『貞操婦女八賢誌』(一) −解題と翻刻−
高 木 元
【解題】
江戸読本を代表する曲亭馬琴作『南総里見八犬伝』の享受史を検討するための資料として、様々な抄録本や改作本を紹介してきたが、今回からは為永春水の手に拠る『貞操婦女八賢誌』を紹介する。
物語は、滅亡した武蔵国豊島家に伝来する8体の阿弥陀仏が8人の処女として化現し、豊島家の再興を計るというもの。不思議な縁に繋がれた八賢女、すなわち於梅・於袖・青柳・於竹・於道・於亀・八代・於安等は、お齋の比丘と名告る豊島家に仕えていた老女浅江の神占に拠って捜し出されて八賢女具足し豊島家の再興に尽力する。謂わば「武蔵豊島八賢女伝」とでも呼ぶべき稗史小説である。
もとより作者が春水であること、主人公達が女性であること、会話体の文体や、1帙3冊という構成、さらには造本様式が人情本風であることから、従来は人情本として扱われてきた。しかし、本作を人情本として捉えることは難しい。強いていえば稗史もの中本と呼ぶべきか。読本の如き章回体様式を採用し、筋は58回までで完結している。全6輯9編29冊という長編で、初〜3編は狂訓亭主人(為永春水)作、4〜9編は二代目為永春水作。歌川国直・渓斎英泉・歌川貞重画。天保5〈1834〉〜嘉永元〈1848〉年の刊と考えられるが、明治期に至るまで後摺本が出され続けて、貸本屋を通じても良く読まれたようである。
【書誌】初輯〔上帙〕 上・中・下(3巻3冊)
書型 中本 18.6×12.5糎
表紙 浅荵色地に小さな意匠を白抜きにする。
外題「婦女八賢誌 上(中下)」(13.3×2.7糎)、上部から枯葉色ぼかし下げ、下部からは浅黄色ぼかし上げを施す。
序 「維時天保五稔甲午孟春\爲永春水識」(序一オ〜序二オ)
再識「天保四癸巳年九月刻成仝五甲午年正月發兌\東都戯作者 金龍山人狂訓亭 爲永春水誌」(序二ウ〜序三オ)
口絵 第1〜3図(序三ウ〜序六オ)重摺りを施す
題 「甲午孟陽 最上羊齋題」
内題「貞操婦女八賢誌初輯巻之一(〜三)」
尾題「貞操婦女八賢誌初輯巻之三終」」
編者 狂訓亭主人著
畫工 柳烟樓國直圖
刊記「天保五甲午年孟陽發版\東都書房\馬喰町二丁目 西村屋與八・夲所松阪町二丁目 平林庄五郎・京橋弥左エ門町 大島屋傳右エ門」
諸本 館山市博・早稲田大・西尾市岩瀬文庫・山口大棲妻・東洋大・東京女子大・三康図書館・千葉市美
翻刻 明治17〈1884〉年の思誠堂・才子組の洋装本、明治19〈1886〉年の駸々堂、明治20〈1887〉年の文泉堂(村上直助)、同年の大川屋などが在るが、同版の再版のほか明らかな異版が見られ、ボール表紙本と洋装本のほかに和装本仕立ても管見に入った。大正4〈1915〉年には人情本刊行会叢書として『廓うぐひす・貞操婦女八賢誌(上)』『貞操婦女八賢誌 (下)・〈深契|情話〉戀の若竹・吉原楊枝』があり、大正15〈1926〉年に再版が出されている。
【凡例】
一 人情本刊行会本などが読みやすさを考慮して本文に大幅な改訂を加えているので、本稿では敢えて手を加えず、
可能な限り底本に忠実に翻刻した。〔Web版はShift-JISの範囲内〕
一 変体仮名は平仮名に直したが、助詞に限り「ハ」と記されたものは遺した。
一 近世期に一般的であった異体字も生かした。
一 濁点、半濁点、句読点には手を加えていない。
一 丁移りは 」で示し、各丁裏に限り」1 のごとく丁付を示した。
一 底本は、保存状態の良い善本であると思われる館山市立博物館所蔵本に拠った。
【付記】翻刻掲載を許可された館山市立博物館に感謝申し上げます。
〔表紙〕
〔序文〕
初学の人学問をさへすれはすみやかに聖智も悟りうるとこゝろ得我生得の外に精を出し日夜書物にふけり人にも問などしても未心の至れる時ならでは悟り得ること難し我精氣の外を勤ぬれば倦退屈して斈問に怠りたま/\聖意を悟り得べき時もはじめの巌重学労に」
こりて心をおろそかになすゆゑに根本の聖意を終にしらずして捨る輩多しとかしこき人のいへるぞことはりにこそとおもひとりて年來つくれる草紙の浅/\しきは予が拙きのみにはあらず灸と甘味二道のをしえにもとづく業なりかしされは此冊子も児女童幼達の勧学の端とも」序1
ならばいかばかりうれしからんと思ふのみつくりざまの拙きをあげつらふ事なくて巻中にならべたる孝女節婦のいさほしをおのが鏡とよませたまへと烏呼がましくも申になん
維時天保五稔甲午孟春
爲永春水識[印]」
〔再識〕
忍ぶ山また異方の路もがな古ぬる跡は人もこそしれ』と兼好法師が戀の歌おもひ出れは世の中の貴賤隔てなく戀の山路や戀慕の闇迷ひいりぬる漢子のかぞへも尽ぬことぞかし慎みがたき道なれど思ひ初ぬる節よりぞ婦女子の賢愚貞操をよく/\正してかたらへば日を經て悔しきこともなく情も深きことぞあるまた女子達もよく思へ只その色香を愛する者は嵐の後の桜花をいたみてめづる心なし凡男女のわかちなく全盛よりハ哀れげなる中に誠の情はありなんさハいへ人の春心またいましめに隨ふことまれにもかたきわざになん戯友」序2
文亭綾継大人の哥に
身にそはぬ春の心とこゝろして見てさへ花にさそはれにけり
實にこの一首ぞ色情を慎しむをしへの秀逸なれは例の作者が異見の癖餘帋をふさぎてくだ/\しく婦女子をいましむはしとはなせり
天保四癸巳年九月刻成仝五甲午年正月發兌
東都戯作者 金龍山人狂訓亭
爲永春水誌[居角金|亀山印]」
〔口絵第一図〕
続千載集 為教卿\
曇なき かげもかはらず むかし見し 真間の入江の 秋の夜の月\
豊嶋家の侍女 櫻木」序3
原是真間の郷士手古那の三郎が秘蔵の處女艶色無双にして勇壮大丈夫にまさりまたよく舞々の業に名誉あり\
花の山うり庵あらば いはねふみ根ふみたかくも かひにのぼらん\
石濱の里の舞子おかめ」
〔口絵第二図〕
玉葉集\
旅人の 行方/\に ふみわけて 道あまたある むさしのゝ原\
女巡礼 青柳」序4
俊成卿\
戀せずは 人は心も なからまし ものゝあはれも これよりそしる\
神宮平左衞門の養女於袖」
〔口絵第三図〕
おぼつかな いつこなるらむ 土の香を たづねバ草の 露やみだれん」序5」
【巻頭・題】
從昔傳奇小説膾炙人口始四大\
奇者皆爲管係名教也這箇幼搆\
亦名教中之一奇豈可不膾炙哉\
其可其否乞問諸蜃樓虹宮云
甲午孟陽 最上羊齋題[羊齋]」序6
貞操婦女八賢誌初輯巻之一
東都 狂訓亭主人編次
第一回 〈興醫業秀齋仕豊島|志古郷匕女惱雪中〉
昔時無偶去 今年還獨歸 古人恩既重 不忍更雙飛と漢土の姚玉景が操の秀吟燕雀猶貞行を存ず人倫として貞心なくんバ鳥類にもおとりぬべし今ハ昔應仁元年のことゝかや武藏の國の江戸よりハ西にあたりて一里の農家商人雜軒し大塚といふ一町有けり此所に八年を住なれて神宮の後家と呼なせし四十才に過たる」
寡婦有只一人の娘をもちて梅太郎とその名を称歳ハ九才なりけるが髪の結風衣裳などよろづ男子の如くせりこハ子育のゆゑのみならで女主の他聞をつくろひ防要心にて幼児けれども男童ハ他のあなどり少なけれバかねて男姿に作りしとぞかゝれバ近隣人までも夲形の男子と思ふが多かりそもこの神宮の後家といへるハ元當国豊嶋の領主豊嶋の判官信國に仕たる神宮秀齋といふ医師の妻にて於匕といへりし者なるが主家内乱の節にあたりて其夫秀齋罪こうむりて便なき身となりしかバ此大塚にきたりしなりさて此里ハ秀齋が出産いでたる古郷にて今も」1
神宮屋平左衞門とて土地に旧名豪冨ありこハ秀齋が實家にて平左衛門といふ者ハ秀齋が別腹の妹なる於踏が夫のことにして初ハ其家の僕なりとぞ兄秀齋ハ幼年より商人の業を嫌ひ和漢の史に心をよせ詩歌連誹の遊びして算勘のことは顧らねバ継母於奸といひけるが前平左衛門に何節も疎ませんとぞ謀けるまた左なくとも秀齋ハ仁術をほどこして世を救はんとする氣あれバ他いはずとも商人の業をバいたく嫌ふが実なりまだ其頃ハ秀齋が平吉と呼しとき欲藏といふ支配人風諫ならでそしりて云やう世に蛍雪の勤学とか貧人が書讀に燈油の價」
なきハ雪や蛍を燈火にかりて学問せしよしを功名らしくいふめれどかせげバ利潤世の中に昼夜をわかぬ日間費し空心の満にハなりもせぬ物の夲のみ看てくらし果ハ油を買銭まで盡て雪なり蛍なり燈火に換る愚さハ物よまぬ人におとるべしまた博識とか霍乱とかになりおほせても其由を看出してくれる得意なけれバくされ儒者と賎められ八算習ふた丁稚小僧が洗濯老婦の賃高を寄算したるほどハしも礼をいはるゝことあらんやいと/\鈍き業にこそとあくまでそしれど平吉ハこれ天然の君子なりかの欲藏が蔭言を聞とハいヘどとがめ得ず父も嫌へる文道にて家の老漢と争はゞこれも不孝の」2
道にやならんと捨おきながら心にハその無礼なるをにくみつゝ実小人は利にのみ走りむさぼることに長たれバ聖賢君子の教の道ハ宇遠しと思ふも宜なりさハいへ文学の端くれも出身活業ならでやハと心に由断せざれどもこのころハ是応永二十七八年のことにして年毎に兵乱止時なけれバ文道ハ武家にも稀にて只さしあたることをもて當世なりといふめれバ経書詩文のゆゑをもて農商の徒に知らるゝ由ハ絶てなかりきされど平吉ハ何くれとなく読あさりてさらに倦ことなかりしが或日巣鴨へおもむきて骨董店を差覗き救民良劑とか表題せし紙魚〓夲をあがなひ得たるが好の道とて懐へおさめもやらず繰かへし繰ひろげつゝ」
