資料紹介
『英名八犬士』(五) −解題と翻刻−
『南総里見八犬伝』の魯文による抄録本『英名八犬士』を紹介してきたが、今回は大尾である8編を紹介する。
長編小説を抄録する才に闌けていた〈抄録家〉魯文が、要領良く原本の行文を切貼りして作成していった方法については既に述べ来たったが、原本106冊を手許に置いての作業であったことは疑う余地がない。その鈔録過程で書写した筈であるから、用字の違い(誤字)や振仮名の省略、仮名遣いの変更などを伴っている。その作業が如何にいい加減であったかという事については、拙速を厭わずに注文を次々こなしていた魯文の習作期(安政頃)の特徴であるかも知れない。
そもそも魯文が先鞭を付けた〈切附本〉自体が粗製濫造され読み捨てられたジャンルではあったが、本書の諸本を調べていくうちに、再三にわたって板木に手を入れて再刻改竄再摺されていることが分かった。当初は錦絵風摺付表紙を持つ切附本仕立の『英名八犬士』が初摺本だと考えていたが、実は短冊題簽を持つ袋入本『英名八犬士』が早く、切附本(摺付表紙本)は袋入本の透写しを板下とする被彫りに拠る再板本であることが分かった。その透写し時には振仮名が省かれたり、板本の字が彫り毀されていたまま写されていたり、挿絵の細部が変わっていたりと、決して注意深く作業されたものとは思えない杜撰なものである。理由は不明ながら、刊行後あまり時間の経たないうちに彫り直されているようである。が、全丁にわたって彫り直されているわけではないので、その再刻箇所については今後精査して報告する用意がある。
今回紹介する八編に関しても、前半部分は確実に被彫りされている。さらに8編を改竄改題した袋入本『里見八犬伝』では、他編と同様に序文や口絵を省いたのみならず、本文冒頭1丁と2丁目の八文字を書き直し、原本の冒頭から5丁表の1行目の6文字迄を削除して強引に繋げている。つまり、表丁の口絵を新刻しているのは他編と同様であるが、巻頭1丁目の板心が「一ノ三四」となっていて、裏丁に「里見八犬伝八編曲亭馬琴識[乾坤一艸亭]」と入木した上で、冒頭部を「當下丶大ハ席上をつら/\とうち見巡らし……」と云う原本第37回の文章を抄出して始め、そのまま1丁半続けて5丁の1行目の冒頭「冨山にて親兵衛ハ」までを書き換えて「義実の辺に参りぬかづきつゝ……」に繋げているのである。これはどう読んでみても文意が繋がらない。
なお、この第8編は原本『南総里見八犬伝』の第9輯103回から第9輯第180回までに相当する。ただし、〈対管領戦〉や〈親兵衛の上洛〉に関して記事一切と〈回外剰筆〉とが省かれている。
【書誌】
英名八犬士 八編
書型 中本一冊 四十七丁
外題 「英名八犬士 第八大尾」
見返 なし
序 「安政三丙辰年暮秋 鈍亭魯文敬白」(仁義禮智忠信孝悌の文字がある数珠の意匠枠)
改印 [辰九][改]〔安政三年九月〕
内題 「英名八犬士第八輯結局/江戸 鈍亭主人鈔録」
板心 「八犬士八編」
画工 記載なし
丁数 四十七丁
尾題 「英名八犬畧志結局」
板元 記載なし
底本 服部仁氏所蔵本に拠った。
諸本 【初板袋入本】二松学舎・服部仁(6、7欠)。 【改修錦絵表紙本】国文学研究資料館(ナ4-680)・館山市立博物館・林・高木(初二三六存)。初板に対して改刻がなされている部分がある。 【改題改修袋入本】国学院・向井・山本和明・高木(3〜8、7〜8、4)本は形態の類似から「日本橋區\馬喰町二丁目\壹番地\文江堂\木村文三郎」(高木本8巻末刊記)板と思われる。
更に後の改竄本として、見返に「佐々木廉助編輯\里見八犬傳 八冊\東都書誌 淺草壽町 湊屋常次郎板」とある国会図書館本(特40-597)があり、近代デジタルライブラリーで全丁公開されている。外題は『里見八犬傳 壹(〜八)』、1巻の原序と口絵を削って次の新序半丁を加える。
里見八犬傳の序
房総の大守安房守義実ハ、二ヶ國の主たりと云へども、其因縁拙くして、業報未不盡、専愛女伏姫は人界に生を得ながら鬼畜に伴れ、冨山の奥に觀音經を力となし、如是畜生發菩提心、是ぞ里見の八勇士、みなに散乱の根を開く、そハ故曲亭翁の妙著にして、皆世人の知る所を、今や大巻を八冊に綴り、讀安からんを大全と爲るのみ。
(原文には句読点なく私意により補う)
内題に「里見八犬傳初編\佐々木廉助編輯」と入木するも、二編以下は文江堂板と同じく「里見八犬傳二(〜八)編\曲亭馬琴識」。八編巻末の刊記は「明治十八年四月十一日御届\仝 十九年二月 日出版\編輯人 淺草壽町四拾三番地 佐々木廉助\出版人 淺草壽町四十三番地 山本常次郎」とある。
【凡例】
一、基本的に底本の表記を忠実に翻刻した。濁点や振仮名、仮名遣いをはじめとして、異体字等も可能な限り原本通りとした。これは、原作との表記を比較する時の便宜のためである。【ただしWEB版では「事・歟・時・承・勢・潟・軈・第・弟」などの異体字は Shift-JIS で表示できる字体に直した】。
一、本文中の「ハ」に片仮名としての意識は無かったものと思われるが、助詞に限り「ハ」と記されたものは、そのまま「ハ」とした。
一、序文を除いて句読点は一切用いられていないが、句点に限り私意により「。」を付した。
一、大きな段落の区切りとして用いられている「○」の前で改行した。
一、丁移りは 」で示し、裏にのみ 」15 のごとく数字で丁付を示した。
一、明らかな衍字には〔 〕を付し、また脱字などを補正した時は〔 〕で示した。
一、底本は服部仁氏所蔵本に拠った。
【八編表紙】
【序】
難津浅香山の幼き筆もて。原傳一百八十回の。一大竒書なる長編を。小巻僅八冊に。鈔録すなるハ。鉄漿柄杓に東溟を干潟となし。衣納裁刀に南山を平田に。なさまく欲する業に等しく。管をもて天を伺ふのすさみにや有けめ。さりけれとも唯勧懲の基つ意を失はず。そが面影ハおぼろげながら。看官倦ざることを要とし。脚色のから組たるを觧ほどき。軍旅闘諍交戰を。細密にせざる巳而。抑里見十世の豊栄。總三州の安寧ハ。富山に種を蒔伏し。姫が芽ぐみの發生し。花咲実のる八犬具足。異胸因同根に帰る。牡丹の痣子も鮮かに。消る竒玉の仁義八行。八法永字の初點の。丶大悟を示す神通遊仙。其跡慕ふ狗児も。功成名遂て退隱幽栖局を結びし八巻の讀切。稿成名を賣僻作者。古人の糟粕を〓〓に口を粘する門辺の痩犬。影を形體と吠つゞく。御高評を尾を振て願奉るになん
安政三丙辰年暮秋 [辰九][改]
