『巷談坡堤庵』−解題と翻刻−
高 木  元 

【解題】

本作は一柳斎豊広画で3巻3冊、文化5年に慶賀堂から刊行された。同年同板元刊の『敵討枕石夜話』と共に、曲亭馬琴の中本型読本としては最後の作品である。ただ、序文の年記は文化丙寅(3)年と成っており、刊行が1年遅れたものの思われる(見返しの年記「戊辰」は入木されている)。

後摺本としては、序文を文化7年の山東京山序に付け替えた本がある。序文に拠れば文亀堂(伊賀屋勘右衛門)板である。この序文中に「此繪草紙」と見えており、本作が中本型読本としては珍しく挿絵中に詞書が書込まれている点、やや合巻寄りの性格が窺える。此時期に何作か見られるような絵題簽付の体裁で出されたものである。

この本の更に後摺本として、「翰山房梓」「乙亥」と見返に象嵌した半紙本3巻5冊があり、刊記は「文化十二年己亥年孟春新刻/書肆/江戸日本橋通一町目/須原屋茂兵衛/京三條通柳馬場西へ入/近江屋治助」となっている(天理図書館本)。目録などを彫り直し、内題等の「巷談」を削り「坡提庵」(以下「提」の字は「こざと偏」であるが便宜的に土偏にする)とし、巻下巻末の「附言」も省かれている。この体裁の本には、刊記を欠いた本(学習院大本)の他に、「河内屋喜兵衛/大文字屋與三郎」板があり(広島大本)、また天保期の後摺本と思われる『粂平内坡提庵』(外題)という江戸・丁子屋平兵衛から大坂・河内屋茂兵衛まで4都6書肆が刊記に並ぶ、口絵の薄墨をも省いた半紙本5冊もある(個人蔵)。何時の改竄だか判らないが、口絵の薄墨板(薄雲の姿4オ)を掘り直した本もある(立命館大学林美一コレクション蔵)

実は本作には序文と口絵を彫り直した中本3巻5冊の再刻板が存在する(都立中央図書館本)。幕末期の出来だと推測されるが、改装裏打されている上、見返や刊記を欠くため出板事項は未詳である。口絵には濃淡2色の薄墨が入れられ、本文は内題の「巷談」を削り「坡提庵」とした板を用いているようであるが、挿絵第6図(巻中3ウ4オ)は薄墨板が無いと間が抜けてしまうためか削除されている。

新刻された序末には「于時乙丑鶉月仲旬/飯台児山丹花の窗下に/曲亭馬琴誌/松亭金水書」とあるが、この「乙丑」は不可解である。慶応元年ならば既に馬琴は歿しているし、文化2年なら原板の序より早くなってしまうからである。また、どう見ても馬琴の文体とは考えられず、恐らくは松亭金水の仕業ではないかと思われる。金水はこの時期に『敵討枕石夜話』の再刻本『観音利生記』の序文を書いており、更に『〈江都|浅草〉観世音略記』(中本1冊、弘化4年、文渓堂板)を編んだりと、浅草関連の本に手を染めているのである(拙稿「馬琴の中本型読本−改題本再刻本をめぐって−」(『讀本研究』第五輯上套、後に『江戸読本の研究』所収)

さて内容であるが、「援引書籍目録」に江戸の地誌や風俗関係の書を20点も挙げ、本文中でも割注を用いて考証を加えるなど、近世初期の江戸風俗に対する興味を示しつつ、作品背景として用いている。この点に就いて大高洋司氏は、山東京伝の『近世奇跡考』巻之1の11・12・17、巻之2の4・10・11、巻之3の8、計7ヶ所の引用と、『骨董集』上之巻の20所収「耳垢取古図」と本作挿絵第15図(巻下11ウ12オ)との関係を指摘されている(「いずみ通信」11、1988年10月)

言及していない資料を用いて、薄雲をはじめ、雁金屋の采女、向坂甚内、久米平内等に関わる伝承を散りばめつつ、形の上では敵討ものとなっているが、複数の伝承を酌み合わせた点に面白さが存する。そして「巷談」を標榜し、「皆虚なり比喩なり」(附言)といいながらも、考証を等閑視はしていないのである。

なお、後摺本で付け替えられた京山序、並びに再刻本の序文と口絵とを、本稿末に掲げた。

【書誌】

編 成 中本 3巻3冊  18.5cm×12.9cm
表 紙 鶸無地(雲英末雄氏旧蔵本)
題 簽 無し(剥離跡12.5cm×2.4cm)(同右)
見 返 四周子持枠。右側に「巷談坡堤庵」、その左に「曲亭馬琴戲編 戊辰發販」「一柳齋豊廣畫 慶賀堂梓」、間に「題詞」「大堤春水満 相映送春衣/日暮逢公子 不知何處歸」。
叙 題 「巷談坡堤庵叙こうだんつゝみのいほじよ」 叙末に「文化丙寅ふみひろけ月なぬかのゆふべ/曲亭馬琴みづから叙」
目録題 「巷談坡堤庵總目録こうだんつゝみのいほそうもくろく
内 題 「巷談坡堤庵こうだんつゝみのいほ巻上(中下)
柱 刻 「坡堤庵巻上(中下) ○(丁付)
尾 題 「巷談坡堤庵巻下 大尾」
匡 郭 単辺 15.9×10.8cm
丁 付 上巻 叙1丁半(1オ〜2オ) 口絵3丁3図(2ウ〜5オ) 目録1丁半(5ウ〜6ウ) 本文18丁半(7オ〜25オ) 計24丁半。 中巻 本文30丁(1オ〜30ウ) 計30丁。 下巻 本文28丁(1オ〜28ウ) 附言3丁(29オ〜31ウ) 刊記半丁(31ウ) 広告1丁(丁付なし) 計32丁。
行 数 叙7行 本文と附言9行
刊 記 「文化五戊辰年/正月吉日發販」「江戸通油町/村田次郎兵衞/同日本橋新右衞門町/上總屋忠助梓」
その他 「筆耕 嶋五六六謄冩」「剞[厥刀]/綉像 朝倉卯八刀/筆耕 三猿刀」
諸 本 後摺本(文化7年山東京山序、半紙本5冊)、再刻本(乙丑序、中本5冊)。解題参照。
翻 刻 林美一氏『未刊江戸文学』14、17号(未刊江戸文学刊行会)


【凡例】

  1. 基本的には原本の本文を忠実に再現するよう心掛けた。漢字も旧字俗字異体字にかかわららず、「JIS情報交換用漢字符号系(JIS X 0208-1990)」に存する字体の場合は生かした。但し、コード化されていない場合は次の様に近似の字体を採用した。
    〓→胤  〓→誤  〓→憖  〓→曽  〓→弟  〓→弔  〓→雁
    〓→陰  〓→隠  〓→條  〓→歟  〓→霊  〓→解  〓→形
    〓→負  〓→析  〓→疑  〓→遷  〓→面  〓→答  〓→修
    〓→携  〓→偏  〓→暦  〓→佯  〓→崛  〓→雜  〓→寄
    この他、JISに規定されていない字に就いては原本通りにした。尚、これは問題の多いJIS漢字コードに義理立てしたわけではなく、本稿の機械可読テキストを公開する場合の便宜を考慮した為である。更に同様の趣旨から、敢えて字体の勝手な改竄で悪評高いJIS90年版(JIS X 0208-1990)に準拠して作成した。

  2. 片仮名は、特に片仮名の意識をもって書かれていると思われるもの以外は平仮名に直した。

  3. 本文中では句読点の区別無く「。」が用いられているが、行末等で句読点があるべきところに省略されている場合は「、」を補った。ただし、叙文では句読点の区別無く「、」が用いられている。

  4. 表記上の誤りと思われる箇所(衍字脱字等)は訂正せずに(ママ)と注記した。

  5. 各丁に」印を付し、原則として各丁の裏に」15 の如く丁数を示した。

  6. 表紙、見返し、口絵、挿絵は全て写真を掲載した。

  7. 割注は[ ]に入れて示したが、改行は記さなかった。

  8. 底本には天理図書館蔵の初板本を用い(天理大学附属天理図書館本翻刻第651号)、対校本として雲英末雄氏旧蔵の上巻と、向井信夫氏旧蔵(専修大学蔵)の下巻とを参照した。再刻本の図版は東京都立中央図書館蔵の物を使用した。

【翻刻】

巷談坡堤庵叙こうだんつゝみのいほのじよ

如是によぜ我聞がもん如来によらい龍華會りうげゑ説法せつほうは、悉皆しつかい比喩ひゆ手管てくだづ、ぼん/\凡夫ぼんぶ智惠輪ちゑのわハ、とけどもかへつて疑念ぎねんあり、うたがゆゑ應報おうほうなき、これや一切いつさい衆生しゆじようのうへ、したから見れバ木瓜ぼけはな草木さうもく非情ひじようなれバ智惠ちゑもなし無智むちなるゆゑうたがははず、うたがはざれバ得道とくどうす、いま」またるこれにひとし、とくところ偏綴へんてつならねど、うたがはずしてその引被ひつかけぜんはげまあくこらさず、宵寢よひねまどひのあぶらかすりて、物讀ものよまぬにハまさるべし、されば此書このしよ阿耨夛羅あのくだら三冊さんさつそろひし假名かなものかたり、趣向しゆこう元来もとより無盡意むじんゐにて、舎利しやり發端ほつたんからけちぐわんまで、隨縁ずいえん新編しんへん清浄きよきもととす、實相じつさうむろ1 さきうめとゝもに、はるふくめ作者さくしや勤行ごんぎやうかの雪山せつさんたきゞならで、こつてハ思案しあんにあたはじとて、そゞろふではしらするのみ

文化丙寅ふみひろけ月なぬかのゆふべ

曲亭馬琴みづから叙 [蓑笠隠居] [乾坤一草亭]

【口絵第一図】雁金屋うねめ「名はそれとしらすともしれ猿沢の/あとを鏡か池にしつめは うねめ」2ウ3オ

【口絵第二図】久米平内左衛門・三浦屋薄雲「我袖の蔦や時雨てむら紅葉 薄雲」3ウ4オ

【口絵第三図】道哲法師・向坂甚内「俗情原淺薄豈識道心堅到得/成因果方知各一天 巡誉道哲」4ウ5オ

援引書籍目録ゑんいんしよじやくもくろく

          
 昔々物語むかし/\ものかたり そゝろ物語ものかたり
 事迹合考じせきがつこう 江戸名所記えどめいしよき
 江戸咄えどはなし 江戸惣鹿子えどそうかのこ
 いなもの 浅草拾遺物語あさくさしうゐものかたり
 両巴巵言りやうはしげん 箕山大鑑きさんおほかゞみ
 五元集ごげんしう 若菜合わかなあはせ
 諸買物重宝記しよかひものちやうほうき 丸鑑まるかゞみ この類數夲
 たきつけくさ 洞房語園とうぼうごゑん5
 紫一夲むらさきのひともと 菱川師宣繪巻物ひしかはもろのぶゑまきもの
 奥村政信妓像折本おくむらまさのぶぎぞうのをりほん 新著聞集しくちよもんしう
  通計つがう二十餘部よぶ

戲作けさくもと寓言ぐうげんむねとすなれハ。古書こしよひいてその事實じじつのぶるとしにもあらねど。またこれ好事こうず一癖いつへきのみ。古人こじん小説しようせつするに。やゝもすれバ史傳しでん附會ふくわいし。ろうしてしんとなすのたぐひにあらず。かつ文辞ぶんぢ時代じだい錯誤さくごあるはしい用捨ようしやふであやつるもの也。閲者みるひとあやしみ給ふことなかれ。」

巷談坡堤庵總目録こうだんつゝみのいほそうもくろく         全本ぜんぽん三冊さんさつ
  ○黄金こかね長者ちやうじや廓通さとかよひ
  ○浅草あさくさ河原かはら暗撃やみうち
  ○薄雲うすくもねこ
  ○兄弟はらから太刀合たちあはせ
  ○道哲どうてつ垣間見かいまみさか
  ○かゞみいけ辞世ぢせい和歌わか
  ○甚内橋じんないばし仇討あたうち
  ○久米くめの平内へいない左衛門さゑもん誓言ちかごと
目録完」6

巷談坡堤庵こうだんつゝみのいほ巻上まきのじやう

曲亭馬琴戲編 

   黄金こがね長者ちやうじや廓通さとかよひ

いづれの御時おんときにかありけん。武藏國むさしのくに豊島郡としまのこふり渋谷しぶやさとに。渋谷しぶやの庄司せうじ宗順むねまさといふ。いととみたる郷士ごうさふらひありけり。いへ保元ほげん平治へいじ以来このかた数代すだい相續さうぞくし。たから蓬莱ほうらいたまえだつばめやすかひなんど。にもまたまれなるべきを。かずかぎりなく倉廩ぬりこめにおさめたり。まいて黄金こかね弥生やよひ茶〓やまぶきならで。かきするばかりに充満みち/\白銀しろかね師走しはす深雪みゆきならで。のきにもおきあまりつべし。こゝをもてひとなへて。黄金こかね長者ちやうじやとなふ。つま朝霧あさきりよばれて。とし廿はたちのうへをやゝ三ッよつにはすぎず。容止かほばせたぐひ」なきのみならで。心ざまいと怜悧さかしければ。夫婦ふうふむつましきことうをみづとのごとく。一子いつし金王こんわうつけて。はづかに三才さんさいなり。家隷いへのこおほかるなかに。粂平内左衛門くめのへいないさゑもんといふものありけり。もと九州きうしう諸侯しよこうつかへたるが。ゆゑあつて壮年そうねん浪人らうにんし。この五七ねん已前いぜん江戸えどきたり。劍術けんじゆつ指南しなんして生活なりはひとはしたれども。そのさが剛毅ごうきにして。つゆばかりもへつらふことなきをもて。いへきはめまづしかりけり。しかるに渋谷しぶやの庄司せうじは。かれ武藝ぶげい弟子でしなりしかば。その赤貧せきひんあはれみて。近曽ちかころ渋谷しぶや宅地やしきびとり。べちいへをしつらひて。其処そこすまし。よろづ叮嚀ねんごろ扶持ふちしけり。この平内へいない武藝ぶげいひいでたるはいふもさら也。膂力ちからまたひとに」7 すぐれ。石平せきへい道人どうじんもんあそびて。二王にわう坐禅ざぜん法術ほふじゆつさへたり。さるによつて。庄司せうじ平内へいないいへ老黨おとなよりもたのもしく思ひて。なほ師のれいつくし。心くまなく款待もてなすにぞ。平内へいないもふかくそのめぐみ感激かんげきしてまめやかにつかへけり。このころ浅草あさくさ郷内ごうない三谷さんやといふところに。遊女うかれめちやうどもあまたのきをならべたり。三谷さんやはいにしへ三谷戸みやとといふいま浅草川あさくさかは宮戸川みやとかはといふ。三谷みやみやよみおなじ。後世こうせい字音じおんとなへ三谷さんやよびまた山谷さんやともかけり。このへん花川戸はなかはど古名こめい舩川戸ふなかはどなどとなふるところあるをもてしるべし。さて彼此をちこち風流士みやびを交加ゆきかひするを三谷さんやかよひといふ。[今この妓院きいんなしといへども。なほ三谷さんやかよひととなふることは。古言こげん餘波なごりなるよし。昔々むかし/\物語ものかたりにいへり]その為体ていたらくいまとは大にことかはりて。美男びなん
【挿絵第一図】8ウ9オ
ならざるものゝ花街さとかよひするはまれ也。しかるべき艶冶郎ゑんやらう彼処かしこいたらんと思ふのはじめ。へだてなきとも功者こうしやなるに。意気地ゐきぢ傳受でんじゆし。小袖こそではかまたちなど。もつはら時勢粧いまやうつくし。よき伽羅きやらをもとめてたきこめ。もののいひざまたちふるまひなども。そのともがらわらはれじとするほどに。稽古けいこあはひあるひつきあるひ半年はんねんおよび。しかしてのちそのともみちびかれて。彼地かのちいたるといへども。いまだ遊女うかれめばず。かくすること数遍あまたゝびにして。いよ/\風流みやび藪澤さとおもむきし。さてはじめてあそびにあひしとぞ。このゆゑぜになき人のくはだておよぶべきにあらず。人その衣裳いしよう花美くはびなると。ものゝいひざまの風流みやびたるをもて。何がしは三谷さんやか」9 よひするならんといひあへりしとかや。すべてそのころの武士ぶしは。みちをゆくにはかまのそばたかくとりてひざをあらはし。膝頭ひざがしらしたには。かみ三角さんかくをりまきつけるを。三里さんりかくしといふ。これやいとあとをかくす也。かみ立髪たてかみ巻立まきたてそのこのみにまかし。ひたひ立派りつぱぬいて。なが両刀りやうとうよこたへ巻羽織まきはをりとて。羽織はをりのさがりをまへにてむすびあはし。遊里ゆうりにかよふ人は。ます/\かひ/\しく出立いでたつなり。こは何故なにゆへぞといふに。たかきいやしきも。をとこ柔弱じゆうじやくなるをはぢとし。途中とちうおいていかなる椿事ちんじ出来いできたらんとき。はしりまはりに便たよりよくせんがため也。ことさら柳巷くるわ繁花はんくは魔処ましよにて。ゆくもかへるも夜道よみち」をもつはらとすれば。つねよりもなほ一際ひときわたけ出立いでたちけり。[以上昔昔むかしむかしの物語ものがたりせつなりようつむ今もまれ菱川ひしかは師宣もろのふふでに。そののこれるを見ることぞかし。又山谷さんやかよひするものふねらずかごらず。おほくはうまにてかよへり。これを土手どてうまといふ。若菜合わかなあはせ嵐雪らんせつひやう其角きかくが。

