草双紙の出来するまで
高 木   元 

  はじめに

日本古典文学の特筆すべき特徴を一つ挙げるとすれば、それは文章テキストのみならず絵画イメージと共に〈絵入本〉という媒体メデイアによって享受されることが多かった点にある。

漢字が主として用いられた漢籍(中国書)に基づく学問書や仏書(経典やその注釈書)は別として、仮名を主体として書かれた和書(日本の本)の代表作である『源氏物語』などが、絵巻として享受されたことからも、その特徴は容易に理解されるであろう。

整版本(板画の技法を用いた木板印刷本)による出板文化が広まる近世(江戸時代)以前に書かれた文芸は、創作された時点では文字だけの写本であったが、多くは後から作られた絵入の草子(表紙を付して綴られた冊子)や絵巻物として享受されていたのである。しかし、これらの絵入本は、絵が達者な作者とは別人が、後から絵を描いて添えたものであった点に注意を払うべきである。

脱構築ポストモダンはおろか、いまだに「テキストは作者に帰属する」と素朴に考えている向きも少なくはないが、斯様な近代的モダンな考え方すらも、近世期には未分化であったはずで、作者以外の誰かが、テキストに絵を付加したとしても、何の疑問を持つ人もいなかった。のみならず、有名な場面に添えられる絵柄は、次第に固定化され画題として定着し、以後の絵入本でも継承されていくことになったのである。

近世初期(17世紀)には、豊臣秀吉が朝鮮半島を侵略し、活字印刷機を強奪してきた上に、印刷技術者をも拉致してきた。折しも西欧より耶蘇イエズス会の宣教師達が木活字に拠る活字印刷術をもたらした。そこで古活字本と呼ばれている活字(金属または木)を使用した活字印刷本が出されたが、半世紀ほどで廃れてしまった。寺社を中心とした書物の需要拡大に応じた印刷技術ではあったが、版(印刷用の原版)の保存が困難であった故、長期間に渉る大量の印刷に対応できなかったのである▼1。もう一つには、整版本の方が、絵入本の印刷にも便宜であったからではないかとも思われる。

その後、17世紀中葉より整版印刷による出板が興隆する。しかし、出板業の成立には、単に印刷技術的な対応のみならず、商業資本主義の発展に相俟って、書物の流通機構が整備されることが必要不可欠であった。また、寺子屋などの教育制度が整備されるにともなって識字率リテラシーが向上したことも、多くの読者を産みだした要因であった。換言すれば、流通制度の整備と読者の拡大とが、書物に商品価値を生じさせたために、経済活動の一環として出板業が成立したということになるのである。

  草双紙

草双紙くさぞうしとは、江戸時代に大衆的に広く消費された戯作(商品)である洒落本、人情本、滑稽本などと同様、中本(18×12センチほど)と呼ばれるてのひらサイズの愛玩すべき本である。

原則的には、1冊が5丁(袋綴の紙数5枚=10頁)で、全丁に挿絵が入り、その絵の周辺に細かい字で平仮名を主とした本文や詞書き(登場人物の台詞や無駄口)が入れられている。表紙には題名が記された短冊型の 題簽だいせん (書名を記した紙)が貼られ、時代が降るにしたがい題簽は大きくなり、そこに絵が加えられた。内容の変化にともなって、表紙の色が赤(丹)、黒、草色(萌葱色)、黄色と変化していき、赤本、黒本、青本、黄表紙と呼ばれるようになるが、草双紙としての一貫した形態的特徴は保持され続けた。

19世紀に入り文化期(1804〜)になると、2、3冊を合綴(合冊)して 合巻ごうかん と呼ばれるようになり、表紙も錦絵風の多色刷 摺付すりつけ 表紙になる。次第に、短編の読切から、長編の続きものに変わっていく。明治期に入っても20年代まで出され続けるが、表紙は化学染料を用いた毒々しい赤色の粗画に成る。また、1冊が9丁にと変じ、本文は漢字混じりになり、内容的にも実録などの鈔録が多くなり、絵も文も粗雑な印象を禁じ得ない。さらに活版印刷が一般化するにともなって、全丁に絵が入り周囲に本文を組むことが困難になり、単なる絵入小説になってしまった。草双紙は20世紀を目前にして、その終焉を迎えることになるのであった。

つまり、草双紙は17世紀に出板業が成立した後に、主として江戸という未開の地で刊行され始めた地本じほん(地方出板物)に過ぎなかった。にも係わらず、17世紀の後半から激動の幕末維新期を跨いで19世紀の後半までの約200年間、その内容に見合うように表紙の色や体裁を変化させつつ、近世期の一文芸ジャンルとしては異様に息長く商品として生産出板され続け、そして享受され続けたのであった。近世期を代表する絵入大衆小説といっても過言ではない。

ところで、絵入本という場合は、本文が主で挿絵が付け加えられた本も含まれるが、今、改めて確認しておく必要があるのは、草双紙と絵本との相違である。

絵本という場合は、全丁に描かれた絵が主体で、そこに簡単な説明が付け加えられている本を指すことが多い。例えば、狂歌絵本などは全丁に絵が描かれているが、一貫した筋を持たずに余白に狂歌を入れたものを指しているのである。しかし、草双紙も原則として全丁に絵が描かれてはいるが、概ね一貫した物語としての筋を備えており、その文章は絵の周囲に平仮名を中心とした細字で書き込まれている。さらに、草双紙は合巻時代になって合綴されても、5丁を1冊(巻)と勘定する造本意識を頑なに維持してきた。対して絵本は、大きさを含めて、この規格からは自由であった。

この似て非なる絵入本である絵本と草双紙とは、明確に区別して扱う必要がある。何故なら、その創作過程も流通経路も販売価格も享受の様相も全く異なるからである。

     ○

草双紙の文学史的位置付けと概説に就いては、早くから多くの著作が遺されてきたが、古くは関根正直『小説史稿』▼2がある。「江戸将軍の時代」という項の冒頭に「小説傳統」という図を示し、草双紙の史的位置を、上流の御伽草子と 淨瑠璃正本じようるりしようほん の合流下に定め、下流には 正本製しようほんじたて を配置し、その正本製の上流には演劇脚本をも置いている。すなわち、草双紙とは室町時代物語と浄瑠璃の影響下に成立したジャンルで、歌舞伎台帖シナリオと共に正本製を産みだしたとする草双紙の史的認識は的確である。

伝統
(関根正直『小説史稿』、四十七頁より)