【口絵第一図】1
【口絵第二図】2
里見十將之圖
第一世 里見治部大輔義実/ 第二世 里見安房守義成/ 第三世 里見義通/ 第四世 里見上總介実堯/ 第五世 里見義豊」/ 第六世 里見義堯/ 第七世 里見左馬頭義康/ 第八世 里見義頼/ 第九世 里見義弘/ 第十世 里見安房守忠義
武士の矢なみ つくろふ小手の上に/霰たはしる 那須の 篠原
【本文】
英名八犬士第八輯結局
○尓程に里見老候義実朝臣ハ彼蟇田素藤が逆悪の事孫君義道敵の為にとりこにせられて躬方に利あらぬ趣聞給ふ物から左に右胸ハ安からてあすハ大山寺に詣で伏姫が神霊の冥助を祈ハ義成が武運芽出たく十全の勝利を得ぬる事もあらんと心ひとつに尋思し給ひ次の日の未明より伴當に照文はしめ近習四五人のみこの餘雑色奴僕に至る四五十人引倶しいとしのびやかに駿足にうち乗那冨山の麓路なる大山寺に詣給ひ本尊を拝み奉り次に伏姫の位牌に焼香して祈念を凝し給ふ事半時ばかり冨山の腰なる山河ハこの頃俄に水涸たりと聞給ひ我ハ是より冨山に登て絶て久しき伏姫が墳墓を見まく欲すその心を得て」3
伴せよと仰をみな/\承りてやかてかの山へぐしまゐらせけり。かくて義実朝臣ハ馬の脚掻をはやめつゝ軈て冨山に赴きて那山河のほとりに來つゝ那這と見亘し給ふに水ハ毫なかりけり。其時義実馬より下立照文と奴隷らをこゝに畄め東峯萌三小松〔水〕門目蛸舩貝六 三人の近習を従へみつから山踏し給ふこと幾町にか及ふ程に忽地後方を見かへりて姫が墓に水を手向る折汲拿ものなし疾走りかへりて馬柄杓を携へ來つへしといそかし給へば今來し道へ走り去る。斯て義実主従三人リなほも程ある伏姫の住捨られし出屈に稍近着かんとし給ふ程に左右に間なき樹蔭より弦音高く射出す猟箭に先に立たる近習の二人リかたみに高股膝を射られて叫ひもあへす仆れけり。其時左右の樹間より顕れ出たる曲者四五人てに/\竹鎗打しこきやをれ義実」
我們ハ昔年汝に亡されたる満呂安西及神餘の為にけふこそかへす怨のほさき受ても見よやと罵りて右左より競ひ蒐るを義実おめたる氣色もなくよらバうたんと杖うち捨刀のこひ口くつろげつ冦を疾視て立給ふ。浩処に傍へなる樹の蔭に又人ありて天地にひゞく聲ふり立やをれ曲者等無礼をすな里見殿に宿因ある八犬士の隨一たる犬江親兵衛仁こゝにあり住れやつと喚りて走り出來る大童あれハいかにと曲者等思はす倶に跡じさりして左右なくハ進得ず。さりとて續く敵なけれバ疾打仆せと動揺めきて多勢を憑むつくり猛者鎗を拈てきそひかゝれど親兵衛棒もて打拂ふ。向ふに前なき奮勇早業曲者毎ハ避易してうち悩されて伏たる中にいさゝか手並一人リの曲者これも竹鎗打おられ樹の間潜りて逃亡けり。親兵衛ハ倒れたる四名のやからを藤葛もてひし/\といましめ傍の松につなぎ止め」4
塵うちはらひ義実の辺に参りぬ。ぬかづきつゝ稟すやう小可ハかねてより聞し召す山林房八が獨子大八と呼れたる犬江親兵衛仁にて候也。君がけふの厄難を我恩神の教によりて聊先途に達まゐらせ見参に入りまつる事是又神慮によれるのみ。おん身に恙ましまさずいと歓しく候と世に憑しく見えにけり。其時義実驚嘆ありてその武勇をかんじ給ひかゝる深山に誰はぐゝみて人となしけん訝しさよと問れて親兵衛さん候小可纔に四ッなる秋悪漢に手ごめにせられて命危かりし折不思義に神女のまもりによりて此山につれさせ給ひ伏姫上の墳墓ある嵒窟を宿としつ神霊に年来養はれ参り手習讀書弓馬釼術何くれとなく教へさせ給ひしかバ六年このかた手煉せしてなみなきにも候はす。斯て今朝しも姫神の示によりて仇をふせぎ君に見参し奉り不思義の計會皆是神女のかごによれりと事遺もなく聞」
【挿絵】
〈神童再び出世して厄に老候に謁す〉」5」
えあぐるにぞ義実しきりに駭き感じ事の歓び大かたならす。又愀然と二人リの近習が死骸を見かへり給ふにぞ親兵衛ハ腰につけたる薬籠の神丹を箭を抜捨て痍口へ塗又餘れるを口中へ沃き入るゝに死せりと見えたる貝六目やかて忽地蘇生りていたみもあらずなりにけり。かくて親兵衛ハ貝六目等に命じて彼曲者等を拷問さするに頭立たる二人リの者先陳づるやう某ハ安西景連が再〓にて安西出来介景次と呼なすもので候なり。と名告れバ又一個がいふやう某ハ麿小五郎信時が同家にて麿復五郎重時と呼なす者なり。年來素藤に扶持せられて舘山の城にありしが彼にかたらはれて斯の如しと白状紛れなかりけり。其時樹かげに人ありて徐に出て來にけるをみな/\誰やと打見れハ則一人リの老翁也。最前槍を打折られて迯出す曲者きびしくしばりて牽立來つ後」6
方に續くハ一個の老媼也。斯て老翁ハ曲者が索とりつめて義実主の目前へひきすえ小可ハ犬山道節が父なる犬山道策か舊のけらい姥雪与四郎後に神谷の〓平と喚れしものにて候。是に侍るハ拙妻にて音音と呼なしたる道節の〓母なりき。今より六年さきの秋荒芽山の隱家にてしか%\の事により我々必死を究めつゝ曳手單節の両個の〓を犬田主にたのみ置き家に火をかけ猛火の内におどり入らんとせし程に竒なるかな烟の中に一人リの神女出現ありわれ/\を救ひ給ふて此深山に來りしをり犬江新兵衛此所に在てそが素性を打聞にき。さるほどに傍を見れハ両個の〓もつゝがなく又此深山に聚會たるその首より尾まで筒約にまうすにぞ義実ぬしハ聞果て感心尤淺からず。彼生捕てつれ來しものハ洲嵜無垢三が外孫有磯波六といへる侠客にてこれも素藤にそゝのかされて義実朝臣を」
【挿絵】
〈馬を飛して星夜親兵衞舘山に赴く〉」7」
討まくせしなり。斯て義実主ハその日伏姫神の墳墓に詣で給ひみな/\を引倶して麓まで下向し給ひ既にして大山寺へつかせ給ひ生捕五人ハ萌三に引しつゝ瀧田の城へぞ送られける。されバ此夜ハ大山寺へ止宿を示され客殿に坐をしめて与四郎音音曳手單節等を召つとへ給ひける。おん後方にハ照文景能貝六目等も侍りたり。其時親兵衛すゝみ出我君願ふハ小可に権且暇を賜ひねかし。今より舘山へ赴きて御曹司をすくひとり奉らんといふを義実見かへりてそハ又酷く性急なり。舘山までハ路の程十数里なるものを此夜を犯してやられんや。あすハ瀧田へ領てかへり祖母妙真に對面させんと思ふなり。はやるハ要なきわざにこそと繰かへしつゝ制め給ふを新兵衛听ず又いふやう御諚でハ候へども古語にも兵ハ神速を貴ぶとこそ聞えたれ。御方の機密を敵に知らるゝ透これなしとすべからず。いかで/\と只管に忠義に厚き」8 武勇の魂止るべくもあらざれバ義実僅にうなづき給ひ和郎然までに思はゞ禁ハせねとその身單ゆかんハ危し我伴黨を従はせん歟。他們ハ都て甲冑の准備なきを争何ハせん。と問れて親兵衛否伴黨の多きハ路次の煩ひあり。若黨一名と奴僕にて事足なん。願ふハ礼服一領を貸給ひねと申にぞ義実しからバとて苫屋景能を若黨とし姥雪与四郎を馬の口付と定め又照文を瀧田へ遣はし此赴を義成に通達せよ。と命ぜられしかバ倶に言承したりける。其時又義実主ハ貝六目にいゝつけ給ひ差がえの刀衣裳ハさらなりみな親兵衛に給はりしかバやがて馬上に打またがり手綱掻くり徐々と歩せたるが与四郎炬左手にとりつゝくつわづらに従ふたり。其時親兵衛馬をとゞめて玄関にうちむかひ鞍の前輪に額づき俯すを義実観つゝ聲をかけて遖愛たき勇士のありさま。我ハ明日より汝が吉左右を瀧田の城に俟」 つゝ在らん。暁天近し快ゆきね。と仰に新兵衛阿といらへて馬拍れ乗遶らし見る間に出る山門に与四郎も又後れしと後方に續く景能照文。腰に提たる張燈ハ闇の蛍と晃めきてはやくも見えずなりにけり。