  土手どてうまくはんを無下むげ菜摘なつみかな。

といへりしはこれ也。その花馬はなうま日夲橋にほんばしより三谷さんやまで。口附くちつき馬士まごあるひ二人ふたり。或は一人ひとりみちすがら小室節こむろぶしうたふ。駄賃だちん馬士まごおほきすけなきとによつてさだめあり。うまは人/\白馬しろうまもとむ。このときの流行はやり小唄こうたに。はるいとゆふわけてやなぎ手折たをるはたれ/\ぞ。しろうまにめしたると」10 のごよな。とうたへり。すべていろしろきをよしとして。白〓組しらつかくみなどいふ侠者きやうしやさへあり。ゆゑうま白馬しろうまめでおもへり。[以上諸説しよせつをならべせうす]妓楼ぎろうたゝるもの。西田屋にしたや庄司せうじうぢ三浦みうら兵庫屋ひやうごやともへ雁金屋かりかねやなんど。あそびには勝山かつやま高尾たかを薄雲うすくも高橋たかはし定家ていか吾妻あづま奥州おうしう大鑑おほかゞみまた両巴巵言りやうはしげんにくはし]枚挙かぞへあぐるいとまあらず。たゞしこの名目みやうもく初代しよだい二代にだい三代さんだいあり。音曲おんきよくは。まづ浄瑠璃じやうるり虎屋とらや永閑えいかん近江あふみ語斎ごさい説経せつきやうには村山むらやまきん太夫。大坂おほさか七郎しちらう太夫だいふ[惣かのこに出たり]うた隆達節りうたつぶし[これをなげぶしといふ]籠斎節ろうさいぶし土手節どてぶし籬節まがきぶし。いなものぶしなど。なほくさ/\あるべし。間話むだはなしはさておく。渋谷庄司しぶやのせうじいまこの泰平たいへいときうまれあひ。よはひさへなほわかくて。財宝たからことに」しあらねば。一たびは風流みやびたるあそびをもして。老後ろうごかたりくさにせばやとて。ある浅草寺あさくさてら観世音くわんぜおんまふでたるかへさ。三浦みうら薄雲うすくもとかいへる遊女うかれめにあひそめしより。はなあしたゆきゆふべをりにふれてかよひかずもかさなりぬ。薄雲うすくも冨人とむひとにしもめづるにあらねど。庄司せうじ男風流をとこぶりの人なみにすぐれて。そのこゝろざしまたこえたれば。いとにくからずもてなして。川竹かはたけあさながれに。ふかこゝろそこさへうちあかし。比目ひもくちぎり連理れんりまくらをならべ。あかわかれにあかつきかねうらむるもせつなり。かゝるすぢにまことあるはいとまれなれば。ねぐらとり八声やこゑをとゞめて。けたなるかひこうみぬべき。しかあれど庄司せうじつまは。いさゝかも」11 ねたみのこゝろなく。風ふかば沖津おきつしらなみえいしけん。いにしへのかしこをんなにもまさりてゆれば。をとこもさすがにはぢて。いよ/\つまにもまめやかにぞありける。かの薄雲うすくもは。年来としころ一ッの牡猫をねこかひて。これをあいすること人のおやをおもふにことならず。いづるにもかいもていだきて。つかもそのほとりをはなつことなし。さればひと女三によさんみや故事ふることさへ思ひいでかれ渾名あだなして猫児ねこといふ。俳諧師はいかいししん其角きかくが。
 京町きやうまちねこかよひけり揚屋町あげやまちといへりしはこれが事也。三浦みうらいへ京町きやうまちにありし。ゆゑに京町きやうまちねことはいへり。この遊女あそび全盛ぜんせい
【挿絵第二図】12ウ13オ
たぐひなかりしほどに。とし花紫はなむらさきといふ阿曽比あそび衣服いふく模様もやうおほひなるねこをつけたり。これ薄雲うすくも全盛ぜんぜいしたふもの也。[この奥村おくむら源八げんはち政信まさのぶ妓女合ぎぢよあはせ折本をりほんに見えたり花紫はなむらさきぢやうもんはむかふうめ也]かゝりしほとかのねこも。よくしゆうなれて。常住坐臥ぢやうぢうさぐわそのもすそにまつはる為体ていたら。あまりにあやしく見ゆれば。人みな薄雲うすくもねこつかれたりといひのゝしをりしも。薄雲うすくも懐胎みごもりてけり。よつてますます風聞ふうぶんたかくなりしかば。渋谷しぶやの庄司せうじつたへきいて。いとあさましくおぼえ。これよりのち不通ふつ交加ゆきかひせず。薄雲うすくもあまた嫖客まれびとあれども。誠心まごゝろもてあふ人は。庄司せうじのみなれば。かねてより。わがにかゝる事あり。こはまつたきみなり。うみおとしなばよきに〓育はぐゝみ13 給はるべしとて。ひそかきこえおきたりしに。いまははや臨月りんげつもやゝちかづきぬれど。たえ音耗おとづれなければ。心のうちふかく不審いぶかしみ。すぎにしはるゆめにして。人の心に秋風あきかぜのたつことは。かくもはやきかとうらみながら。明白あからさまには人にかたらず。かたしくそでなみだひたして。思ひの心くるしきさへあるに。主人あるじ老女おうなをもて。なんぢはらなるちゝたれなるぞ。ませる嫖客まれびとに心あてありやなどとはるゝもいとかなしくて。この事はつや/\思ひわきまへはべらずとのみ回答いらへて。何事もいはず。さてつきみちやすらかによろこびせしが。うまれ出たるは男子をのこゞなり。にある人は氏族うから親族やからつどひて。さゞれいしいはほまでもとことぶくべきに。」遊女うかれめうめるは。いとはぢ也。とわれも思ひ。人もあやしむめり。さるあひだ庄司せうじにかくと書簡ふみにしらして。情由ことのよし訴知つぐるさへ。ふでもあやなく見ゆめれど。庄司せうじはます/\気疎けうとく思ひて。果敢々々はか%\しく回答いらへもせざりければ。たとひわが身にさゝやかナルあやまちありとも。ちかひしことをあだにして。その事はつゆばかりもきこえ給はず。かくも強面つれなきはいかにぞや。元来もとよりうとまるべきおぼえそなし。こは嫡室ほんさいねたみふかきにおそれ給ふものまた遊女うかれめをうませたりなどいはれんをいとひ給ふかとて。とさまかうさま思ひやるほどおぞましくもあぢきなくて。ひるさへもゆむねの。よしやわがきゆるとも。このうらみひとたびきこえでやはと」14 憤激ふんげきし。すこ肥立ひだちのち頃日このころぐわんほどきに。浅草寺あさくさでら観世音くわんぜおんまふでみちついでにゆくべきところもあればなどいひこしらへ。心しりたる老女おうなと。妓有ぎう〈○ワカキモノ〉をとこたゞ二人ふたりて。淺草寺あさくさてらまふづるにも。いとゞしく心いそがれ。ひそか渋谷しぶやおもむきて。まのあたり庄司せうじうらみのべんとて。思ひさだめしもあはれ也。

   浅草あさくさ河原かはら暗撃やみうち

こゝにまた鳥越とりこえかたほとりに。向坂こうさか甚内じんないといふ武士ぶし浪人らうにんありけり。その心ざま〓悪かんあくなるものなるが。としなほ三十にもみたず。殊更ことさら婬酒いんしゆたしみ。不義ふぎぜにかすめとりて。糞土ふんとのごとくつかすて。い」ぬるころ薄雲うすくももとにかよひしに。薄雲うすくも渋谷しぶやの庄司せうじこゝろざしはこびぬるをりなれば。たえて一夜ひとよもあはざりける。しかれども庄司せうじ黄金こがね長者ちやうじやよばるゝほどの財主だいじんなれば。甚内じんないこれとはりあふことかなはず。すでぜにつきていかにともせんすべなく。胡慮ものわらひとなりしかば。ふかくうらみいきどほり。他國たこくおもむくとていへをば人にうりわたし。なほところをもさだめず彼此をちこちにかくれゐて。庄司せうじをやうたん。薄雲うすくもをやころさんとて。もつはらその便たよりうかゞふに。庄司せうじひさしく花街さといたらず。薄雲うすくも近曽ちかころ引籠ひきこもりてありときこえしほどに。ちからおよばて黙止もだせしに。この薄雲うすくも浅草寺あさくさてらまふづるよしをきゝしりて」15 ひそかによろこび。舩川戸ふなかはどのこなた。人家じんかまばらなるあしなかにかくろひて。今か/\とまちたり。とはしらずして薄雲うすくもは。心いそがはしければ。河原かはら好景よきけいにもをとめず。てらいで河原かはらつたひに。西南せいなんさしてたどりゆくを。甚内じんないはすこしすぐして。あししげみより。跳出おどりいでかたなひらめかしてうつてかゝれば。妓有ぎう老女おうな阿呀あゝとばかりおどろおそれ。いのちかぎりににげたりける。薄雲うすくもみちよこぎりてはしさけんとするを。甚内じんないはやくおひとめて。かたさき四五すん切著きりつくれば。薄雲うすくも一声ひとこゑさけびて。のけさまにたふるゝを。おこしもたてずのりかゝりて。むねのあたりをさゝんとす。薄雲うすくもさゝれじと。黄金こがねの」かんざしぬきもつて。甚内じんないひだりみゝをしたゝかについたりければ。耳垂房みゝたぶつきぬきて。いづることおびたゞし。さるほど二人ふたり男女なんによは。にげつゝもいへあるかたにむかひ。ぞくひとをころすあり。とくいであひ給へとよびたつれば。里人さとひとに/\ぼう引提ひつさげ走出はせいでたり。甚内じんないはこの形勢ありさまを見て。とゞめのかたなさすおよばず。何地いづちともなく脱去にげさりぬ。さて老女おうな妓有ぎうは。里人さとびととゝもに。薄雲うすくも扶起たすけおこして。さま%\にいたはるに。きずさいはひ灸処きうしよはづれたれば。いまだなず。さはとてひとはしらせて。妓院さと縁由ことのよしつげしらすれば。ときうつさず三浦みうら家僕かぼくかごかゝして出来いできたり。やがて手負ておひ扶乗たすけの16 し。さと人にあつしやして。いたはかしづきつゝ立帰たちかへれは。主人あるじさきより門方かどべ立望たゝずみて。かごなからうち擡入もたげいれさせ。俄頃にはか醫師くすしびて療治りやうぢもつはら心をつくし。この日附添つきそひてゆきたる老女おうな妓有ぎうびて。縁故ことのもととふに。二人ことをひとしくしていふやう。ぞく頭巾づきんをもてふかくつらつゝみ不意ふゐよしうちより跳出おどりいでたれは。何人なりとも認得みとめえず。まいていかなる意趣ゐしゆありて。刃傷じんじやうにおよびしにや。さらかんがふるところなしとこたふ。かくてはあたをしるべきがゝりもなし。こはまつた薄雲うすくも遺恨いこんあるにはあらで。ものをとらんためにやあらん。とかく薄雲うすくもか」
【挿絵第三図】17ウ18オ
【挿絵第四図】18ウ19オ
きず平愈へいゆするののち。しづやかに問考とひかんがへなば。事おのづからしることもあらんとて。ます/\看病かんびやう等閑なほざりならずぞもてあつかひける。かくて薄雲うすくもきずは。日をおふすこいえなんとすれば。人みなよろこびあひぬれど。そのはこゝろ鬱々うつ/\としてたのしめる気色けしきもなく。あるひとしづまつのち畜猫かひねこのこのころやまひゆからず。ものをもはか/\しくはで。いとうれふるがごとく。このしゆう枕方まくらへにありけるを見かへりて。なんぢ年来としころよくわが心をしりて。いふことをもきゝわくるなるに。いまきこえおくことを。よくなしてんや。わが去年こぞはるより。黄金こがね長者ちやうじやなれまゐらせ。まで」19 うみたる誠心まこゝろは。彼人かのひとならでたれかはしらん。しかるになかぞらにとほざかり給ひぬか。うらみのかず%\は。ことにつくすべうもあらねど。まのあたり思ふほどきこえて。ちご逓与わたし。わが随意まゝになるをまちて。あまともなるべくおもひさだめ。いくそばくその心をつくし。ひそか渋谷しぶやのおもむかんとする途中とちう。わが忽地たちまちきづゝけられ。いのちさへあやうかりき。そのときあたを何人ともみとめねど庄司せうじきみひとめいじて。かくはからせ給ふかとおぼし。つら/\縁故ことのもとかんがふるに。わがなんぢ鐘愛ちやうあひし。なんぢも又われをしたふことのふかければ。の人いたくあやしみて。あらぬ事さへいへりしとぞ。」わがもをさ/\このことを。いとくちをしくは思ひながら。まつたねたむものゝ讒言さかしらことなれは。たれとがむべきやうもなくてすぎつるが。もし庄司せうじきみ。このこと傳聞つたへきゝ畜生ちくしようはらめるかと思ひあやまりて。ふかくもうとみ給へるもの。又嫡室ほんさいのものねたはなはだしくて。かよひせきすえ。あはせぬかの二ッをいづべからず。われなんぢあいするゆゑに。情郎おもふをとこうとまるゝならば。なんぢおんうけほうずるに。あたをもてするにあらずや。いろうりこびひさくなる遊女うかれめの。きずをつけられてはぢはぢをかさねたれば。とても存命ながらへはつべきとは思はず。わがなからんのちに。なんぢかのきみいへいたり。わがけがされたるを」20 すゝぎ。きよこゝろざしのほどをしらせよかし。わがちゝあれども。おさなときわかれまゐらせてより以来このかた。たえてたよりもなし。今この事をゆだねんもの。なんぢならではありともおぼえぬに。よう心をよかしとかき口説くどくも。さながら人にものいふごとく。なみだむねのみふたがれと。人にきかれじとすればこゑをだにたてず。たもとかほおしあてゝ。しばしなきしづみけるにぞ。ねこたゞかうべたれて。もろともになみださしぐみけり。さてはいひつる事をきゝわきたりと思ふに。いとうれしくて。しのび/\に書写かいしたゝめたる一封いつふうをとりいでて。ねこ首環くびたまむすつけしかば。ねこはいと名残なごりをしげにて。たかく」なきつゝ外面とのかた走去はせさりぬ。薄雲うすくもはこの景迹ありさまを見て。今はこゝろやすしとて。用意ようゐ剃刀かみそりうちぎそでしかまきそえ。すで咽喉のんどをかきらら(ママ)んとすれば。なまじい嬰児みどりご面影おもかげさへえて。覚期かくごきはめしこぶしたゆみ。思はず撲地はた轉輾ふしまろびしが。うちおどろきておこし。さてもわが果報くわほうなきものかな。由緒よしある人のたねにはあれども。ちゝともなか簑虫みのむしの。なみだあめにそぼぬれて。あきほたるきえてゆく。はゝかほだにみしらぬはしに。死別しにわかれする不便ふびんさは。うしともしやうかれの。わかれといふは後朝きぬ/\に。うらみしかねもけふはまた諸行しよぎやう無常むじようにぞしる。親子おやこちなみ。うす」21 くもくらきにまよゆゑのやみは。真如しんによの月もいてやらぬ。けふ晦日つこもりめい日とは。のちにしりてぞなけくべき。と思ふほど顕身うつせみの。いきうちなるつかも。名残なこりをしやいとしやと。心のかぎりこゑたてて。なかぬはなくにいやましたり。これさへ今般いまはまよひぞ。と思ひかへしてまなことち念佛ねんぶつへんばかりとなへつゝ。忽地たちまちやいはめいたちて。あかつきともしびとゝもにきえにけり。享年きやうねん廾一才なり。天明よあけのちに人はしめてこれをしり。しきりおとろきさわぐといへどもすて縡切こときれたれば。いかにともせんすべなく。主人あるじ千々ちゞ黄金こかねをうしなへる心持こゝちしつ。したしきもうときも哀悼あはれみいたみて。そも何事のありて」
【挿絵第五図】22ウ23オ
かいしたるかといぶかしめど書遺かきのこせしものなければ。縁故ことのもとしるべうもあらず。元来もとより薄雲うすくもおや兄弟はらからさへあることをきかねば。のちの事も。主人あるじよりよきにはからひて。榧寺かやてらとかいふ蘭若みてらほうふりて。跡叮嚀ねんころとふらさせけり。しかるに浅茅あさぢはら小七こしちといふもの夫婦ふうふみてかみすき活業なりわひとせしが。つま小妙をだへといふ。女児むすめひとりもちて。今茲ことし五才こさいになりぬ。きはめまづしきものなるに。かの小七ひさしくやみて。いかにともすべなけれは。夫婦ふうふ談合だんかうして女児むすめ三浦みうらいへりて。かね五両ごりやうあまりをたり。小七がちごはなほいはけなけれども。こゝろざま」23 怜悧さかしくて。容止かほばせ尋常よのつねすぐれて見ゆれば。これ時雨しぐれづけて薄雲うすくもあづけたりしに。いまだいくばくならで。薄雲うすくもまかりしほどに。時雨しぐれはいたくうちなきて。哀慕あいぼやるかたなかりけり。こは日来ひごろ薄雲うすくもが。かれめづること。のごとくしたりしかば。おさなごゝろにも。そのめぐみかんじてうちなげくめり。しからばなきひと調度ちやうどなどは。時雨しぐれにとらせよとて。これがはゝ小妙をだへよびて。縁由ことのよし説示ときしめしし。薄雲うすくも手道具てどうぐのこりなくあたへける。小妙をだへむさぶりあくことをしらざるものなれば。いま薄雲うすくも横死わうしして。おもひもかけずとくつきたるをふかくよろこび。両三りやうさんねんはこれを賣食うりぐひにして。そのをおくりしが。時雨しぐれ八九さいおよびては。みがゝざるたまのやうやくひかりをあらはすがごとく。かんばせとし%\にうるはしくなりにければ。小妙をだへははじめはづかなる身價みのしろて。かれ手放てはなしたることをくひて。をり/\三浦みうらいへいたり。小七こしち長病ちやうびやうかはりして。看病かんびやうするものゝなきをなげき。もと身價みのしろつくのひはべらんに。あはれ時雨しぐれをかへしさせ給へとてかき口説くどきぬ。主人あるじもはじめのほどは。たえて承引うけひく気色けしきなかりしが。あまりにかこたれてやむことをず。身價みのしろ五両ごりやうかへいれさせて。時雨しぐれの」24 いとまとらせけり。小妙をだへはかくたばかりて。時雨しぐれてかへり。一両いちりやうげつをおきて。ふたゝび堺町さかひまち雁金屋かりがねやへ。三十りやううりしとぞ。三浦みうらのちにこの事をしりて。ふかくいきどほるといへども。もと身價みのしろつくのはせたれば。明白あからさまとがむることあたはず。時雨しぐれ成長ひとゝなるのち全盛ぜんせいたぐひなく。雁金屋かりがねや畷女うねめよばれしはこれなり。

