資料紹介

『英名八犬士』(五) −解題と翻刻−

高 木  元 

『南総里見八犬伝』の魯文による抄録本『英名八犬士』を紹介してきたが、今回は大尾である8編を紹介する。

長編小説を抄録ダイジエストする才に闌けていた〈抄録家〉魯文が、要領良く原本の行文を切貼りして作成していった方法については既に述べ来たったが、原本106冊を手許に置いての作業であったことは疑う余地がない。その鈔録過程で書写した筈であるから、用字の違い(誤字)や振仮名の省略、仮名遣いの変更などを伴っている。その作業が如何にいい加減であったかという事については、拙速を厭わずに注文を次々こなしていた魯文の習作期(安政頃)の特徴であるかも知れない。

そもそも魯文が先鞭を付けた〈切附本〉自体が粗製濫造され読み捨てられたジャンルではあったが、本書の諸本を調べていくうちに、再三にわたって板木に手を入れて再刻改竄再摺されていることが分かった。当初は錦絵風摺付表紙を持つ切附本仕立の『英名八犬士』が初摺本だと考えていたが、実は短冊題簽を持つ袋入本『英名八犬士』が早く、切附本(摺付表紙本)は袋入本の透写しを板下とする被彫りに拠る再板本であることが分かった。その透写し時には振仮名が省かれたり、板本の字が彫り毀されていたまま写されていたり、挿絵の細部が変わっていたりと、決して注意深く作業されたものとは思えない杜撰なものである。理由は不明ながら、刊行後あまり時間の経たないうちに彫り直されているようである。が、全丁にわたって彫り直されているわけではないので、その再刻箇所については今後精査して報告する用意がある。

今回紹介する八編に関しても、前半部分は確実に被彫りされている。さらに8編を改竄改題した袋入本『里見八犬伝』では、他編と同様に序文や口絵を省いたのみならず、本文冒頭1丁と2丁目の八文字を書き直し、原本の冒頭から5丁表の1行目の6文字迄を削除して強引に繋げている。つまり、表丁の口絵を新刻しているのは他編と同様であるが、巻頭1丁目の板心が「一ノ三四」となっていて、裏丁に「里見八犬伝さとみはつけんでん八編曲亭馬琴識[乾坤一艸亭]」と入木した上で、冒頭部を「當下そのとき丶大ちゆたい席上せきせうをつら/\とうちめぐらし……」と云う原本第37回の文章を抄出して始め、そのまま1丁半続けて5丁の1行目の冒頭「冨山とみやまにて親兵しんへい衛ハ」までを書き換えて「義実のほとりまいりぬかづきつゝ……」に繋げているのである。これはどう読んでみても文意が繋がらない。

なお、この第8編は原本『南総里見八犬伝』の第9輯103回から第9輯第180回までに相当する。ただし、〈対管領戦〉や〈親兵衛の上洛〉に関して記事一切と〈回外剰筆〉とが省かれている。

【書誌】

  英名八犬士 八編

書型 中本一冊 四十七丁
外題 「英名八犬士 第八大尾
見返 なし
序  「安政三丙辰年暮秋 鈍亭魯文敬白」(仁義禮智忠信孝悌の文字がある数珠の意匠枠)
改印 [辰九][改]〔安政三年九月〕
内題英名八犬士ゑいめいはつけんし第八輯たいはちしう結局けつきよく/江戸 鈍亭主人鈔録」
板心 「八犬士八編」
画工 記載なし
丁数 四十七丁
尾題英名八犬畧志ゑいめいはつけんりやくし結局
板元 記載なし
底本 服部仁氏所蔵本に拠った。
諸本 【初板袋入本】二松学舎・服部仁(6、7欠)【改修錦絵表紙本】国文学研究資料館(ナ4-680)・館山市立博物館・林・高木(初二三六存)。初板に対して改刻がなされている部分がある。 【改題改修袋入本】国学院・向井・山本和明・高木(3〜8、7〜8、4)本は形態の類似から「日本橋區\馬喰町二丁目\壹番地\文江堂\木村文三郎」(高木本8巻末刊記)板と思われる。
更に後の改竄本として、見返に「佐々木廉助編輯\里見八犬傳 八冊\東都書誌 淺草壽町 湊屋常次郎板」とある国会図書館本(特40-597)があり、近代デジタルライブラリーで全丁公開されている。外題は『里見八犬傳 壹(〜八)』、1巻の原序と口絵を削って次の新序半丁を加える。

里見八犬傳さとみはつけんでんじよ

房総ほうさう大守たいしゆ安房守あはのかみ義実よしさねハ、二ヶこくぬしたりと云へども、その因縁ゐんえんつたなくして、業報かうほういまた不盡つきす専愛かあひじよ伏姫ふせひめは人がいせうながら鬼畜きちくともなはれ、冨山のおく觀音經くわんをんげうを力となし、如是によぜ畜生ちくせうほつ菩提心ぼだいしんこれ里見さとみ八勇はちゆう士、みなに散乱さんらんひらく、そハいにしへ曲亭翁きよくていおう妙著みやうさくにして、みなよの人のところを、いま大巻たいくわん八冊はつさつつゞり、よみやすからんを大全だいぜんるのみ。

(原文には句読点なく私意により補う)

内題に「里見八犬傳さとみはつけんでん初編\佐々木廉助編輯」と入木するも、二編以下は文江堂板と同じく「里見八犬傳さとみはつけんでん(〜八)編\曲亭馬琴識」。八編巻末の刊記は「明治十八年四月十一日御届\仝 十九年二月 日出版\編輯人 淺草壽町四拾三番地 佐々木廉助\出版人 淺草壽町四十三番地 山本常次郎」とある。


【凡例】

一、基本的に底本の表記を忠実に翻刻した。濁点や振仮名、仮名遣いをはじめとして、異体字等も可能な限り原本通りとした。これは、原作との表記を比較する時の便宜のためである。【ただしWEB版では「事・歟・時・承・勢・潟・軈・第・弟」などの異体字は Shift-JIS で表示できる字体に直した】
一、本文中の「ハ」に片仮名としての意識は無かったものと思われるが、助詞に限り「ハ」と記されたものは、そのまま「ハ」とした。
一、序文を除いて句読点は一切用いられていないが、句点に限り私意により「。」を付した。
一、大きな段落の区切りとして用いられている「○」の前で改行した。
一、丁移りは 」で示し、裏にのみ 」15 のごとく数字で丁付を示した。
一、明らかな衍字には〔 〕を付し、また脱字などを補正した時は〔 〕で示した。
一、底本は服部仁氏所蔵本に拠った。

【八編表紙】



【序】


難津なにはづ浅香あさか山のおさなふでもて。原傳げんでん一百八十くわひの。一大いちだい竒書きしよなる長編ちやうへんを。小巻せうくわんはづか八冊に。鈔録かきぬきすなるハ。鉄漿かね柄杓びしやく東溟とうめい干潟ひがたとなし。衣納きぬだち裁刀ほうちやうに南山を平田へいでんに。なさまくほりするわざひとしく。くだをもて天をうかゞふのすさみにや有けめ。さりけれともたゞ勧懲くわんてうもとうしなはず。そが面影をもかげハおぼろげながら。看官みるひとうまざることをやうとし。脚色しくみのからくみたるをときほどき。軍旅ぐんりよ闘諍とうそう交戰こうせんを。細密つまびらかにせざる巳而のみそも/\里見さとみ十世の豊栄ほうゑいふさ三州の安寧あんねいハ。富山とやまたねまき伏し。ひめぐみの發生はつせいし。はなさきのる八犬具足ぐそく異胸ゐせいの因同はらからかえる。牡丹ぼたん痣子あざあざやかに。きゆ竒玉きゝよく仁義じんき八行はつかう八法はつほう永字えいじ初點しよてんの。丶大ちゆだいを示す神通しんつう遊仙ゆうせん。其あとした狗児ゑのこらも。功成こうなり名遂なとげ退隱たいいん幽栖ゆうせききよくを結びし八巻やまき讀切よみきり稿かう成名をうるゑせ作者。古人の糟粕かす〓〓まるのみに口をのりする門辺の痩犬やせいぬかげ形體かたちほへつゞく。御高評ごかうひやうを尾をふつ願奉ねぎまつるになん

  安政三丙辰年暮秋  [辰九][改]

鈍亭魯文敬白 [印][印]

【口絵第一図】1


【口絵第二図】2


里見さとみ十將じつせう

第一世 里見治部大輔義実よしさね/ 第二世 里見安房守あはのかみ義成よしなり/ 第三世 里見義通よしみち/ 第四世 里見上總介かづさのすけ実堯さねたか/ 第五世 里見義豊よしとよ」/ 第六世 里見義堯よしたか/ 第七世 里見左馬頭さまのかみ義康よしやす/ 第八世 里見義頼よしより/ 第九世 里見義弘よしひろ/ 第十世 里見安房守あわのかみ忠義たゞよし

