八犬伝もの銅版絵本二種 −解題と翻刻−
高 木  元 

【解題】

江戸読本よみほんを代表する『南総里見八犬伝』は曲亭馬琴に拠る近世小説中屈指の傑作であるが、一大長編作であるが故に多くの抄録や様々な影響作を生みだした。有名なテキストとしては『仮名読八犬伝かなよみはつけんでん(30編、春水・琴童・魯文作、国芳・芳幾画、嘉永元〈1848〉年〜慶応3〈1867〉年、丁字屋平兵衞板)があり、題名の通り全丁絵入で平仮名化された草双紙である。ほぼ同時に草双紙『雪梅芳譚いぬ草紙そうし(49編、仙果作、豊国・国貞・国綱・国輝画、嘉永元年〜慶応3年、蔦屋吉蔵板)が出され、人気を二分する競作が展開された。また、切附本『英名八犬士』 (8編、鈍亭魯文作、直政画、安政2〈1855〉〜3年、伊勢屋忠兵衛板)は、後に袋入本『曲亭馬琴著里見八犬伝』と改竄された抄録本で、こちらも随分と摺りを重ねたようである。また、「読み物」として出板されたものと考えられる浄瑠璃『八犬義士誉勇猛』▼1や歌舞伎の「正本」も少なくなかった。つまり『八犬伝』は多くの抄録や影響作など、原本以外のテキストを通じても読まれ続けてきたのである。八犬伝の享受史に関する諸問題を考察する時に、これらのオリジナルではないテキスト群を無視するわけにはいかない。

さて、この八犬伝に関する出版が活況を呈する事態は明治期に入ってからも同様であり、多種多様な翻刻や抄録等が出された▼2。ただし、本の様式から見れば様々な試行錯誤が見られ、木版和装本が直ちに活版洋装本に取って替わったわけではなかった。和紙を用いた和装のみならず、藁半紙の如き粗悪な西洋紙を用いた袋綴じの和装本もあり、洋装でも所謂ボール表紙本(南京綴)から始まり、次第に本格的な丸背上製本に移行する。一方、印刷方法に関しても活版が普及していく過程に於いて、口絵挿絵等は整版のように自由が利かなかったため、従来の整版の発展形である機械木版や銅版に拠る挿絵を持つ本が出された時期があった。多色刷の必要があった表紙や、時に折込みにされたカラー口絵等には木版に替わって多色描画石版が用いられるように成り、やがて平版印刷オフセット時代を招来することになる▼3

このように様々なメディアの形態と印刷製本技術が混在した揺籃期にあって、銅版印刷術は単に挿絵に用いられたのみならず、本文の全てが銅版に拠って作られた本が生産されていたことは注目に値する。日本に於ける銅版に拠る印刷物としては、キリシタン版の巻頭に銅版画が用いられたのが最初といわれている。十五世紀にヨーロッパで行われた銅版画自体も十八世紀には日本に入ってきていた。天明期には、司馬江漢が腐食凹版エッチング直刻凹版エングレーヴィングを使って銅版画を出している▼4

整版(木版)は彩色や重ね刷りを除けば、基本的に墨色の白黒二階調であるが、銅版による彫刻凹版は、彫刻の深度や太さ、掘られた線の密度に拠って濃淡の階調を出すことが可能であり、より写実的な立体感を表現できたのである▼5。そのため、絵画や地図などに用いられていたが、細かい字で訓点や仮名を振るのに適当なことから漢文系統の袖珍本などが盛んに出されるに至る。明治八年に明治政府の招きで来日したイタリア人エドアルド・キヨッソーネは、大蔵省紙幣寮(後の印刷局)で、いわゆる「お雇い外国人」として紙幣や切手の印刷に従事し銅版制作の技術指導にもあたった▼6。これにより飛躍的な技術の発展が適ったのであるが、しかし、銅版印刷には熟練した高度な技術が要求されたためにコストが掛かり、次第に石版に取って替わられた。一方、明治二十年頃には、木口木版(西洋木版)という堅い木口の面を使った白線彫刻法による印刷が行われ、銅版に近い濃淡表現が可能に成ったため、教科書の挿絵などに用いられていた▼7

