【解題】
江戸読本を代表する『南総里見八犬伝』は曲亭馬琴に拠る近世小説中屈指の傑作であるが、一大長編作であるが故に多くの抄録や様々な影響作を生みだした。有名なテキストとしては『仮名読八犬伝』(30編、春水・琴童・魯文作、国芳・芳幾画、嘉永元〈1848〉年〜慶応3〈1867〉年、丁字屋平兵衞板)があり、題名の通り全丁絵入で平仮名化された草双紙である。ほぼ同時に草双紙『雪梅芳譚犬の草紙』(49編、仙果作、豊国・国貞・国綱・国輝画、嘉永元年〜慶応3年、蔦屋吉蔵板)が出され、人気を二分する競作が展開された。また、切附本『英名八犬士』 (8編、鈍亭魯文作、直政画、安政2〈1855〉〜3年、伊勢屋忠兵衛板)は、後に袋入本『曲亭馬琴著里見八犬伝』と改竄された抄録本で、こちらも随分と摺りを重ねたようである。また、「読み物」として出板されたものと考えられる浄瑠璃『八犬義士誉勇猛』▼1や歌舞伎の「正本」も少なくなかった。つまり『八犬伝』は多くの抄録や影響作など、原本以外のテキストを通じても読まれ続けてきたのである。八犬伝の享受史に関する諸問題を考察する時に、これらのオリジナルではないテキスト群を無視するわけにはいかない。
さて、この八犬伝に関する出版が活況を呈する事態は明治期に入ってからも同様であり、多種多様な翻刻や抄録等が出された▼2。ただし、本の様式から見れば様々な試行錯誤が見られ、木版和装本が直ちに活版洋装本に取って替わったわけではなかった。和紙を用いた和装のみならず、藁半紙の如き粗悪な西洋紙を用いた袋綴じの和装本もあり、洋装でも所謂ボール表紙本(南京綴)から始まり、次第に本格的な丸背上製本に移行する。一方、印刷方法に関しても活版が普及していく過程に於いて、口絵挿絵等は整版のように自由が利かなかったため、従来の整版の発展形である機械木版や銅版に拠る挿絵を持つ本が出された時期があった。多色刷の必要があった表紙や、時に折込みにされたカラー口絵等には木版に替わって多色描画石版が用いられるように成り、やがて平版印刷時代を招来することになる▼3。
このように様々なメディアの形態と印刷製本技術が混在した揺籃期にあって、銅版印刷術は単に挿絵に用いられたのみならず、本文の全てが銅版に拠って作られた本が生産されていたことは注目に値する。日本に於ける銅版に拠る印刷物としては、キリシタン版の巻頭に銅版画が用いられたのが最初といわれている。十五世紀にヨーロッパで行われた銅版画自体も十八世紀には日本に入ってきていた。天明期には、司馬江漢が腐食凹版と直刻凹版を使って銅版画を出している▼4。
整版(木版)は彩色や重ね刷りを除けば、基本的に墨色の白黒二階調であるが、銅版による彫刻凹版は、彫刻の深度や太さ、掘られた線の密度に拠って濃淡の階調を出すことが可能であり、より写実的な立体感を表現できたのである▼5。そのため、絵画や地図などに用いられていたが、細かい字で訓点や仮名を振るのに適当なことから漢文系統の袖珍本などが盛んに出されるに至る。明治八年に明治政府の招きで来日したイタリア人エドアルド・キヨッソーネは、大蔵省紙幣寮(後の印刷局)で、いわゆる「お雇い外国人」として紙幣や切手の印刷に従事し銅版制作の技術指導にもあたった▼6。これにより飛躍的な技術の発展が適ったのであるが、しかし、銅版印刷には熟練した高度な技術が要求されたためにコストが掛かり、次第に石版に取って替わられた。一方、明治二十年頃には、木口木版(西洋木版)という堅い木口の面を使った白線彫刻法による印刷が行われ、銅版に近い濃淡表現が可能に成ったため、教科書の挿絵などに用いられていた▼7。