巷談坡堤庵巻上畢

巷談坡堤庵こうだんつゝみのいほ巻中

曲亭馬琴戲編 

   薄雲うすくもねこ

渋谷しぶやの庄司せうじ宗順むねまさは。薄雲うすくも横死わうしせしをしらず。ある浅草寺あさくさでら参詣さんけいしたりけるに。日来ひごろ相識あひしれる柳巷さとの何がしをとこゆきあひて。薄雲うすくもうみし事。かつ自害じがいしてうせたる首尾はじめをはりつまびらかきゝおどろあやしみ。さすがにあはれみおもひて心たのしまず。やがて家路いへぢおもむくとて。榧寺かやてらのほとりをよぎるとき。何となく川風かはかぜはだへおかすとおぼえしが。たちかへりてより心持こゝちいとなやましく。假初かりそめにうちふしてながくまくらあがらず。醫師くすしをえらみ。張氏ちやうしろんずるところ。孫氏そんしが」とくところ。陰陽いんよう補写ほしやじゆつつくすに。衆議しゆぎまつた鬼病きびやうなるべしと一決いつけつして。鬼邪きじや十三けつはりさし。湯藥とうやく醫論ゐろんしたがつて。方劑ほうざいさだむといへども。針灸しんきう藥餌やくじもそのかひなきがごとく。顔色がんしよくやうやく憔悴せうすいす。つま朝霧あさきりはいふもさら也。闔宅やうち奴婢等ぬひらいたるまで。やすき心もなく。日に/\氷川ひかは神社やしろ渋谷しぶや八幡はちまん参詣さんけいし。家公あるじ病痾やまひ平愈へいゆいのるのほか他事たじなし。こゝに久米くめの平内へいない左衛門さゑもんは。はじめより庄司せうじ病体びやうていをいと不審いぶかしくおもひしが。そのかたはらに人なきをりうかゞひ。ちかくひざをすゝめていふやう。このごろきみ夜毎よごとおそはれ給ふを見れは。醫師くすしかんがへ申すにたがはず。」1 こはまつた鬼病きびやうなるべし。たとひいかばかりあやしき事ありとも。われにはかくし給ふべきにあらず。心におもふかぎりをは。かたり給へかしといへば。庄司せうじやゝまくらもたげて。げにいはるゝごとく。わが心持こゝちあしかりつるその日より。夜毎よごとあやしきものを見て。心はなはだおだやかならず。このことつまにも明白あからさまつげがたきをもて。けふまでは黙止もだせしなり。そはかゝるすぢなりとて。薄雲うすくもうとくなりし始終はじめをはりものがたり。さていふやう。われかれ自害じがいせしともしらで。いぬる日浅草寺あさくさてらまうでしとき。人にその事をきゝて。何となくあはれにおぼえてより。俄頃にはか心持こゝちあしうなりて。つや/\ねふること」なし。ことあやしきは。人定ひとしづまつのちかの薄雲うすくもな/\わが枕方まくらべて。通宵よもすがららず。こなたを見つるまなこひかりも。ありし面影おもかげにはことにして。その竒怪きくわい言語ことばをもて説盡ときつくすべうもあらず。われなかぞらにしてかれうとくなりゆきしは。養猫かひねことあやしきのたちたるをにくみてなれど。こは世の人の流言わざことにて。そのおいておぼえなければ。かへつてふかくわれをうらみみ。自害じがいしてうせたるものまた面目めんもくなくてやいばしたるものいまにしてはます/\暁得さとりがたし。よてわが病源やまひのみなもと薄雲うすくも寃鬼ゆうれいのなすところといへども。つまにしらせんもおぞましければ。心ひとつ」2 に思ひくしたる也。さていかにしてこの陰鬼おに退しりぞくべきといふ。平内へいない左衛門さゑもんつく/\ときゝて。人するときは三こんてんし。六はくし。きえ一物いちもつのこすなし。たとひは。きえあとなきがごとし。しかれども女子ぢよし小人しようじんたま/\臨終りんじう執着しうじやくして。悪念あくねんひくときは。しばら凝滞きたいして銷鑠せうれき〈○キエヌ〉せず。是亦これまたくさきものをたくに。そのものはひとなれども。嗅気しうき暫時しばらくのこるにたり。さはあれしたるものゝふたゝかたちをあらはして。人にまみゆべきことわりなし。ひとしてかたちすで腐爛ふらんすなるに。むくろにかけがえなくば。いでて人にまみゆることなしがたからんそれ鬼神きしんかたちなし。輪廻りんゑせつ浮屠氏ふとし誣言しひごとのみ。薄雲うすくも寃鬼ゆうれいは。きみ
【挿絵第六図】3ウ4オ
がこゝろよりしようじて。きみ眼中がんちうにあり。これむかしやむもの。てん仰瞻あほきみるに。かならずはなを見るといふがごとし。はなじつてんにあるにあらず。やまひのいたすところ也。きみ薄雲うすくも給ふも。又しかり。くらきものゝさとるべきにあらねば。亡者もうじや人間にんけん往来わうらいするのだん公然こうぜんとしてうたがはず。もつとも一笑いつせうはつするにたえたり。心易こゝろやすかれ、それがし今夜こんやその病根びやうこんのぞき候べしといふに。庄司せうじ大によろこびて。ひそかにその事をしめしあはし。この平内へいないは人にもしらさず。庄司せうじよぎすそかくして。時刻じこくをまつに。とほ寺々てら/\かねかすかきこえ。やゝ丑三うしみつとおぼしきころ。薄雲うすくも姿すがた忽然こつぜんとあらはれて。庄司せうじ枕方まくらべ4 にあり。その形容さまたけなる黒髪くろかみをふりみだして。ゆきよりしろ無垢むく小袖こそでもすそき。むねのあたりよりしたゝながるゝ鮮血ちしほは。負丘ふきうやまにありといふ。赤泉あかきいづみことならず。しばしまなじりをかへして庄司せうじ疾視にらみ。又〓然さめ/\とうちなきけり。そのときつま朝霧あさきりと。看病かんびやうしたる奴婢等ぬひらは。屏風びやうぶのあなたに睡輾ねふりこけ前後ぜんごをしらず。平内へいないしきりねふりもよほすを。みづからこゝろざしはげまして睡魔すいま退しりぞけつゝ。今この景迹ありさまをよく/\見究みきはめ。岸破がは反起はねおき無手むづ引組ひつくみうへしたへといどみしが。平内へいない膂力ちから尋常よのつねすぐれたれは。つひ妖怪ようくわいをとつておさへ短刀のだち引抜ひきぬき数回あまたゝびさすほどに。やうやくよはりてうごず。みなみなこの胖響ものおとにはじめてさめ。こは何事ぞとさわきまどふに。ともしびこと%\くゆりしてもの善悪あやめもわかたねば。とかくしてふたゝびともして見るに。思ひもかけず平内へいない妖怪ようくわい刺留さしとめてありしかば。ます/\おどろあやしみて。さらくちひらくものなし。平内へいないはしづかにさしとめたるものを引起ひきおこすに。薄雲うすくも幽霊ゆうれいと見えつるは。大なるねこなりけり。庄司せうじはこれを見て。ふかく平内へいない智勇ちゆう賞嘆せうたん〈○ホメル〉し。かばかりのものに。ひさしくなやまされたるこそ安からねといふに。朝霧あさぎりさらこゝろず。あやしみおそれてそのゆゑとへは。平内へいない首尾はじめをはりとくこと一遍いつへん庄司せうじいまつゝむたへず。薄雲うすくも近曽ちかごろうみたる事。又自害じがいしてうせたる事。かつ5 頃日このころ如此々々しか%\ものありしを。かの遊女うかれめあたするよと思ひつるゆゑに。たえてつぐることもなかりけるに。粂氏くめうぢ勇力ゆうりきによつて。その寃鬼ゆうれいならざるをしれりとて。ありし事どもをものかたるに。朝霧あさきりはふかく薄雲うすくも横死わうしをあはれみ。遊女うかれめにしてうめは。ちゝさだかにさしがたかめれど。きみ恩愛おんあいこまやかなりし事は。わらはもをさ/\しりてぞはへる。しかるを忽地たちまちうとみ給へば。いかてちとうらみなるらん。このあやしみにあひ給ふも。ふかきゆゑこそあらめとて。只顧ひたすらくひかこてば。闔宅やうち男女なんによその事をきゝて。駭然がいぜんとしてしたふるかほうち見あはするばかり也。しかるに庄司せうじは。重病じうびやうとみいえて。心持こゝち
【挿絵第七図】6ウ7オ
清々すが%\しくなりしかば。やをらおこして。しゝたるねこをよく/\つゝ眉根まゆねをよせ。あやしきかなこのねこは。薄雲うすくもめでやしなひたるものにつゆたがはず。しかもその首環くびたまに何やらんつけたるあり。ときて見給へかしといへば。平内へいないはじめて心つき。いそがはしくとつ朝霧あさきり逓与わたすを。ともしびにさしよせて熟視つら/\みれば。うへかきおきとしるしたるにぞ。いよ/\不審いぶかしみて。まみれしをやぶらじとてしつかにうちひらきてむに。いたましきかな。薄雲うすくもをはりのぞみ書遺かきのこせし。水莖みづくきあとにして。はじめにはあぢきなきをかきつらねなかころには庄司せうじ薄情はくじようをうらみ。きみ誓言ちかことあたなるより。われに誠心まこゝろな」7 しとやし給ふ。かくまでうませ給ひしを。よそに見給ふは。こゝろきたなし。ちごちゝたれなりや。きみこそよくしり給ひけめ。さめぬまくら秋風あきかぜのたてはにや。尾花をはながすゑもまねきつくせど。たえて見かへり給はぬは。あさはかなる流言わさごとを。實事まこときゝいみ給ふか。さなくはうち物妬ものねたみに。ゆびくはれんかとおどろ/\しくて。なさけなくすぎ給ふなるべし。遊女うかれめまことなしといふは。わけだにしらぬむくつけ人のいひそめたりけん。嫖客まれびとにぞ虚言そらことはおほかめれ。とてもかくてもうらみのかず%\。ふでには筑波つくばみねよりたかく。みなの川のそこはかりしらすべうもあらねど。なまじいうみたるは男児をのこゞにて。面影おもかげもよく」きみはべるなるを。明白あからさまに人にもつげざりし。心くるしさ。いかにあらんかとおもひ給へる。かれまたはゝありてちゝなくは。ものごゝろしりてののちは。さそなかなしうはべるべし。ひとたびまみえまゐらせて。このうらみをもきこえ。ちごきみ逓与わたしまゐらせて。わがはともかうもなりなんと思ひさだめ。神詣かみまふで假托かこつけて。きみ住家すみかへとておもむをりしも。きみはやくもこの事をしりて人をかたらひ。わがをうしなはんとし給ふこそ。しうねくもいとおそろし。わらはが太刀たちをつけられしときかうがいもてその人のみゝ突破つきやぶりたる事など。よくしりておはすべければ。くはしうは申さず。このころ家公あるじ叮嚀ねんごろに」8 いたはりたまはして。きずなまじいいえなんとはすなれど。わが數遍あまたたびはぢせられ。あまさへ身体みのうち太刀たちあとつけられて。かれこそ如此しか如此じか女子をなごよと。いはれんもおもなきに。なでう存命ながらへはべるべき。よていま畜猫かひねこ一封いつゝうをよせまゐらせて。おもふ事の十が二二(ママ)きこはべり。しようあるものとてねこだにも。おんかんじてはしゆうわかれかなしみ。いふことをさへきゝわきて。かく使つかひはべるものを。きみ怜悧さかしきこゝろをもて。いかでか是非ぜひまどひ給ふべき。わが申つるを道理ことはりとも思ひあはし給はゞ。嬰児みどりこやしなひとり。成長ひとゝなら法師ほうしとなしてはゝ菩提ぼだいはし給へかし。申さん事はこれのみならねど。なみだの」つゆもおきあまる。死出しで道芝みちしばいそがれて。ふでのはこびもあやなきを。よきにさつし給へかしく。とかきてそのおくに。
  わがそでつたやしぐれてむらもみぢ。
かきとゞめたるは。やいばしておもひのぶ末期まつご一句いつくとしられたり。朝霧あさぎりこれらをよみをはり。いたくうちなきをつとに見すれば。庄司せうじも今さらにむねさへさわぎて。やがてそのふみをまきかへしてよみくだち。哀悼あいたうなみだきんずることあたはず。まことにわれおもひあさくして。よくその事を聞定きゝさだめず。うとんとほざかりて一言ひとことつうぜざれは。かれいたくうらみいだきて。しゝたるを。いかにくゆるともおよばねど。人を相語かたらひころさんと」9 はかりしなどいはれん事。いとくちをし。さていたましき事かなとて。慚愧ざんき〈○ハヂイル〉してやまざれば。朝霧あさきりはいよゝいたくかなしみて。はふりおつなみだをかきぬぐひ。今このふであとを見れば。わが物妬ものねたみのふかきゆゑまでうませ給ひし人を。わりなくあはせざりけるかと。うたがはれしこそあさましけれ。白銅鏡ますかゞみくもらぬ心はわがつまも。よくしろしめすべけれどその人すでしたれば。いかにいひとくとも。人口じんこうおほひがたく。草葉くさばかげにてなき人に。うらみられんもむねくるし。たゞこのうへは薄雲うすくもうめりしちごやしなひとり。成長ひとゝなるのちいへつがして。わが誠心まごゝろをもしらし給へ。わらは又としいつくしみ。あらきかぜに」
【挿絵第八図】10ウ11オ
あてじとて。かき口説くどきつゝよゝとなけば。平内へいないたなそこちやううちいま縁故ことのもとかんがふれば。薄雲うすくもうとまれまゐらせしも。このねこゆゑなれば。かの畜生ちくしよう心ありてこれをくちをしく思ひ。しゆうのぬれきぬほさために。おのれ薄雲うすくも寃鬼ゆうれいへんじ。庄司せうじぬしをなやまして。そのころし。つひに人をかんうごかして。しゆう宿意しゆくゐはたせる事。人間にんげんかへつおよぶべからず。鳴呼あゝちうなるかななるかな。こは/\不思議ふしぎ因縁いんえんなりとて。しきり嗟嘆さたんしたりければ。庄司せうじもふかく後悔こうくわいし。ねこをは薄雲うすくも菩提処ぼだいしよなる。榧寺かやてらおくりてうづめさせ。あまた施物せもつをおくりて。薄雲うすくも追善ついぜんし。又ねこためにもきやうよませけるとぞ。いまなほ彼寺かのてらに」11 猫塚ねこつかありといふ。さるほど庄司せうじ夫婦ふうふは。粂平内くめのへいない相語かたらひて。三浦みうらいへに人をつかはし。薄雲うすくもうみたるちごやしなひとりて。これを瀬太郎せたらうづけ。〓子うひこ金王こんわうおとゝ披露ひらうして。乳母めのとおき養育はぐゝむに。朝霧あさきり太郎を愛慈めでいつくしむこと。うみなる金王こんわうにもまさりしかば。奴婢ぬひもおのづから等閑なほざりならずおもひて。おもうやまかしづきける。