従来は銅版印刷に拠る出版物に関しては余り注目を集めたことはなかったのであるが、近年、磯部敦氏は近世小説に基づく銅版草双紙に関して精力的な現存資料の整理と分析を行っている▼8。本稿では、これを受けて八犬伝末流の銅版絵本を二点紹介することにしたい。

  

▼1 拙稿「『八犬義士誉勇猛』−解題と翻刻−(「千葉大学人文研究」32号所収)
▼2 「国立国会図書館所蔵明治期刊行図書目録(語学・文学の部)」第4巻(1973年、国会図書館)や、青木稔弥「曲亭馬琴テキスト目録 明治編」(『読本研究文献目録』、1993年、渓水社)参照。また、同氏「馬琴の読まれる時」(「江戸文学」9、1992年、ぺりかん社)、「『八犬伝』と近代」(「読本研究」7輯上套、1993年、渓水社)、「馬琴研究の黎明期」(「読本研究」4輯下套、1990年、渓水社)なども参考になる。
▼3 『大阪印刷百年史』(同史刊行会、1984、大阪府印刷工行組合)、『大蔵省印刷局百年史』(1972)
▼4 『印刷博物誌』(2001、凸版印刷株式会社)、小野忠重『版画の歴史』(1954、東峰書房)、西村貞『日本銅版畫志』(1941初版、1971、全国書房)
▼5 この銅版画の持つ異国情緒は江戸人の歓心を得たようで、式亭三馬は読本『阿古義物語』前編(文化7〈1810〉、歌川豊国・国貞画、鶴屋喜右衛門・金助板)の見返に木版5枚を用いて重ね刷りを施して銅版画の意匠を見せ「尋常の左面版五枚を摺合して紅毛銅版の細密を偽刻す」とし「あこぎの歌」をローマ字風に入れている。尤もこれには前例があり、〓〓陳人(小枝繁)の読本『古乃花双紙』(文化6〈1809〉、北岱、伊勢屋治右衛門板)の口絵でも銅版画風の意匠が用いられている。
▼6 『エドアルド・キヨッソーネ没後100年展』(1997、大蔵省印刷局記念館)
▼7 『版画の技法と表現』(1987、町田市立国際版画美術館刊)
▼8 磯部敦「銅版草双紙考」(「近世文藝」75、2002年、日本近世文学会)、「 銅版草双紙書目年表稿(上)(「教育・研究」15、2001年、中央大学附属高校)、「 銅版草双紙書目年表稿(下)(「中央大学大学院論究(文学研究科篇)」34、2002年、中央大学大学院)など。

【書誌】

明治新刻繪本八犬傳

表紙 群青色無地
題簽 短冊型題簽(7.7糎×1.7糎)子持枠内に「明治新刻繪本八犬傳町田瀧司編輯全」。副題簽(4糎×4.8糎)子持枠内に「繪本八犬傳目録」
巻冊 1巻1冊
書型 極小本(11.8糎×8.4糎)
見返 犬張子を散らし「少年男児/膽氣勇/翠庵逸人 [永之印]
序  「明治十七年八月 含翠堂主人記 [翠園]
匡郭 9.8糎×6.9糎
板心 「八犬傳  丁付」(初印本に存した「金榮堂」を削る)
丁付 一〜十一ノ十二、十二〜廿二、廿四(全23丁)
作者 含翠堂主人
画工 (記載無し)
彫工 (記載無し)
筆耕 (記載無し)
刊記 初印本の刊記は「編輯人 町田瀧司 [瀧]/本所區表町三拾壱番地/出版人 金榮堂 牧野惣次郎 [牧] /日本橋區橘町三町目十番地/発兌人 金幸堂 稲垣良助 [良助] /仝區米沢町三町目壱番地」(山本和明氏蔵本)
 後印本「明治十七年八月三十日御届[組合][証]/同年九月出版[定價拾五銭]/編輯人 町田瀧司 [瀧]/本所區表町三拾壱番地/出版人 隆港堂/山本常次郎[山本]/浅草壽町四十三番地」 (架蔵本)
底本 架蔵本(後印本)


 繪入小説里見八犬傳
表紙 錦絵風摺付表紙
外題 「繪入小説里見八犬傳 全」
巻冊 1巻1冊
書型 中本(15.7糎×11.2糎)
見返 (記載無し)
匡郭 13.4糎×9糎
板心 「八犬傳」
丁付 一、五〜九(全5.5丁)
作者 (記載無し)
画工 (記載無し)
彫工 (記載無し)
筆耕 (記載無し)
刊記 「明治三十一年三月一日印刷/同年三月一日発行/日本橋区馬喰町二丁目十四番地/印刷兼発行者 綱島亀吉」
底本 架蔵本