従来は銅版印刷に拠る出版物に関しては余り注目を集めたことはなかったのであるが、近年、磯部敦氏は近世小説に基づく銅版草双紙に関して精力的な現存資料の整理と分析を行っている▼8。本稿では、これを受けて八犬伝末流の銅版絵本を二点紹介することにしたい。
注
▼1 拙稿「『八犬義士誉勇猛』−解題と翻刻−」(「千葉大学人文研究」32号所収)。
▼2 「国立国会図書館所蔵明治期刊行図書目録(語学・文学の部)」第4巻(1973年、国会図書館)や、青木稔弥「曲亭馬琴テキスト目録 明治編」(『読本研究文献目録』、1993年、渓水社)参照。また、同氏「馬琴の読まれる時」(「江戸文学」9、1992年、ぺりかん社)、「『八犬伝』と近代」(「読本研究」7輯上套、1993年、渓水社)、「馬琴研究の黎明期」(「読本研究」4輯下套、1990年、渓水社)なども参考になる。
▼3 『大阪印刷百年史』(同史刊行会、1984、大阪府印刷工行組合)、『大蔵省印刷局百年史』(1972)。
▼4 『印刷博物誌』(2001、凸版印刷株式会社)、小野忠重『版画の歴史』(1954、東峰書房)、西村貞『日本銅版畫志』(1941初版、1971、全国書房)。
▼5 この銅版画の持つ異国情緒は江戸人の歓心を得たようで、式亭三馬は読本『阿古義物語』前編(文化7〈1810〉、歌川豊国・国貞画、鶴屋喜右衛門・金助板)の見返に木版5枚を用いて重ね刷りを施して銅版画の意匠を見せ「尋常の左面版五枚を摺合して紅毛銅版の細密を偽刻す」とし「あこぎの歌」をローマ字風に入れている。尤もこれには前例があり、〓〓陳人(小枝繁)の読本『古乃花双紙』(文化6〈1809〉、北岱、伊勢屋治右衛門板)の口絵でも銅版画風の意匠が用いられている。
▼6 『エドアルド・キヨッソーネ没後100年展』(1997、大蔵省印刷局記念館)。
▼7 『版画の技法と表現』(1987、町田市立国際版画美術館刊)。
▼8 磯部敦「銅版草双紙考」(「近世文藝」75、2002年、日本近世文学会)、「 銅版草双紙書目年表稿(上)」(「教育・研究」15、2001年、中央大学附属高校)、「 銅版草双紙書目年表稿(下)」(「中央大学大学院論究(文学研究科篇)」34、2002年、中央大学大学院)など。
【書誌】
明治新刻繪本八犬傳
表紙 群青色無地
題簽 短冊型題簽(7.7糎×1.7糎)子持枠内に「明治新刻繪本八犬傳町田瀧司編輯全」。副題簽(4糎×4.8糎)子持枠内に「繪本八犬傳目録」
巻冊 1巻1冊
書型 極小本(11.8糎×8.4糎)
見返 犬張子を散らし「少年男児/膽氣勇/翠庵逸人 [永之印]」
序 「明治十七年八月 含翠堂主人記 [翠園]」
匡郭 9.8糎×6.9糎
板心 「八犬傳 丁付」(初印本に存した「金榮堂」を削る)
丁付 一〜十一ノ十二、十二〜廿二、廿四(全23丁)
作者 含翠堂主人
画工 (記載無し)
彫工 (記載無し)
筆耕 (記載無し)