  武士の矢なみ つくろふ小手の上に/霰たはしる 那須の 篠原

鎌倉右大臣」


【本文】


英名八犬士ゑいめいはつけんし第八輯たいはちしう結局けつきよく

江戸 鈍亭主人鈔録

尓程さるほど里見さとみ老候ろうこう義実よしさね朝臣あそんかの蟇田ひきた素藤もとふぢ逆悪きやくあくこと孫君まこきみ義道よしみちてきの為にとりこにせられて躬方みかたに利あらぬをもむき聞給ふ物からかくむねやすからてあすハ大山寺たいさんじまう伏姫ふせひめ神霊しんれい冥助めうぢよいのら義成よしなり武運ぶうんたく十全の勝利せうりぬる事もあらんと心ひとつに尋思しあんし給ひ次の日の未明まだきより伴當ともびと照文てるふみはしめ近習きんじゆ四五人のみこの雑色ざう〔し〕き奴僕しもべいたる四五十人引しいとしのびやかに駿足ときうまにうちのりかの冨山の麓路ふもとぢなる大山寺にまうで給ひ本尊ほんぞんおがみ奉り次に伏姫の位牌ゐはい焼香しやうかうして祈念きねんこらし給ふ事半時ばかり冨山のこしなる山河さんせんハこの頃俄にはかに水かれたりと聞給ひわれハ是より山にのぼりたえて久しき伏姫が墳墓なきつかを見まくほりすその心をて」3 ともせよとおほせをみな/\承りてやかてかの山へぐしまゐらせけり。かくて義さね朝臣あそんハ馬の脚掻あかきをはやめつゝやかて冨山におもむきてかの山河のほとりに來つゝ那這あちこちと見わたし給ふに水ハちつともなかりけり。其時義実馬より下立おりたて照文てるぶん奴隷しもへらをこゝに畄め東峯とうみね萌三もえそう小松〔水〕こみなとさくわん蛸舩たこふねかい六 三人の近習きんしゆしたかへみつから山ふみし給ふこといく町にか及ふ程に忽地後方あとべを見かへりて姫がはかに水を手向たむける折汲拿くみとるものなしとくはしりかへりて馬柄杓ばびしやくたつさへ來つへしといそかし給へば今來しみちへ走り去る。かくて義実主従しう/\三人なほも程ある伏姫のすみすてられし出屈いわむろやゝ近着ちかづかんとし給ふほどに左右にひまなき樹蔭こかけよりつる音高く射出す猟箭さつやに先にたつたる近習の二人かたみに高股膝たかもゝひさを射られてさけひもあへすたふれけり。其時左右の樹間このまよりあらはれ出たる曲者くせもの四五人てに/\竹鎗たけやり打しこきやをれ義実」 我們われ/\せき年汝に亡されたる満呂まろ安西あんさいまた神餘しんよの為にけふこそかへすうらみのほさきうけても見よやとのゝしりて右左よりきそかゝるを義実おめたる氣色けしきもなくよらバうたんとつえうちすて刀のこひ口くつろげつあだ疾視にらみて立給ふ。かゝる処にかたへなるかけに又人ありて天地にひゞくこへふり立やをれ曲者くせもの無礼をすな里見殿に宿因しゆくゑんある八犬士の隨一ずいゝちたる犬江親兵衛まさしこゝにありとゝまれやつとよはゝりてはしり出來る大童〔お〕ほわらはあれハいかにと曲者等思はすともあとじさりして左右なくハすゝみず。さりとてつゞてきなけれバとくたふせと動揺どよめきて多勢たせいたのむつくり猛者もさやりひねりてきそひかゝれど親兵衛ほうもて打はらふ。向ふに前なき奮勇ふんゆう早業はやわざ曲者ども避易へきゑきしてうちなやまされてふしたる中にいさゝか手並てなむ一人の曲者これも竹鎗たけやりうちおられくゞりて逃亡にげうせけり。親兵衛ハたふれたる四名よたりのやからを藤葛ふぢかづらもてひし/\といましめかたへの松につなぎ止め」4 ちりうちはらひ義実のほとりまいりぬ。ぬかづきつゝまうすやう小可やつかれハかねてよりきこし召す山ばやしふさ八が獨子ひとりこ大八とよばれたるいぬしん兵衛まさしにて候也。きみがけふの厄難やくなんを我恩神おんじんおしへによりていさゝかに達まゐらせ見参けんざんに入りまつる事これ神慮しんりよによれるのみ。おん身につゝがましまさずいとよろこばしく候と世にたのもしく見えにけり。其時義実よしさね驚嘆きやうたんありてその武勇ぶゆうをかんじ給ひかゝる山にたかはぐゝみて人となしけん訝しさよととはれて親兵衛さん候小可やつがれわづかに四ッなるあき悪漢わるものに手ごめにせられて命あやうかりし折不思義ふしぎ神女しんによのまもりによりて此山につれさせ給ひ伏姫ふせひめ上の墳墓をきつちある嵒窟いはむろ宿やととしつ神霊しんれいに年ころ養はれ参り手習てならい讀書どくしよ弓馬きうば釼術けんしゆつなにくれとなくおしへさせ給ひしかバ六年このかた手煉しゆれんせしてなみなきにも候はす。斯て今朝けさしもひめ神の示によりて仇をふせぎ君に見参けんざんし奉り不思義ふしぎ計會けいくわいみなこれ神女のかごによれりと事をちもなく聞」

【挿絵】

神童しんどうふたゝ出世しゆつせしてやく老候ろうかうゑつす〉」5

えあぐるにぞよし実しきりにおどろかんじ事のよろこび大かたならす。又愀然しうねんと二人近習きんじゆ死骸しがいを見かへり給ふにぞしん兵衛ハこしにつけたる薬籠やくらうの神丹を抜捨ぬきすて痍口きつぐちぬりあまれるを口中へそゝき入るゝに死せりと見えたる貝六かいろくさくわんやかて忽地たちまち蘇生よみがへりていたみもあらずなりにけり。かくて親兵衛ハ貝六かいろくさくわんに命じてかの曲者くせもの拷問がうもんさするにかしら立たる二人の者まづちんづるやう某ハ安西あんさい景連かけつら再〓またおひにて安西あんさい出来介できすけ景次かげつぐと呼なすもので候なり。と名告れバ又一個ひとりがいふやうそれかし麿まろ小五郎信時のぶとき同家うからにて麿まろまた五郎重時しげときと呼なす者なり。年來素藤もとふぢに扶持せられて舘山たてやまの城にありしが彼にかたらはれて斯の如しと白状はくしやうまぎれなかりけり。其時樹かげに人ありてしづかに出て來にけるをみな/\誰やと打見れハすなはち一人の老翁也。最前さいぜん槍を打折られて迯出にけだす曲者きびしくしばりて牽立ひきたて來つ後」6 つゞくハ一個ひとりの老媼也。斯て老翁ハくせ者がなはとりつめて義さねぬし目前まなさきへひきすえ小可やつがれ犬山いぬやま道節とうせつが父なる犬山道さくもとのけらいおば雪与四郎後に神谷のやす平とよばれしものにて候。是にはべるハわか妻にて音と呼なしたる道節の〓母めのとなりき。今より六年さきの秋荒山の隱家かくれがにてしか%\の事により我々必死ひつしきはめつゝひく單節ひとよ両個ふたりよめを犬田うじにたのみき家に火をかけ猛火めうかの内におどり入らんとせしほどなるかなけむりうちに一人の神女出現しゆつげんありわれ/\をすくひ給ふて此山に來りしをり犬江新兵衛此所にありてそが素性すじやうを打聞にき。さるほどにかたへを見れハ両個の〓もつゝがなく又此深山に聚會つどひたるそのはじめよりをはりまで筒約〔つゞま〕やかにまうすにぞ義実ぬしハ聞はてかんもつとも淺からず。彼生捕いけとりてつれ來しものハ洲嵜すさき無垢三むくざうが外孫有磯なみ六といへる侠客をとこたてにてこれももと藤にそゝのかされて義実朝臣あそんを」

挿絵【挿絵】

うまとばして星夜せいや親兵衞しんべゑ舘山たてやまおもむく〉」7

討まくせしなり。斯て義実主ハその日ふせ姫神の墳墓おきつちまうで給ひみな/\を引してふもとまで下かうし給ひすでにして大山寺へつかせ給ひ生捕いけどり五人ハもえ三にひかしつゝ瀧田の城へぞ送られける。されバ此夜ハ大山寺へ止宿をしめされきやく殿に坐をしめて与四郎音音曳手單節ひとよよびつとへ給ひける。おん後方あとべにハ照ふみよしかいさくわん等もはべりたり。其時親兵衛すゝみ出我君願ふハ小可それがし権且しばらくいとまたまひねかし。今よりたて山へ赴きて御曹司ぞうしをすくひとり奉らんといふを義実見かへりてそハ又いた性急せいきうなり。舘山までハみちほど十数里なるものを此夜ををかしてやられんや。あすハ瀧田へてかへりおほ母妙しんに對面させんと思ふなり。はやるハようなきわざにこそとくりかへしつゝとゞめ給ふを新兵衛きかず又いふやう御じやうでハ候へども古語にも兵ハ神そくたつとぶとこそ聞えたれ。御方の機密きみつを敵に知らるゝひまこれなしとすべからず。いかで/\と只管ひたすらに忠義にあつき」8 武勇のたましい止るべくもあらざれバ義ざねわづかにうなづき給ひ和郎までに思はゞ〔とゞめ〕ハせねとその身ひとりゆかんハあやふし我伴びとしたがはせん他們かれらすべ甲冑かつちう准備よういなきを争何いかゞハせん。ととはれて親兵衛いな伴黨の多きハ路次のわつらひあり。若とうにんと奴僕にて事たりなん。願ふハ礼服一領をかし給ひねと申にぞ義実しからバとてとま屋景よしを若黨としをば雪与四郎を馬の口付と定め又照文を瀧田へ遣はし此赴を義成に通達せよ。と命ぜられしかバ倶に言承ことうけしたりける。其時又義実主ハ貝六さくわんにいゝつけ給ひ差がえの刀衣裳いしやうハさらなりみな親兵衛に給はりしかバやがて馬上に打またがり手綱かいくり徐々しづ/\あゆませたるが与四郎たいまつゆん手にとりつゝくつわづらに従ふたり。其時親兵衛馬をとゞめて玄関にうちむかひくらの前に額づきすを義実つゝ聲をかけてあはれめでたき勇士のありさま。我ハ明日あすよりなんぢが吉左右そうを瀧田の城に俟」 つゝ在らん。暁天あけがた近しとくゆきね。と仰に新兵衛阿といらへて馬拍〔かいく〕れ乗めぐらし見る間に出る山門に与四郎も又をくれしと後方あとべつゞく景能照文。腰にさげたる張ちんハ闇の蛍ときらめきてはやくも見えずなりにけり。