さらに興味深いことに、滑稽本が草双紙から枝分かれしている点は、現在の文学史の認識とは異なっている。しかし、滑稽の要素が草双紙から独立して中本(滑稽本)を発生したとの概括的把握は、今見ても実に新鮮である。つまり、赤本以来の民譚や演劇種に依拠して書かれていた草双紙の伝統にとって、洒落本の影響下に滑稽諷刺諧謔に傾いた黄表紙と呼ばれるジャンル自体が、実は草双紙史にとって異質なものであったことを示唆している。もう少し厳密にいえば、安永・天明期(1772〜88)の黄表紙は、謂わば草双紙の突然変異種と見做す発想に基づけば、草双紙とは基本的に浄瑠璃や歌舞伎を紙上に展開して描いたものだという、すこぶる整然とした草双紙史を描くことができるのであるが、如何なものであろうか。

また、石田元季『草雙紙のいろ/\』▼3は、箱入りの瀟灑な装訂が施された書物で、是非とも現物を手に取り愛で慈しみつつ読んで頂きたい。概説書風の標題に騙されてはいけない。随想風に記されているが、単なる様々な草双紙の紹介ではなく、草双紙の創作過程や、構想や趣向の変遷、広告とのタイアップ、媒体としての特徴、作者や画工を巡る多くの問題に言及していて、いまだに色褪せていない。草双紙を知る上での必読文献だといえよう。もちろん、現在の研究水準から見れば、聊か問題を孕んでいることは当然であり、記述の検証は不可欠ではある。

江戸時代における板本の製作過程について特化した先行研究としては、林若樹「小説の本になるまで」▼4に就くのが便宜である。これも、20世紀前半に書かれた古いものであるが、稿本(種本)や板本の図版も掲げて詳しく紹介していて大いに参考になる。ここで謂う「小説」とは、所謂「稗史小説」(黄表紙、合巻、中本、読本など)を意味している。つまり、近世後期における商品化された戯作に関する製作過程についての記述である。戯作者に拠る原稿の執筆の様相から、印刷業者の諸工程を経て本として製品化され、読者の手に渡るまでを、多くの史料を踏まえながら、行き届いた記述がなされている。

板本書誌学上の劃期的な達成として中野三敏『書誌学談義 江戸の板本』▼5が備わる。この本は、板本の書誌学的考察に関する初の総合的参考書であり、草双紙研究者も造本や書誌学的知見を確かなものにすべく、必ずや目を通すべき文献である。草双紙に関する記述は決して多いわけではないが、「袋入り」「上紙摺り」「地本類の色表紙」「絵題簽」などに就いても詳細かつ精確に言及されている。

以上、挙げてきた所謂二次資料と呼ばれる新旧の研究者等による先行研究も決して無視することはできないが、やはり当時の戯作者などの言説(一次資料)に基づいて見ていくのが本筋であろう。

その際に有用なのが、林美一編の江戸戯作文庫『作者胎内十月圖さくしやたいないとつきのず▼6である。収められているのは、いずれも戯作者がテキストを生み出すまでの苦労や作成過程を趣向化した草双紙で、表題になっている山東京伝の黄表紙『作者胎内十月圖』(〔北尾重政画〕、3巻3冊、文化元〈1804〉年、鶴屋喜右衛門板)に、付たりとして、式亭三馬の合巻『腹之内戯作種本はらのうちげさくのたねほん小川美丸画、3巻合1冊、文化8〈1811〉年、鶴屋喜右衛門板)、十返舎一九の黄表紙『的中地本問屋あたりやしたじほんといや(同画、2巻3冊、享和4〈1804〉年、村田屋治郎兵衛板)とが、表紙や奥目録を含めて原寸大の図版を掲載した上で、注釈付きで校訂本文に拠り活字化されている。

     ○

さて、本稿では長友千代治「江戸の本屋」(国文学研究資料館講演集 9『本の話』、1988年3月、国文研)所収が紹介している東里山人の合巻『寳舩黄金[木危]たからぶねこがねのほばしら(勝川春扇画、3巻1冊、文政元〈1818〉年、和兵衛板、東洋文庫蔵岩崎文庫、名古屋市蓬左文庫)の一図(1オ2ウ)を取り上げてみたい。

中央に顔を小判に描かれた板元が据えられ、周囲に作者、画工、筆耕、彫工、摺師すりしが描かれている。当時の出板が、板元に 主導プロデユース された作者や画工や職人達の分業に拠るものであったことが一目瞭然となる一図である▼7

この『寳舩黄金[木危]』という合巻は題名からは想像しにくいが、日常生活におけるお金の諸相を、神祇、釋教、戀、無常から始まり、博学秀才なる金、人の命を取る金、人の命を救う金、飛脚の金などと、お金を擬人化し、その顔を小判で描いて、有名な歌舞伎場面の見立てや古典テキストのパロディなどを用いて面白可笑しく書き記したもので、それなりの古典や芝居に関する知識を前提とする黄表紙風の軽妙なものである。

ここに示した見開きの絵は、テキストの冒頭に据えられたもので、謂わば草双紙出板の楽屋落ち(普段は観客に見せない裏側)を趣向化した場面で、「○金ぎんのために使つかはれて人々身をくるしめる所の画組ゑくみ」と題されている。

宝
"Graphic Narratives from Early Modern Japan"より)

順に書き込みを読みながら、適宜注釈を加えて作業の実態を確認していこう。  

〔板元〕(和兵衛=泉市)

顔が小判に描かれているのは、板元が金儲けのために出板業を営んでいることを表象している。したがって、草双紙の出板全体を統括する製作責任者プロデユーサとして、

みんなせいを出してさつ/\とやりなせへ。わしが此処こゝひかへるからさるもちじや。おそいと板元はんもとあいがわるいからおのづから二年後ねんごまはりますぞ 。なんでもはやいがおとくじや/\。

と、本の出板に係わる職人たちに対して「とにかく早く仕事を仕上げろ」と檄を飛ばしているのである。「猿が餅」とは、猿が餅を貰うとすぐに喰い尽くすところから、即座にやり取りする結果として儲かるうまい話のこと。板元は職人が仕事をした結果を待っているだけで利益を得られるというのである。また、草双紙は新春を祝う景物けいぶつとして正月に売り出す商習慣があったために、職人達の作業が遅延して新年の売り出しに出板が間に合わないと大幅に売り上げが落ちた。したがって、もし新春の売り出しに間に合わない場合は、その出板は「二年後へ廻」る。つまり一年先送りをすることになる。急いで仕事を終わらせる必要があるという点において、手間賃を貰って仕事をしている職人達と板元との利害は一致していたのであった。

文政期以降は、新春を待たずに売り出されるなど、次第に売り出し時期が早くなった。春新板という名目は残るものの、実際には九月頃に既に次年の新板が売り出されたこともあった。これは、現在でも翌月号の月刊誌が前月に売り出されるという商習慣にも係わっているのかも知れない。