刊記 初印本の刊記は「編輯人 町田瀧司 [瀧]/本所區表町三拾壱番地/出版人 金榮堂 牧野惣次郎 [牧] /日本橋區橘町三町目十番地/発兌人 金幸堂 稲垣良助 [良助] /仝區米沢町三町目壱番地」(山本和明氏蔵本)
後印本「明治十七年八月三十日御届[組合][証]/同年九月出版[定價拾五銭]/編輯人 町田瀧司 [瀧]/本所區表町三拾壱番地/出版人 隆港堂/山本常次郎[山本]/浅草壽町四十三番地」 (架蔵本)
底本 架蔵本(後印本)
表紙 錦絵風摺付表紙
外題 「繪入小説里見八犬傳 全」
巻冊 1巻1冊
書型 中本(15.7糎×11.2糎)
見返 (記載無し)
匡郭 13.4糎×9糎
板心 「八犬傳」
丁付 一、五〜九(全5.5丁)
作者 (記載無し)
画工 (記載無し)
彫工 (記載無し)
筆耕 (記載無し)
刊記 「明治三十一年三月一日印刷/同年三月一日発行/日本橋区馬喰町二丁目十四番地/印刷兼発行者 綱島亀吉」
底本 架蔵本
【凡例】
一、可能な限り原本の表記に忠実に翻刻するようつとめた。
一、明らかにカタカナの意識で用いられていると思われる箇所以外は平仮名で表記した。
一、異体字等は概ね正字体に近いものに直し、句読点を補った。
一、推読箇所や衍字は〔 〕で示した。
一、絵本という性格から、表紙を含めて全丁の図版を掲載した。
【翻刻】
〈表紙〉
「明治新刻 繪本八犬傳 町田瀧司編輯 全」
繪本八犬傳目録
山下定包 玉 梓 犬塚番作
金鞠八郎 糠 助 犬塚信乃
犬飼現八 犬田小文吾 山林房八
犬山道節 濱 路 曳 手
單 節 乙 音 十條力次郎
十條尺八郎 犬川荘助 扇ヶ谷定正
犬阪毛乃 犬村大學 ヽ 大
犬江親兵衞 里見伏姫 舩 む し
石亀屋次團太 蟇田基藤 妙 珍
里見義成
〈見返・序〉
少年男児膽氣勇 翠庵逸人 [〓之印]
世に名高き八犬傳犬の胤にて八賢士奇々妙々の振舞を小説文字にて書つらね巧に巧を重ねたる古今未曾有の艸子にて誰讀ざる者も無くされ共巻数多ければ此頃人の勧めにて其荒増を抜抄し手輕き小本に出来えり作事とは云ながらかゝる賢犬あるに世に獣行の人有るは深く耻べき事にこそ
明治十七年八月 含翠堂主人記 [翠園]
〈口絵〉
〈本文〉
山下定包・玉梓
定包は阿波の國主神餘光弘が臣なり。其性奸智弁侫、能主を惑し其妾玉梓と通じ、終に計りて光弘を弑し國家を押領せしも、天網のがれかたく金鞠が為に亡されたり。
犬塚番作
番作は官領持氏に仕へ忠勇の士なり。結城落城のときは其君父の首をあげ、敵軍をきりやぶりて村落に身をひそめしか、後に一子を設く。これ仍ち後に出る信乃なり。
金鞠八郎
金鞠八郎は神余光弘が臣なり。主光弘、女色に溺れ讒者を愛するを憂ひ、屡諫めて用ひられず。去て乞食となり、後(のち)に里見を説ひて、終に定包玉梓を討ちて古主の讐を報せしなり。
糠助
安房國洲嵜村の産なり。農と漁とを以て業とせしが、殺生禁断の所に網を入、之に依て安房を追放せられ、當時一人の男子あり、玄吉といひしが、後に犬飼現八と名称して八犬士の一個たり。
犬塚信乃
信乃は犬塚番作の一子なり。年二八の頃、父に別れ蟇六等に養はれ、成長の後、古我殿へ村雨丸と号し太刀を捧んとせしに、いつのまにかいれかへられ、夫が為咎を蒙り、終に芳流閣に上り、現八等と挑み戰ひたり。