却説かくて犬江新兵衛ハ照文とみちを別ち景能与四郎を馬の左右に従へて舘山の城にまたゝく間に走つけ一町ばかりこなたより景能を走して喚門おとなはするに景能はゞかる氣色なく正門にすゝみて聲高やかに呼はるやうらう城の人々にものいわん。只今國主のおん使犬江新兵衛まさし來れり。戸をひらきてむかへずや。とふた度三度おとのふ程に親兵衛も又馬をすゝめて主僕三人橋を渡しつひらくをおそしと待居たり。此時舘山の城兵等ひとしく驚き且訝いぶかりのぞきの小まどよりかいま見るに思ふにも似ぬ主僕二人。あれハいかに。とあきれ惑ひつ。しか%\と素藤もとふじつぐるにぞ素藤完尓くはんじとしてしば/\うなづきそハ義成」9 久しくせめあぐみせんすべのなきまゝに義通とひき替に濱路姫を送らんといふ和睦の使にこそあらめ。あくまで武威をかゞやかしてそやつにきもつぶさせん。事の用ハしか/\にして箇様かやう/\はからふべし。事とゝのはゞ城内へ〓奴そやつれて案内しるべをせよ我書院にて對面せん。とく/\せよ。といそがせバうけたまはりぬといらへつゝ走りて外面とのかた退まかりけり。さる程に親兵衛ハ城の門前に馬をとゞめてしゆ僕待こと半時ばかり。やがて城内よりくゞり門を推開おしひらきいざおん使入り給へと大門をぞ開かせける。其時新兵衛ハ馬よりひらりとをり立て門内にすゝみ入る程に案内をしつゝ書院へと伴へバ景能と与四郎ハ倶に玄関ののき場に居背後うしろを目送りて心密に伏姫神の擁祈念きねんしたりける。却説犬江新兵衛ハまうけの書院に赴きてと見れバ蟇田素藤はじめ左右の郎黨奥利本膳盛衡浅木椀九郎嘉倶よしともにいたる迄共に甲冑かつちうをよろひ此究竟くつきやうの力士四五十人短鎗てやり薙刀なきなた

【挿絵】

舘山たてやましろまさし衆兇しふけう威服ゐふくす〉」10

さやをはづして二ぎやう侍立じりうし一百有あまり雜兵ぞうひやうゆみ鉄炮てつほうを手々に持て孫廂まごびさしの下に居ながれたり。そのときしん兵衛ゑしやくもなく床の間なる鎧櫃よろひゞつを引出ししりうちかけて上坐に着しかバ素藤もとふぢ勃然ぼつねんと怒りあな無慙むざんなる猴子せがれ狂態きやうたいとく引おろさずや。と下知したるこゑ共供もろとも老黨らうどう士卒しそつどつとおめいてうち物をきらめかしつゝしん兵衛をおつとり込でうたんとす。時になる哉しん兵衛がふところより一道のひかりさんらんして打向ふ兵毎ものどもおもてはたうちしかバ大家みな/\すべられ諸声もろこゑ高くさけぶ。老當らうどう力士も〓斗とんぼかへりてしばしハおきも得ざりけり。素藤もとふじおどろきながらと身を起し引抜ひきぬく太刀たちかぜ両段ふたつになれ。と丁とうつしん兵衛さわがず身をかへしてあふぎをもつて打落し組んとすゝむを引つけて片足かたあししか踏伏ふみふせたり。比類ひるいなき勇力ゆうりきおされて面色めんしよく土の如くくるしきこゑをふりしぼりて者ともすくへ。とさげぶにぞやうやく我にかへりたる老當ろうとう士卒ひそつも初に」11 こり安閑あんかんとしてながめてをり。しん兵衛ハゆうぜんと力士が捨たる捕索とりなはひぢ近にありけるをとるより早く素藤もとふじきびしくしばりて動かせず。そがまゝ傍へに引つけて手下の兇黨けうとうをゑらひなく〓懲のりこらせバ保質ひとじちとられてかうべたれこしを屈ておのゝきおそれみな降参かうさんをしたりける。されバ本膳ほんぜんわん九郎ハ走りて外面へ赴きつ。まづとま景能かげよししん兵衛が竒異きゐ武勇の事のおもむ〔き〕き并に篭城らうじやう将卒しやうそつみな降参こうさんの義を報知つげしらして案内しるべして義通よしみちぎみ身邊ほとりへぞ赴きける。爰に又里見御曹司おんぞうじ義通よしみちきみハ久しく當城とうじやうにとぢこめられ給ひしに此日思ひがけもなく賊徒ぞくと本膳碗九郎が苫屋とまや景能かげよしして來つ城兵じやうへいすべ降参かうさんの事情を申ついそがはしく囹圄おりひらき別間に出しまゐらせてもうけしとね請登こひのぼすれバ景能やが見参げんさんして恙なかりしをしゆくし奉りさて犬江いぬえしん兵衛が武勇大功たいこうすみやかなりし事の由告まうせバ本膳ほんぜんわん九郎等ハおさ/\いたはなぐさめけり。

○かくて舘山たてやまの城内にハ」

【挿絵】

御曹司おんそうし義通よしみちすくまいらせてしん兵衛景能かげよし帰陳きぢんうながす〉」12

義通よしみちきみの御帰陣きじん用意よういとゝのひしかバしん兵衛下知けぢして第一番だいい〔ち〕ばん素藤もとふじ以下いか降人かうにんどもまづじんひくべしとてしろ北門ほくもんより出し遣し次に義通よしみちきみ轎子のりものそひ苫屋とまや景能かげよしうけ給はり軍民ぐんみん百五十人したがへたり。その時犬江しん兵衛ハ馬上ばじやうにて殿しんがりしてねりもて來ぬる。およそ事の為体ていたらく白布しらぬののぼり両竿ふたさほ叛賊はんぞく蟇田しきた素藤もとふじとしるし又降伏がうぶく兇黨けうとうとしるせしを両個ふたり軍民ぐんみんさゝげ持て真先まつさきにぞすゝみたる。次に十時とゝきぐわん平田ひらた盆作ほんさく奥利おくり本膳ほんせんあさわん九郎逆徒ぎやくと二十四人を背手うしろてにいましめあまたのたみおい立行めり。つぎ素藤もとふじふとながすき丸太まるたのうらにしばり付てからげてくるま推立おしたてしを軍民ぐんみん二十人して是をひくに音頭おんどをとり遣材唄きやりをうたひていとにぎはしくねりゆきぬ。素藤もとふじハ此時むねうちおもふやうさてかの八百比丘尼くに何方いつこかげを隠しけん。我かくなりしが知らざるか。知れともすくふにすべなきや。はじめほど這那かれこれたすけになる事多かりしに今この折に効驗しるしを見せぬハやくなかりきと」13 むねにのみうきをやるハなかりける。さるほと降人かうにん等ハひかれてぢん北門ほくもんに参りしかバ小もり高宗たかむね浦安うらやす友勝ともかつぞう兵あまたしたがへて出降人かうにん等をつぼの内へおい入たり。左右とかくするほど義通よしみちぎみ轎子のりもの近着ちかづき來にけれバとう辰相ときすけ蜑崎あまざき照文てるぶん雜兵ざうひやうしたかへて東門とうもんよりむかへまゐらせてまうけむしろ案内しるへをしつゝことぶきのべなすほとしもあらせず親兵衛ハ東門とうもんほとりにて馬よりりすゝみ入るを照文てるふんいそかはしく立出てまづしん兵衛の大功たいこうよろこびをのべ案内しるべをしてくだんむしろともなひけれハしん兵衛又あらためて義通よしみちきみ見参げんざんして帰陣きじんよろこびをまうしけり。霎時しばしありて義成よしなり主ハ近習きんしゆ幾人いくたりしたがふて上坐かみくらつき給へバ義成よしなりぬしまづしん兵衛をよび近著ちかつけせきたまねきらひて昨今さくこん大功たいこう褒賞ほめ給ふ事大かたならず手つから打あはびたまはり君臣くんしんしゆくし給へバ親兵衛せきさけつゝしんまうすやう ねかふハはやく御對面たいめんあれかしとすゝめまうして照文てるぶん景能かげよしを心得さするにいざとてやが義通よしみちして御前みまへにぞ」 出にける。かくて御親子しんし對面たいめんあつてかたみ悦喜えつき限りなくしん兵衛が不思議ふしぎ大功たいこう神速しんそくにて勍敵きやうてき降伏ごうふくしたることを感嘆かんたん大かたならざりける事の便宜びんぎ辰相ときすけ等ハ親兵衛に名對面なたいめんして大功たいこうさんじ各ひとしくうやまふたる口誼こうきおはりて辰相ときすけ義成よしなりぬし素藤もとふじ誅罸ちゆうばつの事をこひまつるを義成よしなり聞つゝうなづきてそも又犬江に問給ふにしん兵衛ひざをすゝめて願ふハ我君格別の仁政じんせいほどこ彼等かれらかうべつがしめてゆるして追放ついほうし給ふとも又いかばかりの事をせん。よしや今こと%\かうべきりかけ給ふとも當家とうけまつり仁義じんぎにたがひて武徳ぶとくおとろへ給ふことあらバ奸民かんみんかならずつぎそむくもの多からん。願ふハ仁恕じんちよのおんはからひこそあらまほしく候なれと道理だうりをのへていさめまうせハその義をたゞちに御許由きよゆうあつて高宗たかむね友勝ともかつ以下いけしたかへ義通君ともろともに舘山たてやましろに入給へハしん兵衛と辰相ときすけ雜兵ざうへい下知けぢつたへて先素藤もとふじぐわんぼん作本せんわん九郎等すべかしら立たる凶黨きやうたうつぼの内にひきすへさして」14 國主こくしゆ寛刑くわんけい恁々しか%\言示のりしめ汝等なんじらもしこのわすれてたちかへり悪事あくじをなさバそのたびハけつしてゆるさじ。このしん兵衛があらんかぎりハ立地たちどころにみな屠戮とりくせんとくりかへしつゝいひこらせバ素藤もとふぢならび兇黨けうたうぬかをつき洪恩こうおんみな承伏しやうふくをしたりけり。當下そのとき雜兵ざうひやう幾人いくたり下知げぢしたがひ素藤ひたひをちなくいれぼくろしてきぬぬかしつ推伏おしふせそびらしもとあつる事一百いつひやくに及びしかバをの/\苦痛くつうたへずして叫喚きやうくわんこゑたゝずなるころ引起ひきおこみづをあたへ膏薬かうやくそびらしきすべ追放ついほうせられけり。これよりさきしん兵衛辰相ときすけくだん一議いちぎ日暮ひくれたれバこのハそがまゝ在陣ざいじんして君侯くんこうむねうかゞつぎの日陣屋ぢんやをこぼたして素藤もとふじ自焼じせうせられし民毎たみどもわかちとらせしかバみな/\よろこおんはいして家作かさくりやうにぞしたりける。さるほど義成よしなりぬしハその日嫡男ちやくなん義通よしみちうまならべ舘山たてやましろいり給ふ程に義成よしなりぬし姥雪をはゆき四郎を召出めしいだして神行はやばしりこうほめ引出物ひきでものたまは犬江いぬえしん兵衛をもて當城たうじやうまもらせことくまなくさだめられつぎの日稲村いなむら凱陣かいぢんなし給ひけり。」