作者

本作の作者である東里山人は、鼻山人とも称した。山東京伝が自分を特徴付ける自己表象トレードマークとして用いた団子鼻を踏襲して、やはり自らの表象として団子鼻を用いており、挿絵では着物の文様としても団子鼻が描かれている。 なお、当時は挿絵についても画稿(挿絵の下絵)を作者が描いた上で、それに基づいて画工(浮世絵師)が清書をしていたことから、この趣向も作者の意図に拠るものであると判断できる。

この場面は作者の書斎であろうか、背後に執筆の参考書である『琅邪代酔篇』▼8と書かれた紙が貼られた木製の本箱が描かれている。机上には硯と水差しと筆立が置かれ、稿本を前にして構想を練っている様子である。

まづぐみたりめへの芝居がかりにして、白氏文に「古塚ふるづかきつねようとしてかつひたり、化して婦人ふじんとなる」とふ古事をげて、夫木集に「花をる道のほとり古狐ふるきつね」の哥にあはせると、すつぱり信田妻しのだづま趣向しゆこうが出る。奇妙きめう/\。

と、作品の構想を思いついた場面である。

まず、挿絵のレイアウトは何時ものように歌舞伎の舞台を彷彿とさせるように描こうというのである。そもそも、草双紙は紙上歌舞伎と呼ばれたほど歌舞伎との関係が深く、登場人物が人気役者の似顔によって描かれたり、場面自体も歌舞伎の舞台を意識したものであった。また、作者の意図は、歌舞伎の専門用語という共有するコードに拠り、「立役たちやく」「惣髪そうがみ」「だんまり模様」などと画工に指示すれば、その描こうとする図柄イメージを画工に伝えられたのであった。

次に掲げたのは、柳亭種彦の合巻『偐紫田舎源氏』四編の稿本(15ウ16オ)である。

(国会図書館デジタルライブラリより)

この稿本でも、画稿としてレイアウトなどを示した上で本文を記している。また、[つゞき][四の巻へ]\[三の巻より]と見えるように、5丁1冊の意識から3巻(11〜15丁)と4巻(16〜20丁)の切れ目を明示している。

右上方に、朱筆で「竹ばかり」(竹だけ)、「さかやきはえてゐるがよし」(月代が生えている方が良い)など、さらに着物についても画工に対する指示をした上で、左下方には「筆耕此処にてかききり」(文字は此処までに書き終わる)などと、筆耕(清書者)に対しても細かい指示が書き込まれている。

さて、物語の構想としては、唐の白居易の詩文集『白氏文集』▼9巻4、諷諭4「古塚狐」の冒頭部に「古塚ふるつかきつねようにしておいいたり、して婦人ふじんつて顔色がんしよくし」とあるのを利用しよう。これに私撰類題和歌集『夫木ふぼく和歌集』▼10の巻27「野干やかん」に見える「はなみちのほとりのふるぎつねかりのいろにやひとまよふらん 藤原為顕」という和歌を付会すれば、狐繋がりになる。そうすれば、説経節せつきようぶし信太妻しのだづま▼11つまり、和泉国信太しのだの森の白狐が女に化けて安倍保名と結婚し、一子を儲けたが、正体が知れて「こいしくばたず和泉いずみなる信太しのだもりのうらみくず」の歌を残して古巣に帰ったという話にピッタリ一致する、と悦に入っている。「奇妙/\」というのは江戸方言で、すばらしいと謂う意味で「うまい/\」「しめ/\」と、良い構想を思い付いたものだと自画自賛しているところである。

此処で趣向化された狐などのように、あるモノを蒐めて並べて付会し繋げる趣向立てを「吹寄ふきよせ」と呼び、初期の草双紙から見られる趣向である。作者がその構想に利用する参考資料は、所謂「類書」や「類題集」、絵入百科事典とでもいうべき『和漢三才図会』や、名所旧跡に関する伝承や縁起などを集成した「地誌」類など手軽に使える参考書である。なお、それぞれ出典としている原本を直接参照しているとは考えにくいので、注釈を付すときには留意する必要がある。

さて、作者が構想を練るのに苦労したことは想像に難くないが、〈世界〉と〈趣向〉という歌舞伎の 作劇法ドラマツルギー が草双紙にも利用されていた。この〈世界〉とは、テキストを構成する時代背景や登場人物名や立場と、描かれる事件などの要素の集合体で、謂わば確乎として変容しない大枠のことであり、「忠臣蔵の世界」「曽我の世界」などと使う。これに対して〈趣向〉とは自在に変容可能な部分で、たとえば「お家騒動」「敵討ち」などがある。いずれにしても、歌舞伎でも草双紙でも、この〈世界〉と〈趣向〉との自在な順列組合せぜ)や、作り替えパロデイに拠って、次々と新しい作品が生み出されていたのであった。

つまり、この〈世界〉と〈趣向〉という作劇法さえ理解していれば、歌舞伎や草双紙などの標題や角書きを見ただけで、作品内容を概括的に把握できるようになるということである。重宝な参考書としては「世界綱目」(『狂言作者資料集』(一)、国立劇場、芸能調査室編、1976年所収)や、『歌舞伎細見』(飯塚友一郎編、第一書房、1927年増補開版)がある。

ところで、草双紙の歴史を眺めてみると、歌舞伎から離れた題材を用いたものも尠くなかった。敵討ものに始まった合巻は、次第に長編化していく傾向が強くなっていく。この長編化に連れて、使われる典拠が演劇種だけではなくなる。中国小説『水滸伝』『西遊記』の翻案、先行する『源氏物語』などの古典や読本『南総里見八犬伝』など有名作の抄録など様々である。しかし、これらも次第に〈世界〉と成って草双紙に利用されていくことになるのである。作者の工夫の痕跡については、数は多くないが現存している稿本があり、実際に出板された板本と比較すると様々な情報が得られて興味深い。なお、前述した江戸戯作文庫に所収の『腹之内戯作種本』は、稿本の図版も併載されていて容易に参照できる。

画工

本作の画工は勝川春扇である。この挿絵は、おそらく自分の顔に似せて描いた自画像であろう。着物の模様に「春」という文字と扇の絵とがあしらわれている。机に筆立てと硯が用意されており、左上に作者から回ってきた稿本を置き、下敷きに載せた板下用紙を文鎮で押さえて固定し、稿本を見ながら絵の部分を清書している場面である。

この挿絵を注意深く見ると、 板下はんした ▼12 には絵を先に描いていたことが分かる。草双紙は絵に重きがあるので、絵の出来不出来が売上に影響した。そのためには、絵の清書を優先したのも当然である。また、板元は人気のある画工に仕事を依頼することが要求されたのである。なお、多色摺りが施される表紙や、次第に凝った装飾が用いられるようになる口絵だけを、少し格上の絵師に担当させることもあった。やはり、商品価値を上げるために、目立つところに手を掛けたのである。