   兄弟はらから太刀合たちあはせ

かゝりしかは光陰くわういんはやくすぎて。金王こんわう十一才瀬太郎せたらう九才になりぬ。ちゝ庄司せうじ薄雲うすくも遺言ゆいげんにまかし。太郎をば。久後ゆくすゑ法師ほふしに」せんと思ひしほどに。手習てならひ学問がくもんのみををしへ。金王こんわうをは平内へいない左衛門さゑもんあづけて。もつはら武藝ぶげいをならはしけるを。つま朝霧あさきりは。そのこゝろざしをつととはことにして。太郎に實母じつぼあたうたし。又いへをもつがし。金王こんわう出家しゆつけさして。薄雲うすくも菩提ぼだいとはせ。わがきよき心のうちを。なき人にもしらせばやとおもひて。をり/\此事このことをつとに申すゝめ。平内へいないにもたのみきこえて。金王こんわうともろともに太郎に武藝ふげいをならはしける。さればかの兄弟きやうだい太刀たちあはし。まとたるところを。今も禿山かぶろやまといふ。こははらはべのつどひたるところなればなるべし。又日毎ひごとうまはしらしたるところを。駒牽澤こまひきさはとなへて。いま渋谷しぶやに」12 ありとかや。これさておき金王こんわう瀬太郎せたらうは。ぶんまなならひ。はるくれあきすぐして。あには十九おとゝは十六才になりぬ。太郎はその面影おもかげも。よくちゝて。心ざまも尋常よのつねひいでかしこかりしかば。これいへつがすべうもやと思ふに。朝霧あさきり又しば%\太郎を賞美せうびし。あにおとゝはゝこそかはれきみ也。ことさら太郎は才學さいがくあにこへ。又かれには実母じつぼあたあり。何事なにごとの人にはつげざるをもて。わらはをまことはゝと思ふめれど。これを法師ほふしとし給ふ事。大によろしからず。おなじくは金王こんわう出家しゆつけさし給へかしといふに。庄司せうじこたへて。薄雲うすくもきずつけたるものは。たれ也ともしれざるを。いかにして太郎に」あたうたすべき。加之しかのみならずかれはそのにてしゝたるにはあらで。事にせまりて自害じがいせしからは。あたうたずとも。あへ不孝ふこうとはいふべからず。又太郎はいとけきより。實母じつぼのある事をしらせたりしかば。いまなまじひにかゝる事をいひいでんは。うたがひひくなかだちなり。家督かとくさだむることは。なほ折もあるべしと回答いらへける。粂平内くめのへいない左衛門さへもんはやくその気色けしき暁得さとりひそか庄司せうじにいへりけるは。いにしへよりあいおぼれて庶子しよしいへつがし。そのいへ滅亡めつぼうおよびぬる事。和漢わかんためしおほし。金王丸こんわうまるも今はとしころになり給ひぬ。などて家嫡かちやく披露ひろうをし給はざるぞといふ。庄司せうじ點頭うなづきて。われもこの事を思はざるに」13 あらねど。朝霧あさきりがとにかくにこひすゝめて。金王こんわう出家しゆつけさせよといふ。つら/\どもが挙止ふるまひに心をつくれば。金王こんわうさい太郎におよばず。こゝをもて黙止もだせし也といふを。平内へいないかさねて。それおとゝをして。あにこえしむるは。ちゝその無礼ぶれい非義ひぎをしゆるる也。かつ長子ちやうしといへども。はゝいやしければ。くだつしんれつつく。これ古今ここん通礼つうれいなり。みづからまどひをとつてあやまち給ひそといさめければ。庄司せうじがいふやう。御邊ごへんのいふところよしといへども。一家いつけ帰伏きぶくせざれば。わざはひしようずるのはしとなるべし。われ近日きんじつ二人ふたりどもが武藝ぶげいこゝろみ。いづれにもあれ。まされるものにいへつがすべし。これ天命てんめいまか」するなれば。たれかうらみたれそむかん。この事については。よろづ足下そくかろうすることあるべしと回答いらへするに。平内へいないはなほあらそいさむることをず。こゝろはて退しりぞきけり。さて庄司せうじつま朝霧あさきりと。二人ふたりどもにも。その事をきこえてさだめ。もつはらくだん用意ようゐをなせり。しかるに朝霧あさきりは。いかにもして太刀合たちあはせ太郎にかたせんと思ひて。ひそか平内へいない左衛門さゑもんまねき。どもらが事においては。よくもあしくも御身が心ひとつもて。ともかうもなりぬべきことぞかし。かねて申しらせつるごとく。いづれもをつとにしあれど。太郎たらう義理ぎりあるなり。かれにははゝあたをもうたして。いへをも」14 つがせざれば。一度ひとたびちかひつる言葉ことば徒事いたつらこととなるのみならず。わらはがきよ胸鏡むねのかゞみも。くまなきかげをうつしがたし。しかあれど。この年来としころ太郎にまことはゝありし事をしらせずして。わがうめるごとくにもてなしたるは。かれなまじい養育よういくおんをおもひ。金王こんわうこえて。家督かとくたらんことをすべきかとて。奴婢等ぬひらにもそのくちふたぎおきしかば。わらはをまことはゝとししたひて。孝心こうしん等閑なほざりならざるも可愛かあいし。御身その日にいたらば。かならず心してようせさせ給へと耳語さゝやきけれは。平内へいない点頭うなづきて。おふせうけ給はりぬ。しかれどもかつまくるてんなりめいなり。人おの/\命運めいうんのよくするところは。人力じんりきに」およびかたからんとぞ回答いらへける。金王こんわうとしこそたけたれ。武藝ぶげい太郎におとりて見ゆれは。奴婢等ぬひら今度こんど太刀合たちあはせには。金王こんわうかならずまけて。おとゝいへつがれ給ふべしとさゞめきあひしとぞ。かくてそのにもなりしかば。渋谷しぶやの庄司せうじ夫婦ふうふは。前栽ぜんさい假屋かりや修理しつらひいへ老黨等おとなら假屋かりやに入り。たかまくをしぼらせたり。その為体ていたらくいとはれがまし。今もそのところ物見ものみだいといふ。さて粂平内くめのへいない左衛門さゑもんは。乳母子等めのとこらとゝもに。金王こんわう太郎をかひがひしく打扮いでたゝせて。ひがしのかたよりは金王丸こんわうまる西にしかたよりは太郎。しづやかにあゆいでかこいのうちに入り。礼義れいぎあつくしてまづ15 こゝろみるに。いかにかしけん。この日にかぎりて太郎がはなまとあたらず。金王こんわう十分ぶん勝得かちえたり。朝霧あさきりはこの景迹ありさまを見て。いと本意ほゐなくおぼえ。こゝろうち神仏しんぶつ祈念きねんして。のち勝負せうぶいかにと見るところに。つぎ馬術ばじゆつたくらべて。その勝劣せうれつこゝろみるに。やゝもすれば太郎がうまはるかおくれて。これさへ金王こんわうおよばず。今ははや太刀たちあはする雌雄しゆうによつて。兄弟きやうだい命運めいうんさだむるなれば。朝霧あさきりはいよ/\やすきこゝろもなく。乳母子等めのとこらたがひこぶしにぎかため。またゝきもせでまもりたり。とき兄弟きやうだい木刀きだちをかけつゝ。やとこゑしてうちあひけるが。一往一来いちわういちらい一上一下いちじよういちげこと%\くそのほうにかなひ。活人くわつにん
【挿絵第九図】16ウ17オ
殺人さつにん向上こうしよう極意ごくゐ。十手裏劍しゆりけんくつほうしんくだいたゝかところに。いかにかしけん太郎が木刀きだち鍔際つばぎわよりほつきとれ。圏子かまへそと跳出おどりいづれば。衆皆みな/\夲意ほゐなき勝負せうぶかなといひあひぬ。朝霧あさきりはふたゝび太刀たちあらためて。雌雄しゆうけつせさし給へとすゝむるを。庄司せうじかうべ左右さゆうふりて。金王こんわうすで弓馬きうば両藝りやうげいかちたり。よしや太刀合たちあはせまくるとも。三ッにその二ッをたれば。甲乙こうをつあきらけし。しかるを太刀合たちあはせまつたくその雌雄しゆうわかたずといへども。太郎が太刀たちれたるはこれてんのしからしむるところなり。もし真劍しんけんならは。いかでか太刀たちかゆるにいとまあらんといふに。平内へいないも」17 のたまところ大に道理どうりかなへり。みな金王丸こんわうまる勝利せうりなりと申せしかば。朝霧あさきりもあらそひこばむことをず。ふかくのぞみをうしなひて。こゝろ鬱々うつ/\とたのしまず。かくて五七日ののち平内へいない庄司せうじ太郎が祝髪しくはつの事を申すゝめ。きみなどてはやく事をなしはたし給はざるとさゝやきけるほどに。庄司せうじげにとうけ引て。道玄坂どうげんさかのあなたに。年来としころ庄司せうじ帰依きえそうありしかば。この聖僧ひじり太郎が剃髪ていはつの事をたのつかはし。袈裟けさ僧衣ころも度牒ど やうなんど。すべての僧具そうぐをとゝのへ。用意ようゐまつたそなはりければ。庄司せうじ太郎をくだん精舎しようしやいたる。聖僧ひじりすなはち二三十人のそう聚會つどへかねを」
【挿絵第十図】18ウ19オ
ならきやうみ。太郎を剃度ていとするよしを。三世さんぜ諸佛しよふつつげたてまつるに。剃手そりて法師ほふしつひ太郎が頭髪づはつ剃落そりおとせば。聖僧ひじりさづけ度牒どちやうあたへて。法名ほうみやう道哲どうてつたまふ。そも/\道哲どうてつ法師ほふしは。そのさが淳朴じゆんぼく〈○スナホ〉なり。もとよりあにこえいさゝか家督かとくたらんとほつするこゝろざしなかりしかば。われを出家しゆつけさせ給ふこと。人の狐疑こぎさけんとて。ちゝのふかきおもんはかりよりいでたるなり。しかれはいへためにして。わが身をまつたうさすべき。父母ふぼいつくしみにこそと思ひて。心のうちかへつよろこび。これより師父しふ隨従すいじうし。はづか両三年りやうさんねん修行しゆぎやうに。はやく風播ふうはんろんきはめ。なほ八宗はつしう渉猟せうれうせんとするのこゝろざしあり。後世こうせい19 この世田ヶ谷せたがやとなふることは。瀬太郎せたらう法師ほふししばらくこゝにありしゆゑなりといふ。また一説いつせつ道玄坂どうげんさかもと道哲坂どうてつさかなり。てつげんなまるのみ。しかれども土俗どぞくつたふところ。道玄どうげん大和田氏おほわだうぢ和田義盛わだのよしもり一族いちぞく也。建暦けんりやく三年五月。義盛よしもり滅亡めつぼうのとき。この岩崛がんくつにかくれみて。ぞくとなるといふ。かゝれば道玄どうげん道哲どうてつ別人べつじんなるべし。