犬飼現八
現八は信乃と戰ひ組討して、芳流閣上より舩中に陥り、利根川下に至り、古名屋文五兵衞に救はれ、信乃と共に兄弟の契約をなし、義勇の名を万世にとゞろかせしとぞ。
犬田小文吾・山林房八
小文吾は旅店古那屋文五兵衛の一子にして、力強武藝を好み、加之、相撲の技術に妙を得て浮め、妹聟山林房八と角力をなし、終に勝を取りしより両個睦しからず。義の為に争ひ房八を討たり。
犬山道節・濱路
道節は煉馬の臣にして犬士の一個たり。父の仇を報ぜんと、火遁の術を以て軍用を集め、又志を翻して單身讐を報ぜんと、再び越る圓塚山、不図、濱路に逢ひ、村雨丸の劔を得て、後終に志を達せしと。
ひとよ・ひくて
曳手は十條力郎が津家、單夜は同苗尺八郎が妻にして、夫討死の後も、能くその貞操を守り、永の年月、舅姑に事て孝道を盡しておこたらざりしと。
乙音
乙音は道節が姆なりしが、姨雪世四郎と通じ、主家を去ると雖も、其心石の如く、彼の煉馬落城の後、道節を匿潜、敵大群を以て寄せ来るを物ともせず世四郎と共にかけ向ひ寄手を悩す。
十條力次郎・十條尺八郎
力二郎尺八兄弟は、共に犬山道作が家臣にして忠勇並なし。彼の池袋の落城に、主家の嫡道節走り、隱れ味方を集る折、犬塚等の危難を戸田川に救ひ、討死なし其魂、母音々が許に至り、妻女等にその始終を告けしとぞ。
犬川荘助
父は伊豆国北條の荘官にして衛士則任と云ふ。曽て荘助年七才、不慮のことにて父母に別れ、蟇六方の小丁となりて、十二才の頃信乃に遭ひ、其後蟇六亀笹等が仇を打、危難に逢と雖も、義兄弟の助を得て里見の為に力を尽すといふ。
扇ヶ谷定正
定正は扇ヶ谷の城にあり。智謀ある将なり。煉馬攻撃のとき容易城を落しけるに、道節等其君父の仇たるを以て身躬付ねらふと雖も、奇計を施してこれを防く、されとも終に犬山が為に亡されたりとぞ。
犬坂毛乃
父は相原胤度といふ誠道の士なりしが、馬加大記が為に無実の罪を得て自裁す。其子毛乃舞妓に〔に〕紛して大記に近き單身對牛樓上にてさん%\に仇を討ち小文吾が囚を助け孝義を全ふす。
犬村大學
犬村大學は一角が一子にして其性孝順なり。五才のとき、父一角は庚申山にて妖猫の為に横死し、其妖猫一角の容をなして非義非道の挙動をなす。後數年を經て、現八が助けにより、始めて父の仇なるを知りてこれを討つ
ヽ大
ヽ大は金鞠八郎が一子にして、大助と云ふ。其主君の使者として安西に至りしに、そが計に陥り、主家を退しが、伏姫富山の奧に入玉ふことを聞、如何にもして救ひ奉んと思ひ、八ッ房を打たる餘り姫を打しにより僧となり囘国して犬士を集む。
里見伏姫・犬江親兵衞
犬江親兵エ(しんびやうえ)は山林房八が一子なり。幼きとき父母に別れ、妙真等に伴れて安房に至る途上、凶徒航九郎が為に危難に遭しが、伏姫の神に救ひとられ、則ち神の教によりて後に八犬士の一個と成、英名をとゞろかす。
舩むし
舩虫は鴎尻並四郎が妻にして、能く夫の凶惡を助、道路情を賣りて客人の金銭を奪ひ、後犬田を悩し、或は犬村猫一角が妻となり。大角を苦め、雛衣を死地に陥るゝ抔、其奸悪毒婦の情恐れるべし/\。
石亀屋
犬田小文吾一たび故郷へ帰て安否を訪ひ、再び故郷を去りて、異姓同胞を尋んと、越後路にて狭客石亀屋が旅舘に足を止めしに、不畫、舩むしに出逢ひ、大ひに恨懐をはらせしとぞ。
基藤・妙ちん