○却説犬江新兵衛ハ照文と途を別ち景能与四郎を馬の左右に従へて舘山の城にまたゝく間に走つけ一町ばかりこなたより景能を走して喚門するに景能憚る氣色なく正門にすゝみて聲高やかに呼はる様篭城の人々にものいわん。只今國主のおん使犬江新兵衛仁來れり。城戸をひらきて迎ずや。と再度三度おとのふ程に親兵衛も又馬を進て主僕三人橋を渡しつ開くを遅しと待居たり。此時舘山の城兵等等しく驚き且訝りのぞきの小窓よりかいま見るに思ふにも似ぬ主僕二人。あれハいかに。と呆れ惑ひつ。しか%\と素藤に報るにぞ素藤完尓として屡うなづきそハ義成」9
久しく攻あぐみせん術のなき随に義通とひき替に濱路姫を送らんといふ和睦の使にこそあらめ。飽まで武威を赫やかしてそやつに胆を潰させん。事の用意ハしか/\にして箇様に計ふべし。事整はゞ城内へ〓奴を容れて案内をせよ我書院にて對面せん。快せよ。といそがせバ承りぬと応へつゝ走りて外面へ退りけり。さる程に親兵衛ハ城の門前に馬を駐めて主僕待こと半時ばかり。軈て城内よりくゞり門を推開きいざおん使入り給へと大門をぞ開かせける。其時新兵衛ハ馬よりひらりと下立て門内にすゝみ入る程に案内をしつゝ書院へと伴へバ景能と与四郎ハ倶に玄関の端場に居背後を目送りて心密に伏姫神の擁護を祈念したりける。却説犬江新兵衛ハ儲けの書院に赴きてと見れバ蟇田素藤はじめ左右の郎黨奥利本膳盛衡浅木椀九郎嘉倶にいたる迄共に甲冑をよろひ此餘究竟の力士四五十人短鎗薙刀」
【挿絵】
〈舘山の城に仁衆兇を威服す〉」10」
の鞘をはづして二行に侍立し一百有除の雜兵は弓鉄炮を手々に持て孫廂の下に居ながれたり。其時親兵衛ゑしやくもなく床の間なる鎧櫃を引出し尻うち掛て上坐に着しかバ素藤勃然と怒り噫無慙なる猴子が狂態。疾引おろさずや。と下知したる声共供に老黨士卒等咄とおめいてうち物を晃めかしつゝ新兵衛をおつとり込で撃んとす。時に竒なる哉親兵衛が懐より一道の光りさんらんして打向ふ兵毎の面を撲と撻しかバ大家都て射られ諸声高く苦と叫ぶ。老當力士も〓斗りてしばしハ起も得ざりけり。素藤も駭きながら突と身を起し引抜太刀風両段になれ。と丁と撃を親兵衛さわがず身を反して扇をもつて打落し組んとすゝむを引つけて片足に楚と踏伏たり。実に比類なき勇力に押れて面色土の如くくるしき声をふりしぼりて者とも救へ。と叫ぶにぞやうやく我にかへりたる老當士卒も初に」11 懲て安閑としてながめてをり。新兵衛ハゆう然と力士が捨たる捕索の臂近にありけるをとるより早く素藤を緊しくしばりて動かせず。そがまゝ傍へに引つけて手下の兇黨等をゑらひなく〓懲せバ保質とられて頭を低腰を屈ておのゝき怕れみな降参をしたりける。されバ本膳碗九郎ハ走りて外面へ赴きつ。先苫屋景能に親兵衛が竒異武勇の事の赴き并に篭城の将卒が皆降参の義を報知らして案内して義通君の身邊へぞ赴きける。爰に又里見御曹司義通君ハ久しく當城にとぢ籠られ給ひしに此日思ひがけもなく賊徒本膳碗九郎が苫屋景能を倶して來つ城兵都て降参の事情を申ついそがはしく囹圄を披き別間に出しまゐらせて儲の褥に請登すれバ景能軈て見参して恙なかりしを祝し奉り扨犬江親兵衛が武勇大功の速なりし事の由告まうせバ本膳碗九郎等ハおさ/\勦り慰めけり。
○かくて舘山の城内にハ」
【挿絵】
〈御曹司義通を救ひ参らせて親兵衛景能帰陳を促す〉」12」
義通君の御帰陣の用意整ひしかバ親兵衛下知して第一番に素藤以下の降人毎を先御陣へ牽べしとて城の北門より出し遣し次に義通君の轎子添ハ苫屋景能うけ給はり軍民百五十人従へたり。その時犬江親兵衛ハ馬上にて殿して徐もて來ぬる。約事の為体白布の幟両竿に叛賊蟇田素藤としるし又降伏兇黨としるせしを両個の軍民捧持て真先にぞすゝみたる。次に十時頑八平田盆作奥利本膳淺木碗九郎等の逆徒二十四人を背手にいましめあまたの民が追立行めり。次に素藤を太く長き杉丸太のうらにしばり付てからげて車に推立しを軍民二十人して是をひくに音頭をとり遣材唄をうたひていと賑はしく徐ゆきぬ。素藤ハ此時胸の中に思ふやう扨も彼八百比丘尼ハ何方へ影を隠しけん。我斯なりしが知らざるか。知れとも救ふに術なきや。初の程ハ這那と助になる事多かりしに今この折に効驗を見せぬハ益なかりきと」13
胸にのみうきをやる瀬ハなかりける。さる程に降人等ハひかれて陣の北門に参りしかバ小森高宗浦安友勝雜兵あまた従へて出降人等を局の内へ追入たり。左右する程に義通君の轎子近着來にけれバ東辰相蜑崎照文雜兵を従へて東門より迎へまゐらせて儲の席に案内をしつゝ壽を演なす程しもあらせず親兵衛ハ東門の頭にて馬より下りすゝみ入るを照文いそかはしく立出て先親兵衛の大功の歓びをのべ案内をして件の席に伴ひけれハ親兵衛又改めて義通君に見参して帰陣の歓びをまうしけり。霎時ありて義成主ハ近習幾人歟従ふて上坐に著給へバ義成主先親兵衛を召近著て席を賜ひ労ひて昨今二度の大功を褒賞給ふ事大かたならず手つから打鮑を賜て君臣の義を祝し給へバ親兵衛席を避て謹で禀すやう ねかふハはやく御對面あれかしとすゝめまうして照文景能を心得さするに卒とて軈て義通に倶して御前にぞ」
出にける。かくて御親子對面あつて互に悦喜限りなく親兵衛が不思議の大功神速にて勍敵降伏したることを感嘆大かたならざりける事の便宜辰相等ハ親兵衛に名對面して大功を讃じ各ひとしく敬ふたる口誼訖りて辰相ハ義成主に素藤等誅罸の事を請まつるを義成聞つゝ頷きてそも又犬江に問給ふに親兵衛膝をすゝめて願ふハ我君格別の仁政を施し彼等が頭を接しめてゆるして追放し給ふとも又何ばかりの事をせん。よしや今悉く首を斬梟給ふとも當家の政事仁義にたがひて武徳衰へ給ふことあらバ奸民必武を接て叛くもの多からん。願ふハ仁恕のおん計ひこそあらまほしく候なれと道理をのへて諫まうせハその義を直に御許由あつて高宗友勝以下を従へ義通君ともろともに舘山の城に入給へハ親兵衛と辰相ハ雜兵に下知を傳へて先素藤と願八盆作本膳碗九郎等都て頭立たる凶黨を局の内にひき居さして」14