そもそも赤本の時代には作者は存在せず、画工が本文も書いていた。黄表紙は作者の自画作も多かったが、末期には北尾重政の絵が多くなったと思われる。合巻の時代になると、挿絵は主として歌川派に拠って担われるようになる。錦絵でも役者似顔や芝居の雰囲気を描くのに闌けていたからかも知れない。同じ歌川派でも、国芳贔屓ひいきもいたし、画工は歌川国貞に限るという読者もいたようである。『南總里見八犬傳』の抄録合巻である二代目為永春水鈔録『仮名読八犬伝かなよみはつけんでん(国芳)と笠亭仙果作『雪梅せつばい芳譚ほうたんいぬ艸紙そうし(国貞=三代目豊国)とが画工の人気を二分して競作となったことについては木村八重子『草双紙の世界 江戸の出版文化(2009年、ぺりかん社)に詳しい。

以上のことから分かるように、浮世絵師の仕事としては、単に一枚絵である錦絵の執筆のみならず、絵入本の挿絵についても同様に大切な仕事の一部なのであった。

さて、春扇が何やらひとごとをいっている。

コウト、此処こゝの所ハかたき役が名剣めいけんうばとつて、暗闘だんまりの立ちまはりがあらうといふもんだから、いづの口か、又ハうしろに藪畳やぶだゝみのあいしらいがねへと見てくれがくねへ。左りへ刀をたせたも、右で切りたふし左へなをして見せたやつだ。

まず、此処は敵役が名剣を奪い取って暗闘だんまりという歌舞伎独特の演出がなされるべき場面であると判断している。「だんまり」とは無言にて闇中に宝物などを奪い合う緩慢な動作を様式化した演出方法のことで、その背景としては、山中の古いやしろや、水門、笹藪などの大道具が配されるのが一般的なので、それらを描かないと歌舞伎の舞台としては格好が付かないというのである。この辺りは、作者が頭の中で思い描いている場面の情景が、歌舞伎舞台の様子に立脚しているので、画工にも間違いなく伝わっているのである。

本文との齟齬が生じないように、特に画工に注意して欲しいことに関しては、稿本に朱筆で指示が書かれていることがあり、これも稿本が残っていれば参照すべき情報だと思われる。

最後の部分で、「左手に刀を持たせたのは、右手で切り倒してから左手に持ち換えたのだ」といっているが、この言訳けは面白い。細かな部分に突っ込みを入れてくる読者もいたのであろう。その辛辣な指摘に対する予防線である。

錦絵で良く描かれるのは、「見得みえ」を決めた場面である。見得とは、映画のストップモーションのように、舞台の役者達が見栄えのする姿勢ポーズをとって周囲を睨み思い入れがある様子で静止することに拠り、あたかも絵画の一場面のようにバランスの取れた緊張感のある構図を創出して印象的に見せる演出法である。草双紙でも同様に、見栄えのする格好良い場面を挿絵にするので、自然と歌舞伎舞台の様式的な場面が頻出するようになった。

ただ、絵としての全体の均衡バランスを考えて、稿本の指示に拘わらず画工が人物の配置を変える場合もあった。つまり、細かい調度や着物の意匠などは画工に任されることが多く、その意味では画工のセンスや工夫が不可欠なのであった。

つまり、草双紙は作者の指示に基づいて作成されるものの、同時に画工との協働作業が必須であったともいえよう。

筆耕

筆耕は筆工もしくは 傭書ようしよ ともいい、板下に文字を清書する専門職人である。読本では巻末に彫工と共に名前が記されていることが多いが、草双紙の場合も「石原知道筆」「浄書 千形道友」「筆耕 瀧埜音成」などと巻末に名前が記されていて、担当した職人の名が知れる場合もある。なお、本作には筆耕名が記されていないが、描かれた顔は本人の似顔になっているかもしれない。

板下に文字を清書するためには、単に字が上手で読みやすいだけでなく、それなりの専門知識も必要であった。ただし、武士の内職としてこの仕事に携わっていた人もいたものと推測されている。また、画工の北尾重政や溪斎英泉などが筆耕を兼ねていたことが知られており、藍庭晋米や岡山鳥、橋本徳瓶、松亭金水などは、筆耕から後に戯作を做すようになった。一方、作者自ら画工も筆耕も兼ねた十返舎一九などは、板元にとっては重宝な存在であった。

さて、この場面は、机に筆立てと硯が用意されており、左上に稿本を置き、画工によって絵が清書された板下用紙を下敷きに載せ文鎮で押さえて固定し、稿本を見ながら文字を書き入れているところである。

サァ/\此処こゝ筆耕ひつかう沢山たくさんだから、まづこれぎりにして、次へつゞくとしてしまいませう。なんでも 合じるし なざァ目につやうに大きく書ておかねへと、見物がつい見おとして、とんだ所をむやつサ。京ばしの先生が一二三四と丁寧ていねい番付ばんづけけたハきついもんだ。

「筆耕が沢山」というのは、文字数が多いという意味。その場面に関する文章なのであるが同じ丁に入りきらないので、ここで切ってしまい [次へつゞく] としてしまおうというのである。

合印あいじるし 」は、本文を読む順番を明示するために、文末と次に続く文章の最初に「」や「」など同じ記号を付したもののことである。絵が大きく描かれた板下に書き入れる本文は、絵の余白に本文を散らし書きにする必要があるので、その文が何処へ続くかを明示しておかないと、見物(読者のことを歌舞伎を見る客に譬えている)が読むのに混乱してしまうというのである。この合印を書き入れるのも筆耕の仕事であった。なお、ここでの「番付」とは、「@」の続きは「A」、「B」は「C」に、「D」は「E」に続くというように、読む順番を数字で示した「印」のことで、機能は合印と同じである。

「番付」の具体例を次に掲出しておく。掲げたのは山東京山の合巻『女忠節二面鏡をんなちゆうせつにめんかゞみ』初編(国貞画、2巻2冊、天保14年、森屋治兵衛板、架蔵)の19ウ20オである。

1234

ところで、初期の草双紙から寛政期以前の黄表紙までは、絵に軽妙洒脱な台詞や滑稽な短文を付け加えただけのものが多く、比較的文章が短かった。寛政改革以降、敵討物が流行してからの黄表紙は筋が長編化する傾向にあり、絵に対して文字数が増えてきたために、次第に文字が小さくなる。

次に掲げたのは曲亭馬琴の合巻『牽牛織女願糸竹 たなばたつめねがいのいとたけ』中編(文政10年、五渡亭國貞 画、6巻3冊、西村屋與八板、架蔵)の15ウ16オである。文字がとても小さく大変に読みにくい。