【挿絵】

素藤もとふぢ山中さんちう草庵そうあん妙椿めうちんふ〉」15

かく義成よしなり父子ふし舘山たてやま立去たちさり給ひしつぎの日義通よしみち共侶もろとも瀧田たつたしろおもむきてまづ老候らうこう見参けんざんしつゝ今般こたびよろこびをまうし給へバ義実よしさねぬし喜悦きえつ大かたならず犬江いぬえしん兵衛が冨山とやまのはたらき又舘山にて素藤もとふじ威服ゐふくしたりし大功たいこう照文てるぶみ注進ちうしんにてきゝたるまゝにいひいで父子ふしそんよろこびをなんのべ給ふ。かくてそのあけのあさ義成よしなり父子ふし瀧田たつたしろさり稲村いなむらへとてかへ(〔ら〕)せ給ふ。話分両頭はなしふたつにわかる尓程さるほど蟇田ひきた素藤もとふじからくも死刑しけいをゆるされて辰相ときすけ雜兵ざうひやう水行ふなぢよりひとつを武蔵むさしかたおくりやられつぎの日ひつじころにそのふね墨田川すみだがはなる西にしきしにつきしかバくがのぼ追放おいはなちて雜兵ざうひやう安房あはかへりけり。そのとき素藤もとふぢハあちこちとながみぎは徘徊はいくわひしつゝときうつりてなゝさがりになりにけりとれバかしこにつなぎふね一艘いつそうあり。今宵こよひハあれにあかさんとやがひらりとうちのりてれバふりたる菅蓑すがみのあり。こハ究竟くつきやうかいとりて引起ひきおこせバした一箇いつこ割篭わりこありてひられバいひ味噌みそあり。てん賜物たまもの16 かたじけなしと立処たちところくらつくやが熟睡うまいをしたりける。もとよりつかれしくせなれバ幾時いくときねむりけんとりこゑ呼覚よびさまされて忽然こつぜんまなこひらけバこハいかにかの河辺かはべなるつなふね宿やととしたるにるべうもあらず。こゝらハまさ山中さんちうにて深林しんりん竒巖きかんほかものなくつく%\とおもひかねて両手もろてをくみつゝ〓然ほうせんたゝずこと半時はんときばかり。さてあるへきにあらざれバ覚束おぼつかなくも人里ひとざとをたつねゆくにとれハむかひの谷蔭たにかけにむすびかけたる草庵くさのいほりあり。人跡しんせきたへたる深山みやまにもすめむ人のありけるよ。とおもへバさすかにたのもしくやがて彼処かしこいたほど両折戸もろをりど半分なかばなゝめひらきたり。すゝみいりつゝおとなへバうちにハ女子をなごこゑとしておうこたへて立出たちいづる。やをら障子せうじ引開ひきあくれバこれすなはちひとりの女僧あまなり。素藤もとふじていふかしけにおんまさ蟇田ひきた大人うしにハあらすや。といはれて素藤もとふじおどろきながらまなこをさためてよくればこれ別人べつじんならず八百比丘尼はつひやくひくに妙椿みやうちんなり。こは什麼そもいかにとばかりになほうたがひのとけ」 ざれバ左右さうなくハうちものぼらず素藤もとふじハさきに犬江いぬえにとらわれしをさしも妙術めうじゆつありながらすくはざりしハいかにぞややくなかりき。とゑんずれバ妙椿めうちんさこそとうなづ〔き〕きてしかいふハことはりなれど一朝いつちやうにいひときかたかり。まずこなたへとなぐさめてあしをそゝかしこひのぼしゐろりにしば折焼をりたきちやをすゝめかつ朝飯あさいひをすゝめたる。管待もてなし等閑なほざりならざれハ素藤もとふじわつかこゝろおちゐて又妙椿めうちん云云かにかくとありし次第しだい物語ものかたれバ妙椿はきゝあへずそハはじめより天眼てんがんつうもて一事いちしもらさすみなれり。わなみ大人うしわかれてのちかげたちかたちふて幾回いくたびとなくたすけしことおほかりしにいかにせんあの犬江いぬえといふ神童くしわらべ伏姫ふせひめ神靈くしたままもれるうへ感得かんとく靈玉れいぎよくあり。よりてわなみもおよぶべくもあらずかちをとることかたけれバすくはさりしかどおんともおゝかる士卒しそついのちをそこに執畄とりとゞめしハわなみが擁護ようこしたるなり。されバおん此所このところへつりよせたるもわなみが精妙せいめうはしめありておはりなきうきたる人と同列ひとつらになおもひそ。と」17 一五一十いちぶしぢうときさとせハ素藤もとふじゆめさめたることく又いふよしもなかりしがそも/\こゝ何処いつこにていつのころより此所ところいほりをむすび給ひたる。ねがふハわれたすけ給ひてはぢきよめるよしもかな。いかて/\と請求こひもとむれバ妙椿めうちんこそとなくさめてわなみおん身をたすけためにはる%\こゝへ誘引いざのふたり。此すなはち上総かつさなる羽賀はが舘山たてやまの間なる人不入いらず深山みやまはべり。やがてわなみの法術ほうじゆつにてかのしろとりかへすべうおもへども犬江いぬえめか舘山たてやまにあらんかきりハ不便ふべんなり。かやつをぬしうたがはしてとお他郷たけうはしらしなバとらんこときはめやすかり。その秘蜜ひみつハしか%\なり箇様かやう/\觧示ときしめせバ素藤もとふじ妙椿めうちん伏拝ふしおがみてたのむを妙椿おしかへして閑談かんだんときうつしけり。これよりして素藤もとふちやしなはれてこのいほりありりしほどにいつしか妙椿と狎親なれしたしみてたはけきかぎりをつくしけるが宿望しゆくもうむねたへざれバともすれバいひいでかの法術ほうじつうながほど一日あるひ妙椿めうちん素藤もとふぢさゝやくやう日頃ひごろおんみに催促さいそくせられしかの犬江いぬえめをとふさけて舘山たてやましろをとりかへすにいま大抵たいていよきころ也。わなみハいさゝか投方さすかたあれバいで

【挿絵】

艶書ゑんしよひろふて義成よしなり犬江いぬえをとふざく〉」18
て五七日かへるへからず。ひさしきことにハあらざるにるすし給へと苟且かりそめにこゝろえさしつ出行いでゆきけり。

○夫ハ扨おき安房あわ稲村いなむらにハ此ごろ城内しやうない妖怪えうくわいあり。濱路姫はまぢひめのねやのほとり立顕たちあらはれたりけるを正可まさかたといふ者おほかり。その折々おり/\に濱路姫おそわれ給ふ事大かたならず。されバおんちゝ義成よしなりぬし打驚うちおとろかせ給ひつゝ良医りやういめし醫案いあんたつしよ仏神ぶつじんいのらし給ひけれどさせる効驗こうけんなかりけり。かゝりしほどにおんはゝきみあづまのまへのさたとして役行者えんのぎやうじや石窟いわむろまいりたるかへりに一個ひとり異人いじんよひかけて濱路姫のたゝりをしづめんとほりせバ犬江いぬへしん兵衛をたて山より召よせてかれ所持しよじせる霊玉れいきよくをかり姫上のふし給ふ簀子すのこしたふかくうづめかつしん兵衛に病床ひやうしやうをうちまもらし給ひなバ怨霊おんりやう立処たちところ退散たいさんせん。とのりしめして洲崎すさきの方へゆくかと思へバ忽地たちまちみえすなりにけり。かゝる竒特きとくに女房等ハかへるとやかてあづまの前に事しか%\とつげまうせバ信仰しんかういよ/\あさからず國守こくしゆきこへあげ給へハ義成主も」19 おぼろかげながら四家老しかろうめしつとへてくだんのよしをさせ給ふにみなしかるべし。とまうしゝかバ苫屋とまや景能かげよし使つかひとして舘山たてやまの城につかはし親兵衛を召呼めしよばれその霊玉れいぎよくをかりえつゝすの子した埋措うづめおか濱路姫はまぢひめ枕辺まくらべなる次のづめをそさせ給ひぬ。是よりして姫うへ病苦いたつきにいよゝたいらき給へバ親兵衛が宿直とのいせしより氣力きりよくハ日ごとにすがやかなれどもいまだ日かづをへたるにあらねハ浴湯ゆあみ結髪かみあけハし給はず。なほたれこめてをはしませハ親兵衛に對面たいめんし給はず。宿直とのい醫師いし奥付おくつき甲乙たれかれにハ夜詰よづめゆるし給ふ物からしん兵衛をのみ初のことく夜ハつぎのまにはべらしたり。されハおん二親ふたおや胞兄弟はらからたちよろこびいへバさら也。給事みやづかひ女房にようぼうなべてよろこびいさまぬハなかりけり。さるほとに親兵衛ハ宿直とのいする事七夜なゝよさばかり氣心きこゝろ倦疲うみつかれてしきりにねむりをもよふせしをたへがたけれハ臂近ひちちかなるすごばんを引よしてねるともしらずまどろみけり。されバ又義成よしなりぬしハ親兵衛が」 参りたるよりたい七日といふ夜にいたりて何となくねくるしさにむねうちさわぎてたゞならすおほへ給ひしかバこハ濱路はまぢ病着いたつき危窮きゝうに及びしかさらずば又物怪ものゝけ立顕たちあらはれてなやます。そも親兵衛ハいかにしけん安否あんひたづねとはばやとみつか枕辺まくらへなる刀をおび提燭てしよくをともしていく間うちすぎおくおもてあはひなる関のとさしをし給ふに思ふにもひらきにけれハいふかりなからすゝみ入りて濱路姫の臥房ふしとなる次のにきて見給ふに姫の臥房ふしとに男女のさゝやくこへしたり。淺ましき事いふへうもあらず。退しりぞかんとし給ふ程にゆくりなく物ありてあしにかゝるをとりあげて提燭てしよく火光ほかげに見給ふに姫より親兵衛へおくりたる艶書ゑんしよ也。義成よしなり主ハ勃然ほつせん忽地たちまちいかりにたへざれバ先かやつらをてうちにせん。とはやる心ををししつめ抜足ぬきあししつゝ又臥房へかへり入給ひつく%\と思案しあんあり。はやくも分別ふんべつさたまりけれハくだんの艶書ゑんしよとく焼捨やきすてふたゝびまくらにつき給ふにたいどの賢君けんくん20あくるを今やとまた寐の床にわびしさ涯りなかりけり。かくてそのあけの朝義成主ハ親兵衛を呼近つけ姫ハすでに本ぶくに及びしかバけふより夜つめゆるすへし。つきて我思ふよしあり。汝けん士の有処ありかをたづねて八人具足ぐそくの日にあひともなふて帰るべしと路用の金を手づから給ひて犬江にいとま給はりけれバ親兵衛ハ既に一二の戸を退きて思ふやう我君に仕へて三十余日彼折よりして兵権を一時につかさどりしかハいむ事のありける。今より後幾程なく我義兄弟なる犬士等にめぐりあふ日のありとても此身に受たる濡衣ぬれぎぬさずハ此地に〔とゞま〕りて〔つかへ〕みちに入るべからず。とひそかむねをさだめつゝ瀧田の城におもむきて祖母そぼ妙真に今日ふて今日わか哀歓あいくわんこも%\なるものから親兵衛祖父おばによしをつげて名殘おしくも城を出爰より従びとみなかくし便港口みなとより出舩して古郷の下総なる市川さして走らしけり。再説ふたゝびとく此日稲村の城内にハ義成主千りよを盡し」