   道哲どうてつ垣間見坂かいまみさか

道哲どうてつ法師ほふし出家しゆつけのゝち。はづか両三年りやうさんねんにして。師父しふ聖僧ひじり遷化せんげし給ひしかば。くだん精舎しようじやり。浅草あさくさ金龍山きんりうさんかた」ほとり。何がしてら移轉いてんして。しばらくこゝに寓居ぐうきよし。昼夜ちうや勤行ごんぎやうおこたることなく。道心どうしんます/\堅貞けんていなり。さるあひだ養母ようぼ朝霧あさきりは。年来としごろの心つくしも。徒事いたづらごととなりて。かれいへつがせざるをいと遺憾のこりおほくおもひながら。今はいかにともせんすべなく。せめてまことはゝあることをしらして。そのあたうたせまほしくはあれど。この事ははじめよりふかくつゝみつげざれば。いまゆゑなくていひいづるとも。かれ實言まこととはすべからず。なほ折をうかゞひて。まのあたり説示ときしめさんといたすに。かれ法師ほふしとなりては。まみゆる事もまれにして。とかくいひいづるよすがもなく。心ならずも三年みとせあまりをすぐしたり。こゝを」20 もて何にまれ。道哲どうてつが事とだにいへば。物乏ものとぼしからぬやうにまかなひて。金銭きんせん衣服いふくなんどはいふもさら也。をり/\の贈物おくりもの。そのしなあげかぞへがたし。これによつて。同宿どうしゆく青道心等あをどうしんらも。その餘澤よたくうくほどに。みな道哲どうてつをうやまひて。いみじき人に思ひけり。こゝにまた向坂こうさか甚内じんないは。むかし薄雲うすくもおはせし日。事の發覚あらはれんかとおそれて。たゞ鎌倉かまくらにげゆき。彼此をちこち潜居しのびゐたりけるに。追補ついふ沙汰さたきこえねば。なか/\にはゝか気色けしきもなくなりて。われにひとしきともがら相語かたらひ。つねちまた横行わうぎやうして。口論こうろんに事をよせ。ひと銭財せんざい虎落かたりとりしかば。人みな虎狼こらうのごとくおそれ。これと」みちゆきあへば。さけかくれずといふものなし。しかれどもかれあたせられんことをおそれ。たしかうつたへあぐる人もあらざれは。かくしてあまたとし月をおくりけるに。積悪せきあくつひ發覚あらはれて。忽地たちまち追放おひはなされ。彼地かのち住居すまゐかなはざれば。ふたゝび江戸えどにたちかへりて。これも浅草寺あさくさでらのほとりにみて。もつはら彦袁道けんゑんどうわざふけり。うちつゞきて。過分くわぶん金銭きんせんたりける。くだん甚内じんないよはひすで四十よそぢにあまり。小動こゆるぎのいそぢにほどちかくはあれど。いろさけとをたしむこと。壮年そうねんむかしにかはらず。かねあるにまかして夜毎よごと三谷さんやがよひして。雁金屋かりかねや畷女うねめといふにおもひそめ。たえての」21 きやくにあはせず。畷女うねめこゝろざま風流みやびたること。三千さんぜんきみこえ才色さいしよくふたつながらそなはるといへども。そのさが閑稚かんが(ママ)にして。いさゝかもたはれたることをこのまず。まいて甚内じんないがむくつけきをいとひて。いつも強面つれなくもてなせば。甚内じんないます/\おもひこがし。やが親方おやかた相語かたらひ。あまたかねをもて畷女うねめ身請みうけし。おのれが隠家かくれがてかへりぬ。畷女うねめかねにまかする身にしあれど。なかをとこおほかるに。かゝる悪棍わるものともなはるゝ事。胡地こちうらみのこせし王照君わうせうくんがいにしへさへ思ひいでられ。只顧ひたすらこゝろざしかたくしてしたが気色けしきなかりければ。甚内じんないふかくいきどほりて。あるのゝしあるすかし。しきりにそのこゝろざしくぢかんとはすれど。さすが」に威勢いきほひをもてせまらんも風情ふぜいなけれは。ゑかけもちを見てうへしのぐこゝちしつ。いつも夲意ほゐなくにあかしぬ。畷女うねめはとてもかくてもあぢきなくおもひて。ふかくほとけみちに心をよせ。旦夕あさゆふ観世音くわんぜおん名号みやうごうとなへ。讀経どきやうするをつとめとするにぞ。甚内じんないはこれを気疎けうとき事におぼえて。かれきやうよませじとすれば。畷女うねめはいとゞうるさくて。はしちかう仏名ぶつみやうねんじ。又月あかゝるは。にはいで看経かんきんしけり。しかるに甚内じんないいへは。道哲どうてつすみけるてらうしろあはして。かきたゞ一重ひとへへたてたれは。道哲どうてつ畷女うねめ讀経どきやうこゑをもれきゝて。いと殊勝しゆせうにもおぼえしかば。透笆すいがきの」22 ひまより半面はんめんをさし出して。彼処かしこをさしのぞけば。年紀としのころはたちあまりのをんな。こなたにむききやうよみたり。その形容ありさままゆ初春はつはる柳葉やなぎばて。つねあめうらみくもうれひふくみかほ弥生やよひ桃花もゝのはなのごとく。ひそかに風のじやうつきこゝろかくし。くちひらくときはなのはじめてもゆるにひとしく。こゑはつるときうぐひすのしばなくにことならず。正是まさにこれ沈魚落雁ちんぎよらくがん閉月羞花へいげつしうくわ美人ひじんなり。道哲どうてつはこの女子をなごを見るといへども。あへてこゝろをうごかすことなく。たゞその為体ていたらくのいとあやしければ。しばしうちまもりたるを。甚内じんないものひまより見て思ふやう。かの青道心あをどうしんは。黄金こかね長者ちやうじや愛子まなごなるよし。このわたりにしらざるものもなし。かれこうべまろくす」
【挿絵第十一図】23ウ24オ
れども。やなぎはな挿頭かざす少年せうねんなり。いま畷女うねめ艶妖あてやかなるにこゝちまどへりとすいして。つぎの日畷女うねめにさゝやきけるは。われ近曽ちかごろとなれるてら悪僧あくそうが。なんぢ眷恋けんれんして。うつゝなきを見るに。いと傍痛かたはらいたし。かれたばかりて。こよなきあそびをせんと思ふなり。箇様々々かやう/\なる艶書ふみをおくりて。今夜こんやかれ誑引おびきよせてんやといふに。畷女うねめ眉根まゆねをよせて。さらぬだに。女子をなご罪障ざいしようふかくて。のちもいとおぼつかなきものとくに。たはふれにもあれ。法師ほふしおとさんはつみふかき所為わざにこそ。これのみはゆるし給へかしといはせもあへず。甚内じんないまなこいからして。なんぢこの日来ひころ。何事もわがいふ事をうけ引」24 ねど。われ思ふむねあれば。いたくせめず。しかるをかばかりの事をさへうけがはぬとてやむべきか。いかにいよ/\さはせまじきやとて。わりなくすゝりをさしよすれば。畷女うねめ思ふやう。今この事をうけひかずは。この人それをさいはひにして。いかなるはぢせんもはかりがたし。よし/\すべきやうこそあれと思案しあんして。書翰ふみさら/\と書写かいしたゝめけるが。艶書ふみにはあらで。今宵こよひこゝろざす仏事ぶつじあれば。まねまゐらせたきよしを。をとこしてものせしごとく。いとうつくしうかいて。文箱ふばこにおさめ。人をもて道哲どうてつにおくらしけり。道哲どうてつこれを見て。さてはこのころ旦夕あさゆふ讀経どきやうする女子をなごの。仏事ぶつじいとなむにこそ。さらばこのてら住職ぢうしよくを」まねかずして。われをぶこと心得こゝろえがたしと思ひながら。ふかく推辞いなむべきにあらねば。ゆくべきよしを返事へんじしつ。さて日もくれにけれは。あたらしき袈裟衣けさころもて。甚内じんないいへいたり。かくと案内あないしたりければ。おくよりをんなこゑして。こなたへらせ給へといらへ出迎いでむかへんともせざれば。そのこゑをしるべに。おくまりたる座敷ざしきおもむくに。このごろきやうよみけるをんなたゞ一人ひとりて。よくこそたまひつれといふも。なれたるさまなり。道哲どうてつにつきて。そこら見まわせども。ちかきほとりには。持仏堂ぢぶつだうもなし。こは不審いぶかしと思ふに。いひいづべき言葉ことばもなくて。念珠ねんずつまくりてたり」25 ける。浩処かゝるところ主人あるじとおぼしくて。いとすさまじげなるをとこなが朱鞘しゆざやかたなよこたへ。外面とのかたよりあらゝかにりて。道哲どうてつ撲地はたたふし。この悪僧あくそう。いかなればきもふとくも。わが傍妻そばめおかしけるぞ。日来ひごろ汝等なんぢら笆越かきこし相語かたらひつるを。しらずとやおもふ。いかにしてこのうらみはらすべきとのゝしることはなはだし。道哲どうてつは思ひかけざれば。かほうちあからめておきなほり。こは何事をかのたまふ。今宵こよひ仏事ぶつじありとて。まねかるゝに推辞もだしかたけれはまゐれり。その手書てがみなほふところにあり。これ見給へとてさしいだすを。甚内じんないいそがはしく押開おしひらきて見るに。なまめきたる言語もんごんはなく」て。たゞ仏事ぶつじつきまねくまでの書翰ふみなれば。あん相違さうゐせしが。さわぎたる気色けしきもなく。から/\とうちわらひ。かばかりの奸計かんけいは。たとひ小児しようになりともまこととはせず。汝等なんぢらかねしめしあはし。もし見あやしめられば。かくいはんとて。書写かいしたゝめおきたるにこそ。もしその剃立そりたてあたま打碎うちくだかずは。いかでまこと吐出はきいださんとのゝしること。いよ/\たかうなりて。書翰ふみをとつて散々さん/\引裂ひきさきすて赤松あかまつ下枝しづえよりも。なほかたかるべきこぶしあげて。たゞ道哲どうてつうたんとするを。畷女うねめたちふたがりてうたせず。こゑはげましていへりけるは。ぬしよくきゝ給へ。御身おんみわりなくわらは」26せまりて艶書ふみをかゝし。この清僧ひじり誑引おびきよせんとするはかりことは。われよくしりぬ。この清僧ひじりは。黄金こかね長者ちやうじや愛子まなごにて。ものとぼしからぬ事は。人もをさ/\しりてはべれば。わらはをおとりにして虎穴こけつおとしいれ。あまたかね虎落かたりとらんとのしたこゝろ也。しかれども。わが出家人しゆけにんになまめきたるふみせ。こゝろられん事をいとふがゆゑに。仏事ぶつじありとかいたれば。まことぞとおもひて給ひけん。もし艶書ゑんじよならばなでうにもふれ給ふべき。よしそれはとまれかくまれ。御身おんみすでにわらはに不義ふぎゆるし給ふから。これをせめら」るゝことわりなし。わがいまよりこの清僧ひじりともなひて退まかりなん。なほそれにてもこばむべきすぢありやといふ。甚内じんないすで肚裏はらのうち計較もくろみ畷女うねめにいひあてられしかば。いかにともすべなくて。たゞがや/\とのゝしりてやまず。そのとき畷女うねめ道哲どうてつにむかひ。はからざる事にかゝづらひて。さこそ物憂ものうくおもひ給はめ。わが雁金屋かりがねや畷女うねめよばれたる阿曽比あそびなりしが。めいうすくして。このむくつけ人にともなはれ。はりむしろするがごとく。さら浮世うきよのはかなきを観念くわんねんし。あまとなるべき志願ねがひあり。今宵こよひちなみ弟子でしとも見給ひて。わらはがゆくべきところまでおく27 りて給はるべし。しかあらざれば。わがこのいへのがるゝことをず。すてて人をすくふは出家しゆつけつね也。まげてわらはをたすけ給へかしといふ。そのいふところいつはりならずきこゆれば。道哲どうてつこたへて。愚僧ぐそうあやまちなき事を。かく明白あからさまに申とき給へば。ふかく推辞いなむとにもあらねど。かへつて人のうたがひひかんかと思へば。さうなくはうけひきがたしといふに。畷女うねめ含笑ほゝゑみて。かの百朋ひやくほうたまどろうちなげいれてもけがされず。性空せうくう室積むろづみ宿やどり。西行さいきやう江口えぐちいたる。しかれどもこれをそしるものなし。なかをいとふまでこそかたからめ。かり宿やどりをなどをしみ給ふべきといへば」
【挿絵第十二図】28ウ29オ
道哲どうてつげにさとつてすなはちおくりゆかんことをうけひぬ。さて畷女うねめはふたゝび甚内じんないむかつて。今も申つるごとく。すでゆるしうけたれは。この清僧ひじりともなはれて退まかるなりといひかけて。つと外面とのかた立出たちいつれば。道哲どうてつ後方あとべにつきて。いそがはしくはしさり何地いづちまでかおくらせ給ふととふに。畷女うねめこたへて。わがいへ浅茅あさぢはらにありて。こゝよりみちとほからず。もいとふけたれば。ひとりはいかでたどりゆくべき。まこと清僧ひじりの事によりて。わがまぬかれたるぞ。こよなきさちにはありける。これ過世すくせよりの因縁いんえんなるべきに。なほこのうへのめぐみには。彼処かしこまでおくらせ給へかしといふに推辞いなみがた」29 くて。そのいへいたりしかば。畷女うねめはゝなりける小妙をだへ縁由ことのよしきゝかつ道哲どうてつ黄金こかね長者ちやうじや愛子まなごなりときゝて。こゝろうちふかくよろこび。この人とあつまじらはば。とくつくべしとおもひて。さま%\に款待もてなすし。わりなくとゞめたりけるほどに。もしら/\とあけはなれぬ。道哲どうてつはかゝるいへ長居ながゐしつる事。きはめて越度をちどなれと思へども。くひてかへるべきにあらねば。東雲しのゝめひきわたすころ。わかれつげかへらんといふを。畷女うねめ親子おやこなほ叮嚀ねんころにとゞめ。とかくするほど早飯あさいひもりならべてもていでたれば。これをさへ推辞いなみがたくて。いひたうべけるはしに。たつこくすぎぬべし。さはいつまでか」あらんとて。尻切しりきれはきもあへずはしいでて。わがてらちかくるころは。日もいよ/\たかのぼりて。さすがにはれがましくぞおぼえける。今も金龍山きんりうさんのほとりに。垣間見坂かいまみさかあひそめ川などとなふところあり。好事こうずのもの道哲どうてつが事によつてつくるかといへり。
巷談坡堤庵巻中畢」30