願糸竹

だがしかし、できるだけ文字を小さくして、絵の隙間にぎっしりと文字を詰め込むだけでは、長編化する本文には対応できなくなってきた。その結果として、絵に文が追い付かずに先送りされる事態に至ってしまったのである。「いま高名かうめい細画さいぐわぶん先立さきだつあり ぶんおくるゝあり」(関亭傳笑作『御産池龍女利益みぞろがいけりうぢよのりやく』序文、合巻、北尾重政画、文政11年、森屋治兵衛板)▼13 という具合で、ひどい場合は絵がなく文字だけの丁が出来てしまったものも見受ける。

例えば、為永春水の合巻『かなよみ八犬傳』7編(國芳画、4巻2冊、嘉永2年、丁字屋平兵衛板、架蔵)の巻頭を見てみよう。

かなよみ

見返に序文を配置して一オから[六編のつゞき]として本文が始まっているが、ご覧の通り文字だけの丁となっている。三段に分けて▲▲▲△ という合印も付されているが、流石に文字だけだと読むのに結構疲れる。丁末に [二丁おいてつぎへ] とあるが、口絵が2丁入っているためである。変則的な構成ではあるが、序文中に「六編ろくへんのおはりにいたり言話ことばあまりッて紙員ちやうすうつきたり」とあるように、本来は序文がある1オを本文に譲ったのである。

この文字が小さくなるという事象は、文化末期から文政初期の合巻に顕著に見うけられるが、文政期の半ばに長編合巻が出始めるまで、やはり筋が複雑化して長編化した際に、筆耕としては小さい文字をぎっしり詰め込むか、もしくは文を先送りするしか方法がなかったのである。何故なら、5丁1冊という管制の構成単位は、変更しがたい出板規則として存在し続けていたからである。

ここで、もとの「筆耕」の台詞に戻る。最後の「京ばしの先生が一二三四と丁寧ていねい番付ばんづけけたハきついもんだ」の「京橋の先生」とは山東京伝のことで、合印を最初に思いついたのが京伝であるとされていた。この発明を「きつい(=大した)もんだ」と絶賛しているのである。

具体的に見てみよう。京伝の合巻『八重霞やえがすみかしくの仇討』(豊国画、文化5年、鶴屋喜右衛門板)には序文の代わりに「○讀則とくそく」が挙げられ、

著述ちよじゆつ絵草紙ゑぞうしすべてかなら読則とくそくあり。本文ほんもんぐわへだてられてよみがたきも此則このそくによりてよめ埜馬臺やばたいくもいとたるがごとくなるべし

として[よみはじめ]、[つぎへつゞく]、 ▲▲ ▼■ ●など本文中に挟まれた印の説明がなされている。この合印は記号であるが、読む順番を示した一二三四も機能的には同様な工夫である。

ちなみに「埜馬臺の詩」というのは、『野馬臺詩國字抄やばたいのしこくじしよう(高井蘭山著、半紙本1冊、寛政9年、星運堂 花屋久次郎刊)などの往来物でも教材として取り挙げられた「東海姫氏國 百世代天工 …… 〓丘與赤土 茫々遂為空」という、5言24句の字謎漢詩アナグラムのこと。「蜘の糸を得たるが如く」というのは、『江談抄』(平安時代の説話集)などに拠れば、遣唐使として唐へ渡っていた吉備真備の学才を試すために、唐人が「野馬臺詩」を読ませたが、読みかねた真備は神仏に祈念する。すると天井から蜘蛛が下りて来て読む順を糸で示し、無事に解読できたという説話である。

江戸時代の風俗習慣や流行語などに就いての知識がないと、当時如何に読まれていたかが分からないのは当然であるが、「邪馬臺の詩」のように現代では決して常識的だとはいえない知識や教養も、往来物などで扱われているのを知れば、当時の教養としては決して特殊な知識ではなかったことが分かるのである。

板木師

板木を彫る職人のことで、彫師ほりし、彫工、剞〓きけつ師ともいう。

画工と筆耕が清書した板下はんした(写本とも)を裏返して板木に貼り付けて書かれた部分を転写し、印刷されない部分を彫刻刀で彫るのである。これも、若い頃から親方に弟子入りして習得しなければならない高度な技術を要する専門職であった。石材を用いた印判の篆刻とは全く別の技術であるが、黄楊つげなど木材を用いた判子はんこなどは、彫師の仕事の範疇であったようだ。

彫師の仕事ぶりを見てみよう。板木師は目を酷使する細かい作業の所為せいか、描かれた板木師の図には眼鏡を掛けているものが多い。机の上に板下を転写した板木を置き、整板本は凸版印刷なので反転した文字や絵の部分を残して、印刷しない部分を彫刻刀で削っている。自分の方に刃先を向けていて、一見すると大変危険であるし、作業しにくそうである。しかし、彫りやすさを優先して板木を回転してしまうと、様々の方向から刃が入ることになり、結果的に摺師が摺る時に紙や馬連が引っ掛かって困るのである。そのために、敢えて板木を回転させずに彫っている様子だと推測される。

右側には削りかすを払うブラシ刷毛はけよりも毛が硬い)や小刀などが置かれている。現在の彫刻刀は丸刀(半円)、斜刀(切り出し)、角刀(三角刀)など刃先の形が異なる多種が存するが、当時、木彫に使用するのは小刀だけであったようだ。机の右脇に見えているのは木槌きづちである。広い面積をさらう時には、此処には描かれていないがのみを用いたので、木槌が必要なのであった。また、このほかに必要な道具としてはかんながある。これは、板木の表面を平滑にするのに用いられた。

彫師の 独言ひとりごと に耳を傾けてみよう。

此一丁ハとんだくどひにハおそれる。ヲットこいつァにごりの仮名かなだらう。うるさくあるやつだ。石ざか雨降あめふり、引ざやの御簾みす罫書けがきの松ときちやァはんころしだ。なんでもはやげて又あとらねばならぬ。

「この一丁は途方もなく細かい部分が多くて閉口する」「おっと、これは濁点付仮名だろう、よく出てくる奴だ」と愚痴ぐちっている。他のジャンルに比べて草双紙の仮名は文字が小さい上に、その濁点を彫るのであるから、なおさら大変な作業である。その後に列挙される「石坂」「雨足」「御簾」「松葉」などは、何れも細かな点々や細い線を何本も用いて描かれる事物であり、斯様に神経を使い手数の掛かる彫りをさせるのは板木屋殺し(板木屋泣かせ)だといっている。

「早く仕上げて、次を受け取らなければならない」というのは、彫師にとって、彫り上ったら仕事は終わり、というわけではなかったからである。後日、作者に拠る 校合きようごう(校正)作業の結果、訂正箇所を修正するという仕事が待っていたのである。それも場合によっては数度に及ぶこともあった。修正は、筆耕の書き間違いの場合も、彫師の彫り損ないの場合もあったが、板木を持ち運びする時に一部分が欠けてしまったりすることもあった▼14