【挿絵】

妙椿めうちん〔幻〕けんじゆつをもて素藤もとふぢ殘黨さんとうをまねぐ〉」21

て既に犬江を他郷たきやうへつかはし此義を四個の家老ハさら也有司ゆうし給事みやつかへの老女等に仰渡させ給ひしかバおの/\事情わけを知らざれバいぶかり思はざるハなかりけり。斯て此次の日に濱路姫の床上の壽あり。又いぬるころ瀧田の城よりひき渡されたる安西さい出來でき介満また五郎天津九三四郎荒磯浪六等帰ごう情願じやうぐわん実事まことなるよしその聞えありしかバかゝるめでたき折なれバくだんつみ人等を赦免しやめんあり此等落なく瀧田へつげ知らし給ひけり。

尓程さるほどに蟇田もと藤ハ一人不入しらすの山のいほりを守りて妙椿のかへるを待しに三月やよひも既に盡る頃妙椿ハ忽然こつぜんとかへり來ていへるやうわなみおん身に示せし如く稲村へ赴きて法術をもて城内に妖怪ようくわいを出かし親兵衛をして濱路姫の宿直とのいをさせ義成にうたがひをおこさしてとふ他郷たけうへ走したり。かやつがらずなりたれバ舘山の城をとらんこと今宵こよい一夜をすぐべからす。竒々妙々にはべらすや。と鼻おこめかしてときほこれハ素藤悦び」22たへずしてあはれめてたきあません神術しんしゆつそも/\舘山たてやましろをとりかへすにハ又是いかなる妙しゆつあるや。とふを妙椿めうちん聞あへず細工さいく流々りう/\あげを見ませ。との方に立むかひまなことぢ咒文じゆもんとなへバはるか前面むかひの間より素藤もとふじか元の手の者くわん盆作ぼんさく本膳ほんぜんわん九郎等をさきたゝして三四百人いほりにはつどひたり。素藤もとふぢおどろきながらいち/\に對面たいめんしてその別後べつご一五一十いちふしゞうを聞つゝも今宵こよひ會稽くわいけいはぢを聞〔ママ〕めんとほりするに打物なくていかゞハせん。といふに妙椿めうちんいへるやう。その武具ぶぐも我じゆつあり。猛風もうふう吹起ふきおこしてたて山なる兵庫ひやうご吹破ふきやぶらし味方の武具ぶぐをとりかへさん。いでや効驗こうげんを見給へ。と説示ときしめしてふところよりにしきふくろおさめたる甕襲みかその玉をとり出してひたひ押當をしあてうちねんじてしばし咒文しゆもんとなふれバ疾風ときかせさつ吹起ふきおこり風のまに/\いほりにはかの武具ものゝぐハおち下れバ衆兇しうけうすへ妙椿めうちん竒術きじゆつかんぜぬ者もなくやがて一同武具ものゝぐに身をかた時分しぶんハよしと」

【挿絵】

妖尼えうに幻術けんじゆつ素藤もとふじ舊城きうじやうをそふ〉」23

椿ちん素藤もとふぢ其隊そのて賊兵ぞくへい三四百人舘山たてやましろ後門からめてをしよするに案内知つたる事なれバ二のくるわまでしのび入りてときどつつくりつゝ短兵たんへい急に攻立せめたつればしろ士卒しそつともおどろき各素肌すはだにてふせたゝかふと雖もいへども妙椿めうちん幻術けんじゆつにて其勢千に見ゆる物からふせぐに由なくおどろきあはてうたるゝものぞ多かりける。されバ此城内じやうない士卒しそつ大半ハ賊兵ぞくへいうたわつかに命をまぬかれしもの稲村へとて落亡おちうせけり。かくてぞ素藤もとふぢ舘山たてやまをとりかへしその勢千になりいきほさかんになりあへ國主こくしゆはゞからず。すなは妙椿めうちんぐん師として天女尼公にこう尊称そんしやう軍議ぐんぎの外ハ後堂ごたうをつかさどらせて夫人ふじんの如く願八ほん作本ぜんわん九郎にろくを多くしちやうはじめ弥倍いやまし〔ばし〕かバくだん四兇よたり豪民がうみん米銭へいせんせめとり家を破却はきやく資財しさいうば乱妨らんぼうかぎりなかりしかバおどろおそれやからをたつさにげ他郷たきやうはしるも多かり。されハ近郡きんぐん騒動さうどうして稲村へ注進ちうしん人馬にんばくしひく如く君臣くんしん上下おとろき」24 あきれてすで評議ひやうぎまち々なり。くて又義成ぬしハ杉倉氏もと堀内ほりうち貞行さだゆきとう辰相ときすけ荒川清澄きよすみ等の四個よたり老黨ろうどう便室ゐままね素藤もとふぢさいはん征伐せいばつの事をせらるゝに荒川清澄きよすみそが討手うつてをのぞみにけれバ随意まに/\ゆるして一千五百の軍兵ぐんひやうをさづけ出陣しゆつぢんいとまたまは舘山たてやま押寄おしよせしば/\合戦かつせんに及ぶといへども素藤もとふぢ妙椿めうちん妖術ようじゆつあれバあら川さらにしやう利なく一たびへいをまとめ殿臺とのだいへとぢんを引此むね稲村へ注進ちうしんなすにぞ義成よしなり主ハ先の頃犬江をかにかくとうたがひしハかの女僧あま妙椿めうちんじゆつもて我心をまよはせたるかはかるべからず。一瑕瑾かきん爭何いかゞハせん。と後悔こうくわひ大かたならざりけり。是によりてかの照文てるぶみ姥雪おばゆき与四郎をもて犬江親兵衛又其犬士けんしにも尋ねあはゞ我意わかいつたへてして來よ。と仰れハ照文てるふみハ与四郎と共侶もろとも伴當ともびとを引して便宜びんぎみなとおもむきつ。その夜海舩かいせんにとり乗て武蔵むさしをさしてはしらすれバ与四郎ハわづか一個ひとり伴當ともひとしたがへて別舩ふねに打のり」 こハ下総しもつけなる市河へとてはるけ水行ふなぢをいそぎけり。こゝに又犬江しん兵衛はたき田のしろを出しより市河にいたり依助よりすけ夫婦ふうふ對面たいめんして二おや墓所はかしよまうて夫より此処こゝし別れて両邦りやうこく河原へ帰りゆくはや舩に打のり水行ふなぢ三四里を一時斗りにはてしかバやが陸地くがぢにうちのぼり上野の原まで來にける程にはからずも扇谷あふきかやつ定正さたまさ老臣らうしん河鯉こはこひ権佐ごんのすけ守如もりゆきが一子佐太郎孝継たかつぐ主家しゆかはな浮浪ふらうしたるに出合つゝ名告なのりをなし里見こうつかへん事をすゝめ共につれ立てりやう邦に宿やとりをもとめはからずも安房あは使者ししや蜑崎あまさき照文てるぶ 行會ゆきあひしかば照文てるふみ安房あわ殿どのよりの御教書みぎやうしよしん兵衛にわたすにぞしん兵衛つゝしんでそのしよはいしやがて照文てるぶんとも孝継たかつぐ連立つれだち快舩はやふねに打のり上総かづさにわたりたて山なるしろのからめてに來にける程に天ハすでに明たれども朝もや深くたちこめてなほ野干玉ぬばたま烏夜やみたれバ准備ようい火薬くはやく篝火かゞり きへ残りしを手早く」25 うつし先柴庫しばくらに火をかけつゝときこゑをあげしかバ城内しやうない賊徒ぞくとおどろきさわぎて打物取て走蒐はせかゝるを高つぐはじめその手のめん/\各てきを引請てはややり下に幾人いくたり突伏つきふせられて賊兵ぞくへい等ハうたるゝものぞ多かりける。此間にしん兵衛ハ合けむりをあげるにぞ殿臺とのだいなる荒川清澄きよずみに森たか宗田むねたちから逸友はやとも大手からめてより推寄おしよせ來つ。ときこゑをあげとはして透間すきまもなく込入けれバ賊徒ぞくと進退しんたいきはまりてうたるゝ者数を知らずそが中に孝継たかつぐしん兵衛が幇助たすけにならんと思ふ物から矢庭やにはてき斫仆きりたふし又一人を生捕いけどりすなはち是をしるべにしつゝ書院しよいんほとりに打入けり。是より先に犬江しん兵衛ハ身ひとり後堂うしろどうおもむきて階子はしこつたひぬきあししつゝ第一のたかとへうちのぼる事いのあした素藤もとふぢ昨夜よんべ丑三うしみつすぐる頃えふ臥房ふしとに入しより妙椿めうちんまくらをならへの明たるも知らざりしに妙椿めうちんに」