帰り路の風も肌と要心する傷寒論の大意より百病應驗の奇法を集め原病の式細密なり其外俗療の即功まで部門をわけて記したれバ平吉ハこよなく悦びこハいと重法なるものかなわれ夲草ハよまねども配剤ごとに和語をもて薬名しるして形を画き四季の栄枯も製法もさてつまびらかなる老婆心昨日今日まで知らざりし背戸や畑の草葉も実良薬となることをこゝにはじめて自得せりもしこの中の一法たりとも用ひて病に功あらバいさゝか讀書の奇特にてこれ仁君の賜なりとハいへ脉症をしらざれバ湯薬ハためしがたかり外科門にしるされたる膏油をさきに煉こしらへて奇腫異瘡の類を治せんハ自他の幸ひなるべしと童心に」3
たのしくて野分の風に迯水のうねりを見する浪切縄手漂々として帰りしがかくて神宮屋の丁稚の中に白くぼ頭首の小憎あり平吉これを治して見んと外科門を細覧し一膏を練こしらへまづ心みに用ひしが其功あたかも神妙なりこれよりして平吉ハ奴婢等が病ハいふも更なり近きわたりの貧人が軽き病ハ此方より音信て施薬すること毎度其功なきハあらざれど猶少年のなすことゆゑ傍いたくそしるも有けりされど治療ハその図にあたりしば/\全快せし者どもが信用すること大方ならねバこゝに其身も頼母しく元来目なれし經書より読もうつれバ苦もなくて和丹両家の傳書より漢倭の良法をあなぐり求めて珍藏し果ハ五臓の病を察して六脉ともに明弁せり此」
節冨家の子息なれバ薬礼とてハもて來らねど軽少なるハ菓子の折詰多腹の薬料平愈の者ハ自神宮屋の家に來り平左衛門に礼を述上田の紬結城織またハ平吉が好べきものとしきけバ財をおしまず答礼おろそかならざるのみか古今奇代の童なりとてかまびすしきまでとりはやされ始そしりし支配人も口をつぐみて恐れけりかくて平吉が十六才のころにいたりて老医もこれを侮らずその名近郷に知られけれバ豊嶋十條三ヶの嶋上尾久下尾久待谷村荒木田下村稲束志村神宮等數郷の領主と仰れたる豊嶋判官平信國の陣営にまで風聴せられ芳名の高くきこえて正長元年九月の中旬つひに彼舘へ召出されて食禄多賜りつ神宮秀齋とハ各のりしなりこは」4
今よりハ三十九年過し昔のことにして秀齋が歳二十才なりさて秀齋は八年以前豊嶋家内乱の時にあたりて忠直の身をもちながら逆徒の為に謀られて果なく命を失はれ穢名を死後に残しつゝ其妻於匕ハ三十五才娘は纔に二才なりしが女子なるゆゑに母子とも追放されて詮方なくこの大塚へかへり來て寡婦くらしを八年が間兎も角もして過せしとぞ
○豊嶋の家の内乱ハ親族東西に立別れ家督を争ふ一奇談元木木餘六阿弥陀すべて八體の如來の縁起八佛感應の利益によりて八賢女子の出現等こと一回に説がたしよつて發端六回一帙近日に発市すべきになんこの初輯より第三輯の追加となすべき内談ハはじめよりして看官の婦女子に倦れぬ用」
【挿絵第一図】悪漢雪夜に匕女をなやます」5」
心にて是梓主のもとめに応ぜり止前説同時代應仁よりハ八年前寛正元年十二月末の五日の小夜ふけて降つむ雪ハ深山のごとく雪吹ハ礫を打に等しく野末村里白妙の雪をあかりにたど/\と身にしみわたる寒風に歯をくひしばり懐中に小児いだきし一人の女大塚の里にたづね來て此里にてハ第一と家居軒並豊なる幾戸か続く蒼廩に神といふ字の印ある大家の軒にやう/\と歩行なやみてたどり着さも哀れなる聲をあげ戸をほとほとと音なひつゝ 女「どうぞチトおたのみ申ます慥に此御宅ハ神宮屋のお見世でございますそうな早うお明なされてくださいましモシどふぞお願ひ申ますといへど家内ハ寐しづまり音沙汰なけれバ声高く戸もまた」6
つよく打たゝき 女「モシ/\どうぞ御面倒でもお頼み申ますといふうち泣出す肌の児をすかす母さへ涙聲乳房も氷のごとくなれバます/\泣てじれながらも寒さに絶ずや懐に縮む不便さいぢらしさ 女「ヲヽ/\寒かろう堪忍しやだがよ/\とゆりあぐる衿にヒイヤリ雪じまき。ヲヽウつめた。トン/\/\どうぞおたのみ申ます。家内ハやう/\目をさませど邪見の家の召使丁稚も無得の奴等にてさもけんどんに寐惚聲 手だい「夜ハ見せハ明ません買物ならバあしたになさいまし 女「イヱ/\私ハ此方の親類豊嶋の陣屋から参じました於匕と申者でございますどうぞこゝをお明なさるやうに奥へさう申てくださいましト云こめバしばらくして 手代「モシ女中さん旦那にさやう申ましたが」何分物騒な時分がら夜中に門ハ明られません達て御用なら明朝早くお出なされまし 女「ハイ/\左様でハござりませうが乳呑児をつれまして此大雪誠に難義いたします御面倒ながらどうぞこのわけを被仰てお助なさるとおぼしめしお家内へいれてくださいましヲヽ/\坊も氷の様に冷きつたさぞ寒かろう堪忍しや今に伯母さんに火をおこしてもらつて温厚をしましよのふトいはけなき児に力をつけふるへて軒に彳ど家内にハかさねて音もなく夜ともろともに深々と降つむ雪にものすごき此方の軒端に伏たる乞喰目を覚してつぶやく聲 乞じき「ヤレ/\いま/\しい濁酒のおかげで節角しのぐこの大雪やう/\すこし寐入ばなのお枕もとでそう%\しいどいつじやしらんと起上り雪間を」7
いづる七ッ梅の菰をふるつて神宮屋の軒にたゝずむ女をバ雪あかりに差のぞき 乞「ヤレ/\/\おらァ仲間のかゝァめらが喰ひ醉てもしたのかと思つて小言をいふやつさ氣の毒なかわいそうに行人そふなモシ女中さんこゝの見世へ何のむしんか知らねへが夜中なんぞにおこしたといつて門を明そうにもする風か三年三月軒端に立ても粟一粒くれねへ家だァそれよりか此横町へまがると稲荷さまの社があらァ今夜ァマア其所へ行て夜を明しなせへ私も酒かさめたら軒下にやァゐられねへ同志にいつて火でも焚てしんぜませうサア/\此方へ來なせへ/\どうして其処にゐられるものかおまへハ兎も角も小児のがこゞへ死なァトいはれて女ハ乞喰としれど途方にくれたる時節 女「これハ/\信切などふぞそんなら」
夜明までと肌冷わたる夜寒の雪風焚火といふが嬉しさに賎しき非人に伴はれていざゝ邑竹みし/\と雪折聞ゆる生垣の横町さして曲道一町余りすゝみ行バいとさゝやかなる小社の森の中にぞ見えたりける彼野伏りハ前に立溝を飛越二ッ三ッ倒れかゝりし鳥居にすがり跡見かへりて聲をかけ 乞「ヲットあぶねへ/\私がまねをして飛じやァけがをしやす右の方へ五間ほど行とそれ土橋が有やすそこから來なせへそふだ/\ト云ながら社の格子を引明つゝ板敷二まい取除き 乞「さて居爐裏ハ早速出来たが穂口がしめつてつけバいゝがト火打付竹取出し〈今のつけ木のこと
サア/\おかみさんマア/\こゝへ這入はいんなせへ今いま直ぢきに火ひが出来できやすドレ/\と摺すり火打ひうちコツチ/\/\ イヤさつそく付ついたこいつハありがてへしめた/\まづ此この枯かれ」8
枝ゑだへつけてこれから薪たきゞの工面くめんだト四方あたり見みまはし打うちわらひイヤァ沢山たくさんにあるぞ/\ト奉納ほうなうありし絵馬ゑまの額がく引放ひきはなせバ行人たびの女をんな 女「アヽモシそれは神かみさまへあげた信者しんじやの願込くわんごめもつたいないこと何なんぞ外ほかに 乞「ハヽヽヽなる程ほどいへバそんなものだが人ひとをすくふハ神仏かみほとけのお役やくだから三さん四よ人にんの命いのちをたすかる此この焚火たきびまんざらばちもあたるめへと押割おしわり踏割ふみわり焚たきつけて「ヤレ/\/\寒さむいぞ/\サアモシ女中ぢよちう何なんにも遠慮ゑんりよハいらねへふみはだかつてまた火びをしなせへ 女「ヲホヽヽヽヽ勿躰もつたいないことをしかしマアおまへのおかげで此この寒氣かんきを凌しのぎますモウ/\/\今いましがたハこゞへ死しぬかと思おもひました。まことに申さバおまへハ二人ふたりが命いのちの親おや明日あすにも此この身みが落着おちついたらバ急度きつとお礼れいをしますぞへトいふを非人ひにんハ高笑たかわらひ 乞「ナニ/\わしらァ」
おめへ其その日ひぐらしといひてへが一時いつときぐらしの虫むしけら同前どうぜん。後あとで礼れいなんぞとそんなことハ當あてにやァしやせんモシこれが忝かたじけねへとおもはつしやらバ今いま直すぐにちよつと礼れいをうけりやァそれでいゝのサ 女「それじやといふても俄にはか浪人らうにんたくわへもない身みのうへまた少すこしばかりじや此このお礼れいハ 乞「コレサ/\錢金ぜにかねをもらはふといつてこんな面倒めんだうなことハしやァしねへハナそれより手輕てがるい礼れいのしやうがありやすぜコレおめへも寒さむさしのぎにやァまんざらでもあるめへと焚火たきびの側そばで抱付いだきつくを突倒つきたふして気色けしきを正たゞし 女「これハしたりめつそうな女をんなと侮あなどつて麁相そさうしやるときゝませぬぞ浪人らうにんしても武士ぶしの妻つま 乞「アハヽヽヽヽ イヤそんな古風こふうなせりふハいはねへものだ命いのちの親おやだといつた口上こうじやうが半分はんぶんハ虚言うそに」9
