一支流に過ぎない点から再検討を加えてしかるべき問題の一つであろう。外来の『水滸傳』も〈世界〉の一つとして取り込まれたと考えるべきだからである。

馬琴が江戸読本において極端に演劇めいた作風を嫌ったのは、単に草双紙との区別という格調の問題ではなく、近世後期小説が発想の枠組として〈世界〉を越えられないことに対する、かなり先鋭的な危機感であったのかもしれない。とりわけ情話ものと分類される諸作には、後日譚としての時間軸を設定し、因果律という合理性を紡ぎだす論理を持ち込んでいる。しかし、のちに同様の試みは合巻でも見られ、ことが読本だけで済まなかったことを証明している。

たとえば〈敵討もの〉という枠組が、草双紙のように事件の顛末と登場人物の具体的な行動の記述だけで済んだならば、直線的な叙述ではない一種の饒舌体ともいうべき、紆余曲折する江戸読本の文体は生れなかったであろう。逐一考証を加えつつ本筋とは別途の文脈を織り込んでいくという書法こそが江戸読本の特徴の一つであり、〈世界〉を越えようとする現象でもあった。

様式とは類型化するための方法である。であるからこそ定型化したジャンルには、新たな参入が容易であり、多くの無名〈作者〉の作が多数残された。もし様式が定まってなければ、おそらく一切の表現は不可能であったはずである。読本は読本らしく、草双紙は草双紙らしく、相互に影響を与え合いながら変化していく。小説ジャンルにとっては、具体的な本の体裁と、それに見合った中身とを、日々更新し続けなければならない運命にあった。本というモノが商品であり、たとえ生計を維持するためであろうと、そこに表現の場を求める以上は、常にふさわしい規格や体裁、そして文体と中身とを摸索せざるをえなかった。安定すると飽きられ、飽きられるとまた新装するという具合にジャンル自体が運動を繰り返すことになる。もちろん、これは一人〈作者〉だけの問題ではなく、むしろプロデューサーたる板元の側の問題かもしれない。

この問題については、とくに中本サイズの諸ジャンルの変遷を通じて、中本型読本に凝縮して立ち現われているものと思われる。草双紙と読本の間で、体裁と中身との両方に影響を与え続けたからである。しかし、基本的には〈世話もの〉であったためか、中本型読本の大部分は漢文体の序文を持たず、江戸読本の問題を直接的に継承したわけではない。しかし、近代に入っても四六判という、ほぼ中本サイズの書型として享受され続けたことの意味は、体裁が中身を規定するという観点からは見逃せない現象である。

  四 江戸読本享受史

ところで、板本は印刷されたものなので、同一の板木を用いている限り読本書誌研究は本文批評上あまり重要な意味を持たないように思われる。しかし板元が後から序跋類や口絵挿絵を省くなどの改修を加えることも珍しくなく、通常この後印本の方が多く流布している。だから、まずは基礎的な書誌調査をして初板本を確認する必要がある。というのも、初板本の見返しや刊記などの記載事項からしか明らかにできない出板上の情報が多いからである。

この作業は、いまだに精確な書目も整備されていない読本をめぐる研究状況として重要な課題となっている。にもかかわらず、初板本追求だけが書誌学の課題ではありえない。たとえ後印本であっても、加えられた改変には何らかの合理的理由を持っているはずであり、これを明らかにする必要がある。なぜなら、ものごとの本質が始源的な事象に存するという遡源へ向かう問題意識がすべてではないはずだからである。〈作者の意図〉へ向けられた恣意的な研究を相対化する方法として、一見すると直線的に〈文学〉へ向かわないかに見える出板機構の仕組や実態の解明が、実は有効性を持つと考えられる。

後印本や改題改修本に関する調査は、享受の問題として重要である。流布本の数からいっても、初板初印本に接した読者が圧倒的に少数であったことは容易に想像できる。つまり江戸読本が基本的には商品として生産され享受されてきたという観点が不可欠であろう。文学性という抽象的な質とは別の次元の問題ではあるが、これを無視して普遍性を論じることはできないからである。

さらに、この享受史の視点から見れば、板本の後印本のみならず近代の活字翻刻本の調査も等閑視できない。いまだに読者論の地平からの確乎たる文学史は構築されていないが、前田愛が示した通りに、近世末期に板本から活版本へと印刷技術が変革を遂げる時点に多くの問題が凝縮しているのである▼12

和装の板本と洋装の活字本という造本の差異がもたらした本質的な問題とは一体何なのであろうか。江戸読本や草双紙の活字本化を通して考えてみるならば、じつはジャンルという様式そのものがメディアにほかならないことに気付くのである。