【挿絵】

26

【挿絵】

妖尼ように對治たいぢしてしん兵衞二たび賊将ぞくしやうとりこにす〉」27

よびさまされていそがしく枕辺まくらべなるこし刀をかいとりて身をおこさんとせし程に屏風びやうぶをはたと推開おしひらきあらはれ出し犬江しん兵衛。素藤もとふぢあなやとにけんとほりすをしん兵衛手早くゑりがみを左手につかみ引よする。そが程に妙椿めうちん夜着よきすそより抜出ぬけいでて身をまぬかれんとせし程に親兵衛すかさすもと藤をそがまゝだう投伏なげふせはしかゝり妙椿めうちん肩尖かたさき丁と拿畄とりとめとくとりいたす霊玉れいきよくの守りふくろをさしかざせハひかりうたれし妙椿ハさけこゑ共侶もろとも閨衣ねまきハそが儘しん兵衛が手にのこりてかの身ハもぬけて樓上たかどのよりにはへひらりとおつると見れバ妙椿めうちんが身の内より一黒氣こくき出して鬼火おにびたる青光あほみ あり。見る間に西にしへなびきつゝきえあとなくなりにけり。さる程に素藤もとふぢついしん兵衛のため欄干らんかんをうちこへてなげおとさるゝ事一丈あまり。下にハ孝継たかつぐ心得ておさへてちつともうごかせす。かたに在あふ車井くるま つるなわをひきよせていときびしく」28 しばりけり。さる程に親兵衛ハ彼妖尼ばけあま妙椿かゆくゑんをさがすにのきばに大きやかなる石の浄水盤ちやうづばちあり。そが中に落たりと見てけれバいそがはしくそがほとりに立より手をさし入て引出すをみな/\ひとしくうち見れバいと大きなる牝狸めだぬきの既に死したるにぞありける。そがそびらハこげちゞれて模様もやうたとへバ焼画の如く如是によぜちくほつ菩提ぼだい心といふ八箇字かじのあらはれていとあざやかによまれしかバ人々訝る。親兵衛がいへるやうそれがしさきに伏姫神の御告みつげによりて知れる事あり。くだんの妖尼妙椿ハむかし八房の犬をはこくみける安の冨山の牝狸なれバ彼毒婦玉づさか余ゑんその身に残るをもて國父子ふしうらみまつりて素藤をそゝのかしついに両度の兵乱ををこして今日に至れるなり。この牝狸霊玉れいきよくひかりにうたれ死するにおよひて云云しか%\の八字を茲にしめされしハ狸と倶に玉梓か餘怨この折觧脱げだつして」 菩提ぼだい心に至れるを明地に知らしめ給ふ。こも神変の大利益いともとふとき事ならずや。と語るを聞て人々ハ等しく嘆賞しやうしたりしかバさきよりきびしくいましめられて組子になはをとられたる素藤ハおどろはぢかうべたれてよくも見ず。また生捕いけどりの賊等ハみなじゆ数つなぎにくゝられて半死半生なりけれバ只今妙椿が為体ていたらくを見るもあり見ざるも有しに後にぞくまなく聞知りける。かくて此よし里見両こうに聞へあげしかバ御父子ハ親兵衛かさい三の大こうを感し給ふ事大かたならず。是よりわづか一両日をて稲村の城内にハ素藤等を誅戮ちうりくの沙ありて素藤ならび願八ぐわん  ほん作本膳等を長須賀なる札の辻にひき出し再度叛逆ほんぎやく罪戻ざいれいをしか%\とのり示してみな悉くきらをはりて倶に梟首けうしゆせられしかバこれを見る者群衆ぐんしゆして日こと間断かんだんなかりけり。是よりさき犬江親兵衛ハ七けん士を領て」29 共に参らんとて去らんとせしを荒川清すみさま/\にとゞむるといへども餘の七犬士先だちて仕へん事本意にたがへりとて孝継共侶もろともこれをしおもふに自餘の七犬士ハかなら結城ゆうき來會くわひして丶大ちゆたい法師のいほりに在べしとて別れを告て出行けり。

○文明十五年四月十六日丶大法師の宿願くわん成就しやうじゆして下総國城西と聞えたる古戦場せんじやうさう庵に嘉吉かきつに義死の諸霊魂れいこんの菩提のためにどく座不退の常念佛のけち城〔願〕(ぐわん)供養くやうとけんとす。すなはち是五十年忌のとりこしにて嘉吉元年辛酉より今に至て四十三年念佛修行しゆきやうハそのはじめより八十日ばかりに及ひたる。此日ハすなはち諸将士のせうめい日なれバなり。さる程に七犬士ハ里見殿の代香使蜑嵜あまかさき照文ふく使をは雪与四郎と倶にこのあした辰の初刻に丶大庵へ参會す。斯て養ハ果しかバ丶大法師ハ拂子〔ほつ〕すをとりつゝ照文の坐邊ほとりに來て両やかたより」

【挿絵】

再叛さいはんぞく生捕いけとつて申朋亭ふたのつぢ梟首けうしゆせらる〉」30

よせ給ひぬる經巻きやうくわんならび香奠かうでんよろこびをのべなどして七犬士しちけんし口誼こうぎありて物語ものかたりときうつりそのゝち犬江いぬえしん兵衛もこゝにつどひとも安房あわまいるべし。とてうちつれて立出けり。されバ離合りがうときありて八犬士具足ぐそく安房あわ瀧田たきたしろにまいり義実よしさねぬし見参けんざんなすに義実よしさね犬士けんしをほとりちかくはべらせ智計ちけい功名こうめいせうじ給ひおの/\忠勤ちうきんおこたる事なかれ。とてさかづきたまはする。恩命おんめいためしあるべからねバ八犬士ハ言承ことうけまうしつゝ獻酬けんしう三度さんどおよとき一人ごと太刀たち一腰ひとこしいづれもあたひ千金なるをづからとりたまはりける。この式礼しきれいやうやくに果しかバちゆ法師ほうしさせ給ふに此をり蜑崎あまさき照文てるぶん稲村いなむら注進ちうしん使者ししやに立しがかへりまゐりぬ。と聞えしかバともめされて見参げんさんす。その時又義実よしさねぬし丶大ちゆたい法師ほうし功徳くどく無量むりやう照文てるぶみも又招賢せうけん宿命しゆくめいはたしし勤労きんろうほめさせ給ふ。其後そのゝち姥雪うはゆき与四郎を召出めしいだして貞行さだゆきおほせつたふるやう」31 そが恩命おんめいすぎたるに感涙かんるいをとゞめかねてうづくまりてはいしけり。かく見参げんざん礼儀れいぎをはりて義実よしさねをく退しりぞき給へハ八犬士はつけんし照文てるふみをんはいして共侶もろとも罷立まかりたつほど丶大ちゆたい四郎ハ上下二間にわかれつゝ八犬士はつけんし別間べつまにて饗膳けうぜんをすゝめらる。かくて恩饗おんけうことはててみな/\休息所いこひどころ退しりぞき又妙真めうしん宿所しゆくしよ立寄たちより妙真めうしんはじめ曳手ひくて單節ひとよ對面たいめんしてかたみによろこひをつくしけり。そのつぎ八犬士丶大ちゆたい照文てるぶみ四郎半過なかばすぎたるころ稲村いなむらしろまいりけり。かゝりしほどおの/\昨日きのふごと廣書院ひろしよいんにて義成よしなり父子に見参けんざんす。八士はつし進上しんしやうにゑ両公りやうこう賜物たまものちやれい犬士けんしいさほ賞美しやうびことば都て瀧田たきたことならず。たゞ當舘とうたちにてハ賜物たまものかづまして八犬士一人ごとにさねよき甲冑よろひかぶとそへられ又饗饌けうぜん種々くさ/\珎味ちんみつくさせ給ひける。かくて義成よしなりぬしハ又氏元辰相ときすけをもて八犬士に仰渡おほせわたさるゝやういましら犬江いぬえしん兵衛をこたび又あらため上総かつさ舘山たてやま」 の城主しやうしゆになさる。しかれどもなほ思召おほしめすむねあれハ七犬士と共侶もろともにしばらく瀧田たきた宿所しゆくしよにあるべし。又七犬士ハ當家とうけためいさほありけるよし聞えたり。されバしん兵衛ハすで當家とうけつか汝等いましらハいまだ當國とうごくまいらざりしをりなれバおのづからそのいさほに甲乙なき事をさるべし。こゝをもての七犬士ハ家老からう下兵頭しもものかしらかみたるべき城主じやうしゆかくになさるゝ者なり。今よりして又大功たいこうあらバおの/\そのしろたまふべし。異日ゐじつ城地ぜうちを給ふまですなはち八犬士の賄料まかないりやうとして月俸つきふち五百口をあておこなはこの所従しよじうの人馬ハさら也。臨時りんじ軍役くんやくあらんをり雑費ざつひみきさための外にて上のおんまかなひたるべしとなり。つぎ丶大ちゆたい法師はうし蜑崎あまざき照文てるぶんめしよせて八犬士を招會せうくわひいさほほめものたまふ事おほかり。又そのつぎ姥雪をばゆき与四郎を別せきめしよせて冨山とやま以來の功をほめておの/\引出ものことならず。此日の恩賞おんしやうたゞこのともがらのみならずさきに素藤もとふぢ前後せんご両度りやうと征伐せいばつをり有功うかう諸士しよし32 もらさす加そうせられ職事しよくじをのぼし格席かくせきをすゝめかいなでなる雜兵さうひやうにハ金銀きん%\青〓せいふたまふ事おの/\しなあり。かくて八犬士ハその日稲村いなむら退まかるをり丶大ちゆたいほう師にあいわかれて照文てるぶみ四郎と共侶もろとも日暮ひくれ瀧田たきた宿しく所にかへり次の日もまだきより八犬士連立つれたちて大山寺へおもむくに先伏姫の祠堂したうまうで各香奠かうでんたてまつりやがてと山にうちのぼり伏姫の墳墓おきつちまうずるに丶大ハ嵒窟いはむろうち結跏けつか 跌ざふ〔坐〕 して読經ときようこゑたかやかなれバその道徳とうとくしうしたるをかんたん〔感嘆〕其日そのひたちかへりぬ。