次に校合本を掲げた。柳水亭種清の合巻『白縫譚』64編(守川周重画、明治11、丸屋鉄次郎板、大妻女子大学蔵)14ウ15オである。

校合印

下部に朱墨で訂正が書き込まれている。ただし、この本には訂正部分の上から訂正済みの紙が添付されているが、これは後から誰かが付けたもので、本来はなかったものと思われる。 ちなみに、今迄に管見に入った校合本を見る限り、幕府の禁忌に触れるような場合でない限り、作者による校合段階での改稿はなかったようである。

何れにせよ、修正箇所については当該箇所の板木を加工するわけであるが、入木いれぎ象嵌ぞうがんといって、誤った部分の板木を深く削り取って新たに同じ大きさの木を埋め込んで表面を平らにした上で、其処に訂正した板下を裏返しに貼り、その部分だけを彫り直すのである。

流布している板本から入木の痕跡を見付けることは比較的容易である。入木箇所の表面の高さが全体とは異なる場合が多く、出っ張っていれば字が濃くなり、引っ込んでいれば字は薄くなる。さらに、訂正部分の板下を書くのは本文を清書した筆耕ではないことが多く、書体が異なる場合も多い。つまり、一見した時に何となく違和感が生じるのである。

最初に使われた板木を、後に別の板元が購入(求板)した時に、標題を変更して別のテキストに見せかけるという改竄を加えることが多い。その場合も入木が施される。これら改題改竄本の場合も、入木された内題などには違和感が生ずるものである。

なお、出板に関する分業の中で、中枢となるのが彫師(板木屋)である。彫師がいなければ如何なる本も印刷することは出来ないからである。また、禁制の好色本など非合法出板を引受けて金儲けをしていたのも彫師たちであり、幕府もそのことには気付いていて、統制を引締めるときには板木屋仲間に対する規制を強化したのである。

嘗て二十世紀末に、違法な風俗営業を宣伝するため、大量に印刷されたピンクチラシ(広告)が、公衆電話やトイレなど其処此処に貼られた時期に、警察権力が「売春防止法」の「売春周旋目的誘引罪」に拠って、敢えて印刷業者を取締まったのと同じ手法である。

はん

「板摺」とは、摺師すりしのことである。板木に墨を塗って紙を載せ、上から馬連ばれんで摺刷する職人である。

絵を観察すると、手前を少し高くした台の上で作業をしていることに気付く。当時は、基本的に床に座って生活しているので、力を加えやすくするための工夫であろう。現代のように台机で立って作業するのとは違う細かな配慮が加えられているのである。また、手に持っている丸いものが馬連と呼ばれているもので、縒った紐などを渦巻き状にした芯を竹の皮で包み滑りを良くした摺刷専用の道具である。摺師は自分で馬連を作ったり修理したり出来る必要があった。 摺師の右側には大きな(馬毛を用いた)刷毛ブラシと、大きな硯が置かれている。硯に墨を入れ濃さを調整した上で刷毛で板木に塗るのである。前にはこれから摺るための和紙、左右には摺った紙が積み上げられている。 また、腕が太く逞しい男性が描かれているが、大量に摺るには腕力も必要であった。しかし、一枚の板木で一度に摺れるのは二百枚程度だったという。摺刷の際に摩擦熱が生じ板木から水分が蒸発しやすくなり、また板木自体が熱で反るので、大量に摺る場合は一晩冷ます必要があったという。

これは実際にワークショップで板木を摺った経験があるので良く分かるのであるが、摺刷は簡単そうに見えて、実は奇麗に摺るには大変な経験と技術とが不可欠なのである。前日から板木に湿り気を与えておく必要があり、特に長年使用していない板木に一定の水気を保持させるのは容易ではない。また、市販の墨汁を使う場合でも非常に濃い物を用意し、時には糊を混ぜて使用するという。紙も適当な厚さの純粋な楮紙に湿気を与えてから使用してみたが、紙の吸水力も考慮して調整しなければならない。とくに草双紙のように細かい字や絵の入っている物は、均一にむらなく摺るのは実に難しい。墨の水分が蒸発していくので墨の濃度を一定に保つことも、板木に一様に墨を載せるのも、全体に平均的に力を加えて摺るのも、全て素人が一日にして出来る技ではないことを思い知らされた。この経験後は、今まで何の気なしに触れてきた板本を見る目が一新されたと謂っても過言ではない。

さて、板木師の 独言ひとりごと に耳を傾けてみよう。

まづこれで合くわんほう大概てへげへ 上りだ。これからあをほうかゝると、もふしめたもんだ。ヲット外題げだい色差いろざし があつたけ。あいつァ夜なべにやァちつとむつかしいわへ。

大概たいがい を「てへげへ」と発音するのが江戸っ子らしい。「合巻の摺り作業は大体終わった。次に「青」の方に取り掛かれば、もう仕事の終わりが見えてくる」というのであるが、この「青」というのが良く分からない。青本の「青」と考えると一般的な草双紙全般も指す場合があるが、此処では直前に合巻とあることから、「青」とは、青本や萌葱色表紙の黄表紙などをさしているとも推察できる。実はこの文化末年くらいまで、錦絵風摺付表紙を用いずに簡素な墨摺の外題簽を備えた黄表紙仕立ての後印本が、合巻の廉価版として作られていたことが知られているからである。

「外題(表紙)の色差し」は錦絵風摺付表紙の 重摺かさねず(多色摺り)のことである。「夜なべ(徹夜)作業で終わらせるのは無理だ」というのは、多色摺りの場合は摺った色がズレてしまっては困るので、紙の一定の位置に摺れるように「 見当けんとう(紙を 宛行あてがう ために、板木の左側と下部、左下の角に、わざと彫り残した棒状部分)を使用する。ただし、板木や紙の状態に拠ってこれを微妙に調整する必要があり、墨摺一色に比較すると作業量が著しく多くなる。その上、墨用の 主板おもはん 以外に、多く色を一色ずつ摺るために、色板いろいた の枚数だけ摺刷作業を繰り返す必要がある。さらに、前に摺った色の部分が乾かないと、次の摺りに取り掛かれない。中には「ボカシgradation」という、絵の具を塗った板木を濡れた雑巾で拭いて、色調や濃淡を少しずつ変化させる技法を施したり、「型押しemboss」と呼ばれる彫った板木に絵の具を塗らずに紙を載せ、上からひじなどで紙を強く押し付けることによって紙に凹凸をつけ、着物の模様などを立体的に見えるようにする技法が施される場合もあった。さらに、雲英きらりなどは細かく砕いた石英crystal艶墨つやずみ(漆黒の濃い墨)の上に散らしてにかわで貼り付けてキラキラと見えるようにする技法で、大変に手が掛かる。このような手数の掛かる摺り作業は、徹夜では到底無理だろうといっているのである。