巷談坡堤庵こうだんつゝみのいほ巻下まきのげ

曲亭馬琴戲編 

   かゞみいけ辞世ぢせい

向坂こうさか甚内じんないは。道哲どうてつはからんとしてその事らず。かへつていたく畷女うねめのゝしられ。かれまた卒然そつぜんとしてのがさりしかば。たゞこれ挿頭かざしはなちらたなそこうちなるたまをうしなへる心地こゝちしつ。よしやいかに推辞いなむとも。この日来ひごろしい本意ほゐをとくべかりしものを。今はくふともそのかひあるべうもあらず。たからやまに入りながら。むなしうせしこそ遺憾のこりおほけれとて。ひたとあきれてたりけるが。なほ思ふところありて。畷女等うねめらをばはず。やがとなれるてらいたりて。住持ぢうぢ對面たいめんし。さていふやう。それ」がしは御寺みてらちかむ。向坂こうさか甚内じんないといふもの也。しかるに愛妾あいせう畷女うねめといふものを。當院たういん同宿どうしゆく道哲どうてつとかいふ悪僧あくそうぬすまれたり、彼等かれらこの日来ひごろ笆越かきこし相語かたらひよるを。われもをさ/\しりてはあれど密夫みそかを出家しゆつけの事なり。をり/\をんな教訓きやうくんせば。おもひかへす事もやとて黙止もだせしに。今宵こよひわがいへにあらざるを見て。密會しのびあふをりしも。それがし不意ふゐたちかへりて。その顛末てんまつ責問せめとふに。彼等かれらいひとくに言葉ことばなければ。周章あはてふためきて奔去はしりさりぬ。さだめて寺内ぢない〓居かくれおるべし。かの畷女うねめ全盛ぜんせいたぐひなき遊女うかれめなりしを。それがし如此々々しか%\かねをもて身價みのしろあがなひ。近曽ちかごろいへむかへとりたるに。かのそういちは」1 やくよばひて。われをはづかしむること。あまたかねぬすりしにもまされり。とく道哲どうてつ畷女うねめいだし給へ。彼等かれらをうちかさねて。きつ四段よきだになさゞるうちは。こそかへるまじけれと。いきまきあらくのべたりける。住持ぢうぢはいふもさら也。所化等しよけらさき甚内じんない道哲どうてつのゝしりたるを。笆越かきこしにもれきゝて。いと苦々にが/\しく思ひつるに。今甚内じんないいかれる気色けしきにて。いそがはしくたりしかば。こはよき事にはあらじと思ひながら。住持ぢうぢ立出たちいでて。その事をきゝ。心のうちまづ五分ごぶ恐怖おそれしようじ。まだらかにはげたるかうべかきこたへけるやう。道哲どうてつ甲夜よひてらいでて今にかへらず。かれすで不義ふぎ御身おんみに見られ」たらんに。いかでか阿容々々おめ/\かへるべき。よしやかへることありとも。かゝる愚者しれもの舎藏かくまひて。嗅気しうき精舎しやうじやのこさんや。かの道哲どうてつは。拙寺せつじ徒弟とていにもあらず。父母ふぼたのみによつて。しばら同宿どうしゆくとなすのみ。しかれども。この事きこゆるときは。わがてらはぢなり。畷女うねめとやらんが身價みのしろは。道哲どうてつ父母ふぼ縁由ことのよしつげて。あがなはせまうすべし。今夜こんやはまげてかへり給へ。とほからずこなたより。有無うむ返答へんとうおよふべしといふを。甚内じんないきゝもあへず。われもこれ武士ぶしはてなり。覚期かくごくてこゝへやはたるべき。元来もとより畷女うねめ身價みのしろつくのはん事をおもはず。はやく道哲どうてつ畷女うねめいだ給へ。かく申つるに。なほ彼等かれらを出し給はずは。和尚おせうも又」2 わがあた也。縁由ことのよしきこえあげて。今にからきめ見すべきと。こゑたかやかにのゝしりてやまず。所化等しよけらま%\に勧解わびゆゑなくこれをかへさんとすれども。さらかへるべき気色けしきく。もやゝあけなんとすれば。住持ぢうぢにもてあまし。近曽ちかごろ本堂ほんだう修覆しゆふくんとて。諸方しよほうより寄進きしんかね二包ふたつゝみまりありしかば。なほ彼是かれこれかきあつめて。これを甚内じんないらせ。和睦わぼく證文せうもん一封いつゝうをとりかはしけるにぞ。甚内じんないはしすましたりとこゝろにみ。くだんかねふところして。わがいへにかへりけるが。さすがに影護うしろめたくありけん。二三日のゝち。俄頃にはか雜具ぞうぐはこいだして。そのゆくところしれずなりぬ。住持ぢうぢ甚内じんない立帰たちかへるとやかて」
【挿絵第十三図】3ウ4オ
いそがはしく手書てかみかいしたゝめ。心きゝたる所化しよけ二人に。ものよくいひふくめ渋谷しぶやつかはしければ。庄司せうじ住持ぢうぢ言語こうじやうきゝかつ手書てがみひらき見ておどろ忿いかり。つま朝霧あさきりにもしか%\のよしものたりていふやう。道哲どうてつはゝ薄雲うすくもは。遊女うかれめにこそあれすこぶる志気こゝろざしありしものなるに。かれが心ざまいぬにもおとり。われなまじい這奴しやつ出家しゆつけせたるゆゑに。かくもこよなき面目めんもくをうしなひぬ。まことにくみてもなほにくむべしとのゝしりて。づから返書へんしよしたゝめ。住持ぢうぢ甚内じんないにとらせたるかねほかに二十りやう金子きんすてら布施ふせし。二人の使僧しそうにも二包ふたつゝみ銀子きんすあたへ。道哲どうてつもし立帰たちかへることありとも。かならずあはれみをかけ給ふべからず。」4 われも又子とはおもひ候はじと。きびしく申遣つかはしけり。これよりさき道哲どうてつは。畷女うねめ親子おやこに引とめられて。やむことをかれいへをあかし。こよなきおこたりかなとおもふから。いそがはしくはしかへりて。つと入らんとすれば。かどもるをとこ門内もんないたてず。この悪僧あくそういかにはぢをしらねばとて。阿容々々おめ/\かへりつる事よ。其許そこ隣家りんか傍妻そばめ盗去ぬすみさりたればこそ。院主いんしゆ面目めんもくうしなひて。あまたかねられ給ひぬ。さるによつてのうちより。使僧しそう其許そこ親里おやさとつかはし給ひたるが。今ははやかへべきころなり。いたくうたれざるをさちにして。とく/\脱去のがれさり候へといふ。道哲どうてつきゝて大にあきれ。われはけがれたるおこなひをなすものにあらず。前夜ゆふべ仏事ぶつじありとて。甚内じんないとやらんがいへまねかれ。箇様々々かやう/\の事によつて。やむことをず。浅茅あさぢはらへ。かの女子をなごおくつかはしけるに。親子おやこ款待もてなしいとせちなれば。すみやかかへることをざりしなり。よし/\。さらばかの甚内じんないともなて。あやまちなきをしらすべしといひかけて。隣家りんかはしりゆくに。いへしやくとしてうちひともあらず。よもとほくへはゆかじとて。しばし立在たゝずめどもかへず。あまりに思ひまどひて。ふたゝびてら門前もんぜんいたるとき。渋谷しぶや使つかひしたる両僧りやうそうたちかへり。道哲どうてつ尻目しりめにかけてうちに入るを。道哲どうてついそがはしくそのそでを引とめ。に」5 あやまちなき一五一十いちぶしゞうつげて。師兄すひんわがため説明ときあかし給はるべしといふに。両僧りやうそうこたへて。しかりといへども。そのかへらずして人のうたがひをひき給へば。たとひいかにのた(ママ)とも。たれかこれをまこととせん。これみゝふさいすゞぬすむたぐひなり。加之しかのみならず甚内じんないたゝる癖者くせもの也。なまじいかれあらそはゞ。かへつはぢはちかさぬる事もあらんか。畷女うねめ身價みのしろ渋谷しぶやよりつくのひ給ひたるが。尊父てゝごいかりことはなはだし。まづ何地いづちにもかくし。いよ/\あやまちなきにおいては。ときをまつて勧解わび給へ。しからずは忽地たちまちとらはれて。からきめ見給ふべしといひかけて門内もんないはしり入り。そのゝちはいであふものもなかりしかば。道哲どうてつはます/\こゝろくるしくて。とさまかうさま思ひたゆたひしが。後悔こうくわいそのせんあらざれば。すご」すごと立去たちさつて。ふたゝ淺茅あさぢはらおもむき。畷女うねめ親子おやこ縁由ことのよしものかたりしていふやう。われおもんはかりあさくして。こゝに一夜ひとよをあかせしかば。つひに人にうたがはれて。堕落だらく汚名おめいかうむりたり。所謂いはゆる宋襄そうじやうじん微生びせいしん胡慮ものわらひなること。おろかなるよりおこれは。人をうらむるによしなく。とても身ををく宿やどもあらねば。諸國しよこく偏歴へんれきして。たびぬべく思ふ也といへば。畷女うねめきゝてふかくおどろき。こはみなわらはがあやまちなり。よしや回國くわいこく修行しゆぎやうし給ふとも。人のうたがひをとくべきにあらず。背門方せどべ空房あきやはべるなれば。しばし其処そこすませ給へ。わらはよきにはからひて。とほからず御寺みてらへかへしまゐらすべしといふに。小妙をだへも又さま/\ことつくしてなぐさめけり。どう6 てつはそのこといとおぼつかなくはあれど。さしあたつひざいるべき宿やどもなければ。ぜひなくくだん空房あきやりて。心にもあらぬ日をおくるに。畷女うねめいたましくおもひけん。ある日その草菴さうあんにおとづれていへりけるは。かくておはすること。さこそむねくるしくもおぼすらめ。わらは元来もとより遁世とんせい志願ねがひあれど。しらせ給ふごとく。はゝゥたくなよくふかきものなれば。しばしをりをうかゞふのみ。わがあまとならば。御身おんみあやまちなき事を。人もおのづから思ひあたりてん。燕雀ゑんじやく大鵬たいぼうこゝろざしをしらずとかいふことあり。誹謗そしりにかゝづらひて。道心どうしんあやまち給ひそといふに。道哲どうてつかれ気質きしつ丈夫ますらをにもまされるに感悟かんごし。これよりして回國くわいこくのおもひをたちぬ。さるほど朝霧あさきり道哲どうてつ往方ゆくへ
【挿絵第十四図】7ウ8オ
をいと心もとなく思ひて。ひそか久米平内くめのへいない左衛門ざゑもんよびていふやう。道哲どうてついろにまどひて。ちゝの不きやううけたるは。かれつみにあらず。出家しゆつけ年長としたけたるものだに。とぐることいとかたしといふ。いはんや廾歳はたちにもらぬ男子をのこの。かばかりのあやまちはあるべきことぞかし。かれさだめて彼此をちこち呻吟さまよひてやあらん。御身おんみいかにもしてその在処ありかたづねものとぼしからぬやうに。心をそへて給はれかしときこえて。一裹ひとつゝみかね逓与わたしければ。平内へいないはこゝろをて。しのび%\に道哲どうてつ往方ゆくへ探問さぐりとひすで浅茅あさぢはらにあることをしるといへども。いかなる心にや。かのかねをわたさず。みづからたづねゆくことヲせで。朝霧あさきりにはかのひと在処ありかもしれたれば。心安こゝろやすかれなど。よきにいひこしらへければ。あさ8 きりはふかくよろこびて。そののちもをり/\衣服いふく金銀きん%\を。平内へいないもて道哲どうてつおくつかはしけれど。平内へいないはその人にあたへずして。おのれのこりなくとりてけり。かゝりしかば道哲どうてつはしばしがほどこそありけれ。すで貯禄たくはへつきていかにともすべなし。畷女うねめはゝ小妙をだへは。道哲どうてつちゝとみたる人なりときゝて。かねむさぶりとらんために。まめやかに款待もてなしたれ。今そのよるべなきを見て。はじめにもず。とくいでてゆけかしと思ふ気色けしきなるを。畷女うねめはいとかたはらいたくて。はゝいさむるに。小妙をだへはうちはらたちて。なほかしがましくのゝしりける。道哲どうてつはこれらの景迹ありさまを見るにひさしくこゝにあるべうもおぼえず。あまりになぐさめかねて。ある橋場はしばのかたに〓佯せうようし。みちかたはらなる茶店さてんしりをかけて。二三わんちやきつし。墨田すみだ川原かはらにゆくふねあとなきを見ても。憶良おくら〈○ムネヨシ〉ことさへ思ひいでられ。[万葉集山上憶良が歌に世の中は何にたとへん朝びらきこき行舩の跡なきかごと]わがあぢきなきをはかなみけり。そのときあるじのをんな道哲どうてつ熟視つら/\みて。聖僧ひじりはこのごろ浅茅あさぢはらおはする。黄金こかね長者ちやうじや愛子まなご道哲どうてつ法師ほふしにておはすべし。わらはは聖僧ひじり實母じつぼ三浦みうら薄雲うすくも太夫たいふにつかはれたるわらはなり。近曽ちかころ年季ねんきはてて。このいへよめはべりといふ。道哲どうてつきゝ不審いぶかしみ。わがはゝ朝霧あさきりよばれ給ひて。ちゝ嫡室ほんさいなり。べちはゝありといふことはかつてきかざるものをといふ。かのをんなかさねて。さて」9縁故ことのもとしらでやおはする。聖僧ひじり花街くるわにてうまれ給ひ。箇様々々かやう/\の事によつて。襁褓むつきより渋谷しぶややしなひとり給ひたるなり。そのゆゑ如此々々しか%\なりとて。薄雲うすくも始終はじめをはりをおちもなくものがたり。またいふやう。薄雲うすくもきみ浅草あさくさにて人にきずつけられ給ひしとき。かうがひをもてあた耳垂房みゝたぶをつらぬき給ひぬ。そのにてし給ふにもあらねど。このゆゑにこそ自害じがいしてうせ給へり。しかればかの癖者くせものころせしにひとしとて。そのころ人みな申あへりとつぐるに。道哲どうてつははじめてこの事をきゝて大におどろき。かのをんなにはよきに回答いらへ其処そこ立出たちいで。つく%\と思ふやう。われけふまでうみはゝをしらず。又あたあることをしらず。かゝる」ゆゑちゝわが法師ほふしにはし給ひけめ。こはみな實父じつふ養母ようぼふかめぐみなりとはいへとも。いま不意ふゐはゝあたある事をくこと。神明しんめいかりかのをんなたくしてつげ給ふかとおぼし。非如たとひ禅録ぜんろくに。父母ふぼために ひとの(されて)ころなくは ひとつもあげ こゝろをうごかすこと ねんをまさにはじめてなづけてなす しよ發心ほつしんの菩薩ぼさつと とありとも。父母ふぼあたむくはざるは人倫じんりん所為しよゐにあらず。むかし禅師ぜんじ公暁くぎやうちゝあた実朝さねともうつ識者しきしやろんじていはく公暁くぎやう仏門ぶつもんに入るといへども。實朝さねともちゝ頼家よりいへあたなり。これをうたずはあるべからず。當時そのかみこれをなみして。悪禅師あくぜんじとなふるは。凡智ぼんち決断けつだん浮薄ふはくいたり也といへり。われいま弥陀みだ利劍りけん引携ひつさげはゝあたうつて。孝養こうようそなふべし。しかはあれ。三衣さんえちやく10 して人をころさんはほとけ御意みこゝろそむけり。とせんかくせんと思ひたゆたひしが。きつと心つくことありて。たゞ浅茅あさぢはらたちかへり。その事とはなしに畷女うねめ親子おやこにいへりけるは。わが安然あんぜんとして女あるじにやしなはるゝこといと心くるし。ひとつねさんなければ。つねの心なしとて。兼好けんこう阿部野あべのむしろおりたりときく。われもさばかりの事をばなして。くちするのたつきとすべきなりとて。つぎの日より頭巾づきんをもてかうべつゝみ。そうにもあらずぞくにもあらぬ打扮いでたちして。長官ちやうくわんとなへ。日毎にちまたいでて。人のみゝあかをとり。はづか一銭いつせんこふて。生活なりわひとせり。そのこゝろみゝきずある人に」
【挿絵第十五図】11ウ12オ
あはゞ。探問さぐりとふはゝあたをしらんがため也。されはみゝあかとり長官ちやうくわんとて。そのいとたかきこえ。惣鹿子そうかのこ第六巻だいろくくわんにもこれをせ、又英氏はなぶさうぢふでにも。そのをのこせり。かくて半年はんねんあまりをたりけるに。あるとしのよはひ五十いそぢすぎたる武士ぶし小妙をだへいへきたりて。何事なにことやらん相語かたらふ半〓はんときあまりにおよびしが小妙をだへはいとうれしと思ふ気色けしきにて。畷女うねめものかげにまねき。目今たゞいまおくにおはする人は。富家とむいへ長臣おとなにて。御身おんみ殿とのおんなめまゐらせなば。あまたかねを給はらんとのたまふ。しかればこれ親子おやこもろともうかみあがるべきすぢなり。かごをはこなたよりせよとのたまはすれば。われは」12 ゆきて轎夫かごかきやとべし。御身ははやくかみをもとりあげ給へかしといふ。畷女うねめきゝあきはて。こはふしぎなる事ヲのたまふものかな。わが身ひとたびおやため花街くるわに身をうり。思はぬ人にともなはれしを。からうじてのがたれば。いま心安こゝろやすをわたらんと思ひつるに。またもやかねにこゝちまどひ。給事みやづかへせよとおふするは。こゝろをず。この事のみはゆるし給へといはせもあへず。小妙をだへ大にはらをたてゝ。さてはおやうへぬまても。御身は心のまゝにんとやいふ。それはかの青道心あほどうしんに。妹夫いもせのかたらひせし事などのあればなるべし。われも又人にゆるしたる言葉ことばの。徒事いたづらこととはならず。かく不孝ふこうに」かゝらんとおもへばこそ。なまじいものをもおもへ。今は覚期かくごきはめたりとうちうらみて。庖丁ほうちやうかたなをとつて。すで咽喉のんど突立つきたてんとするを。畷女うねめいそがはしくいだきとめ。やよ母御はゝごはやまり給ふな。わらはゆくまじといふにはあらず。こゝろにちかひし事のあれば。とくにも承引うけひかざりし也といへば、小妙をだへすこ気色けしきやはらげ。しからば目今たゞいまゆくべきか。いなその事はのちに申さめ。しからばそれもいつはりなり。はゝいけんともころさんとも。御身が心ひとつにあり。とく/\回答いらへし給へとて。しばしもまつべうあらざれば。畷女うねめはなか/\におもひたえ。かくまでのたまふを。いかで推辞いなみはべらん。さらばまいるべしといふに。小妙をだへ忽地たちまちかや」13 かやとうちわらひ。げにかしこくもきゝわき給ひぬ。御身ははゝにかはりてまれびと款待もてなし給へ。いで一走ひとはしりりにゆきてんとて。もすそかゝげ出去いでさりけり。畷女うねめかねてよりあまとなるべき志願ねがひありしに。われゆゑに道哲どうてつを。あしさまにいはすること。いとねたくは思ひなから。つひにはすみころもさまをかえて。わが平生へいぜいこゝろざしをも人にしらし。かの人のためうたがひをとかんものをと思ひさだめたるに。いま思はずも。この一件ひとくだりのことにかゝつらひ。宿志しくしはたさんとすれば不孝ふこうおちいり。こうならんすれは人にまことあらず。とてもかくてもわがたまたゆべきときなりとうちなげきて。事の首尾はじめをはりつまびらかかきのこし。そのおくに  はそれとしらずともしれ猿沢さるさはあとかゞみいけにしづめばとかいしたゝめ。ふでをおきもあへず背門せどべよりはしいでて。かゞみいけしづみける。あはれはかなきはてなり。