【凡例】

一、可能な限り原本の表記に忠実に翻刻するようつとめた。
一、明らかにカタカナの意識で用いられていると思われる箇所以外は平仮名で表記した。
一、異体字等は概ね正字体に近いものに直し、句読点を補った。
一、推読箇所や衍字は〔 〕で示した。
一、絵本という性格から、表紙を含めて全丁の図版を掲載した。

【翻刻】

〈表紙〉
表紙

明治新刻 繪本八犬傳 町田瀧司編輯 全」

繪本八犬傳目録
山下定包   玉  梓  犬塚番作
金鞠八郎   糠  助  犬塚信乃
犬飼現八   犬田小文吾 山林房八
犬山道節   濱  路  曳  手
單  節   乙  音  十條力次郎
十條尺八郎  犬川荘助  扇ヶ谷定正
犬阪毛乃   犬村大學  ヽ  大
犬江親兵衞  里見伏姫  舩 む し
石亀屋次團太 蟇田基藤  妙  珍
里見義成

〈見返・序〉
序・見返

少年男児膽氣勇 翠庵逸人 [〓之印]

名高なだか八犬傳はつけんでんいぬたねにて八賢士はつけんし奇々きゝ妙々みやう/\振舞ふるまい小説せうせつ文字もんじにてかきつらねたくみたくみかさねたる古今ここん未曾有みそう艸子さうしにてたれよまざるものくされ共巻数かんすうおほければ此頃このころひとすゝめにてその荒増あらまし抜抄ばつしやう手輕てかるほん出来しゆつらえり作事つくりこととはいゝながらかゝるかしこきいぬあるに獣行じうかうひとるはふかはづべきことにこそ
  明治十七年八月  含翠堂主人記 [翠園]

〈口絵〉

1ウ2オ

〈本文〉

2ウ3オ

山下定包やましたさだかね玉梓たまづさ

定包さだかね阿波あは國主こくしゆ神餘しんよ光弘みつひろしんなり。そのさが奸智かんち弁侫べんねいよくしうまどはし其おんなの玉梓たまづさつうじ、つひはかりて光弘みつひろしい國家こくか押領おうれうせしも、天網てんまうのがれかたく金鞠かなまりためほろぼされたり。

3ウ4オ

犬塚番作いぬづかばんさく

番作ばんさく官領くわんれい持氏もちうじつか忠勇ちうゆうなり。結城ゆうき落城らくじやうのときはその君父くんぷしるしをあげ、敵軍てきぐんをきりやぶりて村落そんらくをひそめしか、のち一子いつしもうく。これすなはのちいづ信乃しのなり。

4ウ5オ

金鞠八郎かなまりはちらう

金鞠かなまり八郎ろう神余じんよ光弘みつひろしんなり。しう光弘みつひろ女色じよしよくおぼ讒者ざんしやあいするをうれひ、しば/\いさめてもちひられず。さり乞食こつじきとなり、後(のち)に里見さとみひて、つひ定包さだかね玉梓たまづさちて古主こしうあだむくひせしなり。

5ウ6オ

糠助ぬかすけ

安房國あはのくに洲嵜村すさきむらうまれなり。のうすなどりとをもつなりはひとせしが、殺生せつせう禁断きんだんところあみいれこれより安房あわ追放つひはうせられ、當時そのとき一人ひとり男子なんしあり、玄吉げんきちといひしが、のち犬飼いぬかひ現八げんはち名称なのりして八犬士はつけんし一個いちにんたり。

6ウ7オ

犬塚信乃いぬづかしの

信乃しの犬塚いぬづか番作ばんさく一子いつしなり。とし二八のころちゝわか蟇六ひきろくやしなはれ、成長せいてうのち古我こが殿どの村雨丸むらさめまるなづけ太刀たちさゝげんとせしに、いつのまにかいれかへられ、それためとがめこうむり、つひ芳流閣はうりうかくのぼり、げんいどたゝかひたり。