國主の寛刑を恁々と言示し汝等若此義を忘れて立かへり來て悪事をなさバ其たびハ决してゆるさじ。此親兵衛があらん涯りハ立地にみな屠戮せんとくりかへしつゝいひこらせバ素藤竝に兇黨ハ額をつき洪恩を皆承伏をしたりけり。當下雜兵幾人歟下知に従ひ素藤等が額に遺なく黥して衣を脱しつ推伏て背に笞を中る事一百に及びしかバ各苦痛に堪ずして叫喚の声も立ずなるころ引起し水をあたへ膏薬を背に布て都て追放せられけり。是より先に親兵衛辰相等ハ件の一議に日暮たれバ此夜ハそが儘在陣して君侯に旨を伺ひ次の日陣屋をこぼたして素藤に自焼せられし民毎に頒ちとらせしかバみな/\歓び恩を拝して家作の料にぞしたりける。さる程に義成主ハその日嫡男義通と馬を並て舘山の城に入給ふ程に義成主ハ姥雪与四郎を召出して神行の功を賞て引出物を賜り犬江親兵衛をもて當城を守らせ事隈なく定められ次の日稲村へ凱陣なし給ひけり。」
【挿絵】
〈素藤山中草庵に妙椿に逢ふ〉」15」
○斯て義成父子ハ舘山を立去給ひし次の日義通と共侶に瀧田の城へ赴きて先老候に見参しつゝ今般の歓びをまうし給へバ義実主喜悦大かたならず犬江親兵衛が冨山のはたらき又舘山にて素藤等の威服したりし大功を照文か注進にて聞たる随にいひ出て父子孫歓をなんのべ給ふ。かくてそのあけの朝義成父子は瀧田の城を辞し去て稲村へとて還よ(〔ら〕)せ給ふ。話分両頭尓程に蟇田素藤ハ辛くも死刑をゆるされて辰相が隊の雜兵等に水行より身ひとつを武蔵の方に送りやられ次の日未の頃にその舩ハ墨田川なる西の岸につきしかバ陸に登し追放ちて雜兵等ハ安房へ還りけり。其時素藤ハあちこちと長き汀を徘徊しつゝ時も移りて七ツさがりになりにけりと見れバかしこにつなぎ舩一艘あり。今宵ハあれに暁さんと軈て閃りとうちのりて見れバ故たる菅蓑あり。こハ究竟と掻とりて引起せバ下に一箇の割篭ありて開き見れバ飯と味噌あり。天の賜物」16
かたじけなしと立処に啖ひ盡し軈て熟睡をしたりける。素より疲れし癖なれバ幾時歟睡りけん鳥の声に呼覚されて忽然と眼を開けバこハいかに彼河辺なる繋ぎ舩を宿としたるに似るべうもあらず。こゝらハ正に山中にて深林竒巖の外に物なくつく%\と思ひかねて両手をくみつゝ〓然と彳む事半時ばかり。扨あるへきにあらざれバ覚束なくも人里をたつねゆくにと見れハむかひの谷蔭にむすびかけたる草庵あり。人跡絶たる深山にも住ハ住む人の有けるよ。と思へバさすかに憑しくやがて彼処に至る程に両折戸ハ半分斜に開きたり。すゝみ入つゝおとなへバ内にハ女子の声として応と答へて立出る。やをら障子を引開れバ是則ひとりの女僧なり。素藤を見ていふかしけにおん身ハ正に蟇田の大人にハあらすや。といはれて素藤驚きながらまなこを定めてよく見れば是別人ならず八百比丘尼妙椿なり。こは什麼いかにとばかりになほ疑ひの觧」
ざれバ左右なくハうちものぼらず素藤ハさきに犬江にとらわれしをさしも妙術ありながら救はざりしハいかにぞや益なかりき。と怨ずれバ妙椿さこそと頷きてしかいふハ理りなれど一朝にいひ釋かたかり。先こなたへと慰めて脚をそゝかし請登しゐろりに柴を折焼て茶をすゝめ且朝飯をすゝめたる。管待等閑ならざれハ素藤纔に心おちゐて又妙椿に云云とありし次第の物語れバ妙椿は聞あへずそハはじめより天眼通もて一事も漏さす皆知れり。わなみ大人に別れて後影に立形に添ふて幾回となく助けし事多かりしにいかにせんあの犬江といふ神童ハ伏姫の神靈が守れる上感得の靈玉あり。よりてわなみも及べくもあらず勝をとる事かたけれバすくはさりしかどおん身と倶に多かる士卒の命をそこに執畄めしハわなみが擁護したるなり。されバおん身を此所へつりよせたるもわなみが精妙始ありて終なき浮たる人と同列にな思ひそ。と」17
一五一十を觧諭せハ素藤夢の覚たる如く又いふよしもなかりしが抑爰に何処にていつの頃より此所に庵をむすび給ひたる。願ふハ我を助け給ひて耻を雪るよしもかな。いかて/\と請求れバ妙椿然こそと慰めてわなみおん身を資ん為にはる%\こゝへ誘引たり。此地ハ則上総なる羽賀舘山の間なる人不入の深山に侍り。軈てわなみの法術にて彼城を取かへすべう思へども犬江めか舘山にあらんかきりハ不便なり。かやつを主に疑して遠く他郷へ走らしなバとらん事極て易かり。其秘蜜ハしか%\なり箇様と觧示せバ素藤妙椿を伏拝みて憑むを妙椿おしかへして閑談時を移しけり。是よりして素藤ハ養れて此庵に在りし程にいつしか妙椿と狎親みてたはけき涯りを盡しけるが宿望胸に絶ざれバともすれバいひ出て彼法術を促す程に一日妙椿ハ素藤に〓くやう日頃おんみに催促せられし彼犬江めを遠さけて舘山の城をとり復すに今ハ大抵好ころ也。わなみハ聊投方あれバ出」
【挿絵】
〈艶書を拾ふて義成犬江をとふざく〉」18」
て五七日かへるへからず。久しきことにハあらざるにるすし給へと苟且にこゝろえさしつ出行けり。
○夫ハ扨おき安房の稲村にハ此ごろ城内に妖怪あり。濱路姫のねやの辺に立顕れたりけるを正可に見たといふ者多かり。その折々に濱路姫おそわれ給ふ事大かたならず。されバおん父義成主ハ打驚せ給ひつゝ良医を召て醫案を尋ね諸仏神を祈らし給ひけれどさせる効驗なかりけり。かゝりし程におん母君あづまの前のさたとして役行者の石窟に参たるかへりに一個の異人呼かけて濱路姫のたゝりを鎮めんと欲せバ犬江親兵衛を舘山より召よせて彼が所持せる霊玉をかり姫上の臥給ふ簀子の下に深くうづめ且親兵衛に病床をうち守し給ひなバ怨霊立処に退散せん。とのり示して洲崎の方へ行かと思へバ忽地みえすなりにけり。かゝる竒特に女房等ハかへるとやかてあづまの前に事しか%\と告まうせバ信仰いよ/\浅からず國守に聞へあげ給へハ義成主も」19
おぼろかげながら四家老を召つとへて件のよしを議させ給ふに皆しかるべし。とまうしゝかバ苫屋景能を使として舘山の城につかはし親兵衛を召呼れその霊玉をかりえつゝすの子下に埋措し濱路姫の枕辺なる次の間夜づめをそさせ給ひぬ。是よりして姫上の病苦日夜にいよゝ平き給へバ親兵衛が宿直せしより氣力ハ日ごとに清やかなれどもいまだ日数をへたるにあらねハ浴湯結髪ハし給はず。なほたれ籠てをはしませハ親兵衛に對面し給はず。宿直の醫師奥付の甲乙にハ夜詰を免し給ふ物から親兵衛をのみ初の如く夜ハ次のまに侍したり。されハおん二親胞兄弟達の歓びいへバさら也。給事の女房等なべて歓びいさまぬハなかりけり。さる程に親兵衛ハ宿直する事七夜さばかり氣心倦疲れてしきりにねむりを催せしをたへがたけれハ臂近なる双六盤を引よしてねるともしらずまどろみけり。然バ又義成主ハ親兵衛が」