してもちよつと抱だかつて寐ねるぐれへそんなに腹はらァ立たつわけもねへ娵入よめいり前めへの箱はこ入いり娘むすめかなんぞじやァあるめへしコウ菰こもッかぶりだといつてそんなにやすくしなさんな此方こつちも腹はらの中なかから乞喰こじきじやァねへぜ世間せけんなみより奢おごりが好すきで身みをもちくづした色いろと酒さけそれよく男をとこぶりを見直みなほしねへ世よが世よならバ此この歳としじやァまだ新娘子しんぞつこと恋情いろごとで氣きをもませる時分しぶんだァおれから見みりやァおめへハまたチトしゆんおくれな四月うづきの桜さくらはゞかりながらそんねへに相手あひてをえらむわけも有あるめへしかし小意氣こいきな大おほ年増としまずゐぶん小二才こにせへといろも出來できる局女郎きりでもたゝきやァ長屋ながやのお職しよくといはれる顔かほのすまひだから。サアと云いつても相模女さがみとちがつて立たてにかぶりハふらねへはづだヲヤ」
おめへにうかれて火ひが消きえらァトまた焚付たきつけてしがみつく女をんなハ歳としをとりたれど花車きやしやな育そだちのことなれバなか/\敵てきたふことならず 女「アレサ マア アレヱ引無躰むたいなこの子こがト迯にげんとすれど衣類きものの裾すそふまへてちつとも動うごかさず聲こゑをたてゝもこゝハはや町まち遠とほざかる裏手うらて道みち殊ことに深夜しんやの雪ゆきなれバ人ひとの問とひ來くる由よしもなし既すでにあやうく組くみしくをくゞり抜ぬけつゝ掾ゑんより外そと迯にぐるをやらじと追おひかゝる非人ひにんの面おもてを見みかへりながら雪ゆきをさそくの目めつぶしもひるまぬがむしやかよはき女をんなあなたこなたと迯にげまはり社やしろにつゞく杉垣すぎかきを越こゆれバこゝハ廣々くわう/\たる墓所はかしよの原はらにぞ出いでたりける非人ひにんも同おなじくをどり越こえ女をんなの後うしろへ飛とびかゝれど数かずをならべし乱塔らんたうの石いしに歩あゆみをへだてられ心こゝろを」10
せいたる面つらたましひいと恐おそろしきその風俗ありさま女をんなも石いしに氷こほりたる足あしのおゆびをけあてつゝアットよろめく其その所ところへちやうど走はせよる彼かの非人ひにん乱みだれし女をんなの黒髪くろかみをとらへんとしてさし出いだすその手ての下したより突出つきいだす當身あてみに胸むねをいたくつかれてウント倒たふるゝ惣卵塔はかはらの邊ほとりよりして立上たちあがるハ無縁むゑん法界ほうかい墓所むしよ道場たうぜうを毎夜まいよさめぐる寒念仏かんねぶつ鐘かね打うちならす鉦木しゆもくにて彼かの非人ひにんをバ突つきしなり墓前ぼぜんに置おきし松明たいまつを〈このころてうちんハなしさしゑに|てうちんをゑがくハ婦女子ふぢよしのみる為ため也〉ふり照てらしてこれかれをとくと見みかへり仏名ぶつみやうをしづかにとなゆる修行者しゆきやうじやハ六十余才むそぢをこえし老僧らうそうなりおどろきおそるゝ女をんなを見みかへり かんねんふつ「コレ/\女中ぢよちう氣きづかひをさつしやるなわしハこの表町おもてまちの隠居いんきよで梶原かぢはら堀ほりの内うちの菴あんに居ゐる寒中かんちう修業しゆぎやうの同心どうしん坊ぼうじや若わけへうち」
から持もちまへの腕立うでだてこれでも此里辺こゝらの若者わかいもの頭がしら人ひとの難義なんぎをすくふのがわしの誓願せいぐわん今いまも此この宿やどなしめがわるさの様子やうす通とほりかゝつてちらりときいたがよもやこれほど無法むほうハしめへと耳みゝにも止とめずこゝへ來きて回向ゑかうの最中さいちう此奴こやつめが眼めもくらんだか私わしが上うへををどり越こすゆゑ殺生せつしやうと思おもひながらも邪正じやしやうのさかひ死しんでも罪つみにやァならねへ乞喰こじきいらざる世話せわだがそなたの難渋なんじう此儘このまゝおくもかはいそうだ。と聞きいて女をんなハ手てを合あはせ嬉うれし涙なみだをながすのハもの云いふよりもまさりけり かんねんぶつ「サア/\私わしと同行どうしにござれ我子せがれが住居うちハ表町おもてまち今夜こんやハそこでやすまつしやれいろ/\わけも有あるだろうが此この災難さいなんのやうすでハさだめてつかれも思おもひやられる萬端よろづのことハ明日あす聞きかふござれ/\と打うち連つれて大塚おほつかの町まちへつれ行ゆきける」11
第二回〈依仁侠景浄翼寡婦じんけうによつてけいじやうやもめをすくふ|論親疎荘官正宴席しんそをろんじてしやうくわんえんせきをたゞす〉
再説さても修行者しゆぎやうじやハ於匕おさぢを我子わがこの家いへに伴ともなひ終夜よもすがら介抱いたはらせその翌日あけのひにやうすをきけバ神宮かには秀齋しうさいがことより始はじめ此度このたび古郷こきやうへ帰かへりし志こゝろざしまで一十くわしく語かたりて一向ひたすらに頼たのみけれバ元來もとより弱よはきを介たすけ強つよきをくじく仁侠をとこぎの同心どうしん者じや梶原かぢはら堀ぼりの内うちに隠かくれ住すめども今いま猶なほ此近辺こゝらの人々ひと%\が源太げんだ同心どうしん景浄けいじやうとて活気くわつきを賞しやうする壮心そうしん者もの合点うなづきつゝ聞きゝ果はてしが腕うでをさすりて我わが子こどもに向むかひ 源「なんとマア氣きの毒どくなわけじやァねへかおらァこんな理わけを聞きくと半時はんときも捨すてちやァ置おかれねへ今いまからすぐに神宮かには屋やへ行いつて此この女中あねごの立行たちいきのなるやうにはなしをして」
來くるから今朝けさハなんぞ温あつたかなものでもこしらへて朝飯あさめしを進しんぜろよドレ行いつてこやうと立上たちあがれバ其その子こと嫁よめハ言葉ことばをそろへ 子嫁「ヲヤまだあんまり早はやいじやァございませんかおまへも御膳ごぜんをあがつてから おさぢ「ひよんなことでお年寄としよりに不時ふじな御ご苦労くらうをかけ申ますマア朝飯おしたくでもなさつてどうぞ 源「イヤ/\/\ゆふべの雪ゆきに戸とも明あけねへといふ神官かには屋やの強慾がうよくどもその元もとをたゞして見みりやァ秀齋しうさいどのが取とるべき身上しんしやう惣躰そうたい不断ふだん氣きにくはねへ猿さるまつめら理道りみちでいかざァ腕うでづくでもこの衆しゆうの肩かたをもつてしかけた世話せわをして見みせるどうで直すなほにツイちよつと得心とくしんするやつらじやァねへことによつたら村中むらぢうをあつめて評義ひやうぎもしざァなるめへその氣きで今いまに勘太かんたか孫三まごさが見みえたらバわけを」12
あら/\はなして置おきやれトまだ解とけやらぬ雪道ゆきみちに木履ぼくりの跡あとをつけさせて出行いでゆきけるが半日はんにちあまり待まてどくらせどかへらねバ兎とや角かく案あんじて噂うわさするその門口かどぐちへ荘官しやうやの杢兵衛もくべゑ 杢「 源三げんざうどのハお宅うちかな 源「{これハ/\荘官おやくとうさま此この間あひだハ御ご無沙汰ぶさた申ましたなんぞ御用ごようでござりますか 杢「イヤ外ほかのことではないが今いまのはなし親父おやぢどのハ奥おくにかな 源「イヱ/\親父おやぢハ神宮かには屋やへ今朝けさほどまゐつてまだ宅うちへ 杢「ハアそれでハ何處どこへか寄道よりみちしたかそんなら今いまに戻もどるであろ一服いつふくして待まちましよと手てづから居爐裏ゐろりの渋茶しぶちやを汲くむを 源「これハしたり今いまあげます其その茶椀ちやわんハよごれてある 杢「何なんの/\かまはつしやるなとハいふものゝ麁朶そだでもあらバこゝへ一トくべおごらつしやれ支配しはいの衆しゆうへ」
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【挿絵第二図】神會まつりのせきに梅太郎うめたらう災難さいなんを蒙かうむる」 15」
日にち之の為ため證文しやうもん如件くだんのごとし 神宮かには平吉へいきち殿どの 庄官しやうや杢兵衛もくべゑ 村むら役人やくにん孫三郎まごさぶらうとよみ終をはつて杢もく兵衛べゑハ源太げんだ同心どうしんにうちむかひ 杢「コレ/\こりやァ私わしが親人おやびとの手跡しゆせき殊ことに孫三まごさが證人しようにんなれバ四しも五ごもいらぬ神宮かには屋やハ 源太「家いへも此方こつちへとりかへして おさぢ「イヱ/\其その様やうなことハ望のぞみませんどうぞおぼえた琴こと手習てならひ針はり仕しごとでもいたしまして小児ちいさいのを育そだてますれバそれが此身このみの夲望ほんもうでございます 源太「なる程ほどそれも意地いぢづくだナア荘官せうやさん村むら入用いりようの積金つみきんを少すこし借かりたり頼母敷たのもしでもしてもらふたら家いへ一軒いつけん阪田やせだの二にまいや三枚さんまいハ女中ちよちうに合力かふりよくされさうな 杢「アヽ出來できるとも/\晩ばんに早速さつそく集會よりあいして談合だんかふしたらいなやハ有あるまいノウ女中ぢよちう此処こゝの親父おやぢが請合うけあふたら無理むりでも出でかす男氣をとこぎじや安心あんしんして居ゐさつ」16