摺師にとって、草双紙の本文など墨一色の摺りは楽な作業であったであろう。むしろ、錦絵や草双紙の外題(表紙)や口絵などのように凝った摺刷技法を用いたものにこそ、技量が発揮できたのであった。

      ○

ここまで、草双紙の挿絵一図の絵と文とを細かく丁寧に、注釈的に読むことに拠って、当時の草双紙の出板工程を見てきたが、摺り上がった本文を製本して売り出すまでについては、前述した『的中地本問屋』が趣向化しているので、次に掲げておく。

  黄表紙『的中地本問屋』 (同画、2巻3冊、享和4年、村治板)、4ウ5オ

印
(江戸戯作文庫『作者胎内十月圖』より)

この図版から分かるように、摺り上がった本文は各丁を 折鞍おりくら と呼ばれる三角形の台に乗せて折目を付けて半分に折り、次に 丁合ちようあい を取る(1丁から順に並べる)のである。以下の工程は、この先の丁に描かれているのであるが、更に、中身を揃えて小口こぐち(天地と綴目の三方)を化粧裁ちし、摺り上がった表紙の上に本文の束を置いてへらを使って表紙の余白を内側に折り込んで糊付けし、右側に4つのあなを空けて糸で縫って「四目よつめじ」にする。発売日には店頭で売り出すと共に、せり売り(背負子で背負って売り歩く)に出し、町々の本屋などへも配本する。かくして、目出度く新年が迎えられるわけである。

ところで、草双紙の製作過程が大きく変わるのは、明治10〈1877〜86〉年代に活版印刷が普及し始めた頃である。草双紙も活版化の波を遁れることは出来ずに、試行錯誤が行われるのであるが、活版印刷の工程では本文の組版が終わってからでないと作者が挿絵の画稿を描けないので、それでは出版に間に合わなかった。つまり、草双紙が活字化されると、挿絵に作者が関与した上で全丁絵入という形態は現実的ではなくなってしまったのである。その結果として、錦絵風摺付表紙を備えた中本であっても、中身は活字本文に挿絵が少し加えられたもので、もはや草双紙とは呼べなくなってしまうのであった。具体的には拙稿「明治期翻刻本の出版」▼15で、『釋迦八相倭文庫しやかはつそうやまとぶんこ▼16の例を取り上げたことがある。また、佐藤至子『幕末の合巻 ―江戸文学の終焉と転生―(岩波書店、2024年2月)をご参照頂きたい。

さて、本稿では触れられなかったが、原稿料潤筆じゆんぴつや職人の手間賃、実質的な販売価格、出板部数に関しては、限られた資料は散見するものの、必ずしもその全体像が解明されつくしたわけではない▼17

ただし、式亭三馬が「讀本よみほん上菓子じやうくわしにて、草雙紙くさざうし駄菓子だくわし也」▼18と記しているように、読本は非常に高価だったため主として貸本屋を通じて流通していた。近世小説中では最も格調の高い小説が読本で、漢文体の序文や、多くの考証なとが本文に取り入れられていた。一方、草双紙は比較的廉価で個人が購入して読むことが出来た。もちろん貸本屋を通じても借りられたのであるが、その場合は貸本屋仕様として半紙本に仕立てられ、錦絵風摺付表紙を持たない体裁のものもあった。貸本屋が背負って歩くときなど、中本サイズであると読本などの半紙本と揃わずに扱いが不便であったからである。

板元の側からいえば、読本は仕込みに時間も経費も掛かる上、初期投資を回収するためには、主として貸本屋を相手として数年間にわたって売れ続ける必要があった。一方、草双紙は丁数も少なく比較的手軽に出せたが、基本的には売り出した年にしか大量には売れないので、読者の評判が良くなく売れ行きが悪いと利益が上がらなかったのである。

最後に、林氏が解説で紹介された図を紹介しておきたい。

曲亭馬琴『[倉鳥]山後日囀ひばりやまごにちのさへづり(國貞画、6巻2冊、文化14年、丸文板)30ウ。

J
(林美一編、江戸戯作文庫『作者胎内十月圖』、河出書房新社、1987年より)

作者が手に持っているのは筆と稿本であるが、うしろに描かれた手が製作に必要な物として、小刀、かんな擂粉木すりこぎ、筆と定規じようぎ刷毛はけ、糸を持っている。また、右下に「徳瓶 浄書」と筆耕名が記されている。

作者さくしやいはく、草双紙くさぞうし小児せうにたはむれにてる所なきもてあそものなれども、これよつ妻子さいしやしなものすくなからず。板元はんもとさらにもはず、作者さくしや画工ぐわこう筆耕ひつかうき、板屋いたや板木師はんぎし板摺はんすり仕立したて、表紙屋ひやうしやとう、只一人ひとりとしておろかなるハし。 その中に作者さくしやのみ、はじめよりをはりまで手のかゝるものぞかし。 たとへば、世界せかいさだめ、名をもり、 すぢかんがへ、絵割ゑわりかき入をして、 しばらやすみ、はんしや本の校合きやうがふ彫上ほりあげ校合きやうがふハ二三度さんどおよぶことあり。此外題げだい表紙ひやうし注文ちうもんかぞあぐるにいとまあらず。 されバ此草紙さうしがたり観世音くわんせおん利益りやくちなみてかくごとあらはし、作者さくしや一人ひとりこうならぬ諸職しよしよく骨折ほねをりのすること、これも所謂いはゆる老婆心ろうばしんならんか。めでたし/\。

この記述を通して、板木を供給する「板屋」や、表紙製作専門の「表紙屋」などの業者あったことが確認できる。表紙は別工程であることは知られていたが、作者の手による画稿は管見に入っていない。此処に書かれている「外題表紙の注文」とは、表紙の意匠に直接作者の意向が反映されていたことを証するに足る情報と見做してよいのであろうか。

また、昔から謂われてきた「仮名で書かれた草双紙の読者は婦女子おんなこどもで、読本の読者は成年男子」という見方は、近年見直されつつある。草双紙が婦女子向きの読物であるという建前ポーズは一貫して存続してきたが、実態としては、それぞれ男女の別なく読者を獲得していた証拠が枚挙に遑がないからである。

坪内逍遙は「徳川時代の小説は、半分以上草雙紙なのだ。それを童話視して閑却するわけにはいかない」▼19 と記している。曲亭馬琴に心酔してその翻案小説の意義を主張している文脈ではあるが、傾聴すべきである。また「二百五十年余の歴史を有する草双紙の挿絵は、少なく見積もっても約三十万コマにのぼった」と試算されたのは木村八重子氏である▼20。この草双紙という息長く続いたジャンルは、数多くの片々たる小品の集合体に過ぎない。ではあるが、今後一層研究が進められなければならない我々に課せられた重要な宿題なのである。