   甚内橋じんないばし仇撃あたうち

小妙をだへかくともしらず。かごやとひていそがはしくかへりれは。畷女うねめがいづゆきけん。いへにしもあらず。引ちらしたる硯箱すゞりはこのほとりに。一封いつゝう遺書かきおきあるを見て。こはいかにとおどろきさわぎ。かの武士ぶしにも如此々々しか%\ゆゑつげて。遺書かきおきよますれば。道哲どうてつあやまちなき」14 事のわけ。又わが遁世とんせいのぞみある事などくはしうかきしるし。義理ぎりせまりておやさきたつ不孝ふこうを思へば。のちもいとおぼつかなし。何事も過世すくせ悪業あくごうと思ひあきらめ給へかしなど。ふでのはこびもいとあはれに見ゆめれば。小妙をたへ忽地たちまち後悔こうくわいして。こゑをしまなきければ。かの武士ぶしいたましくおぼえて。さま%\にいひなぐさめ、みなもろともにかゞみいけほとりいたれば。みぎはまつうちぎなげかけて。はきすてたる草履わらぐつも。なほあたゝか也。小妙をたへはこれを見てあるうらみ。あるはうちなげきてせんすべをしらず。さてくだん武士ぶしは。水練すいれんれて畷女うねめしがいひきあげさし。小妙をたへには一包ひとつゝみの金をあたへて」
【挿絵第十六図】15ウ16オ
送葬そう/\たすけとし。いと夲意ほゐなげにかへりけり。かゝりしほどに。道哲どうてつは。そのゆふぐれにかへて。畷女うねめ入水じゆすいの事をきゝまた辞世ぢせいうたを見ておどろきあはれみ。はじめよりの物語ものがたりして。畷女うねめ遁世とんせいのぞみいとせちなりし事をつぐれは。小妙をたへはます/\後悔こうくわいしてなくよりほかの事もなし。かくてあるべきあらねば。その畷女うねめ亡骸なきがらを。駒込こまこめ鰻鱧縄手うなぎなはてなる。正行寺せうぎやうじほうふり楓玄少真ふうげんせうしんとかや。四箇字しかじ法名ほうみやうを。一片いつへんいしにのこしけり。さればにや道哲どうてつは。いよ/\こゝろざしはげまして。たゞ一日もはやく。はゝあたうたんとて。八百やほあまりやつ町々まち/\を。縦横たてよこ偏歴へんれきするに。ある日鳥越橋とりこえはしのほとりに。人夥ひとあまたつど」16 ひて。しかたはなし聞居きゝゐたれば。この群集くんじゆをつけて。かた立在たゝずみみゝあかをとらせ給へ/\とよばはりぬ。このときしかたばなしたゝるものあまたありて。長谷川町はせがはちやう鹿野武左衛門しかのぶざゑもん横山町よこやまてうに何がし休慶きうけい中橋なかばし四郎斎しらうさい伽羅小左衛門きやらこざゑもんなんど。[惣かのこに出つ] みな利口りこう能辨のうべんなるものどもなり。今こゝに人をつどへたるも。そのたぐひにて。みやこてし。つゆの五郎兵衛。ひやうたんかしくにはまさるとも。おとるべうはおぼえず。平家物語へいけものがたり斎藤さいとう瀧口たきくち時頼ときより入道にうどうが。嵯峨野さがの隠遁いんとんしたりけるを。横笛よこぶえといふ女房によぼう尋来たづねきたれども。瀧口たきくちつひあはず。そのゝち横笛よこぶえ」もあまとなりて。瀧口たきくちがもとへうたをよみてつかはしける事を。今のの事にとりまじへて。いとあはれにものかたれば。人みな嗚呼あゝかんじてやまず。このながものかたりに思ひのほかくれにければ。みな/\おのが家路いへぢへとて出去いでさりぬ。しかるに向坂こうさか甚内じんないは。さき金龍山きんりうさんのほとりを立去たちさり。この鳥越とりこえもとすみけるところなれば。はしのこなたなる小家こいへに引うつり。ふかくこもりてたりしに。いま道哲どうてつがひとりはしをわたりてるを見て。ねたくやありけん。夥計なかま悪棍わるもの五七人としめしあはし。すでちかくなるまゝに甚内じんないいそがはしくかたなかうがいをぬきいだし。のんどをめがけてちやううつを。道哲どうてつみぎそでうけとめ」17 たり。かれのがしそとよばはれば。悪棍わるものどもはら/\とはしりすゝみ。打殺うちころさんとひしめけば。道哲どうてつやむことをず。戒刀かいとう引抜ひきぬきて。しばしいどたゝかふといへども。かれ大勢たいせいなればかつべくもおほえず。あたうつべき身の。よしなき盗賊とうぞくなどのためしなんはくちをし。いかにもして切抜きりぬけんと思へども。たやすのがすべうもあらざれば。みぎあたりひだりあたり千変せんへん万化ばんくわしてたゝかをりしも。編笠あみかさふかくしたる武士ぶしもののかげよりはしいでくだん悪棍等わるものらきりたふすこと。つえもてくさはらふがごとし。道哲どうてつはこれにちから甚内じんないとわたりあひ諸膝もろひざなぎたふし。とゞめをさゝんとて。月かげによく見れば。思ひもかけぬ向坂こうさか甚内じんないなるが。耳垂房みゝたぶふるきず
【挿絵第十七図】18ウ19オ
あり。此ものもしわがはゝあたにはあらぬかと思ふに心うれしく。くびかききつたちあがれば。悪棍わるものどもゝのこりなくうたれ。助太刀すけだちしたる武士ぶしもいづゆきけんふつに見えず。さて道哲どうてつは。心しづかに甚内じんないうちかけたるかうがいをぬきて見れば。つたのもんをゑりつけて。そのした
 しのぶにはあけやすくとも朧月おぼろづき 薄雲うすくもとあり。さてはこのかうがいは。わがはゝの。甚内じんないみゝをつらぬき給ひたるとき。かれうばひとつて。かたなにつけたりとおぼし。しかればはからずしてあたうち。又ふしぎに助太刀すけたちたる事。神明しんめい仏陀ふつだ冥助みやうぢよあらせ給ふならんと思ふに。いとたふとくもかたじけ(ママ)て。あたくびそでつゝみみて。浅茅あさぢはらたちかへり。はじめて日来ひごろ19 あたをねらひし事を。小妙をたへものかたるに。小妙をたへ道哲どうてつ実母じつぼを。三浦みうら薄雲うすくもなりときゝて。ふかくおどろきあやしみ。女児むすめ畷女うねめがいとけなかりしとき薄雲うすぐも使つかはれたりし事。又わが身の悪心あくしんにて。雁金屋かりがねやうりかえたることなど。いさゝかかくさずいひいでて。慚愧ざんぎすることかぎりなし。道哲どうてつもこの物語ものかたりにあやしきえにしを感嘆かんたんし。小妙をだへ実母じつぼ墓処むしよを聞てふかくよろこび。そのひそか薄雲うすくもはか参詣さんけいし。仇人かたき甚内じんないかうべ手向たむけ年来としころはゝ墳墓ふんほもしらず。ちかきほとりにありながら。いたづらすぎぬる事を悔歎くひなげきぬ。まことにはからずしてこゝろざしとぐること。橋場はしばをんな一言いちごんによればとて。道哲どうてつつぎかの茶店さてん」にたづねゆくに。こゝかと思ふいへもなし。あまりに不審いぶかしければ。これかれひととふにしれるものもあらず。これも又一ッのふしぎなり。もし亡母なきはゝかりにあらはれて。あたある事をつげ給ふかとて。縁由ことのよし小妙をたへにもものがたり。数行すこう感涙かんるいにむせびけり。かの甚内じんないは。きこえたる悪棍わるものなるに。その支黨等どうるいらいたるまで。こと%\くうたれしかば。里人等さとひとらふかくよろこび。それがすみけるほとりのはしを。甚内橋じんないばしぶとかや。かくて道哲どうてつ日本堤にほんづゝみのこなたにくさいほりむすび。たえず念仏ねんぶつして。現世げんぜには父母ふぼあに延命ゑんめいいのり。また亡母なきはゝ薄雲うすくも畷女うねめ後世ごせとふらひ。おこなひすましてたりける。さるほど道哲どうてつ仇撃あたうちの事。かつ道心どうしんけん20 ていなる事ども。たかきこえしかば。はじめうたがひて。追遣おひやらひたる何がしてら住持ぢうぢも。ふかく慚愧ざんぎ後悔こうくわいし。みづから日本堤にほんつゝみいほりひて。さきには甚内じんないにはかられて。かゝる清僧せいそうにぬれきぬせたる事。わがおもんはかりあさきにおこれりとて。いと叮嚀ねんごろにこれを勧解わび。又渋谷しぶやの庄司せうじいへいたりて。縁由ことのよしつげ親子おやこ再會さいくわいの事を申すゝめければ。朝霧あさきりはいふもさら也。庄司せうじもふかくよろこびて。さらば對面たいめんとぐべしとて。りやう三日さんにちのち朝霧あさぎり金王丸こんわうまる平内へいない左衛門ざへもんて。道哲どうてついほりおもむきしかば。道哲どうてつはこは思ひかけずとて。いそがはしくいでむかへ。わがおこたりによつて。しばらくも父母ふぼくるしめたてまつりたるつみ」いとふかし。しかるをかへつてみづからとはせ給ふこと。勿体もつたいなしとよろこびきこえてあに金王こんわう平内へいないにも別後べつごつゝがなきをしくし。さて神仏しんぶつ冥助みやうぢよによつて。はからずも実母じつぼ三浦みうら薄雲うすくもなる事をしり。不思議ふしぎ仇人かたき甚内じんないうちとりし事。また畷女うねめが事など。是彼これかれつまびらかものがたれば。みなしきり嗟嘆さたんしてやまず。朝霧あさきりはわきてうれしと思ふ気色けしきにて。道哲どうてつむかひ。縁故ことのもとをしり給はねば。なほ不審いぶかしくもあらんが。御身はわがため義理ぎりあるなれば。いかにもしていへつがせんとて。さま%\に心をつくせしかど。命運めいうんかゝるところは。ひとちからおよばず。もとわが庄司せうじどのゝ前妻せんさい撫子なでしこよばれしひとこしもとなりしに。撫子なでしこをはやくし給」21 ひて。わがさいはひ殿との鐘愛ちやうあいかうふり。後妻のちのつまとまでなりあがれど。その貴賤きせんろんずるときは。薄雲うすくもどのとことなる事なし。しかれば金王こんわうはゝは又いやしきものを。かれ出家しゆつけさして。なき人の菩提ぼだいとはせ。御家督かとくとして。一たびうたがはれしわが身のきよきかにごれるかをあかさばやと思ひながら。その事をつげんには。御も又義理ぎりにかゝつらひて。固辞いなみたまふべきかとて。つひまことはゝある事を。つげすぎにしくやしさよと。年来としごろ思ふことのかぎり。なみだとゝもにかき口説くどけ衆皆みな/\その節操みさを稱讃せうさん〈○ホメル〉し。道哲どうてつかたじけなさに。不覚そゞろ落涙らくるいしたりける。