妙珍尼は彼の〓妾玉梓が怨念なる古狸にして、里見へ仇をなさんと計り、凶賊基ふじを勧めて里見を討たしめんとす。嗚呼毒婦の怨念霊、斯のことく永く讐を醸す。悪むべしまたおそるべし。
里見義成
義成は里見義實か嫡子にして、性仁義を重じ智勇ある良将なり。彼の八犬士等が相會するの日、此君に事へて能く忠節を尽しける。嗚呼此君にして此良臣あり。宜なるかな、後世人の口碑に傳ふるところなり。
初印本刊記(山本和明氏蔵)
明治十七年八月三十日御届 [組合][証]
同 年九月 出版 [定價拾五銭]
編輯人 町田瀧司 [瀧]
本所區表町三拾壱番地
金榮堂
出版人 牧野惣次郎 [牧]
日本橋區橘町三町目十番地
金幸堂
發兌人 稲垣良助 [良助]
仝區米沢町三町目壱三番地
明治十七年八月三十日御届 [組合][証]
同 年九月 出版 [定價拾五銭]
編輯人 町田瀧司 [瀧]
本所區表町三拾壱番地
隆港堂
出版人 山本常次郎 [山本]
浅草壽町四十三番地
〈表紙〉
繪入小説 里見八犬傳 全
〈口絵〉
伏姫富山の山中に篭り讀誦す
〈本文〉
蕃作・信乃・亀笹・蟇六
茲に安房上総の國主里見義実の息女に伏姫と云あり。日比秘蔵の八ツ房といふ犬あり。義実戯れに敵将の首を取来〔らんは伏姫〕をつかはさんといゝしに、はたして首をくわへ来り。ぜひなく伏姫をつかわしける。犬は
道節・荘助
姫を負て冨山の山中に住けり。后、金鞠大輔の玉先に姫は命をおとしける。扨、犬塚番作妻手束途中にて小犬を助け、伏姫の神霊を拝し、懐妊し男子を産り。之信乃也。八犬士の一人也。茲に蟇六と云農に、濱路と云娘有。実は豊島家一族の娘、不幸にして養女となり、犬塚信乃を婿に
荘助・濡手五倍次
せんと亀笹か計ひしも其実は村雨丸の刀を奪ひ取んとの巧なり。此家の小者額蔵は后犬川荘助なり。信乃は名刀を献ぜんと茲に出立せけるが、蟇六夫婦が為に太刀をすり替られしとは知らず、古河の御所に赴て奉りし所、偽物故信乃を捕へんと捕手を向はしむるに芳流閣の家根に追手を切散し一人の勇士と引組阪東川に落、互に氣絶
房八・小文吾・文吾兵エ・信乃・現八
せしを、こなや文五兵エに助けら〔れ〕し勇士犬飼現八、八犬士の一人也。文五兵エに男子有、犬田小文吾也。□犬山道節は定正を討と計りしが犬田助友の謀りことに陥り數多の敵を受け辛も失□ける。小文吾は義兄弟を尋んと所を巡り山中にて大宍を殺、宿求めんとて、毒婦舟虫の為に災ひを受け、石濱の城中に捕はれける。或日、此内へ舞子朝毛野といふもの来、酒宴の興をそへけるに、すみて后、城主馬加大記を討小文吾を救ひ出し立退け〔る〕。之八犬士の一人犬坂毛野なり。此時數多の捕手取囲むを少も恐れず、両人にて散々に切まくり捕手の大勢、勇猛におそれ
犬村大角・現八
かなはじと逃去るを、両士は辛も城中を遁れける。又説、犬山道節は必死の難戦已に危かりしが、忽然と火ゑん〓上り道節の姿は消失たり。是道節の行ふ火遁の術にて、白井の城兵驚きたり。こは勇士の耻べきことなりとて秘書を火中へ投ぜしとぞ。茲に亦庚申山の快異をきゝ、犬飼見八偽はし、犬村角太郎の素生を知り、互ひに義兄弟の約をなし、又、犬田小文吾は石濱を遁れ毛野にわかれて舟にのり、伊豆の船路
明治三十一年三月一日印刷
同 年三月一日発行
日本橋区馬喰町二丁目十四番地
印刷兼発行者 綱島亀吉