   おわりに

本稿執筆中に偶然「小説が本になるまで」▼21 という冒頭で引いた林若樹の文章と同じタイトルの 記事アーテイクル をインターネット上で見掛けた。この記事は、現代における小説の出版の様相を、新潮社に取材したルポルタージュであるが、プロデューサーとしての編集者の仕事、そして校閲、装訂、広告という出版過程、さらに雑誌から単行本、文庫本へと装いを変化させて企画出版されることを紹介している。

興味深いことに、この二つの「小説の本になるまで」という文章は、基本的に出版過程が分業によって担われていることについて解説している。インターネットの普及した現代においても、紙媒体で出版される商品としての漫画コミツクを含めた娯楽読物の制作プロセスの原型が、早くも江戸時代に既に成立していたことに気付かされた。


▼1. 活字印刷は軽便な印刷術であったため、現在の複写コピー軽印刷リソグラフのように、特定の限られた人にテキストを供する場合は重宝であった。しかし、日本語の印刷には、漢字、平仮名、カタカナや約物(文字以外の記述記号)など、多種の活字を用意する必要があった。さらに、1丁(丁は紙数。2頁のこと)または2丁ごと組んでは、必要枚数を印刷したため、同じ文字を必要に応じて複数作る必要があった。使用した活字は一旦バラしてから、続く丁を組んでは印刷するという方法を繰り返したのである。結果として、1冊分全体の版が残ることはなかったのである。
▼2. 関根正直『小説史稿』(活版、大和綴じ一冊。1890年4月、金港堂本店)
▼3. 石田元季『草雙紙のいろ/\』(活版、洋装。1928年11月、南宋書院)
▼4. 林若樹「小説しようせつほんになるまで」(『版畫禮讃はんがらいさん』、稀書複製會編、1925)所収。319〜350頁
▼5. 中野三敏『書誌学談義 江戸の板本』(1995年、岩波書店)
▼6. 林美一編 江戸戯作文庫『作者胎内十月圖』(影印、校訂、注釈、1987年、河出書房新社)
▼7. この図に関する以下の記述は、授業教材として作成し使用してきたレジュメに大幅に修正加筆したものである。なお、このレジュメは大妻女子大学の草稿・テキスト研究所で実施したワークショップ「版木を摺ってみよう」(2019年12月)でも使用し、それを「ワークショップ記録」(「研究所年報」第13号、大妻女子大学 草稿・テキスト研究所、2020年11月)に掲載した。
▼8. 『琅邪代酔篇』は、明の張鼎思が編纂した類書であるが、此処に描かれているのは延宝3〈1675〉年刊大本23冊の和刻本である。
▼9. 824年に編まれた『白氏長慶集』50巻に自選の後集20巻、続後集5巻を加えたもの。平安時代に渡来、「文集」または「集」と呼ばれ、広く愛読されて後の文学に影響を与えた。
▼10. 藤原長清撰。延慶3〈1310〉年頃成立、後日の補訂があるという。万葉集以後の家集、私撰集、歌合、百首などから、従来の撰に漏れた歌17350余首を集め、四季、雑に部立し、類題に細分したもの。
▼11. 「山椒太夫」「苅萱かるかや」「梅若」「梵天国」「愛護の若」「俊徳丸」「小栗判官」など、中世から近世初頭にかけて流行った説経節と呼ばれる語り物の一つ。後に、古浄瑠璃にも脚色され、さらに二代目竹田出雲作の時代物浄瑠璃『蘆屋道満大内鑑あしやどうまんおおうちかがみ(享保19〈1734〉年初演)で有名になった。通称『くず』。これは女主人公の名。
▼12. 板下は板木に糊で貼り付けて転写したあとで、きれいにがしてから彫るので遺ることはない。もし板下が遺っているならば、その本は彫られなかったことを意味している。つまり、板下と見紛うような清書が在っても、出板された本であれば、それは板下ではない。
▼13. この、関亭傳笑作『御産池龍女利益』(合巻、北尾重政画、文政11年、森屋治兵衛板)の序文「草双紙大意」は、草双紙史を記述していて興味深い。この他、当時の戯作者の草双紙史に関する言説として山東京山「○草さうしの沿革うつりかはり(『菊壽童霞盃きくじゆだうかすみのさかづき』第10編、一陽齋豊国画、嘉永元〈1848〉年刊、山本平吉板)や、猫々道人(仮名垣魯文)戀相場花王夜嵐こひさうばはなのよあらし(明治期草双紙、明治14〈1881〉年仲秋序、梅堂國政画、東京 辻岡文助版)が参考になる。
▼14. ただし、馬琴の書き残したものに拠れば、作者による校合が行われたのは合巻の時代に入ってからだと思われ、黄表紙時代に同様の例があったかどうかは不明である。
▼15. 高木元「明治期翻刻本の出版(「読本研究新集」11集、読本研究の会、2020年2月)
▼16. 萬亭應賀作、豊国、国貞、曉齋画、合巻、65編(59編以下活字)、弘化2〈1845〉年から明治18〈1885〉年。
▼17. 佐藤悟「草双紙の造本形態と価格」(「近世文藝」56号、近世文学会、1992)、浅井清、市古夏生監修『作家の原稿料』(八木書店、2015年)など参照のこと。ただし、草双紙などが江戸市中で常に同一価格で売られていたとは考えにくいので、実勢価格については新資料の発掘が不可欠であろう。
▼18. 式亭三馬作『純子三本どんすさんほん紅絹五疋もみごひき 昔唄花街始むかしうたくるわのはじまり 』跋(合巻風中本型読本、3巻3冊、歌川国貞画、文化6〈1809〉年、鶴屋金助刊)
▼19. 坪内逍遙「新舊過渡期の回想」(「早稲田文学」229号、大正14〈1925〉年3月)
▼20. 木村八重子『草双紙の世界』(ぺりかん社、2009年)
▼21. 北岸靖子「出版社のお仕事 小説が本になるまで(「〈季|刊〉読書のいずみ」156号、全国大学生活協同組合連合会、2018年)


【付記】本稿は、Series: Brill's Japanese Studies Library, Vol.77,  "Graphic Narratives from Early Modern Japan : The World of Kusazoshi", Feb. 2024, BRILL の Chapter2 "The Creative Process" として、Joseph BILLS氏により英語に翻訳され、編者である Laura MORETTI氏と佐藤至子氏および査読者なる者の校閲を受けて出版された拙稿に基づく。 ただし、素稿は3年前に日本語で書いたもので、本稿は今回全面的に補訂改稿したものである。本アーティクルは紙媒体では公表していないが、翻訳者や編者、編集者が介在した英語版とは別版の 原著オリジナル としての扱いを希望する。(2024年3月稿)

(たかぎ・げん/千葉大学)



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