   粂平内くめのへいない誓言ちかごと

そのとき粂平内くめのへいない左衛門ざゑもんは。にはかかたな引抜ひきぬいて。はらへがはとつきたつれば。人みな大におどろきて。さま%\いたはりゆゑとふに。平内へいない今般いまはこへはげまし。やよかならずしもとゞめ給ふな。かくあらんはかねての覺期かくご也。まづ縁故ことのもとを申べし。そも/\三浦みうら薄雲うすくもはこの平内へいない女児むすめ也。むかしそれがし九州きうしう流浪るらうしてあづまきたりしころ。つまなるものいたくわづらひて。心地こゝちぬべく見えたるに。まづしければ醫療ゐりやう便たつきなく。おさな女児むすめ三浦みうらいへうりて。くすりしろとしつれども。定業じやうごうのがれがたく。つまつひまかりぬ。かくて女児むすめは人となつて。薄雲うすくもよばれ。全盛ぜんせいたぐひなしとかぜ便たよりにはきゝしかど。おやの身をはぢて。ひとたびもおとづれせず。しかるに庄司せうじどのにむつみ。川竹かはたけのためし」22 まれに。さへうみぬれど。命運めいうんうすく。貞操ていそういたつらに。孤松こせうはやく桔〓こゝうせり。されどもかれうみたるを。朝霧あさぎりふかくいつくしみ給ふ事。義理ぎりたていへつがせ。人のうたがひをとかんため也と思ひしかば。兄弟はらから武藝ぶげいたくらぶ日。わがまごにはまがれるくせあるうまらし。又木刀きたちをれたるもかねてかくこしらへおきて。金王丸こんわうまるかたし。つひ家督かとくとなしたるは。平内へいない寸志すんしぞかし。加之しかのみならず瀬太郎せたらう出家しゆつけしてのち堕落だらくきこえありといへども。朝霧あさきりかたなほあはれみふかく。われを使つかひとして金銀きん%\衣服いふくおくり給ふこと。しば%\なるを。たえてあたへず。これをひめおきたることは。そのかねをもて。畷女うねめとやらんがあがなひ。ひそか刺殺さしころして。道哲どうてつまよひのくもきり
【挿絵第十八図】23ウ24オ
はらはばやとて。如此しかはかるに。思ひのほか彼等かれらけがれたるおこなひはなく。畷女うねめ遁世とんせいのぞみかなはざるヲなげき。忽地たちまちかゞみいけしづめたり。こはわがいつ生涯しようがいあやまりにして。慷慨かうがい言葉ことばつくしがたし。又いぬるころ道哲どうてつが。鳥越橋とりこえはしにて向坂こうさか甚内等じんないらにとりまかれ。いとあやうかりし折しも。それがしさいはひゆきかゝり。悪棍わるものどもを切殺きりころして。たやすはゝあたをうたせき。また薄雲うすくもあたを。向坂こうさか甚内じんないとしりたるは。むかし浅草あさくさ河原かはらにて。かれきずつけられしときこえたるころ。女児むすめ仇人かたきやはのがさしと思ひながら。たえて人にもかたらず。ひそかにこれをさぐもとむるに。向坂かうさか甚内じんないといふものゝ所為わざなるよしをつぐるものあるによつて。しのび/\にこれ狙撃ねらひうたんとはかるに。忽地たちまちちく24 てんして。この十七八年はおとつれをきかざりしに。天運てんうん循環じゆんくわんして宿志しゆくしとげ。しかもまご助太刀すけだちせし事。老後ろうご満足まんぞく何かこれにますことあらん。かくては朝霧あさきりかたよこしまなきことも。あきらかにきこえ。いままた道哲どうてつ堅貞けんていなるを見るからは。たえてこゝろのこることなし。たゞくゆらくは。壮年そうねんにはひんせまりて女児むすめうりおいては賢女けんぢよ畷女うねめをころし。あまさへ朝霧あさきりかたの。道哲どうてつに給はりける金銀きん%\衣服いふくを。すみやか逓与わたさざりしこそ。よくにせずとはいひながら。かへす/\もおもなけれ。このあやまちあれば。皺肚しはばらかききりて。懺悔ざんげ一句いつくのこすのみ。たとひは今ほろぶるとも。わがたまながくこのにとゞまり。縁遠えんとほ女子をなこために。よきをつとさすべし。これ」畷女うねめこゝろざしとげさせざりし。因果いんぐはのちしめすもの也。庄司せうじどのゝふかきめぐみは。今生こんじようむくつくさす。ねがはくは子孫しそん守護神まもりかみとなつて。家門かもん繁昌はんぜうあらしむべしといひをはり。たゞかたなをとりなほして。のどふえかきしににけり。道哲どうてつ哀悼あいたうはいふもさら也、庄司せうじ夫婦ふうふ金王丸こんわうまるも。かつおどろかつかなしみ。渋谷しぶやかゝしかへりて。あつくこれをほうふりける。その折しも平内へいない所持しよぢ調度ちやうど展見ひらきみれは。朝霧あさきりよりうけとつたる。金銀きん%\衣服いふくには。こと/\ふうをして。このうちかねいくばくは。畷女うねめ葬式そうしきりやうとして。そのはゝ小妙をだへにとらせたりと書写かきしるしてありしかば。庄司せうじ一家いつけ男女なんによ。ます/\これを感嘆かんたんす。さて朝霧あさきりは。その」25 かねをもて平内へいない石像せきぞうきざまして。一體いつたい淺草寺あさくさてらうち安置あんちし。又一體いつたいをは畷女うねめ菩提処ぼだいしよなる。駒込こまこめ鰻鱧縄手うなぎなはて正行寺せうぎやうじ安置あんちせり。正行寺せうぎやうじ平内へいない石像せきぞうでん江戸えど砂子すなご續編ぞくへんえたり。されば今の婦女子ふぢよし婚縁こんえんのねがひあるもの。書翰ふみ平内へいない石像いしのぞうにおくれば。しるしありといふ。又。朝霧あさきりは。畷女うねめ菩提ぼだいために。淺草寺後門あさくさてらのうらもんほとりに。地藏〓ぢざうぼさつ一尊いつそん建立こんりふし。畷女うねめ遺書かきおき文箱ふみばこれて。ぼさつ御手みてにもたしまゐらせけり。いま文箱ふみはこ地藏ぢざうとなふるはこれなるべし。かくて渋谷しぶやの庄司せうじは。朝霧あさきり金王等こんわうらにも思ふほどきこえて。道哲どうてつ草庵さうあん修造しゆふくし。一箇いつこ」の大刹おほてらとなさんとするに。道哲どうてつかたくしていへりけるは。父母ふぼ鴻恩こうおん莫大ばくたいなるを。愚意ぐゐをもて推辞いなみたてまつるるべきにあらねど。わが寸分すんぶんとくなくして。一寺いちじ開山かいさん祖師そしあほがるべきいはれなし。なほ仏道ぶつどう修行しゆぎやうとしつみてののち道高みちたか沙門しやもん招待せうたいして。開山かいさんとせまほしけれと申すにぞ。父母ふぼその清潔せいけつにして名聞みやうもんかゝはらざるをかんじ。しいてこれをすゝめず。道哲どうてつ一生いつしようくだん草菴さうあんまもりて。實母じつぼ薄雲うすくも外祖父ぐわいそふ平内へいない左衛門さゑもん畷女うねめため常念佛じやうねんぶつして。二六時中じちう称名しやうめうこゑたえず。程經ほどへ念誉上人ねんよしやうにん開基かいきとしててらとはなしぬ。さるによつて道哲どうてつは。常念仏じやうねんぶつ發端ほつたん26願主ぐわんしゆなれども。このそう高名こうめいなるがゆゑに。ひと開山かいさんのやうにおぼえ。今もて土手どて道哲どうてつとなふ。道哲どうてつよはひかたぶきたるころ。三浦みうら遊君ゆうくん二代にだい高尾たかをゆゑあつてこのてらほうふり。法名ほうみやう傳誉妙身でんよみやうしんといふ。くだん高尾たかをは。ふかくもみぢあいせしとて。はかかたはら一株ひとかぶもみぢうへたり。しかるにいとあやしかりけるは。高尾たかをぼつする日。畷女うねめ墓碑ぼひ楓玄少真ふうげんせうしんといふ四箇字しかじ法名ほうみやうふう忽然こつぜんきえて。玄少真げんせうしん三字さんじのこれり。せうげんをそえてめうとなる少真せうしん〓身みやうしん真身しん/\同韻どういんにて。畷女うねめ高尾たかを法名ほうみやう自然しせんかよひたるのみならず。高尾たかをはかもみぢうへれば。畷女うねめはかもみぢといふきえること。まさ
【挿絵第十九図】27ウ28オ
高尾たかを畷女うねめ後身うまれかはりにて。つひ道哲どうてつてらほうふらるゝこと。過世すくせ因縁いんえんによるかとて。ひと竒異きゐのおもひをなしたり。當寺たうじ安置あんちするところのあせかきの阿弥陀如来あみだにいらいは。安阿弥あんあみさくにして道哲どうてつ持仏ぢぶつなり。このほか高尾たかを襟掛えりかけ地藏ぢぞうおなじく所持しよぢ羽子板はごいたおさむ。みな世挙よこぞつてしるところなり。これよりさき畷女うねめはゝ小妙をたへも。すで先非せんひくひかうべまるめ。浅茅あさぢはら妙亀山みやうきやまのほとりに。いほりむすび。八十餘才よさいにして往生わうじようせしとぞ。こはみな巷談こうだん街説がいせつつたふるのみ。あへてその虚實きよじつろんぜす。つたなふではしらするものは。たゞ婦幼ふようためぜんすゝめあくこらさんため也かし。
巷談坡堤庵巻下 畢」28

附言ふげん

比舎ひしや〈○トナリ〉小童しようどうこのしよけみしてとふいはく向坂こうさか甚内じんない薄雲うすくもおはしたれど。めいたついたらず。薄雲うすくも庄司せうじうらみ。自害じがいしてうせたるを。道哲どうてつはゝあたとして。甚内じんないうちけるはいかにぞや。きやういはくすてゝ おんをいるは 無為むゐにほうずる おんをもの也と。しかれば父母ふぼあたなりとも。うたざるをもて出家しゆつけとするにはあらずや。こたへいはく甚内じんない薄雲うすくもころさずといへども。かれ不良ふりやう所行わざをなしたるによつて。薄雲うすくもこれを庄司せうじ所為しよゐかと思ひあやまり。忿恨ふんこん〈○イカリウラム〉してみつからす。かくは甚内じんないころせるにひとし。もしかれあたならずといはゞ。ひと」をころしてわれにあらず。へい〈○ハモノ〉也といふに何ぞことならん。かつ釋氏しやくしをしへたれてより。不孝ふこう不義ふぎほとけあることをきかず。たとひ仏家ぶつかともからなりとも。はゝあたうたざるは不孝ふこう也。見よ道哲どうてつ容貌さまかえあたねらひやむことをずして甚内等じんないら血戦けつせんし。不意ふゐあたむくたる事。じつ出家しゆつけにん人の所為しよゐなり。このんで人をころすにあらざる事明あきらけし

亦問またとふ道哲どうてつ一箇いつこ清僧せいそうとして慮淺おもひあさく。夜行やかう婦女子ふぢよしとゝもにしたるゆゑに。ひとたび堕落だらくそしりたり。もし柳下惠りうかけいにあらずは。俗家ぞくかといへともかばかりの思慮しりよはあるべし。といふ人あるは」29 いかに。こたへいはくそれめい吉凶きつきやうあり。脱得のがれえざるをわさはひといふ。世々よゝ高僧こうそう厄難やくなんにあふものおほし。もしその無量むりやう權智けんちをもて。何ぞこれを避脱さけのがれざる。これてんめいずるところ。じつのがれがたければ也。道哲どうてつ畷女うねめ夜行やかうせしも又しかり。千慮せんりよ一失いつしつふかくとがむるにらず。かゝることなくは。いかではゝあたをしり。かつそのあたうたんや。これわざはひてんじてさいはひとするもの也。

亦問またとふ朝霧あさきり道哲どうてついへつがせんとせしは。わがよこしまなきをあかさんがため也。しかるをあたあることをもつげず。おのれ實母じつぼのおもゝちし、おめ/\と出家しゆつけさせたるはいかにぞや。儼然げんぜんとしてこたへいはく小子しようしつゝし」め。婦人ふじん淺見せんけんかくのごとき事いとおほし。もし婦人ふじんといへども。義理ぎり分明ふんみやうに。毫髪ごうばつあやまちなくは。このしよする許多きよた人物じんぶつ。みな君子くんし賢者けんしやなり。けん不肖ふせう善人せんにん悪人あくにん。おの/\そのおこなふところ。成敗せいばいつい勧懲くわんちやうをなすが。小説者流しようせつしやりう夲意ほんゐなり。悉皆しつかい君子くんし賢者けんしやのみならば。何をもて勧懲くわんちやういとくちをとかん。
亦問またとふ渋谷しぶやの庄司せうじはいかに。こたへいはくにあらず。けんとほし。

亦問またとふ粂平内くめのへいない左衛門さゑもんはいかに。こたへいはくかれ一世いつせ任侠じんけふ也。ゆうありあり。おもひあまりて心足こゝろたらず。ゆゑにそのぜんず。

亦問またとふ畷女うねめはいかに。こたへいはく。この女子ちよし少許すこしく志気しきあり。しかれどもじん30 ないいつはりの艶簡ふみをもて。道哲どうてつひけといひしとき。かれなまじい才学さいがくぶりて。ひそか法事ほうじありとせうす。このゆゑ道哲どうてつあざむかれてきたれり。かれもしなまめきたるふみおくらば。道哲どうてつけつしてべからず。君子くんしあざむくべしおとしいるべからずとは。それこのいひか。まさにしるべし。道哲どうてつおとしいるゝものは畷女うねめなり。このほうによつて。その遁世とんせいこゝろざしとぐることをず。つひかゞみいけしづみ。さら二代にだい高尾たかをうまれ。また憂苦ゆうくして道哲どうてつてらほうふられ。道哲どうてつ高尾たかをによつていよ/\たかく。高尾たかを道哲どうてつによつてそのをはりしめす。嗚呼あゝゆゑあるかな。

亦問またとふ。こゝにとくところは。なかばきよにしてなかばじつなるか。こたへいはくみなきよなり」比喩ひゆなり。仏家ふつか所謂いはゆる善巧ぜんこう方便ほうべんのたぐひと也。

右金-聖-歎外-書。醉-卿祭-酒總-評蛇-足。恐ラクハ大-方之嗤-笑クシ。恥々々。

門人逸竹齋達竹評

編者 曲亭馬琴子  筆耕 嶋五六六謄写  画工 一柳齋豊廣
  剞[厥刀] 綉像 朝倉卯八刀  筆耕 三猿刀


文化五戊辰年      江戸通油町
  正月吉日發販           村田次郎兵衞
            同日本橋新右衞門町
                   上總屋忠助梓

巷談坡堤庵巻下 大尾」31

【参考資料】

一、後摺改竄本京山序

 叙言

山東京山 

識花に二ざきの花あり月にのちの月ありはじめあればをはり初もの外題げだいみどり青表帋あをへうしなかはくれなゐの赤本あかぼん花咲はなさき老漢ぢゞいはなともにひらきてみればかち/\山の鋼鐵はがねをならす戯作けさく本店ほんだな曲亭きよくてい馬琴子ばきんしさくなりぬしはどうやら」口ノ1オ 見申た黄金こがね長者ちやうじやさとかよひを發端ほつたんとし浅草あさくさ河原かはら暗闘やみじあい月もおぼろ薄雲うすぐもが亰町のねこかよひたる揚屋あげや入の全盛ぜんせいばなし一寸ちよつと太夫たゆふ雁金屋かりがねや溶女うねめでん土手どて道鐵だうてつ甚内橋じんないばし縁故ことのもとまでいとまめだちてうつしとりたるかゞみいけ昔語むかしがたり引書いんじよすなはち洞房語園どうぼうこゑん丸鏡まるかゞみ事跡合考じせきかつかうそとはま口ノ1ウ 數本すほんふみ参考さんかう趣向しゆこうをたてたるこの繪草帋ゑぞうし御評判ごひやうばんはありそうみいわほほす文亀堂ぶんきだう宿主やどろく如才ぢよさいぢよもなきさくじよせよといふにいなぶねのいなみがたなく馬琴子かために月花の脇櫂わきろおしていきまきあらくのゝしりつゝ/あたるぞ/\といふ事/しかり

  文化午の春」2オ

二、再刻本の序文

[土巷]談坡堤庵こうだんつゝみのいほの序

あをしげるがなか此頃このごろあめいろづくうめもめづらしとよまれたる五月雨さみだれのをやみなき徒然つれ%\れい書賈ふみやはつれ%\の伽草とぎぐさおもいでてや新著しんちよ冊子さうし小止をやみなくこはるゝまゝにやまと漢土から古事ふること是彼これかれおもあはすれど婦幼ふえうめでよろこぶべきやすらかなるはなしぐさいとまれなりそれ」大聲たいせい俚耳りじ不入いらずすで古人こじん金言きんげんありそも童蒙どうもう伽艸とぎぐさ君子くんし拍掌はくしやうせらるゝ深理しんり妙説みやうせつ馬耳東風ばじとうふうたぐひなるべしとかねてはかりし戲文たはれぶみ著述ちよじゆつなれば百年ひやくねん遺笑ゐしやうのわざくれとひとそしるこゝろとせずたゞ一向ひたすら児女達じぢよたち愛翫あいぐわんせる趣向しゆかうむねとすれば街談がいだん〓説こうせつ浅々あさ/\しきをたねとしつ黄金長者こがねちやうじや廓通さとがよひに」序ノ1 むかし/\の物語ものがたり菱川ひしがはふるくうつして三谷さんやがよひを眼前めのまへにしるすくるは古雅こが風流ふうりうかの薄雲うすぐもねこ故事ふること澁谷しぶやさとにしおふ金王丸こんわうまるをかりては駒牽沢こまひきざはとなへをもをさなとき禿山かぶろやま継母けいぼ慈愛じあい義士ぎしでんどて道哲どうてつ孝心かうしん悟道ごどう鴈金屋かりがねや畷女うねめ薄命はくめいかゞみいけ水鏡みづかゞみきよくうつせし節婦せつふじやう甚内橋じんないばし復仇あだうち勾坂かうさか積悪せきあくむくひしめくめ平内へいない因縁いんえんにむすびむすびし江戸えど鹿ゆかりをたづぬるむらさき一本ひともとすゝき武藏野むさしの千艸ちぐさはなつゆしげきその名所なところ假用かようして百年もゝとせあまりの星霜せいさうふりにし古跡こせきいつ奇談きだんかたりつたえてみゝちかきをつゞあはする坡堤つゝみいほ博識ひろききみたちのらんにはあらず」序ノ2 婦女子ふぢよし眼気ねむけをさましぜんすゝあくこらす老婆心らうばしんのみ

  于時乙丑鶉月仲旬
         飯台児山丹花の窗下に
                 曲亭馬琴誌[乾坤一草亭]
                     松亭金水書[印]

四、再刻本の口絵


# 「愛知県立大学文学部論集」(国文学科編)第41号 1992 所載。
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