7ウ8オ

犬飼現八いぬかいげんはち

現八げんはち信乃しのたゝか組討くみうちして、芳流閣はうりうかくのうへより舩中ふねのなかおちいり、利根川とねがはのしもいたり、古名屋こなや文五ぶんご兵衞びやうえすくはれ、信乃しのとも兄弟けうだい契約けいやくをなし、義勇ぎゆう万世ばんせいにとゞろかせしとぞ。

8ウ9オ

犬田小文吾いぬたこぶんご山林房八やまばやしふさはち

小文吾こぶんご旅店はたごや古那屋こなや文五ぶんご兵衛べえ一子いつしにして、力強ちからつよく武藝ぶげいこのみ、加之しかのみならず相撲すまう技術わざみやううかめ、妹聟いもとむこ山林やまはやし房八ふさはち角力すもうをなし、つひかちりしより両個りやうにんむつましからず。ためあらそ房八ふさはちうちたり。

9ウ10オ

犬山道節いぬやまどうせつ濱路はまち

道節どうせつ煉馬ねりましんにして犬士けんし一個ひとりたり。ちゝあだほうぜんと、火遁くわとんじゆつ軍用ぐんようあつめ、またこゝろざしひるがへして單身ひとりあだほうぜんと、ふたゝこゆ圓塚山まるづかやま不図ふと濱路はまぢひ、村雨丸むらさめまるつるぎて、のちつひこゝろざしたつせしと。

10ウ11_12オ

ひとよ・ひくて

曳手ひくて十條じうじやう力郎りきじろう津家つま單夜ひとよ同苗どうめう尺八郎しやくはちろうつまにして、おつと討死うちじにのちも、くその貞操ていそうまもり、なが年月としつき舅姑しうと/\めつかへ孝道こうだうつくしておこたらざりしと。

11_12ウ12オ

乙音おとね

乙音おとね道節どうせつめのとなりしが、姨雪おばゆき世四郎よしろうつうじ、主家しゆかるといへとも、其心そのこゝろいしことく、煉馬ねりま落城らくじやうのち道節どうせつ匿潜かくまひてき大群たいぐんるをものともせず世四郎よしろうともにかけむか寄手よせてなやます。

12ウ13オ

十條力次郎じうでうりきじろう十條尺八郎じうでうしやくはちらう

力二郎りきじろう尺八しやくはち兄弟けいだいは、とも犬山いぬやま道作どうさく家臣かしんにして忠勇ちうゆうならびなし。池袋いけぶくろ落城らくしやうに、主家しゆかちやく道節とうせつわしり、かく味方みかたあつむおり犬塚いぬづか危難きなん戸田川とだがはすくひ、討死うちじになしそのたましいはゝ音々おとねもといたり、妻女つまじよにその始終しじうけしとぞ。

13ウ14オ

犬川荘助いぬかはそうすけ

ちゝ伊豆国いづのくに北條ほうでう荘官しやうくわんにして衛士ゑじ則任のりたへふ。かつ荘助そうすけとし七才、不慮ふりよのことにて父母ちゝはゝわかれ、蟇六ひきろくかた小丁こものとなりて、十二才のころ信乃しのひ、其後そのゝち蟇六亀笹かめさゝあだうち危難きなんあふいへども、義兄弟ぎけやうだいたすけ里見さとみためちからつくすといふ。

14ウ15オ

扇ヶ谷定正あふぎがやつさだまさ

定正さたまさ扇ヶ谷あふぎがやつしろにあり。智謀ちぼうあるしやうなり。煉馬ねりま攻撃こうげきのとき容易たやすくしろおとしけるに、道節とうせつその君父くんふあだたるをもつ身躬みみずからつけねらふといへども、奇計きけいほどこしてこれをふせく、されともつひ犬山いぬやまためほろぼされたりとぞ。

15ウ16オ

犬坂毛乃いぬさかけの

ちゝ相原あいばら胤度たねのりといふ誠道せいだうなりしが、馬加まくわり大記だいきため無実むじつつみ自裁じさいす。その毛乃けの舞妓まいこに〔に〕まぎれして大記だいきちかづ單身ひとり對牛樓たいぎうろうしやうにてさん%\にあだ小文吾こぶんごとらわれたす孝義こうぎまつたふす。