参りたるより第七日といふ夜にいたりて何となくねくるしさに胸うちさわぎて平ならす覚給ひしかバこハ濱路が病着の危窮に及びしかさらずば又物怪の立顕れて悩歟。そも親兵衛ハいかにしけん安否を尋とはばやと自ら枕辺なる刀を帯て提燭をともしていく間歟うち過奥と表の間なる関の鎖を推給ふに思ふにも似ず開きにけれハ訝なからすゝみ入りて濱路姫の臥房なる次の間にきて見給ふに姫の臥房に男女の聶くこへしたり。淺ましき事云へうもあらず。退かんとし給ふ程にゆくりなく物ありて足にかゝるをとりあげて提燭の火光に見給ふに姫より親兵衛へ送りたる艶書也。義成主ハ勃然と忽地いかりに堪ざれバ先かやつらをてうちにせん。とはやる心を推しつめ抜足しつゝ又臥房へかへり入給ひつく%\と思案あり。はやくも分別定りけれハくだんの艶書を疾焼捨ふたゝび枕につき給ふにたいどの賢君」20
子明るを今やとまた寐の床にわびしさ涯りなかりけり。かくてそのあけの朝義成主ハ親兵衛を呼近つけ姫ハ既に本復に及びしかバけふより夜詰を免すへし。就て我思ふよしあり。汝犬士の有処をたづねて八人具足の日にあひ伴ふて帰るべしと路用の黄金を手づから給ひて犬江にいとま給はりけれバ親兵衛ハ既に一二の城戸を退きて思ふやう我君に仕へて三十余日彼折よりして兵権を一時に掌りしかハ忌事のありける歟。今より後幾程なく我義兄弟なる犬士等にめぐりあふ日のありとても此身に受たる濡衣を乾さずハ此地に住りて仕の途に入るべからず。と蜜に胸をさだめつゝ瀧田の城におもむきて祖母妙真に今日逢ふて今日別れ哀歓こも%\なるものから親兵衛祖父によしを告て名殘おしくも城を出爰より従者みなかくし便宜の港口より出舩して古郷の下総なる市川さして走らしけり。再説此日稲村の城内にハ義成主千慮を盡し」
【挿絵】
〈妙椿幼〔幻〕術をもて素藤の殘黨をまねぐ〉」21」
て既に犬江を他郷へつかはし此義を四個の家老ハさら也有司給事の老女等に仰渡させ給ひしかバ各事情を知らざれバ訝り思はざるハなかりけり。斯て此次の日に濱路姫の床上の壽あり。又いぬる頃瀧田の城よりひき渡されたる安西出來介満呂復五郎天津九三四郎荒磯浪六等帰降の情願実事なるよしその聞えありしかバかゝるめでたき折なれバ件の罪人等を赦免あり此等落なく瀧田へ報知らし給ひけり。
○尓程に蟇田素藤ハ一人リ人不入の山の庵を守りて妙椿のかへるを待しに三月も既に盡る頃妙椿ハ忽然とかへり來ていへるやうわなみおん身に示せし如く稲村へ赴きて法術をもて城内に妖怪を出かし親兵衛をして濱路姫の宿直をさせ義成にうたがひを起さして遠く他郷へ走したり。かやつが在らずなりたれバ舘山の城をとらんこと今宵一夜を過べからす。竒々妙々にはべらすや。と鼻おこめかして説誇れハ素藤悦び」22
に堪ずしてあはれめてたき尼御前神術抑舘山の城をとりかへすにハ又是いかなる妙術あるや。と問ふを妙椿聞あへず細工ハ流々仕あげを見ませ。と外の方に立むかひ眼を閉て咒文を唱へバはるか前面の樹の間より素藤か元の手の者願八盆作本膳碗九郎等を先に立して三四百人庵の庭つどひたり。素藤ハ驚きながらいち/\に對面してその別後を問ひ一五一十を聞つゝも今宵會稽の羞を聞〔ママ〕めんと欲するに打物なくていかゞハせん。といふに妙椿いへるやう。その武具も我術あり。猛風を吹起して舘山なる兵庫を吹破らし味方の武具をとりかへさん。いでや効驗を見給へ。と説示して懐より錦の嚢に攸めたる甕襲の玉をとり出して額に押當うち念じてしばし咒文を唱れバ疾風颯と吹起り風のまに/\庵の庭へ彼武具ハおち下れバ衆兇都て妙椿の竒術を感ぜぬ者もなくやがて一同武具に身を固め時分ハよしと」
【挿絵】
〈妖尼の幻術素藤夜る舊城を襲ふ〉」23」
妙椿素藤其隊の賊兵三四百人舘山の城の後門に推よするに案内知つたる事なれバ二の郭まで潜び入りて鬨を吐と發りつゝ短兵急に攻立れば城の士卒ハ倶に駭き各素肌にて防ぎ戦ふと雖も妙椿か幻術にて其勢数千に見ゆる物から防ぐに由なく驚きあはて撃るゝものぞ多かりける。されバ此夜城内の士卒大半ハ賊兵に討れ僅に命を免れしもの稲村へとて落亡けり。斯てぞ素藤ハ舘山をとりかへしその勢千餘騎になり勢ひ壮になり敢て國主を憚からず。即ち妙椿を軍師として天女尼公と尊称し軍議の外ハ後堂をつかさどらせて夫人の如く願八盆作本膳碗九郎に禄を多くし重用始に弥倍し〔ばし〕かバ件の四兇ハ豪民の米銭を責とり家を破却し資財を奪ふ乱妨涯りなかりしかバ駭き怕れやからを携へ逃て他郷へ走るも多かり。されハ近郡騒動して稲村へ注進人馬ハ櫛の歯を挽如く君臣上下驚き」24
呆れて既に評議區々なり。恁くて又義成主ハ杉倉氏元堀内貞行東辰相荒川清澄等の四個の老黨を便室に招き素藤再叛征伐の事を議せらるゝに荒川清澄そが討手をのぞみにけれバ随意ゆるして一千五百の軍兵をさづけ出陣の暇を賜り舘山へ押寄しば/\合戦に及ぶといへども素藤方妙椿の妖術あれバ荒川さらに勝利なく一たび兵をまとめ殿臺へと陣を引此むね稲村へ注進なすにぞ義成主ハ先の頃犬江をかにかくと疑ひしハ彼女僧妙椿の術もて我心を惑せたるかはかるべからず。一期の瑕瑾を爭何ハせん。と後悔大かたならざりけり。是によりて彼照文と姥雪与四郎をもて犬江親兵衛又其余の犬士にも尋ねあはゞ我意を傳へて倶して來よ。と仰れハ照文ハ与四郎と共侶に伴當を引倶して便宜の港に赴きつ。その夜海舩にとり乗て武蔵をさして走らすれバ与四郎ハ纔に一個の伴當を従へて別舩に打乗」
こハ下総なる市河へとて遥き水行をいそぎけり。爰に又犬江親兵衛は瀧田の城を出しより市河にいたり依助夫婦に對面して二親の墓所に詣夫より此処を辞し別れて両邦河原へ帰りゆく快舩に打乗水行三四里を一時斗りに果しかバ軈て陸地にうち登り上野の原まで來にける程にはからずも扇谷定正の老臣河鯉権佐守如が一子佐太郎孝継が主家を放れ浮浪したるに出合つゝ名告をなし里見候に仕へん事を勧め共に連立て両邦に宿りをもとめはからずも安房の使者蜑崎照文に行會しかば照文安房殿よりの御教書を親兵衛にわたすにぞ親兵衛謹でその書を拝しやがて照文と倶に孝継と連立快舩に打乗て上総にわたり舘山なる城のからめてに來にける程に天ハ既に明たれども朝靄深くたち籠てなほ野干玉の烏夜に似たれバ准備の火薬に篝火の消残りしを手早く」25