しやれドリヤ其そのつもりで集會よりあひを村中むらぢうへふれませうと荘官せうやも帰かへり景浄けいじやうもおのが庵いほりへ帰かへりしがこの後のち村中むらぢう談合だんかふ調とゝのひさゝやかなる家いへをしつらひお匕さぢを住すまはして琴こと手てならひ其その外ほか女をんな重宝記てうほうきの指南しなんをなして八年やとせこのかた此この大塚おほつかに住すみけれど夲家ほんけへハ立たちいらず神宮かには匕女さぢめと家札やふだをいだし梅うめ太郎たらうを育そだてしゆゑ所ところのものもいたはりて神宮かには屋やの夲家ほんけといふべき家いへすぢなりととりはやし平へい左衛門ざゑもんが強欲がうよくをにくみて折々をり/\そしりしかバ平へい左衛門ざゑもん夫婦ふうふのものハいとむやくしく思ひしが時ときハ應仁おうにん元年くわんねんの九月くぐわつの廾八日なりけん浪切なみきり不動ふどうの夲祭ほんまつりを久々ひさ%\にて興行こうぎやうなりとて花はなをかざりし屋躰やたいを引出ひきだし揃そろいの衣裳いしやう練子ねりこども思おもひ/\の出立いでたちして賑にぎはひいとも仰山ぎやうさんなり此この祭礼さいれいの濟すみて後のち郷中ごうちうの」
人々ひと%\を荘官せうやの宅たくへ招まねき集あつめ此この時ときにこそ家柄いへがらの次第しだいをわけて座ざをさだめ神酒みき頂戴てうだいの式しき作法さほうさも嚴重げんぢうになしけるゆゑ草分くさわけと呼よぶ村役むらやくあれバ由緒ゆいしよの家いへとほこるもありまた軍用ぐんようを勤つとめし身みなりと帯刀たいたうなんどなすものありこゝにお匕さぢハ源太げんだ法師ほうしと荘官せうやをバ親おやとし敬うやまひまじはりしが今日けふも荘官せうやに頼たのまれて勝手かつての業わざを手傳てつだひけりさて村中むらぢうの人々ひと%\ハ落おちなく荘官せうやの座敷ざしきに集あつまり村役むらやく年寄としよりのさし圖づによりてそれ/\の座ざに直なほりしに梅うめ太郎たらうハ茶ちやの給仕きうじして大勢おほぜいの客きやくあしらひをなしけれバ村むらの人々ひと%\口々くち%\に「イヤ神宮かにはの息子むすことのさすが由緒ゆいしよの浪人らうにん衆しゆといはれる母はゝ御ごの育そだてがらまだ九才こゝのつか十才とをぐらゐの子こどもの行義ぎやうぎといふべきかノウみなの衆しゆう人品ひとがらといひきりやうよし」17
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コレヤイ今日けふハたれしも身み祝いはひと新あらたに仕立したてた着初きぞめの衣裳いしやうコレ來年らいねんからまた祭年まつりどしまでの吉凶きつけうさだめと昔むかしから言いひ傳つたへたこの座敷ざしき産神うぶすな祭まつりでこんな目めに合あつてハ他人ひとさまにいはれぐさだうぬァおほかた母親おふくろの云いひつけで斯かういふわざをしおつたろうといふよりはやく引ひきよせて今年ことしわづかに九才こゝのつの梅うめ太郎たらうを拳こぶしをかためて丁てう/\/\これハとおどろく百性ひやくしやう町人てうにんはせ寄よつてわびるも聞きかず打うちすゆる非道ひだうのしかたに人々ひと%\が梅うめ太郎たらうを押おしかこひ平左へいざが相手あひてにならんとする後うしろの隔紙ふすまおし明あけて走はしり出いでたる荘官せうや杢もく兵衛べゑ平へい左衛ざゑ門もんを踏倒ふみたふし 杢「ャィこゝなばちあたりいかに少年ちいさい子こどもでも主しゆうのかたみの梅うめ太郎たらう打うちてうちやくして済すまふと思おもふか故人こじんの名代みやうたい秀斎しうさいどのに代かはつて」
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ざいで打うちたゝいたハ無法むほうでござる無法むほうなゆゑに杢もく兵衛べゑも無法むほうでいたすこのしかた小児こどもの麁相そさうを仰山げうさんにとがめだてして悪口あくこうハ村むらの衆しゆうへも無礼ぶれいでござる神酒みき頂戴てうだいの席順せきじゆんをたゞして見みれバ梅うめ太郎たらうハ平へい左衛門ざゑもんより上座かみざに置おくが順じゆんでござるを子こどもとあなどり只今たゞいままで給仕きうじをさせたハわしもあやまり何なにとそうでハあるまいか片かたよるひいきハしませぬぞトいふを聞きくより一同いちどうに ●「コリヤァなる程ほど荘官せうやさんのいはつしやるのが御尤ごもつとも貧びんぼうしても神宮かにはの正統しやうとう実じつの血ち筋すぢといふものハ梅うめ太郎たらうどのでござる殊ことに親おや御ごの秀斎しうさいどのにハおらが親父おやぢもばァさまも薬くすりをもらつて五年ごねんと十年じうねん生いき延のびた恩おんもあり ▲「また後家ごけどのにハ子こどもが手夲てほんよみかきのお師匠しせうさま其その外ほか琴ことだの針業はりわざじやのと教をしへて」20もらふ大事だいじの人ひと村中むらぢうが調宝てうほうかる梅うめ太郎たらうどの家柄いへがら今日けふから梅太うめたを正座しやうざにして平左へいざ親父おやぢの欲よくばりめハぼいくだしてしまはつしやいと皆みな口々くち%\のやかましさ弱よはきをすくふ倭やまとたましひ実げに頼母たのもしき鄙ひなの人情にんじやうそれ冨貴ふうきハたれも好このめども不義ふぎにして冨とみ不仁ふじんにてたれかハ是これを敬うやまふべき巨萬きよまんの財たからをつみたりとも情なさけを知しらず強欲がうよくにて子孫しそん繁昌はんしやうすることあらんや鳴呼ああ金銀きんぎんハ尊たつとけれども小人せうじんの為ために非通ひだうをおこさせ愚人ぐにんの迷まよひをおこさするの毒物どくぶつ也と悟さとりてハ心こゝろ正たゞしく慈悲じひをほどこし情なさけをもつて世よに立たゝバたとへ貧苦ひんくにくらすともこれ徳行とくかうの長者ちやうじやといふべし
貞操婦女八賢誌ていさうをんなはつけんし初輯しよしふ巻之一終」
貞操婦女八賢誌ていさうをんなはつけんし初輯しよしふ巻之二
東都 狂訓亭主人編次
第三回〈罵親族毒婦怨荘官しんぞくをのゝしりてどくふしやうくわんをうらむ|告婚情老婆説匕女こんじやうをつげてらうばさぢめにとく〉
されバ神宮かには屋や平へい左衞門ざゑもんは荘官しやうや杢もく兵衞べゑが酒宴しゆゑんの席せき衆人しゆうじんの筵なかにて耻はぢをさらし無念むねんやるかたなけれども里人さとびと九分くぶハ梅うめ太郎たらうをひいきしておのれをひくものまれなれバすご/\として我わが家いへへ帰かへり來きたれバ女房にようばうのお踏ふみはやがて出いで迎むかひさもいぶかしげに平へい左衞門ざゑもんをうち詠ながめ ふみ「ヲヤおまへさんマアどうしたのでございますヱ髪かみも乱みだれて顔色かほいろといひ合点がつてんのいかない喧嘩けんくわでも」なされたのでございますかヲヽ/\/\このマア衣類きものハ肩かたから膝ひざへかけてマア/\どうしたのだかなんでも只たゞごとでハ有あるまい早はやくわけをおきかせなさいけしからねへ仕立したておろしの小袖こそでをこんなになさるとハあんまりなことだこりやァモウこのしみハ洗あらつてもきれいにハなりハしないどうしたらよかろうやらと口くちやかましきおふみがさわぎ似にたもの夫婦ふうふと平へい左衛門さゑもんも他ひとのみ恨うらみ愚智ぐち短才たんさいせきたつ妻つまのいきほひにおもひだしたる口惜くちをし涙なみだ 平「マア/\わけを聞きかつしやれ酒さけのあげくに酔よひ倒たをれてこんなざまかと思おもはれてハうまらねへホンニ/\いま/\しいこのしまつ死しんでも捨すててハおかれぬわけと聞きいいておふみハ膝ひざすり寄よせ ふみ「サアそのわけをはやく披仰おつしやれ相手あいてハたれじやどうしたことゝ薪たきゞに油あぶらの」1
立はら腹たち皃がほ平へい左衛門ざゑもんハおのが手てでおのれが胸むねをさすりながら荘官しやうやの宅たくの一いつ件けんを残のこらずはなしておふみが親おやのお肝かんが下女げちよよりなり上あがりしことその身みが丁稚でつちでありしこと凡およそ神宮かにはの古事こじ來暦らいれき諸人しよにんの中なかで杢もく兵衛べゑがならべ立たてたることまでを一々いち/\妻つまに物ものがたり恥はぢの清書せいしよと思おもはぬたわけおふみハこれを聞きくよりも歯はぎりをかみてくやし泣なき青あをくなりまた赤あかくなる半はん狂乱きちがひの憤いきどほりとがなき下女げぢよをしかりつけ喧嘩けんくわすぎての棒ぼうとやら譬たとへにもれぬ身みびいきにたけりたちしがしばらくしてやう/\心こゝろをおししづめ ふみ「モシ私わたくしやァあした梅うめ太郎たらうが所ところへ自身じしんに行いつてこのわけを正たゞしますョ 平「ヱそうかしかし庄屋しやうやの宅たくでおこつたわけを後家ごけに云いふても返答とりあふまいぜ ふみ「ナニ/\酒さけの席せきのことハ兎とも」
角かくも梅うめ太郎たらうが方はうへしりをやらねへけれバならないことがございます 平「ィャ/\それでもなまなかな事ことを云いひ出だしてハ ふみ「イヱ/\外ほかのことハどうでも実じつは夲家ほんけを継つぐ身みだの血脉ちすぢだのといふことハ正たゞさなけれバなりません血脉ちすぢをいへバ私わたしハ伯母おば梅うめ太郎たらうハわたしが甥おひ何所どこまでも目下めした兄嫁あによめじやと云いつてもお匕さぢハ他人たにん何なにアノ後家ごけにりきまれてなるものか明日あした中ぢうにわけをつけてあやまり證文しやうもんでも取とるか神宮かにはといふ名氏みやうじを取とりあげるかせねバなりませんおまへもまた男をとこらしくもないなぜ其その席せきでおもいれ理屈りくつを云いはないのだねへ勝手かつてについて他たへ出でた兄あにの跡あとを実じつの妹いもとが継ついで居ゐて他人ひとにかれこれ非点ひてんをうたれてなるものかモウ/\私わたくしやァそんなことを云いはれるとくやし」2