さても八犬士里見さとみこうつかへてより君臣くんしん礼あつうしていよ/\精忠せいちうをはけみしかバ義成よしなり父子ふしむかふところかたずといふ事なく関八州くわんはつしう武威ふゐをかゝやかしけるにぞりよう管領くわんれいをはじめとして下総しもふさ武蔵むさし相模又ハ常陸ひたちの大小みやうあるひをなしかうこひけるもまつた犬士けんしこうによる所なり。とておの/\をまことの城主じようしになされそか上ならす義成朝臣あそんに八人の御娘」 ありけれバこれをもて八犬つまたらしめん。と仰あるに犬士けんしらさま%\にいなみ申といへどもゆるされす。つい一人ひとりことに姫君たちをむかへとり夫婦ふうふの中いとむつましく房総ほうさう四民しみんきやうたのしむのときにいたり。そのゝち瀧田の義実よしさね朝臣あそん長壽ちやうじゆたもち給ひし上大往生たいわうしようとげ給ひけれバ義成朝そん父祖ふその行を次て善政せんせいをもつばらとし給ひ家士かし良民りやうみんをめぐむ事愛子あいしごとくなれバ士民しみん又君をしたふ事赤子のはゝをしたふごとくまことにめでたきさがのみつゞきてみな萬歳まんざいをとなへけり。こゝに四郎妙真めうしん里見さとみ殿どの莫大ばくたい扶助ふちよよつ安楽あんらくをいやしなひこれも大往生たいわうじようとけたりとぞ。そのかいなでのともがら悪人あくにんハのこりなくほろ善人せんにんハいよ/\さか子孫しそん長久して八犬士はつけんしをこなひをまな君父くんふ忠孝ちうこうつくしけるとなん。

    大團圓だいだんへん33

その後明應めいおう九年四月十六日ハ結城ゆうき落城らくじやうの六十回忌と義実公の十三年あたるをもて義成主ハ延命寺へんめいし参詣さんけいあり。杉倉すきくら堀内ほりうち近習きんしゆ毎伴當ともからともひとたり。廟墓べうぼ焼香せうかうはて主従しゆう%\客殿きやくでんにあり。犬士けんしともにはんべりぬ。このにはに牡丹花ほたんくわ開満さきみち香風かうふう馥郁ふくいくたるに義成主ハはしちかくいましける。其時そのとき丶大ち〔ゆ〕たい臣僧しんそう住持ぢうぢしぬる事十八年をへたり。念戌ねんしゆつ法脉ほうみやく傳燈でんとうしそのいとまたまはらまく此ぎゆるさせ給へかし。と請禀こひもふせバ義成よしなりきゝつゝその情願せいくわんいまさらとゝめがたし。まつそハおきわれうたかひおもふところあり。禅師ハ忽へんとしてかくれ又忽然こちねんとしてあらはるとか。ある富山とやま嵒窟いはむろ禅師ぜんしのどけう(〔読経〕)こへきこへ又木を穿うかつのみおとのみしてそのかたちを見たる者なしときく。いかにそのことありや。ととはれて丶大ちゆたいしかなり。喜怒きと哀楽あいらくさかひまぬか好憎こうぞう褒貶ほうへん掛念けねんせされハあしをふまず雲にのるにあらざれとも出没しゆ〔つ〕ほつ不思ふしぎ」

【挿絵】

八犬はつけん具足くそくして里見さとみ両侯りようこう拝見はいけん丶大ちゆたい照文てるふみ姥雪うばゆきともにす〉」34

の妙を得しハ我すら知らず。尓るに文明十六年の冬この白濱しらはまなみの打寄ける異圓材くしまろきあり。是をいさゝか削拿けづりとりて焼試るに沈香ぢんこうなりけれバ富山とやま嵒窟いはむろ藏置おさめおき其後臣僧しんそういとまある毎にむろにいたり讀経とくきやうすぎて其材をきざみ須弥しゆみの四天王と廿五のぼさつと廿五の古佛こぶつを作り奉り其餘ざいにて數珠じゆす一聯いちれんきざみたり。すでぶつぼさつ五十たい開眼かいげんしまつりしが四天王ハいまだ開眼を得す。ハ八犬士に乞ふて八箇の玉もて玉眼ぎよくがんにせまくほりす。とのべけるにそ八犬士進出て臣等八人が感得かんどくの玉の文字昨日きのふ不殘のこらず消失きへて白玉となるのみならず身にある牡丹花ぼたんくわ痣子あざ年々にうすくなり本月このつきに至りてみな消耗きえうせて跡なく做りぬ。此玉この痣子あさあるをもて伏姫ふせひめうへの御子としれ當舘たうやかた徴使めしつかはこうりて文字も痣子あざきゆる事役行者ゑんのぎやうじや伏姫神ふせひめがみの利益ならんと各玉を拿出とうでつゝ護身嚢まもりふくろに打のせとも丶大ちゆたいに返しけり。是によりて丶大四天王を安房あわの」35 四隅しぐうおさめ四天塚してんづかするをし五十佛像ふつぞう鋸山のこきりやまうへ仏種ぶつしゆを殘す事をはか義成よしなりぬし稲村いなむらしろへ帰りけり。恁而かくて八犬士はつけんし四隅しくうに至りて四神王をおさめ念戌ねんしゆつ徒弟とていとも鋸山のこぎりやま佛像ふつそううづめ両義りやうき全く事果ぬれバ念戌ねんじゆつを二世の住持ぢうぢとして丶大ハ退院の歓びをまうさんとて稲村いなむらしろに來にける折八犬士もくんへんに侍りける。丶大ちゆたいハ礼果てのち臣僧しんそう宿願しゆくがんとけ富山とやまに入ハ見参げんざんハ今日をかきりなれバつげもうすハ姫君を觀世音くわんぜおんおくの院としかの嵒窟いわむろ鎖垤さしふたぎて臣そうぜうに入まくほりす。といゝつゝ八犬士を見かへりて和殿わとのしよく児子こともゆすり致仕して隱逸いんいつを楽まざるや。いふべき事ハ只是のみ。といひもおはらず忽然こつぜんとしてかたちハあらずなりにけり。是によりて親兵衛念戌ハ富山の嵒窟かんくつに行見るにそのむろにハ大盤石だいばんじやくもて口を塞ぎ其石に一首の古歌こかをしるしたり。

○こゝも亦浮世の人のとひ來れバ空行そらゆくくもに身をまかせてん」

【挿絵】

36

斯の如くにはんべる。と聞て義成嗟嘆さたんたへず。原來さては幾度いくたびとふとても對面かなふべからず。とてつひこの議ハやみにけり。尓程に八犬士丶大ちゆたいぜん師のわかれのぞみていはれし義のことはりなれバ倶に退隱たいゝんの心あり。是より後國のまつりごとすへて四家老に相ゆづりて折々出仕しぬるのみ。四家老ハ杉倉堀内東荒川這子孫しそん久しく相續そうぞくしたるのみならず八犬士も主君しゆくんの姫上達をめとりしよりおの/\男女児こどもともしからず。が中に犬江親兵衛ハ十八才の時より子をまうけて二男一女あり。うひ子ハ犬江しん平父退隱の後親兵衛とあらたむ。二男犬江大八といふ。後依助の養となる。親兵衛まさし舘山の城にうつり住し時より妙真を瀧田より迎拿むかへて孝養をつく静岑姫しづをひめもよく岳母しうとに仕へける。妙真ハ何たらざる事もなく七十八才にて身まかりぬ。只親兵衛にかけたる所ハ静岑姫不幸たん命にて三十九才の秋身故ぬ。この年親兵衛三十才」37 真平十三才二男大八十一才女子によしハ八才也。又犬山道せつ忠與ハ三男二女あり。うい子ハ犬山道一郎中心むね後道節と改む。二男ハ落鮎餘之七有種が養嗣となり三男ハ出家し後ゑん命寺の住持ちうそうとなり道くうといふ。両個ふたりむすめハ力次郎尺八郎にめあわせけり。又犬かいけん八兵衞信道ハ三男一女あり。冢子ハ犬飼玄吉言人のりと後に現八とせうす。二男ハ犬飼見兵衛道のぶ後に滸我こがの政氏に仕ゆ。三男ハ甘糟かすぬか助こは上総望陀ごふりの郷士とす。女の子ハ大学の冢子角太郎に妻せり。又犬田豊後悌順やすより二男二女あり。冢子ハ犬田小文吾理順まさよりと名づけたり。後に豊後と称す。二郎は本せい那古氏を名のらせて那古小七郎順明よりあきといふ。成長ひとゝなるの後下総なる行徳の郷士とす。両個の女児むすめハ犬江真平犬江大八に妻せけり。又犬塚信濃しなの戍孝もりたかも二男二女あ〔り〕。冢子ハ犬塚信乃戍子とよび做したり。」

【挿絵】

八犬士はつけんしみすをへだてゝ赤縄せきじやうをひく〉」38

後に信濃しなのしようす。犬江まさし女児むすめめとりぬ。二郎ハ本姓ほんせい大塚を名のらせて大塚番匠ばんせう戍郷もりさとといふ。成なるの後武蔵なる大塚の郷士とす。一女ハ犬川義任よしたうが子にめあはせ一女ハ犬田小文吾のつまとす。又犬坂下野しもつけ胤智たねともハ二男ありて女の子なし。冢子うひこハ犬〔阪〕毛野けの胤才たねかどよびなしたり。後に又下野と称す。二郎にハ本姓粟飯原あいばらを名告らせおほと胤栄たねよしといふ。こハ下総しもふさへ遣して千葉の郷士かうしとす。又犬川長挟ながさの荘介義任よしとうは一男二女あり。男子ハ犬川額蔵則任のりとう喚做よびなしたり。後に又荘助さうすけしやうす。一女ハ犬塚番匠ばんせうめあはせ一女ハ蜑崎あまさき照文の孫夫よめとす。又犬村大角礼儀まさのりハ二男二女あり。冢子うひこハ犬村角太郎儀正のりまさ喚做よびなしたり。後に大角としようす。二郎ハ赤岩正学しようかく儀武のりたけ名告なのら〔せ〕せ下野赤あかいは郷士ごうしとす。一女ハ犬飼いぬがひ玄吉けんきちめあはせ一女ハ那古小七郎」39つまとす。八犬士かくの如く児子こどもとみて且その才貌さいほうおろそかならず。かくて義成世を去給ひて嫡子ちやくし義通よしみちも又賢良けんりやうの君なれバ諸臣皆たのもしく思ひたりしに不幸短命たんめいにて其世久しからず。這時このとき義通よしみち嫡子ちやくし〓孺丸たけわかまるなほおさなかりしかバ義通よしみち命によりていろと次麿つくまろこの時ハ里見二郎實堯さねたかといひしをかりよつぎとす。〓孺たけわか成長ひとゝならバ家督をわたすべしと定めらる。いふ順養嗣じゆんやうしたぐひなり。實堯さねたか則四世の國主にりて上総介に任せらる。遮莫さはれ其心ざま父兄に似す。勇あれどもやぶさかにてよろづきびしかりけれバ罪なくして退しりぞけらるゝ者多かりけり。當下そのとき八犬士ハ延命寺へ廟参びようさんの折閑室かんしつを借て商量たんかふしぬる義あり。其後四五日をともに稲村の城にまいりて實堯さねたか主に請稟こひまうすやう。臣等年すでに六十にあまりて猶かくて候はゞ賢路けんろふさくの恐れあり。いかで致仕ちしして退隱たいいんせ」