移し先柴庫に火を放つゝ鬨の聲をあげしかバ城内の賊徒駭きさわぎて打物取て走蒐るを高継はじめその手のめん/\各敵を引請てはや鎗下に幾人か突伏られて賊兵等ハ撃るゝものぞ多かりける。此間に親兵衛ハ合図の烟りをあげるにぞ殿臺なる荒川清澄に森高宗田税逸友大手からめてより推寄來つ。鬨の聲をあげ矢を飛して透間もなく込入けれバ賊徒ハ進退決りてうたるゝ者数を知らずそが中に孝継ハ親兵衛が幇助にならんと思ふ物から矢庭に敵を斫仆し又一人を生捕て即是をしるべにしつゝ書院の辺に打入けり。是より先に犬江親兵衛ハ身ひとり後堂へ赴きて階子を傳ひぬき足しつゝ第一の樓へうちのぼる事いのあした素藤ハ昨夜も丑三すぐる頃酔て臥房に入リしより妙椿と枕をならへ天の明たるも知らざりしに妙椿に」
【挿絵】
」26」
【挿絵】
〈妖尼を對治して親兵衞二たび賊将を擒にす〉」27」
呼さまされていそがしく枕辺なる腰刀を掻とりて身を起さんとせし程に屏風をはたと推開きあらはれ出し犬江親兵衛。素藤あなやと逃んと欲すを親兵衛手早くゑり髪を左手に抓み引寄る。そが程に妙椿ハ夜着裙より抜出て身を免れんとせし程に親兵衛透さす素藤をそが儘〓と投伏て走り蒐つ妙椿が肩尖丁と拿畄て疾とりいたす霊玉の守り袋をさしかざせハ光に撲れし妙椿ハ苦と叫ぶ声共侶に閨衣ハそが儘親兵衛が手に残りて彼身ハもぬけて樓上より庭へひらりとおつると見れバ妙椿が身の内より一朶の黒氣涌出して鬼火に似たる青光あり。見る間に西へなびきつゝ消て跡なく成にけり。さる程に素藤ハ終に親兵衛の為に欄干をうち越てなげ落さるゝ事一丈あまり。下にハ孝継心得て押へてちつとも動せす。傍に在あふ車井の釣べ索をひきよせて最も緊しく」28 しばりけり。さる程に親兵衛ハ彼妖尼妙椿かゆくゑんをさがすにのきばに大きやかなる石の浄水盤あり。そが中に落たりと見てけれバいそがはしくそがほとりに立寄手をさし入て引出すをみな/\等しくうち見れバ最大きなる牝狸の既に死したるにぞありける。そがそびらハ焦ちゞれて模様たとへバ焼画の如く如是畜生發菩提心といふ八箇字のあらはれていと鮮かに讀れしかバ人々訝る。親兵衛がいへるやうそれがしさきに伏姫神の御告によりて知れる事あり。件の妖尼妙椿ハむかし八房の犬を孚みける安房の冨山の牝狸なれバ彼毒婦玉梓か余怨その身に残るをもて國主御父子を恨みまつりて素藤をそゝのかし遂に両度の兵乱を起して今日に至れるなり。この牝狸霊玉の光りに撲れ死するにおよひて云云の八字を茲に示されしハ狸と倶に玉梓か餘怨この折觧脱して」 菩提心に至れるを明地に知らしめ給ふ。こも神変の大利益いとも尊き事ならずや。と語るを聞て人々ハ等しく嘆賞したりしかバさきよりきびしく〓られて組子に索をとられたる素藤ハ駭き羞て頭を低てよくも見ず。また生捕の賊徒等ハみな珠数つなぎに括られて半死半生なりけれバ只今妙椿が為体を見るもあり見ざるも有しに後にぞ隈なく聞知りける。かくて此よし里見両侯に聞へあげしかバ御父子ハ親兵衛か再三の大功を感し給ふ事大かたならず。是より纔一両日を歴て稲村の城内にハ素藤等を誅戮の沙汰ありて素藤並に願八盆作本膳等を長須賀なる札の辻にひき出し再度叛逆の罪戻をしか%\と言示して皆悉く斬し畢て倶に梟首せられしかバこれを見る者群衆して日毎に間断なかりけり。是より先犬江親兵衛ハ七犬士を領て」29 共に参らんとて去らんとせしを荒川清澄さま/\にとゞむるといへども自餘の七犬士先だちて仕へん事本意にたがへりとて孝継共侶これを辞しおもふに自餘の七犬士ハ必ず結城に來會して丶大法師の庵に在べしとて別れを告て出行けり。
○文明十五年四月十六日丶大法師の宿願成就して下総國城西と聞えたる古戦場の草庵に嘉吉に義死の諸霊魂の菩提のために獨座不退の常念佛の結城〔願〕(ぐわん)供養を遂んとす。則是五十年忌のとりこしにて嘉吉元年辛酉より今に至て四十三年念佛修行ハそのはじめより八十日ばかりに及ひたる。此日ハ即ち諸将士の祥月亡日なれバなり。さる程に七犬士ハ里見殿の代香使蜑嵜照文副使姥雪与四郎と倶にこの旦辰の初刻に丶大庵へ参會す。斯て供養ハ果しかバ丶大法師ハ拂子をとりつゝ照文の坐邊に來て両舘より」
【挿絵】
〈再叛の賊を生捕て申朋亭に梟首せらる〉」30」
寄給ひぬる經巻並に香奠の歓びを演などして七犬士も口誼ありて物語に時うつりそのゝち犬江親兵衛も爰につどひ共に安房へ参るべし。とてうち連て立出けり。されバ離合時ありて八犬士具足し安房の瀧田の城にまいり義実主に見参なすに義実犬士をほとり近くはべらせ智計功名を称じ給ひおの/\忠勤おこたる事なかれ。とて盃を賜する。恩命例あるべからねバ八犬士ハ言承まうしつゝ獻酬三度に及ぶ時一人リ別に太刀一腰いづれも價千金なるを手づから拿て賜りける。この式礼やうやくに果しかバ丶大法師を召させ給ふに此折蜑崎照文も稲村へ注進の使者に立しがかへりまゐりぬ。と聞えしかバ倶に召れて見参す。その時又義実主ハ丶大法師の功徳無量。照文も又招賢の宿命を果しし勤労を誉させ給ふ。其後姥雪与四郎を召出して貞行仰を傳るやう」31 そが恩命身に過たるに感涙をとゞめかねてうづくまりて拝しけり。斯て見参の礼儀をはりて義実奥に退き給へハ八犬士照文ハ恩を拝して共侶に罷立程に丶大与四郎ハ上下二間に別れつゝ八犬士と別間にて饗膳をすゝめらる。かくて恩饗事果てみな/\休息所に退き又妙真が宿所に立寄妙真はじめ曳手單節等に對面してかたみに悦ひを尽しけり。其次の日八犬士丶大照文与四郎等ハ巳の半過たる頃稲村の城に参りけり。かゝりし程に各ハ昨日の如く廣書院にて義成父子に見参す。八士進上の贄ハ両公の賜物茶の礼犬士等の功を賞美の詞都て瀧田に異ならず。但し當舘にてハ賜物の数を増て八犬士一人別にさねよき甲冑を添られ又饗饌も種々の珎味を尽させ給ひける。かくて義成主ハ又氏元辰相をもて八犬士に仰渡さるゝやういましら犬江親兵衛をこたび又改て上総舘山」 の城主になさる。しかれども猶思召旨あれハ七犬士と共侶にしばらく瀧田の宿所にあるべし。又七犬士ハ當家の為に功ありけるよし聞えたり。されバ親兵衛ハ既に當家に仕へ汝等ハいまだ當國に参らざりし折なれバおのづから其功に甲乙なき事を得さるべし。爰をもて餘の七犬士ハ家老の下兵頭の上たるべき城主格になさるゝ者なり。今よりして又大功あらバ各その城を賜ふべし。異日城地を給ふまで即八犬士の賄料として月俸五百口を宛行れ此餘所従の人馬ハさら也。臨時の軍役有んをり雑費ハ右の定の外にて上のおん賄ひたるべしとなり。次に丶大法師蜑崎照文を召よせて八犬士を招會の功を誉て物を賜ふ事多かり。又其次に姥雪与四郎を別席に召よせて冨山以來の功を誉ておの/\引出もの異ならず。此日の恩賞ハ只この毎のみならずさきに素藤前後両度の征伐の折有功の諸士等」32 漏さす加増せられ職事をのぼし格席をすゝめ泛なる雜兵にハ金銀青〓を賜ふ事各差あり。斯て八犬士ハその日稲村を退るをり丶大法師に相わかれて照文与四郎と共侶に日暮て瀧田の宿所にかへり次の日もまだきより八犬士連立て大山寺へ赴くに先伏姫の祠堂に詣で各香奠を献りやがてと山にうち登り伏姫の墳墓に詣ずるに丶大ハ嵒窟の内に結跏 跌ざ して読經の声高やかなれバその道徳に修したるをかんたん各其日ハ立かへりぬ。