くつて/\寐ねても寐ねつかれやァしませんいつそ今いまからすぐに行いこふかしらんまことにモウ/\不吉ふきつなことだ祭まつりだといふのに此様こんなことゝいふが有あるものかと智恵ちゑあり顔がほにしやべりたていとはしたなきそのありさま他目おかめで看みればおふみが如ごときをたれかハよしと思おもふべき凡およそ女子をなごハ才さいありとも萬よろづ男子なんしのする業わざに口くちさしいだすハさがなきわざぞ只たゞ何事なにごともおとなしくいはぬハいふにまさるべきことゝ慎つゝしみ用心ようじんあるべしさて彼かのおふみハ夜よのあくるをいともおそしと待まちわびて鶏とりのうたふと諸共もろともにおきて手水てうづよ湯ゆよ糠ぬかと物見ものみ遊山ゆさんに行ゆくごとくさもはでやかに粧よそほひて四十才よそぢの上うへをこゆるぎの磯いそのさゞなみ額ひたひの皺しはを玉子たまごの白味しろみに引延ひきのばし衣類いるゐを着きかへ尻しりをなべ下女げぢよと丁稚でつちを供ともに」
つれ只たゞ一町ひとまちにたらざりし里さとの軒端のきばの遠慮ゑんりよなく勿躰もつたいつくる御ご新造しんぞ皃がほ鼻はなおごめかして立出たちいでしは浅々あさ/\しくもおかしけれかくて梅うめ太郎たらうが家いへに行ゆき夫をつとのはぢをそゝがんと廣言くわうげんはらひしおふみが風情ふぜいさも有ありなんかと平へい左衛門ざゑもんは心待こゝろまちして樂たのしかりしがやゝしばらくして帰かへり來くるおふみハ心こゝろにせくこと有ありけん逆上のぼせし顔かほに白粉おしろいのまだらを見みせる厚あつ化粧げしやうはげて今いまさら面目めんぼくも泣出なきだしそうな面つらふくらし見みせより入いれバ支配人ばんとう手代てだい「ソレおかみさまのお帰かへりとさゞめきわたるあいさつも耳みゝにハいれど氣きにいらぬ常つねから癖くせの機嫌きげんかへ黄きわだをねぶりし唖おしのごとくむぐ/\として奥おくへゆく平へい左衛門ざゑもんは立向たちむかひ 平「ホヽ思おもひの外ほかに埒らちあきしかとんだ帰かへりが早はやかつたといへど」3
頓すぐにハ返事へんじもせず下女げぢよと丁稚でつちを勝手かつてへ追おひやり勢いきほひ抜ぬかしてがつかりと投首なげくびしたるおふみが風情ふぜい氣きづかはしけれバ平へい左衛門ざゑもん 平「ナゼ其様そんなに元氣げんきのねへ顔かほをして居ゐるのだマア着物きものでも着きかへて休やすみなせへな ふみ「やすむ所どこじやァねへモシ大変たいへんだョうか/\して居ゐると彼奴あいつ等らにどんな目めにあはせられるかもしれないョ 平「ナゼ/\何なにが大変たいへんだ ふみ「何なにがといつていままで私わたしも氣きが付つかなんだが田地てんぢや地面ぢめんの株かぶ證文しやうもんハ家内うちにハないかね 平「ヱヽナニ何なにも入用いりようもなし近頃ちかごろ賣買うりかひした田畑でんはた地面ぢめんハ有ありハせず昔むかしからの儘まゝだものを古券こけんも手形てがたも入用いるものかなぜそれがどうした ふみ「どうしたと云いつておとッさ゜んの遺言状ゆいごんじやうや大切たいせつな書物かきもの圓塚まるづかさまの御ご用金ようきんから平塚ひらつかさまへ出だした米こめの」
御お手形てがた御お證文しやうもん何なんでもこゝの宅うちに付ついてなくつてハならない大事だいじのものを残のこらず梅うめの母親おふくろが持もつてゐますョ 平「ナニ/\そりやァマア大変たいへんなはなしだそれじやァ実じつにこまつたわけだがそしてマァ後家ごけハ何なんと云いつて居ゐるヱ ふみ「ナニ何なんともいひハしないが此この通とほりの書付かきつけもございますといはれたからわたしもぎよつとして帰かへろうとするとお匕さぢがいふにハ何なにも今いまこれを出だして物ものをいふ氣きもないがまさかの時ときハどうかしておもらひ申ますまづそれまでは此方こちらの勘弁かんべんで夲家ほんけハ夲家ほんけで捨すておくがことによれバといふ口くちぶりハ是非ぜひ/\始終しじうハ云いひ出だす了簡りやうけんそれにやァ亦また庄屋せうやをはじめ源太げんだ坊主ばうずの息子むすこの源三げんざうなんぞが腰こしを押おすから今いまにも懸かゝつて來くるかも知しれないョモウ/\」4
くやしさもくやしし胸むねが痛いたくつてなりませんとさすが奸智かんちの悪婆あくばでも家いへの血脉ちすぢの正統しやうとうで殊ことに證文手形しやうもんてがたまでそろへて持もちし神宮かにはのお匕さぢ梅うめ太郎たらうといふ二人ふたりにハ首あたまのあがらぬわけなれバ平へい左衛門ざゑもんも途方とはうにくれ俄にはかに胸むねを轟とゞろかすおのが炎ほのふの火ひの車くるまもゆる思おもひの夫婦ふうふの溜息ためいきあきれて見合みあはす面つらつきを見みて見みぬふりの下女げぢよ婢女はした主しゆうとハいヘど非道ひだうものと恨うらむ底意そこいのものなれバさも有ありなんといふ面つらハ見みえても腹はらをたつ事ことのならやはんの木き松まつの薪まきいぶる竃土かまどを氣きをつけやれといふより外ほかに小言こごとさへいひそゝくれてどぎまぎと心こゝろをなやます中なかの間まへ娘むすめお袖そでハおとなしく そで「ハイ母人おつかさんたゞ今いま ふみ「ヲヤ手てならひからかおそかつたの そで「ハイ氷川ひかはさまに十二しうに」
【挿絵第三図】口入くちいれ老婆らうば匕女さぢめをすゝめて梅うめ太郎たらうを養子やうしにすゝむ」 5」
座ざが有ありましたから少すこし見みておりましたといひつゝ立たつて行ゆく姿すがた見みおくりながら母親はゝおやハ風ふと思おもひつゝ一トひと手段しゆだん胸むねにうかんでやう/\と皃かほの色いろさへ直なほりしがその夜よ平へい左衛門ざゑもんに囁さゝやきて何なにか知しらねどおのれらが身みの用心ようじんに由断ゆだんなくまづ其その年としハ過すごしけるがこゝにその頃ころ大塚おほつかの里さとの裏手うらてに住居すまゐするおわらといひし口入くちいればゞ或ある時ときお匕さぢが家いへに來きたり活業しやうばいがらとて世事せじもよく門かとに遊あそびし梅太郎うめたらうを見みるよりにこ/\笑わらひかけ わら「ヲヤ/\梅うめさん竹馬たけうまかへ子こども衆しゆといふものハ兎角とかくあぶないことが面白おもしろいものそうなホンニいつ見みてもきれいなお子こだぞこれで女をんなのお子こだと圓塚まるづかさまのお姫ひめさまにしても煉馬ねりまさまの奥おくさまと云いつてもはづかしくない御ご容才きりやうだけれどどうも殿御とのごでハしかたがない。ハイ今日こんちは」6
お師匠ししやうさん御ごきげんようございますかお庭にはの梅うめがモウさかりになりましたねへ九月くぐわつのお祭まつりハ昨日きのふのやうに思おもひましたにモウ去年きよねんになりました おさぢ「ヲヤ/\おばさんおめづらしいネ サァ マァ チットおあがりな何なにをおいひだか氣きがつかなんだョ わら「イヱサ不動ふどうさまのお祭まつりに梅うめの造花つくりばななんぞが出來できましたつけがモウ直ぢきに三月みつき四月よつき立たちまして実ほんとうの梅うめが咲さくやうになりましたと申ことサ おさぢ「ほんにねへ月日つきひのたつハ早はやいものしかし子こどもの手足てあしを早はやくと思おもへバさてなんだかじれつたいやうで手てまへの歳としの寄よることハおもはぬものサネ サア/\こつちへおあがりヨ わら「ハイ/\ありがたふぞんじます左様さやうならすこし御免ごめんなされませわたくしハちィッとあなたにお聞きゝ」
申たいことがあつて参さんじましたがどうでございますか おさぢ「ヲヤ何なにをヱ わら「イヱサ外ほかのことでハございませんがこちらの梅うめさんをひどくほしがる所とこがありますが御ご養子やうしにおやりなさる思おぼし召めしハございませんか尤もつとも一人ひとりツ子こといふことハ先さきさまでも御ご承知しようちゆゑあなたを御ご隠居いんきよさせ申てすこしも御ご不自由ふじゆうさせ申さないと被仰おつしやるし亦また年頃としごろにおなりなされバあちらのお嬢ぢやうさまと直ぢきに御ごこんれいもなさると申すことでございますが誠まことに御ご内福ないふくでございますからどうぞお世話せわを申たいとぞんじまして おさぢ「それハ/\御ご信切しんせつにモウありがたふしかし御存ごぞんじのとほりのいたづらもの中々なか/\モウ他人ひとさまの中なかへまゐつて半日はんにちも居をることでハございません殊ことにどうも他たの家いへを継つがせてハ」7
亡人なくなつた亭主つれあいに遺言ゆいごんせられたわけも有ありまして養子やうしにハどうも わら「もし亦またそれがならぬと被仰おつしやるわけならバさきさまの娘御むすめごをこちらへ嫁よめにおもらひなされてハわるうございますか おさぢ「ヲホヽヽヽヽおばさんとしたことが梅うめをマア何才いくつだとお思おもひだ改年あけてやう/\十才とをにしかならないものを嫁よめどころでもございますまい今いまもいま竹馬たけうまに乗のるかとおもへバお隣となりごツこだのおかみさんだのといつて女をんなの子こどもと遊あそんでまゝごとのあげくにハ大おほ喧嘩げんくわサ。やれ若衆わかしゆの亭主ていしといふハおかしいといへバ亦またこちらでハいやなおかみさんだ芥子けし坊主ぼうずのおかみさんとハはじめて見みたの何なんのと云いひやつて泣なくやら笑わらふやら大おほさわぎモウ/\どうしてさつぱりらちハあきません他よそのお子こハモウ十才とをにもなると少すこしは」