以上、江戸読本を中心に問題意識のありかを論証抜きで略述してきた。しかし、問題はこれだけでなく、自己の研究対象を相対化する視点も必要である。つまり、膨大な近世期の出板物の中にあって、江戸読本などの出板数は微々たるものであり、たとえ草双紙を入れたとしても、実用書やら仏書などに比べたら取るに足らない規模なのである。もちろん数と中身は別問題であるが、このような観点なしに江戸読本をはじめとする近世後期小説だけを取り出して論じてみても、あまり意味がないのではなかろうか。作品から書誌出板研究に基づく享受史、そしてメディア論へと、換言すれば文学から文学史、そして文化史へと視野を広げつつ、そのなかで改めて江戸読本の魅力に立ち戻るという視座を持つべきなのだと思う。


▼1.『近世物之本江戸作者部類』(木村三四吾編、八木書店、1988年)
▼2.『作者部類』には「骨董集ハ全本六巻と定めたるを初編二巻中編二巻刊行したるに好事者流に賞鑒せられて夛く賣れたりといふ鶴屋喜右衛門板也」「六年己巳燕石雜志六巻を編述す隨筆也大坂河内屋太助板也當時合巻册子讀本流行して曲亭に新編を乞ふ書賈年に月に夛しこの几紛中雜志の撰ありこゝをもて思ひ謬てること尠からすといふしかれともこの書久しく行れて今なほ年毎に摺刷して江戸の書賈へもおこすことたえすといふ」などと記されている。
▼3.佐藤悟「考証随筆の意味するもの―柳亭種彦と曲亭馬琴―」(「国語と国文学」、1993年11月)では、考証随筆を執筆した好事家たちのグループが連鎖状に存在したことを指摘している。
▼4.京伝については、山本陽史「山東京伝の考証随筆と戯作」(「国語と国文学」、1986年10月)、井上啓治「『骨董集』論序説―京伝考証における認識・主題形成と読本方法論考察のための基礎稿として―」(「国文学研究」100集、1990年3月)などが、馬琴については、大高洋司「文化七、八年の馬琴―考証と読本―」(『説話論集 第4集 近世の説話』、清文堂出版、1995年1月)などが備わる。
▼5.山本和明「〈改名〉という作為―『昔話稲妻表紙』断想―」(「相愛国文」6号、1993年3月)では、「〈考証〉という枠組を利用することで」「物語世界の存在根拠」を創出するという京伝読本における典拠利用の方法(考証)について論じている。
▼6.熊谷市立図書館所蔵の『昔話稲妻表紙』は、欠本ながら素晴らしく綺麗な状態で保存されている。
▼7.『雙蝶記』は京山が装幀に関わった本で、国会図書館所蔵本は裏打ちされているものの初印時の趣きをよく残していると思われる。
▼8.このパロディは、単純に三馬の馬琴に対する対抗意識だけで説明がつくものではあるまい。早くに、山崎麓「馬琴と三馬の不和」(「東亜の光」、1922年3月)が指摘しているが、三馬の合巻『無根草夢譚』(3巻1冊、春亭画、文化6〈1809〉年、近江屋権九郎板)の口絵に「何何何何\何何何\何何何\何何何何\宋何何師詩\何山人録」「こけおどしの聯句」などとあるのは、草双紙ごときにあえて読本風の賛を入れる馬琴に対する「当てつけ」(今中宏「解題」、大江戸文庫6『無根草夢譚』、1959年)と考えてもよいと思う。やはり、合巻と読本との区別は明確に意識されていたからである。
▼9.佐藤深雪「『稲妻表紙』と京伝の考証随筆」、(「日本文学」、1984年3月)は、「読本は、考証からは排除された資料や仮説をも含みつつ、有機的な連関をもった全体像を描き出すことが可能なジャンルであった」と指摘している。
▼10.読本の文体すなわち発想法は歌舞伎よりもむしろ浄瑠璃に近いと考えられるが、石川秀巳「〈史伝物〉の成立―馬琴読本と時代浄瑠璃―」(「日本文学」、1988年8月)では、時代浄瑠璃の「虚構の史実化」という方法から影響を受けて馬琴の史伝物読本が成立したことを具体的に指摘している。
▼11.徐恵芳「『忠臣水滸伝』の文体について―『通俗忠義水滸伝』の影響を中心に―」(明治大学文学部紀要「文芸研究」53号、1985年3月)
▼12.「近代読者の成立」(『前田愛著作集』2巻、筑摩書房、1989年、初出は1972年)


# 『江戸読本の研究 −十九世紀小説様式攷−』(ぺりかん社、1995)所収
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