【挿絵】

〈八人のひめたちおの/\八犬士はつけんし[呂文]〉」40

まくほりす。愚息ぐそくハ右にもかくにも召使めしつかはせ給ふべくもや。といふ連書れんしよ一通いつゝうをまゐらせしかバ實堯さねたかすなはちその情願しようくわんまかせて犬士けんしにハいとまたまはそのにハ釆邑ちぎやうおの/\五千ごせん貫文ぐわんもんたまはりてとも大兵頭おほものかしらとす。その城地じやうちみな召返めしかへしてあらためておの/\その守城しゆじやう頭人とうにんたるべしとめいぜらる。恁而かくて八犬士ハ冨山とやま峯上おのへなる觀音堂くわんおんどうかたはらいほりむすかつ同居どうきよしておいやしなはまくす。七個なゝたり姫上ひめうへたち相従あひしたがはんとてうちなき給ひしを犬士けんしおの/\これいさめて冨山ハ伏姫ふせひめうへの御事ありしより女人のぼる事ゆるされず。いかでおんとゞまりて児子こどもやしなひうけ給へ。これも又をやたる者のたのしみにあらずや。と叮寧ねんごろなくさめて一人ひとりしたがふことをゆるさず。すてにして夫婦ふうふ父子ふしわかれのぞむとき八犬士おの/\その児子こども教訓けうくん遺言いけんして連立つれだちつゝ冨山とやまいた山居やまこもりしてふたたびいでず。はるふもと花鳥はなとり41ともとしあき峯上おのへ丹楓もみぢしとねとす。なつ溪川たにかはみづむすむ。ふゆ團坐まとひして落葉おちばたくのみ。とも天命てんめいたのし浮世うきよの事をわするるにたり。かく二十稔はたとせばかりぬるほどつい火食くわしいせずやありけん。折々をり/\児子こども奴隷しもべをもてをくりぬるよねしほ衣裳いしよういまえうなしとてうけず。このとき犬士けんしたる姫達ひめたちとしおの/\すでをひ漸々しだい/\身故みまかり給ひしかどもその良人おつとたる八犬士はつけんしいまいたまで顔色かんしよくおとろへずみねのぼたにくだるに飛鳥とぶとりよりもやすげにていほりる事まれなり。ときこえしかバのち八犬士はつけんしとも心許こゝろもとなくおもひて有日あるひおの/\伴當ともひとてうち連立つれたち冨山とやまなるいほりいたりておやふに戍孝もりたか胤智たねともまさし礼儀まさのり義任よしのり忠與たゝとも信道のぶみち悌順やすより等ハかねこれことくうちつどふていほりうちり。すでさだまりて胤智たねとも諸子しよしむかひて汝等いましらいまだ思はす」

【挿絵】

義成よしなり朝臣あそん延命寺ゑんめいじ犬士けんし牡丹花ほたんくわを見る〉」42

や先君御父子の仁義の餘徳よとくおとろへて内乱ないらんまさおこらまくす。このゆへいさめてもいれられず夫危邦あやうきなかにハ入らす乱邦みたるゝなかには居らす。この故に洒家われら八名やたり當所とうしよを去りてあだし山に移らまくす。汝なんぞ倶に致仕して共に他郷たけうへ去ざるや。といへば戍孝もりたか忠與たゞともまさし礼儀まさのり義任よしたう信道のぶみち悌順やすよりおの/\其子をいましめて異口いくやう教諭おしへさとせば後の八犬士等ハ感涙かんるいそゞろさしくむまでに〓然しゆくねんかしこみてかうべたれてありける程に其事やうやく果しかバともかうべもたぐるにあやしむべし八個やたりおきな忽焉こつゑんとあらずりていへの中に馥郁ふくいくたる異香ゐかうしきりにかをるのみそのゆくところを知るよしなけれバ皆愕然かくねんとおどろきて原来さて大人うしたちハ仙しゆつをや得給ひけん。しも廣き這山このやま那里いづこさしたづぬべき。猶再會さいくわいこそねかはしけれとうち咳くのみ。せんすべな」43 けれバ共侶もろともに山を下りて次の日れん暑〔署〕(しよ)の願書いな村の城へまゐらせおの/\やまひかこつけていとまたまはりて釆邑をかへ宅眷やからたづさへて是より久しく他郷たきやうにあり。そののち幾程いくほどもなくとう実堯さねたかそのいろねみちひとり子里見義豊よしとよ確執くわくしつおこりて房総ぼうそうはたしてしづかならず。のちつい實堯さねたか戰歿うちじにし義豊も亦またうたれて義堯よしたかの世になりしかバ士民安堵あんどの思ひをなしぬ。其時義たかハ後の八犬士の有所をたづねてしきりにこれまねぎしかバ犬士等ハ只得せひなく宅眷やから上総かづさの九瑠璃るりへかへりつ。れともおの/\おひを告てあへ仕途つかへつかざりけれバ義堯よしたかすなはち其児子こども三世の八犬士をめし出して釆邑ちぎやうおの/\五千くわん文をたまはりてとも大兵頭おほものかしらとす。この八犬士も父祖ふそ同称おなじなにて武ゆう智計ちけいも又父祖に劣らず義堯よしたか義弘よしひろ二世の國主に仕て軍陣ぐんちんのぞむ毎に戰功せんこう

【挿絵】

丶大ちゆたい禪師ほうし富山とやまあとをうづめて詠歌ゑいかのこす\こゝもまた浮世の人のと〔ひ〕くれバ空ゆく雲に身をまかせてん〉」44

あらずといふ事なく其名を阪東ばんどうにぞあげにける。さるほどに天文十一年秋七月義堯よしたか足利あしかゝ義明よしあきらともに下総の國府臺こくぶだい北條ほうじやう氏綱うしつなたゝかふ。義明よしあきら當時そのとき上総の八幡やはたにあり。其さが驍勇きやうゆうにして智力なし。この日の闘戰たゝかひ初ハ勝にるといへどもつひ八幡やわたよりやぶれて義明ハ陣歿うちじにす。義堯よしたか敗走はいそうして上総にかへる。是より葛飾かつしか半郡はんぐん葛西かさいうしなふ。上総も亦しよ城主じやうしゆそむく者おほかり。真里まり谷信政魁首くわいしゆたり。義堯よしたか則ち椎津しいづの城を攻て信政を誅伐ちうばつす。信政戰歿うちじにしてしよ城主じやうしゆそむく者皆くだる。義堯よしたか又上総を平均へいきんせり。かくて義堯よしたかハ天文二十年にみまかりぬ。義堯よしたかそつして其子義弘よしひろぐ。義弘よしひろも又驍勇きやうゆうにして且闘戦たゝかひを好めり。則左馬頭まのかみにんぜらる。上総の佐貫ぬき居城きよじやうとす。弘治二年義弘よしひろ其子義頼よしよりともに」45 へいて江をわたして相摸さがみ三浦みうらせめて北條とたゝかふ。義弘よしひろ大ひにたゝかかちて三浦四十八がうりやくす。是より久しく里見の封内りやうぶんとす。永禄ゑいろく七年義弘よしひろ北條ほうてう氏康うじやす國府臺こくふたいたゝかふ。義弘〔いた〕くうちまけ國府臺こくぶだいしろおち入る。是より下総ハ里見につかずみな北條ほうてうの者になりぬ。是よりのちも北條氏とたゝかまず。天正六年義弘よしひろそつして義よりぐ。すなはち安房守あわのかみにんぜらる。又鬼本おにもと居城きよじやうとす。天正五年北條氏と和睦わぼくして氏政うぢまさむすめめあはせらる。其後和義わぎやぶれて小俵をだはらぜいせめらる。十八年以後いご始て安堵あんどす。この時義頼よしより四位しゐの侍従じゞうたり。是より後三世皆侍従じゞうぢよせらる。よりて時の人安房あわ侍従じゞうとなふ。義頼そつして其子左馬頭さまのかみやすぐ。安房のたて山を居城きよじやうとす。義康やすの子安房守」

【挿絵】

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忠義たゞよしいたりて十世なり。ひとり義豊よしとよのぞきて九世といふ當時とうじ落魄らくはくたる浮浪ふらうの身をもてとりがなくせきひがしにてもとひひらひらきてつい大諸侯たいしよこうのぼりしハ里見さとみうじ北條ほうてううじのみ。北條ほうてううじ里見さとみしておほくにたれども早雲そううん氏綱うじつなやすまさなほ五世にしてのちたへたり。里見さとみ房總ぼうそう二國なれども十世につたへしハ義實よしさねなり二世の俊徳しゆんとく仁義じんぎ善政ぜんせい餘馨よけふにてたみこれを思ふ事深長しんちやうなりし所以ゆへなるべし。まことに是美談びだんならずや。

英名八犬畧志ゑいめいはつけんりやくし 結局



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摺付表紙本奥目録



改刻袋入本表紙               改刻袋入本口絵
  

改刻袋入本本文冒頭


改刻袋入本刊記



#「英名八犬士(五)―解題と翻刻―
#「人文研究」第39号(千葉大学文学部、2010年3月)所収
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