聞きゝわけがあるけれど梅太郎うめたらうと申たらまことに小児ねんねへてこまりますヨそしてマアそのやうに被仰おつしやつて下くださる先さきさまハどなたでございますヱ わら「イヱサ実じつは此方こなたとのがれぬ中なかアノ神宮屋かにはやさまでございます おさぢ「ヲヤ/\それじやァどうして此方こちらとハ敵同士かたきどうしのやうにおもつてござるそうだから わら「イヱ/\/\それがおほきな間違まちがひ今いまじやアこちらをどのやうにか大事だいじにおもつてお出いでなされますと申ても一トとほりでハなか/\御ご承知しようちもございますまいがくわしく申せバマァ斯かう云いふわけでございますと尻しりをすゑたる口入くちいればゝその道々みち/\を頼たのんだる彼かの神宮屋かにはやのおふみが内心ないしん善ぜんか悪あくかは知しらねどもまづその由よしを聞きかんとて思おもはず膝ひざをすゝめつゝ爐ろにいく度たびか」8
継つぐ炭すみも愛相あいそうぶりと見みえにけるおわらハやう/\胸むねの中うちに記憶きおくをしらべて舌したなめまはし話はなしの間あいだに手てまねする仕しかたも癖くせに有ありとしるべし わら「マァくわしくと申た所ところが永ながいことでございますからうろおぼえなこともございませうがまづ神宮屋かにはやのお内室かみさまが被仰おつしやるにハ八年はちねん以前いせん雪ゆきの夜よにおまへさんが。たづねてお出いでなされた時とき門かどを明あけぬハ見みせの者もののしわざまた翌日よくじつ源太坊げんだばうさんがござつた節をりもまんざら無法むほうなあいさつをしたわけでハございませんとさ只たゞうたがはしいと思おもふからどうぞよく実正じつしやうを聞きいて見みてくださいといふと直ぢきに腹はらを立たつて。だれだと思おもふ馬鹿ばかなつらな梶原村かぢはらむらの源げんさんが請合うけあつて來きた一件いつけんだアいさもくさも有あるものかコレヱおれが今いまじやァ頭あたまを」
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年としハ十一才しういち梅うめさんにハ一ッまし世間せけんで一ッましハ仕合しあはせがよいとむかしから申ます兎とも角かくもさきさまでマア後悔こうくわいしてはやくいへバ手ておくれながらあやまつて來きた同前どうぜんとハ申ますものゝ表向おもてむきで他ひとさまを頼たのんでハまた間違まちがひの種たねにでもされてハます/\不和ふなかをまねくやうな理わけそうなつてもならないからと彼是かれこれ御ご心配しんぱいをなされてわたくしのやうな数かずなりません者ものをお頼たのみなされたわけでございますどうぞこれまでのことは何なにもかも水みづにして梅うめさんと御ご縁組ゑんぐみをなされバ始終しじうあのお子このお為ため何事なにごとも子こども衆しゆの御繁昌ごはんじやうを思おぼし召めしてよく御ご了簡れうけんをなされましと過越すぎこしかたまでなが/\と説ときかへしたる弁舌べんぜつにまどひハせねど我子わがこの為ため」
老少らうせう不定ふぢやうの世よの中なかにわれのみ心こゝろを強つよくしても皆々みな/\他人たにんの西東にしひがしいつそのことに梅太郎うめたらうが女をんなの子こじやといふことを明あかして頼たのみたよりとせんかと思おもひつきしがまてしばし笑ゑみの中うちに刃やいばをかくし真綿まわたに針はりの工たくみある世よの人情にんじやうハはかり難がたしと思案しあんを定さだめてお藁わらにむかひ おさぢ「まことにそういふお心こゝろならバ何なによりかお嬉うれしいわけだけれどこれまで永ながく荘官しやうやさんや源三げんざうさんのお世話せわもあり他ひとのおかげで八九年はつくねん手足てあしを延のばした梅太郎うめたらうまさか一存いちぞんでお返事へんじも出來できませんいづれおふみさんのお志こゝろざしのところをバよくまた梅うめにも言聞いひきかせましておまへまでお礼れいにまゐりませう程ほどによろしく申て被下くださいましと其その日ひハお藁わらを帰かへしける」10
第四回 〈伏病床慈母示遺訓びやうせうにふしてじぼゐくんをしめす|悼憂苦里人翼孝子ゆうくをいたみてさとびとかうしをたすく〉
光陰くわういんのはやきことたとふるに物ものもなしされバ於匕おさぢハ寛正くわんしやう元年ぐわんねんこの大塚おほつかの里さとに來きていく春秋はるあきを夢ゆめの間まと過すぎて今年ことしハ既すでにはや花はなの香かかほる梅太郎うめたらう十一じういつ才さいとなりにける応仁おうにんはたゞ二年ふたとせにして改元かいげんあり文明ぶんめい元年ぐわんねんと改あらたまりぬ此時このときは足利あしかゞ将軍しやうぐん八代はちだい目め義政よしまさ公こうの御代みよにして文正ぶんしやう元年ぐわんねん山名やまな細川ほそかはの合戦かつせんより天下てんかの兵乱ひやうらん止やむ時ときハなけれども武藏むさしの國中くぬちハしづかにていと閑日うらゝかに如月きさらぎの下旬すゑつかたなる春はるの空そら貴賤たかきいやしき差別へだてなく漫遊行そゞろあるきの日和ころなるに神宮かにはお匕さぢハたれこめて病やまひの床とこに伏芝ふししばの露つゆの命いのちも覚束おぼつかなく心こゝろぼそさハ言葉ことばにも盡つき」
せぬ親おやと子この身みになりてハ歳としゆかねども梅太郎うめたらう孝心かうしんゆゑに夜よも昼ひるも側ほとりをはなれず看病かんびやうのいとまにいづる庭面にはもせの花はなも母はゝへの氣きなぐさめと木きのぼりをして一枝ひとゑだの桃もゝを手折たをりて足あし踏ふみはづし落おつる物音ものおとお匕さぢハ聞きゝつけ おさぢ「梅うめぼうかへ怪我けがをしてハならないヨ何なんともないかへどうしたのだ竹馬たけうまや梢登きのぼりハモウよしなヨ 梅「アィ ナニけがをいたしハしませんよあんまり桃もゝの花はながよく咲さいたから母人おつかさんに見みせやうと思おもつてツイ木きから落おちたけれど衣類べゝも何なにもよごしハしませんヨと聞きいてお匕さぢハ胸むねせまり思おもはず涙なみだをはら/\/\心こゝろの中うちに思おもふやうかへらぬことでハ有あるけれど此このおとなしい生立おひたちを夫をつとの存生ながらへ見みたまはゞさぞ悦よろこびのことならんに人並ひとなみよりはうるはしくそだつその子こに荒業あらわざをさせて木綿もめんの男衣をとこぎぬ人目ひとめつくろふ形とり」11
相なりになれて今いまでハ児心こごゝろにも男童をとこわらべの真似まねをしておらねバならぬことゝのみ思おもふてかたちをつくるやら木き竹たけをもつて太刀たち片刀かたな菖蒲しやうぶ祝いはひの小幟このぼりを籏はたさしものと准なぞらへし遊あそびハ武家ぶけに生うまれたる元もとを顕あらはす自然しぜんの理りかとはいふものゝいつまでか男をのこの姿すがたでおかるべきそれこれともに此この母はゝが生存ながらへがたき今度こんどの大病たいびやう一世いつせの別わかれに近ちかづくとハ知しりもせまいが無始むしが知しる血脉ちすぢのゆゑか夜よも昼ひるも辺ほとりをはなれぬ看病かんびやうハ大人おとなもおよばぬ介抱かいほうの労つかれやすめに門かどへ出でて友達ともだち衆しゆうとあそびでもするかと思おもへバ咲さく花はなにも心こゝろをつけて母はゝのことわすれぬ氣きがねにいたみもせぬ着物きものもよごしはしませぬと少すこしも親おやに苦くをさせまじき風情ふぜいもしれていぢらしやと泣なきふす母はゝの枕元まくらもと 梅「母人おつかさんこれお見みこんなに」
きれいに咲さきましたヨチヨツとお見みなといはれてもさすが涙なみだにあげかねし顔かほを覗のぞいて梅太郎うめたらう 梅「母人おつかさんまたたんとわるいかへといひながらたち湯煎ゆせんにして温あたゝまりたる煎薬せんやくを茶碗ちやわんにわけて 梅「アイおつかさんお薬くすりサア我慢がまんしてお上あがりヨ。ヨ。母人おつかさん私わちきが木きから落おちた音おとで動氣どうきがおこつたのかへわるいことをしましたモウ今度こんどからいたづらもせず静しづかにするから堪忍かんにんしておくれヨサァお薬くすりがさめるからお上あがりヨト母はゝの脊中せなかを撫なでながら薬茶碗くすりぢやわんをさし寄よせられこらへずワアツトむせかへる親おやの欺なげきにびつくりして其その身みもおもはず泣なき出いだし 梅「ヨウ母人おつかさんかんにんおしヨウ私わたしがわるいからあやまるヨ。モウ花はなも何なにも折をらないから堪忍かんにんして氣色きしよくをよくしておくんなさいヨウと聲こゑを上あげたる梅太郎うめたらうお匕さぢハ引寄ひきよせ抱だきよせて おさぢ「何なんの」12