16ウ17オ

犬村大學いぬむらだいがく

犬村いぬむら大學だいがく一角いつかく一子いつしにしてそのさが孝順こうじゆんなり。五才ごさいのとき、ちゝ一角いつかく庚申山こうしんざんにて妖猫ばけねこため横死おうしし、この妖猫ねこ一角いつかくすがたをなして非義ひぎ非道ひどう挙動ふるまいをなす。のち數年すねんて、現八げんはちたすけにより、はじめててちゝあだなるをりてこれを

17ウ18オ

ヽ大ちゆだい

ヽ大ちゆだい金鞠かなまり八郎はちらう一子いつしにして、大助だいすけふ。その主君しゆくん使者ししやとして安西あんざいいたりしに、そがはかりことおちいり、主家しゆか退しりぞきしが、伏姫ふせひめ富山とやまおくいりたまふことをきゝ如何いかにもしてすくたてまつらんとおもひ、ぶさを打たるあまひめうちしによりそうとなり囘国くわいこくして犬士けんしあつむ。

18ウ19オ

里見伏姫さとみふせひめ犬江親兵衞いぬえしんびやうえ

犬江いぬえ親兵エ(しんびやうえ)山林やまばやし房八ふさはち一子いつしなり。いとけなきとき父母ちゝはゝわかれ、妙真みやうしんともなはれて安房あわいた途上とちう凶徒きやうと航九郎かじくろうため危難きなんあひしが、伏姫ふせひめかみすくひとられ、すなはかみおしへによりてのち八犬士はつけんし一個ひとりなり英名えいめいをとゞろかす。

19ウ20オ

ふなむし

舩虫ふなむし鴎尻にほしり並四郎なみしろうつまにして、おつと凶惡きやうあくたすけ道路みちばたなさけりて客人まろうど金銭きんせんうばひ、のち犬田いぬたなやまし、あるひ犬村いぬむらねこ一角いつかくつまとなり。大角だいかくくるしめ、雛衣ひなきた死地しちおちいるゝなど、其奸悪かんあく毒婦どくふじやうおそれるべし/\。

20ウ21オ

石亀屋いしがめや

犬田いぬた小文吾こぶんごひとたび故郷こきやうかへり安否あんひひ、ふたゝ故郷こきやうりて、異姓はらちがひの同胞きやうだいたづねんと、越後路えちごぢにて狭客おとこだて石亀屋いしがめや旅舘はたごやあしとゞめしに、不畫はからざりきふなむしに出逢であひひ、おほひに恨懐うらみをはらせしとぞ。

21ウ22オ

基藤もとふじみやうちん

妙珍めうちんあま〓妾おんなめ玉梓たまづさ怨念おんねんなる古狸ふるたぬきにして、里見さとみあたをなさんとはかり、凶賊けやうぞくもとふじをすゝめて里見さとみたしめんとす。嗚呼あゝ毒婦どくふ怨念霊おんねんかくのことくながあだかもす。にくむべしまたおそるべし。

22ウ24オ

里見義成さとみよしなり

義成よしなり里見さとみ義實よしさね嫡子ちやくしにして、せい仁義ぢんぎおもん智勇ちゆうある良将りやうしやうなり。八犬士はつけんし相會あひくわひするの此君このきみつかへて忠節ちうせつつくしける。嗚呼あゝこのきみにしてこの良臣りやうしんあり。むべなるかな、後世こうせい人の口碑こうひつたふるところなり。


初印本刊記(山本和明氏蔵)

24ウ


明治十七年八月三十日御届 [組合][証]
同   年九月   出版 [定價拾五銭]
 編輯人    町田瀧司 [瀧]
         本所區表町三拾壱番地
      金榮堂
 出版人    牧野惣次郎 [牧]
         日本橋區橘町三町目十番地
      金幸堂
 發兌人    稲垣良助 [良助]
         仝區米沢町三町目壱三番地



後印本刊記(架蔵本)

24ウ


明治十七年八月三十日御届 [組合][証]
同   年九月   出版 [定價拾五銭]
 編輯人    町田瀧司 [瀧]
         本所區表町三拾壱番地
      隆港堂
 出版人    山本常次郎 [山本]
         浅草壽町四十三番地