○扨も八犬士里見侯に仕へてより君臣礼あつうしていよ/\精忠をはけみしかバ義成父子むかふ所勝ずといふ事なく関八州に武威をかゝやかしけるにぞ両管領をはじめとして下総武蔵相模又ハ常陸の大小名或ハ和をなし降を乞けるも全く犬士等が功による所なり。とて各をまことの城主になされそか上ならす義成朝臣に八人の御娘」
ありけれバこれをもて八犬士の妻たらしめん。と仰あるに犬士らさま%\にいなみ申といへどもゆるされす。終に一人別に姫君達をむかへとり夫婦の中いとむつましく房総の四民業を楽しむの時にいたり。そのゝち瀧田の義実朝臣ハ長壽を保ち給ひし上大往生を遂給ひけれバ義成朝臣父祖の行を次て善政をもつばらとし給ひ家士良民をめぐむ事愛子の如くなれバ士民又君を慕ふ事赤子のはゝをしたふごとく誠にめでたきさがのみつゞきて皆萬歳をとなへけり。こゝに与四郎妙真等ハ里見殿の莫大の扶助に依て安楽に老を養ひこれも大往生を遂たりとぞ。その余泛のともがら悪人ハのこりなく亡び善人ハいよ/\栄へ子孫長久して八犬士の行ひを学ひ君父に忠孝を盡しけるとなん。
大團圓」33
その後明應九年四月十六日ハ結城落城の六十回忌と義実公の十三年忌に下るをもて義成主ハ延命寺へ参詣あり。杉倉堀内近習の毎伴當たり。廟墓焼香果て主従客殿にあり。犬士も友にはんべりぬ。這にはに牡丹花の開満て香風馥郁たるに義成主ハはしちかくいましける。其時丶大臣僧に住持しぬる事十八年をへたり。念戌に法脉傳燈しその暇を賜らまく此ぎゆるさせ給へかし。と請禀せバ義成きゝつゝ其情願今さら禁めがたし。先其置我疑おもふ所あり。禅師ハ忽焉として隠れ又忽然として顕るとか。或ハ富山の嵒窟に禅師のどけう(〔読経〕)の声聞へ又木を穿鑿の音のみして其かたちを見たる者なしときく。いかに其事ありや。と問れて丶大ハ然なり。喜怒哀楽の境を免れ好憎褒貶に掛念せされハ脚地をふまず雲にのるにあらざれとも出没不思ぎ」
【挿絵】
〈八犬具足して里見両侯に拝見す丶大照文姥雪も倶にす〉」34」
の妙を得しハ我すら知らず。尓るに文明十六年の冬這白濱に濤の打寄ける異圓材あり。是を聊削拿て焼試るに沈香なりけれバ富山の嵒窟に藏置其後臣僧暇ある毎に窟にいたり讀経過て其材を刻須弥の四天王と廿五の〓と廿五の古佛を作り奉り其餘材にて數珠一聯を刻得たり。既に佛〓五十體ハ開眼しまつりしが四天王ハいまだ開眼を得す。這ハ八犬士に乞ふて八箇の玉もて玉眼にせまく欲す。と述けるにそ八犬士進出て臣等八人が感得の玉の文字昨日不殘消失て白玉となるのみならず身にある牡丹花の痣子年々に薄くなり本月に至りて皆消耗て跡なく做りぬ。此玉此痣子あるをもて伏姫上の御子としれ當舘に徴使れ功做りて文字も痣子も耗る事役行者と伏姫神の利益ならんと各玉を拿出つゝ護身嚢に打載て倶に丶大に返しけり。是によりて丶大四天王を安房の」35 四隅に斂四天塚と做するを議し五十躯の佛像を鋸山に植て仏種を殘す事を量り義成主ハ稲村の城へ帰りけり。恁而八犬士ハ四隅に至りて四神王を斂念戌ハ徒弟等と倶に鋸山へ佛像を〓両義全く事果ぬれバ念戌を二世の住持として丶大ハ退院の歓びを禀んとて稲村の城に來にける折八犬士も君邊に侍りける。丶大ハ礼果て後臣僧宿願遂て富山に入ハ見参ハ今日を涯りなれバ告禀義ハ姫君を觀世音の奥の院とし那嵒窟を鎖垤ぎて臣僧ハ定に入まく欲す。といゝつゝ八犬士を見かへりて和殿等も職を児子に譲り致仕して隱逸を楽まざるや。いふべき事ハ只是のみ。といひも訖らず忽然として容ハあらずなりにけり。是によりて親兵衛念戌ハ富山の嵒窟に行見るに那窟にハ大盤石もて口を塞ぎ其石に一首の古歌をしるしたり。
○こゝも亦浮世の人の訪來れバ空行雲に身をまかせてん」
【挿絵】
」36」
斯の如くに侍る。と聞て義成嗟嘆に堪ず。原來幾度訪とても對面稱ふべからず。とて竟に這議ハ已にけり。尓程に八犬士等ハ丶大禪師の別に臨ていはれし義の理りなれバ倶に退隱の心あり。是より後國の政ハ都て四家老に相譲りて折々出仕しぬるのみ。四家老ハ杉倉堀内東荒川這子孫久しく相續したるのみならず八犬士も主君の姫上達を娶しより各男女児に匱からず。〓が中に犬江親兵衛ハ十八才の時より子を擧けて二男一女あり。冢子ハ犬江真平父退隱の後親兵衛と改。二男犬江大八といふ。後依助の養嗣となる。親兵衛仁舘山の城に移り住し時より妙真を瀧田より迎拿て孝養を盡し静岑姫もよく岳母に仕へける。妙真ハ何足ざる事もなく七十八才にて身故ぬ。只親兵衛に闕たる所ハ静岑姫不幸短命にて三十九才の秋身故ぬ。是年親兵衛三十才」37
真平十三才二男大八十一才女子ハ八才也。又犬山道節忠與ハ三男二女あり。冢子ハ犬山道一郎中心後道節と改む。二男ハ落鮎餘之七有種が養嗣となり三男ハ出家し後延命寺の住持となり道空といふ。両個の女ハ力次郎尺八郎に妻けり。又犬飼現八兵衞信道ハ三男一女あり。冢子ハ犬飼玄吉言人後に現八と稱す。二男ハ犬飼見兵衛道宣後に滸我の政氏に仕ゆ。三男ハ甘糟糠助こは上総望陀郡の郷士とす。女の子ハ大学の冢子角太郎に妻せり。又犬田豊後悌順二男二女あり。冢子ハ犬田小文吾理順と名づけたり。後に豊後と称す。二郎は本姓那古氏を名のらせて那古小七郎順明といふ。成長の後下総なる行徳の郷士とす。両個の女児ハ犬江真平犬江大八に妻せけり。又犬塚信濃戍孝も二男二女あ〔り〕。冢子ハ犬塚信乃戍子と喚做したり。」
【挿絵】
〈八犬士等簾をへだてゝ赤縄をひく〉」38」