そなたがわるかろうコレサ泣なかずと機嫌きげんをなほしな 梅「それでもおまへかお泣なきだものを おさぢ「モウ/\おいらも泣なかないヨヲヽ/\胸むねがどき/\する虫むしがおこるといけないヨサァお菓子くわしでもたべて遊あそびなよ 梅「それじやァおまへもモウ氣色きしよくはわるくハないのかへ おさぢ「わるくハないがおまへがあんまり孝行かう/\におとなしくしてくれるから嬉うれし涙なみだがこぼれたヨトいひつゝぬぐふ目めの中うちに保たもちかねてやはらはら/\梅太郎うめたらうの顔かほを見みつめ泣なかじと奥歯おくばをかみしめて おさぢ「おもへバどふもかわいそうに甲斐かひない母はゝがそだてゆゑ十年じうねん以来このかた何なにひとつうれしがらせる遊あそびもさせず男をとこ姿すがたを幸さいはひに使歩つかひあるきの遠走とほはしり親父おとつさんがお出いでなら豊嶋としまの御舘ごてんで奥様おくさまのお側仕そばづかひも出來できる身みがやくそくごとでも有あらふけれど」
不自由ふじゆうばかりさせとほしたま/\春はるの持遊もちやそびの凧たこの糸いとさへこの母はゝが手業てわざに合あはす二枚にまい糸いと 梅「ァィなくしハしません仏ほとけさまの下したへしまつておきましたヨ おさぢ「ヲヽそうかへ子こどものあんまり丹念たんねんなのハ始終しじう病身びやうしんだといひますチット何なにかをなげやりにして氣きをつめなさんなヨトいひながらさし込こむつかへを我手わがてにて押おさへて皃かほをしかむれバ梅太郎うめたらうハ脊中せなかをさすり 梅「お医者いしやさまへ行いつて呼よんで來きませうか おさぢ「ナニ/\今いまに落おちつくから案あんじなさんなヨしかし梅うめぼうやおまへに云いつて置おくことが有あるがまた泣なかずに聞きいてよく覚おぼえてお出いでヨ 梅「ァィ泣なくまいと思おもふけれども悲かなしいことならおいひでない おさぢ「それでもひよつとわたしが死しぬとおまへが急きうにこまるから 梅「アレ母人おつかさん其様そんなことならいはずとよいヨ」13
今朝けさお藥くすりをもらひに行いつた時ときお医者いしやさまにおつかァハ死にハいたしませんかと云いつて聞きいたらネお医者いしやさまがわたしの顔かほを見みてナニ/\死しにハしないから何なんでもおつかァの好すきな物ものをたべさせなそれが孝行かう/\だとお云いひだヨ おさぢ「アノお医者いしやさまにそう云いつて聞きいたのかへト胸むねにギックリあたれどもさすが子こどもハ氣きもつかずお匕さぢハとてもたすからぬ身みぞと思おもへバ捨すてものといはぬばかりの医者いしやの言葉ことば此間こないだ中うちからことわりをいはれた薬くすりをもらふとも知しらぬわが子この不便ふびんさを見みれバ思おもへバ四苦しく八苦はつく生者しやうじや必滅ひつめつ會者ゑしや定離ぢやうりとをしえハあれど今いまさらにいと/\をしき命いのちぞと覚悟かくご乱みだるゝ煩脳ぼんなうの欺なげきハさこそと思おもひやるべしやゝありて おさぢ「ノウ梅うめやお医者いしやさまが其様そうおつしやつたらバ死しにもしまいが人ひとと」
いふ者ものハいつ何時なんどきどういふことが有あるかも知しれないものそれだからいつか藤沢ふぢさはの軍いくさの時とき中村なかむら重頼しげよりといふお人ひとが若わか武者むしやの首くびを取とつて巨田道灌おほたどうくわんさまにお目めにかけたら○かゝる時ときさこそ命いのちのをしからめかねてなき身みと思おもひ知しらずハトお詠よみなされたといふ噂うわさそなたもたしか此この間あいだ大勢みんなが集よつてはなした折をり聞きいて居ゐたでハなかつたかマアそのことハ兎とも角かくもだん/\歳としを取とる時ときハぜひ死しぬものとかくごしてゐないと却かへつてまごつきます今いまもそなたが木きから落おちたといふのを聞きいてわたしが胸むね萬一まんいち私わしが死しんだらハそれこそ木きから落おちたといふ猿ましらより猶なほたよりなくかなしかろうと思おもふゆゑ歳としはのゆかぬそなたをとらへて永ながこといふも後あとのためよゥく覚おぼえて忘わすれなさんなアレアノ仏ほとけさまの下したの」14
黒くろい箱はこを持もつて來な 梅「ァィト返事へんじハしなからも力ちからなく/\梅太郎うめたらうが取とり出いだし來くる小文庫こぶんこの中なか撰ゑりわけて大切たいせつの書物かきもの残のこらずとりそろへつど/\に言いひ聞きかせこの書付かきつけが有あるゆゑに去年きよねんよりして色々いろ/\と手てをかへ品しなによそへつゝ梅太郎うめたらうを養子やうしにせんといひこみしより時節ときをりの使つかひは実まことの心こゝろより出いでたる縁者ゑんじやのよしみにあらず透すきを窺うかゞひ證古しようこの品しなを手てにいれんとする下心したごゝろと知しつてハゐれど父上とゝさまと同おなじ血脉ちすぢの人ひとなれバ其方そなたの為ためにハ誠まことの伯母おば麁畧そりやくにしてハ道みちたゝずと思おもへバ此このほど隔へだてなく親類しんるゐらしきあいさつもうち解とけがたい伯母おば御ごの底意そこいとハいふものゝ神宮屋かにはやの家いへを其方そなたか継つぎなどして町家ちやうかに一生いつしやうくらしてハ世よになき父とゝさんの心こゝろにかなはずその遺言ゆいごんハこの書置かきおき今いまよまずとも」
【挿絵第四図】慈母じぼ遺訓ゐくんして後事のちのことをはかる」 15」
成人せいじんして人ひと並なみ/\に歳としとらバ自おのづからして得心とくしんすべし若此この母はゝが亡なき後のちにこゝ三さん四年よねんを過すごすにハ伯母おば御ごにその身みをまかすとも亦また荘官しやうくわんか源三げんざうどのゝ思案しあんに寄よせて成長せいちやうし心こゝろをさだめて父上とゝさまの名なを清きよめんと思おもひ立たゝバ金瘡きんさうの妙薬めうやくと知しつても得え難がたき「ヘイサラバサラ この良薬りやうやくハ異国いこくより泊來わたりてたしなき血止ちどめの即功そつこう周防すはうの國くにの大内家おほうちけへハ勘合舩かんがふせんの毎度たびごとに貢みつぎとしておくるとぞとハいふものゝ人ひと傳つてなんどに手てにいれんこと思おもひもよらず男をとこ姿すがたで育そだつをさいはひ武家ぶけに出立でたちて彼かの地ちにおもむきその妙薬めうやくを手てにいれなば古主こしゆうへ帰参きさんの種たねともならん始終しじう其方そなたの身みをたてる雑費ざつぴハもとよりまさかの時とき主人しゆじんを救すくふ手當てあてとハ未然みぜんを察さつせし親父てゝごの賜たまもの用もちゆる時ときに」16
取出とりだしたまへその有所ありどころは氷川ひかはの杜もりといひつゝ四方あたりに心こゝろをつけ梅太郎うめたらうが耳に口くちいと細密こまやかに囁さゝやきけりさて後年のち/\のこと繰くりかへし忘わすれさせじと言いひをしえ おさぢ「よく覚おぼえたかへわすれておしまひでないヨたとへ母人おつかアは死しんでもおまへの蔭身かげみに付ついてゐるからかならず力ちからを落おとしなさんなヨ 梅「アイ/\それハ忘わすれないやうにしませうが御父おとつさ゜んもなし母おつかさんもないとどうも悲かなしいからおまへハどうぞ死しなずに居ゐておくんなさいヨ おさぢ「ヲヽ/\よく聞きゝわけハ有ありながらもさすがハ歳としのゆかない心こゝろ死しなずに居ゐてくれよとハ情なさけない程ほどいぢらしい死しねといふても死しにたくない私わしが心こゝろの淺あさましさ常つねにハ人ひとに彼かれ是これとものゝ道理だうりをおしへた身みのうへチト他人たにんにハ云いひにくいがそなたも」
他よその十六七の娘むすめにおとらぬ智惠ちゑ才覚さいかく末すゑ頼母たのもしいと思おもふほど愚痴ぐちなことじやが此この峠とうげ〈やまひのおもきを|いふことばなり〉をこしてどうぞと日ひに幾度いくたび心こゝろのやたけもかなはぬ苦くるしさとてものがれぬ此この大病たいひやうアイタヽヽヽヽ ヲヽせつないアヽくるしいト倒たふるれバうろたへまはる梅太郎うめたらう今日けふハあやにく隣家きんじよの者ものも問來とひきたらねバ何事なにごとも心こゝろに任まかせぬ親おやと子この歎なげきはいはんかたもなし此この節せつよりして母はゝお匕さぢは言いふべきことも云いひ果はてて心こゝろゆるみのしたりけん漸々しだい/\に弱よはりゆきたのみすくなくなりけるが源三けんざう夫婦ふうふは程ほど近ちかけれバ日々ひゞに音信おとづれせわすれどお匕さぢハ礼れいさへ云いひかねて時々をり/\両手りやうてを合あはするが無量むりやうの礼れいと思おもはるれ昨日きのふ今日けふまで賞ほめられて男をとこまさりといはれたる氣性きしやうも今いまは何所どこへやらものいひさへも」17
わかりかね聞きゝとれがたきことのみなれど梅太郎うめたらうハよく聞きゝわけいたはりかしづく孝行かう/\を見みるもの泣なかぬハなかりけるかゝりし程ほどに定業ぢやうがふの時とき來きたりけん弥生やよひの上旬はじめ彼岸ひがんさくらにあらなくもいと恨うらめしき花はな七日なぬかその夕暮ゆふぐれの入相いりあひに鐘かねもろともと散ちりてゆく哀あはれにはかなきことぞかし梅太郎うめたらうハ消入きえいるばかり母はゝに取とりつきゆり動うごかし涙なみだの限かぎり泣なきつくす孝子かうしの愁情しうじやうなか/\に愚おろかな筆ふでにハ編述かきとりがたしされバこの由よし聞きゝつけて親したしき疎うとき隔へだてなく寄よりつどひ來くる衆人ひと%\は鄙ゐなかかたぎのたのもしく頼たのまぬこともたれかれと手てわけをなして立働たちはたらき身みに引ひきうけてものすれバ野邊のべの葬式おくりのいとなみもことおほかたに調とゝのひけり此この節とき荘官しやうや杢兵衛もくべゑハ風邪ふうじやにおかされ來きたり得えず皆みな源三げんざうに」