〈表紙〉

表紙

繪入小説 里見八犬傳

〈口絵〉

1オ

伏姫富山の山中に篭り讀誦す

〈本文〉

1ウ2オ

蕃作・信乃・亀笹・蟇六

茲に上総かづさ國主こくしゆ里見さとみ義実よしざね息女そくじよ伏姫ふせひめと云あり。日比ひごろ秘蔵ひそうの八ツ房といふ犬あり。義実よしざねたわむれにてき将の首を取来きた〔らんは伏姫〕をつかはさんといゝしに、はたしてくびをくわへきたり。ぜひなく伏姫ふせひめをつかわしける。犬は

2ウ3オ

道節・荘助

ひめおふて冨山の山中にすみけり。后、金鞠かなまり大輔たいすけの玉先に姫は命をおとしける。扨、犬塚番作ばんさく手束たづか途中とちうにて小犬をたすけ、伏姫ふせひめ神霊しんれいはいし、懐妊くわいにんし男子をうめり。之信乃也。八犬士の一人也。茲に蟇六ひきろくと云農に、濱路はまぢと云娘有。じつ豊島としま家一ぞくの娘、不幸ふかうにして養女やうじよとなり、犬塚信乃を婿むこ

3ウ4オ

荘助・濡手五倍次

せんと亀笹かめさゝはからひしも其じつ村雨むらさめ丸のかたなうばとらんとのたくみなり。此家の小者がく蔵はのち犬川荘助そうすけなり。信乃は名刀めいたうけんぜんとこゝ出立しつたつせけるが、蟇六ひきろく夫婦がため太刀たちをすりかへられしとはらず、古河こかはの御所にをもむきたてまつりし所、にせものゆへ信乃をとらへんと捕手とりてむかはしむるに芳流閣ほうりうかくの家根におつ手を切散きりちらし一人の勇士と引組阪東はんどう川に落、たがひ氣絶きぜつ

4ウ5オ

房八・小文吾・文吾兵エ・信乃・現八

せしを、こなや文五兵エに助けら〔れ〕し勇士ゆうし犬飼いぬかひけん八、八犬士はつけんしの一人也。文五兵エに男子有、犬田小文吾也。□犬山道節どうせつ定正さだまさうたんはかりしが犬田助友すけともはかりことにおちい數多あまたてきうけからくも失ける。小文吾は義兄弟をたつねんと所をめぐり山中にて大しゝころし宿やどもとめんとて、毒婦どくふ舟虫ふなむしためわざわひをけ、石濱の城中にとらはれける。或日、此内へ舞子まいこ朝毛野あさけのといふものきたり酒宴しゆゑんの興をそへけるに、すみてのち城主しやうしゆ馬加まくはり大記たいきうち小文吾をすくひ出し立退たちのきけ〔る〕。これ八犬士の一人犬坂いぬさか毛野けのなり。此時數多あまた捕手とりて取囲とりかこむをすこしおそれず、両人にて散々さん%\に切まくり捕手とりての大勢、勇猛ゆうまうにおそれ

5ウ

犬村大角・現八

かなはじと逃去るを、両士はからくも城中をのがれける。又とく、犬山道節とうせつ必死しつしゆ難戦なんせんすであやうかりしが、忽然こつせんくわゑんもへ上り道節どうせつ姿すがたきへうせたり。是道節のおこの火遁くわとんしゆつにて、白井しらゐ城兵しやうへいおどろきたり。こは勇士のはづべきことなりとて秘書を火中へとうぜしとぞ。茲に亦庚申かうしん山の快異くわいをきゝ、犬飼見八に 一角を見顕(あらはし、犬村角太郎の素生を知り、たがひに兄弟のやくをなし、又、犬田小文吾は石濱をのが毛野けのにわかれてふねにのり、伊豆の船路ふなぢ


明治三十一年三月一日印刷
同    年三月一日発行
日本橋区馬喰町二丁目十四番地
印刷兼発行者 綱島亀吉

後ろ表紙



#「人文研究」第33号(千葉大学文学部、2004年3月)
#  一部語句訂正 2004-04-28 (Thanks Mr. R.Campbell)
#  一部錯誤訂正 2004-05-15 (Thanks 小勝隆一さん)
#  初印本刊記画像 2004-05-16 (Thanks 山本和明さん)
# Copyright (C) 2021 TAKAGI, Gen
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#                      高木 元  tgen@fumikura.net
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# Cover Texts.
# A copy of the license is included in the section entitled "GNU Free Documentation License".

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