後に信濃と称す。犬江仁が女児を娶りぬ。二郎ハ本姓大塚を名のらせて大塚番匠戍郷といふ。成長の後武蔵なる大塚の郷士とす。一女ハ犬川義任が子に妻せ一女ハ犬田小文吾の妻とす。又犬坂下野胤智ハ二男ありて女の子なし。冢子ハ犬塚毛野胤才と喚なしたり。後に又下野と称す。二郎にハ本姓粟飯原を名告らせ首胤栄といふ。こハ下総へ遣して千葉の郷士とす。又犬川長挟荘介義任は一男二女あり。男子ハ犬川額蔵則任と喚做したり。後に又荘助と称す。一女ハ犬塚番匠に妻せ一女ハ蜑崎照文の孫夫とす。又犬村大角礼儀ハ二男二女あり。冢子ハ犬村角太郎儀正と喚做したり。後に大角と称す。二郎ハ赤岩正学儀武と名告せ下野赤岩の郷士とす。一女ハ犬飼玄吉に妻せ一女ハ那古小七郎」39
の妻とす。八犬士かくの如く児子に冨て且その才貌疎かならず。恁て義成世を去給ひて嫡子義通も又賢良の君なれバ諸臣皆たのもしく思ひたりしに不幸短命にて其世久しからず。這時義通の嫡子〓孺丸尚穉かりしかバ義通の遺命によりて弟次麿這時ハ里見二郎實堯といひしを假に嗣とす。〓孺成長らバ家督をわたすべしと定めらる。俗に云順養嗣の類なり。實堯則四世の國主に做りて上総介に任せらる。遮莫其心術父兄に似す。勇あれども吝にて萬に惨しかりけれバ罪なくして退けらるゝ者多かりけり。當下八犬士ハ延命寺へ廟参の折閑室を借て商量しぬる義あり。其後四五日を歴て倶に稲村の城に参りて實堯主に請稟すやう。臣等年既に六十にあまりて猶恁て候はゞ賢路を窒くの恐れあり。いかで致仕して退隱せ」
【挿絵】
〈八人の姫達各八犬士に嫁す[呂文]〉」40」
まく欲す。愚息等ハ右にも左にも召使せ給ふべくもや。といふ連書一通をまゐらせしかバ實堯則其情願に儘せて犬士等にハ身の暇を賜り其子等にハ釆邑各五千貫文を賜りて倶に大兵頭とす。其城地ハ皆召返して改めて各其守城の頭人たるべしと命ぜらる。恁而八犬士ハ冨山の峯上なる觀音堂の側に庵を締び且同居して老を養まくす。七個の姫上達も相従はんとてうち泣給ひしを犬士等各是を諫めて冨山ハ伏姫上の御事ありしより女人登る事饒されず。いかでおん身等ハ留りて児子の養を受給へ。是も又親たる者の楽みにあらずや。と叮寧に慰めて一人も従ふことを許さず。既にして夫婦父子別に臨時八犬士各其児子に教訓遺言して連立つゝ冨山に至り山居して二たび出ず。春ハ麓の花鳥」41
を友とし秋ハ峯上の丹楓を〓とす。夏ハ溪川の水を掬む。冬は爐に團坐して落葉を焼のみ。倶に天命を樂み浮世の事を忘るるに似たり。恁て二十稔許を歴ぬる程に竟に火食せずや有けん。折々児子等が奴隷をもて贈りぬる米塩衣裳も今ハ要なしとて受ず。この時犬士の妻たる姫達ハ年各既に老て漸々に身故り給ひしかども其良人たる八犬士ハ今に至る迄顔色衰へず峯に上り谷に下るに飛鳥よりも易げにて庵に在る事稀なり。と聞えしかバ後の八犬士等ハ倶に心許なく思ひて有日各伴當を將てうち連立て冨山なる庵に至りて親を訪ふに戍孝胤智仁礼儀義任忠與信道悌順等ハ豫て是を知る如くうち聚ふて庵の内に在り。既に坐定りて胤智諸子に向ひて汝等いまだ思はす」
【挿絵】
〈義成朝臣延命寺に犬士等と牡丹花を見る〉」42」
や先君御父子の仁義の餘徳衰へて内乱將に起らまくす。這故に諫ても容られず夫危邦にハ入らす乱邦には居らす。這故に洒家八名ハ當所を去りて他山に移らまくす。汝等盍ぞ倶に致仕して共に他郷へ去ざるや。といへば戍孝忠與仁礼儀義任信道悌順も各其子を警めて異口同様に教諭せば後の八犬士等ハ感涙坐に〓むまでに〓然と畏みて頭を低てありける程に其事やうやく果しかバ倶に頭を擡るに怪むべし八個の翁ハ忽焉とあらず做りて室中に馥郁たる異香連りに熏るのみ其適ところを知るよしなけれバ皆愕然とおどろきて原来ハ大人達ハ仙術をや得給ひけん。然しも廣き這山を那里と投て索ぬべき。猶再會こそ願しけれとうち咳くのみ。せん術な」43
けれバ共侶に山を下りて次の日連暑〔署〕(しよ)の願書稲村の城へまゐらせ各病に推けて身の暇を賜りて釆邑を返し宅眷を携へて是より久しく他郷にあり。其後幾程もなく當主実堯と其兄義通の獨子里見義豊と確執起りて房総果して静ならず。後竟に實堯戰歿し義豊も亦また撃れて義堯の世に做しかバ士民安堵の思ひをなしぬ。其時義堯ハ後の八犬士の有所を索ねて連りに是を招ぎしかバ犬士等ハ只得宅眷を将て上総の九瑠璃へかへり來つ。然れとも各老を告て敢て仕途に就ざりけれバ義堯すなはち其児子三世の八犬士を召出して釆邑各五千貫文を賜りて倶に大兵頭とす。這八犬士も父祖と同称にて武勇智計も又父祖に劣らず義堯義弘二世の國主に仕て軍陣に〓む毎に戰功」
【挿絵】
〈丶大禪師富山の跡をうづめて詠歌を殘す\こゝもまた浮世の人のと〔ひ〕くれバ空ゆく雲に身をまかせてん〉」44」
あらずといふ事なく其名を阪東にぞ揚にける。さる程に天文十一年秋七月義堯足利義明と倶に下総の國府臺に北條氏綱と戦ふ。義明ハ當時上総の八幡にあり。其性驍勇にして智力なし。この日の闘戰ひ初ハ勝に乗るといへども竟に八幡の隊より敗れて義明ハ陣歿す。義堯敗走して上総に還る。是より葛飾半郡葛西を失ふ。上総も亦諸城主の叛く者多かり。真里谷信政魁首たり。義堯則ち椎津の城を攻て信政を誅伐す。信政戰歿して諸城主の叛く者皆降る。義堯又上総を平均せり。かくて義堯ハ天文二十年に卒りぬ。義堯卒して其子義弘嗣ぐ。義弘も又驍勇にして且闘戦を好めり。則左馬頭に任ぜらる。上総の佐貫を居城とす。弘治二年義弘其子義頼と倶に」45
兵を將て江を渡して相摸の三浦を攻て北條と戦かふ。義弘大ひに戦ひ克て三浦四十八郷を畧す。是より久しく里見の封内とす。永禄七年義弘又北條氏康と國府臺に戦ふ。義弘大くうち負て國府臺の城陥入る。是より下総ハ里見に属ずみな北條の者になりぬ。是より後も北條氏と戦ひ已まず。天正六年義弘卒して義頼嗣ぐ。則安房守に任ぜらる。又鬼本を居城とす。天正五年北條氏と和睦して氏政の女を妻せらる。其後和義破れて小俵兵に攻らる。十八年以後始て安堵す。この時義頼四位侍従たり。是より後三世皆侍従に叙せらる。因て時の人安房の侍従と唱ふ。義頼卒して其子左馬頭義康嗣ぐ。安房の舘山を居城とす。義康の子安房守」
【挿絵】
」46」
忠義に至りて十世なり。獨義豊を除きて九世と云。當時落魄たる浮浪の身をもて鶏がなく関の東にて基を開き地を啓きて竟に大諸侯に做り登りしハ里見氏と北條氏のみ。北條氏ハ里見に倍して多く國を獲たれども早雲氏綱氏康氏政氏直五世にして後絶たり。里見ハ房總二國なれども十世に傳へしハ義實義成二世の俊徳仁義善政の餘馨にて民の是を思ふ事深長なりし所以なるべし。誠に是美談ならずや。
英名八犬畧志 結局
切附本(摺付表紙) 見返
摺付表紙本奥目録
改刻袋入本表紙 改刻袋入本口絵
改刻袋入本本文冒頭
改刻袋入本刊記