任まかせしが彼かの神宮屋かにはやの平へい左衛門ざゑもん夫婦ふうふはこゝに揃そろひ來きて手代てだい小者こものを呼よび寄よせおき不断つねとハちがひ下したから出でて小禄こまいの者ものにも會釈ゑしやくをなしさも信切しんせつにまかなひつゝ此この一件いつけんの物入ものいりは金こがねををしまず取とりいだしさて源三げんざうに向むかひて云いふやう 平「トキニ源三げんざうさんだん/\皆みなさまお骨折ほねをりでまづ何なにもかもさし支つかへもなく佛ほとけもさだめて満足まんぞくいたしませう只たゞ不便ふびんなハ梅太郎うめたらうが義ぎ御存ごぞんじの通とほりそのはじめハ素生すじやうをうたがひまして疎遠そゑんにもいたしましたがよく/\正たゞして見みれバ家いへの血脉ちすぢおふみが為ためにハ実じつの甥おひ。娘むすめお袖そでハもらひました養子やうしそうして見みると神宮屋かにはやの家かとくを継つがせますにハ願ねがふてもない梅太郎うめたらうそれゆゑ亡人ほとけの達者たつしやなうちからぜひ娘むすめとめあはせて樂らくに隠居いんきよをさつしやれ」18
と度々たび/\申込こみましたがまだ歳としも行ゆかないからと是これまで極きめもいたしませんがまづ斯かうなつて見みれバこれからさき子こどもばかりこゝへ置おかれもしませず。と申ておまへさんはじめ隣家きんじよの衆しゆうもそう/\ながく御ご厄介やつかいになさるといふも御ご迷惑めいわくとぞんじますから皆みなさまさへ御ご承知しようちならバ只今たゞいまからでも梅太郎うめたらうを引ひきとりまして及およばすながら世間せけんのお方かたへ身みばれ心ごゝろに精せいをいれて成長せいちやうさせたふございますがとうぞよろしくお聞きゝ済すみをといふを人々ひと%\尤もつともとおもふもあれど思慮しりよあるものハ常つねに似氣にげなき神宮屋かにはやの心こゝろのそこをはかり兼かね皃かほ見合みあはせてありけるが源三げんざうハ手てをこまぬき聞きゝ終をはつて由断ゆだんせず 源三「それハ/\御ご信切しんせつにまづ何なによりか梅太郎うめたらうが安堵あんどの仕合しあはせでございますがマア申シて」
見みれバ此この家いへハ村中むらぢう寄よつてこしらへた宅うちのこといづれ皆みなさんと相談さうだんのうへ多分たぶん貴方あなたの御ご了簡りやうけんにしたがひますでございませうがせめて亡人ほとけの七七日なゝなぬかはこゝで法事ほうじも致いたさせたくまた村里むらさとの衆しゆうとても十年じうねん以来このかた仕しとほした世話せわのこと弟子門弟でしこも多おほいことじやによつてまづしばらくハ此この儘まゝに代かはり/\の持合もちあひ身上しんしやう追善ついぜん回向ゑかうハ立派りつぱにせずとも一日いちにちもよけいに此この家いへをにぎやかにするが功徳くどくとやらにもなりませうか何なんと皆みなさん左様さやういたしてハどうでござりませうトいへバ人々ひと%\一同いちどうになるほどこれハ源三げんざうどのゝお言葉ことば御尤ごもつともとぞんじますとこたへに神宮屋かにはや平へい左衛門ざゑもん夫婦ふうふも道理どうりと得心とくしんして四十九日が立たちたらバ梅太郎うめたらうを養子やうしとせんとあら/\評議ひやうぎ定さだまりても定さだめがたなき浮世うきよの」19
ありさまはかなき夢ゆめのうつゝなき名殘なごり涙なみだの梅太郎うめたらうをいたはりすかして諸人もろびとが亡骸なきがらおくる鳥辺山とりべやまかへらぬ道みちの花はなさくらも夜よるの嵐あらしの吹ふくぞとハ思おもへどさすがさとられぬ無常むじやうの風かぜを身みひとつと思おもひなやみし花曇はなぐもりはれぬ歎なげきに袖そでぬれてたどりかねたる梅太郎うめたらうが手てを引ひき心こゝろなぐさめて連立つれだつ里さとの手てならひ子こ哀あはれを添そへし野の送おくりにぬれぬ袂たもとハなかりける
貞操婦女八賢誌ていさうをんなはつけんし初輯しよしふ巻之二終」
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楊太真遺傳やうきひのつたへしくすり 精製くはしくせいし桐きりの箱入はこいり
處むす女め香かう 〈一廻り|百二十文〉
そも/\此この御薬おんくすりハ本朝につほん無類むるいの妙方めうはうにて男女なんによに限かぎらず顔かほの艶つやをうるはしくして生うまれ變かはりても出来できがたき程ほどに色いろを白しろくし肌目きめ細こまかになる功こう能のうあり しかしながら此この類たぐひの薬くすり世間せけんに多おほく白粉おしろい 洗粉あらひこ 化粧水けしやうみづ 其その外ほか油あぶら薬くすりなとを製せいして皆みなこと%\く顔かほの薬くすりになるおもむきを功能こうのう書がきにしるしてあれどもその書付かきつけの半分はんぶんも功能こうのうなし依之これによつて此この御披露ごひろうを御ご覧らうじても久ひさしいものゝ弘ひろめ口上こうじやうなど看消みけなし給ふべき事ことならんがこれハなか/\左様さやうに麁末そまつなる薬くすりにてハこれなく只たゞ一度ひとたび用もちひ給ふても忽たちまちに功能こうのうの顕あらはれる妙薬めうやくなり一廻ひとまはり用もちひ給ひてハ御おん顔かほの」色いろ自然しぜんと桜さくらのごとくなり二廻ふたまはり用もちひ給はゞ如何様いかやうに荒症あれしようの肌目きめも羽二重はぶたへ絹きぬのごとき手障てざはりとなるのみならず ◯ にきび ◯ そばかす ◯ 腫物はれものの跡あと ◯ しみの類たぐひ少すこしも跡あとなく治なほりてうるはしくなる事請合うけあい也 ◯ 朝あさ起おきて顔かほを洗あらひこの玉粧香ぎよくしやうかうをすり込こみたまはゞ些ちつとも白粉おしろいを付つけたる様やうなる気色けしきもなく只たゞ自然おのつから素皃すかほの白しろくうるはしき様やうになれバ娘御むすめご方かたハいふに不及およはず年重としかさねし御方おんかたが用もちひ給ひても目めに立たゝずして美うつくしくなる製法せいほふゆゑ御おん疑うたかひなく御用もちひ遊あそばされ真まことの美人びじんとなり給ふべし
為永春水精剤
〈髪かみの艶つやを出いだし|髪垢ふけをさる〉 妙薬めうやく 初はつみどり 〈このくすりハ髪かみを洗あらはずに|あらひしよりもうつくしくなる|こうのう有 代三十六文〉
書物并繪入讀本所 江戸数寄屋橋御門外弥左エ門町東側中程
文永堂 大嶋屋傳右衞門」丁付なし
貞操婦女八賢誌ていさうをんなはつけんし初輯しよしふ巻之三
東都 狂訓亭主人編次
第五回 〈依痴念継母説處女ちねんによつてけいぼおとめにとく|翼戀情張女偽於袖れんじやうをたすけてはりめおそでにいつはる〉
女をんなの性しやうハひがみて愚おろかなるものとハいヘど豈あに一概いちがいに定さだむべき閨房けいばうの秀しうとて古いにしへより賢婦けんふ良妻りやうさいの徳行とくかうは倭漢わかんにためしいと多おほかり況いはんや眞如しんによ性しやうの中なかにハ男女なんによを別相わかつさうなしと敢あへて軽かろんじいやしむべからずそも大塚おほつかの梅太郎うめたらうは才徳さいとくの乙女おとめなれどその歳としわづか十一才じういつさい母はゝにおくれて孤児みなしごとなりて今いまさら何なにごとも弁わきまへがたき身みの久後ゆくすゑ思おもひ難かねつゝ泣なきあかす日ひかずもこゝに七七日なゝなぬか里人さとびと等らの翼たすけによりて」
いと賑にぎはしき追善ついぜんも歎なげき弥いや増ます袖そでの雨あめ卯の花うのはな下くだし降ふりつゞく空そらにも鳴なくや時鳥ほとゝぎす血ちをはく思おもひ孝子かうしの愁傷しうせうはてし泪なみだの哀あはれさを理ことわりなりと察さつしつゝ力ちからをつくる人々ひと%\に慰なぐさめられて菩提所ぼだいしよに詣まうづる時日ときハ神宮屋かにはやの夫婦ふうふもこれに伴ともなひけりかくて七七しち/\の日ひも過すごしたれバ棺ひつぎを送おくるその節ころより衆人もろびとと談合だんかふして置おきしごとく今日けふより梅太郎うめたらうを平へい左衛門ざゑもんが方かたへ引ひきとらんとおふみは朝あさよりお匕さぢが家いへへ來きたりてよろづをさしづせり此この日ひハ文明ぶんめい元年ぐわんねんの四月うづき廾六日なりさて此この由よしを源三げんざうが許もとへ告つげけれバ近隣きんりんの者もの五七人集つどひて再ふたゝびかたらはんと梅太郎うめたらうが家いへに來きたれバはや平へい左衛門ざゑもんがはからひにて家財かざい雜具さふぐを取とり片寄かたよせ既すでにこの家やを引払ひきはらふ用意ようい大畧おほかた調とゝのひし風情ふぜいを見みれバ里人さとびと等らハいと/\」1
夲意ほいなき思おもひをなせりまた梅太郎うめたらうも住すみなれし宿所やどの名殘なこりともの悲かなしく眺望ながむる檐のきや庭面にはもせの花はなも青葉あをばと変かはりゆく梢こずゑの中なかに青梅あをうめの枝ゑだたはむまで実みを結むすぶこれさへ母はゝの愛樹あいじゆぞと見下みおろす幹みきにハ戯たはむれに建たてたる梅うめの制札せいさつ有あり「天永てんゑい紅葉こうえふの例れいも不知しらず亦また江南こうなんの法度はつとに任まかせじ
○鴬うぐひすの羽風はかぜもいとふ此この花はなのたゞ一枝ひとゑだに指ゆびもさゝせじ。つく%\瞻なかめ口くちずさむ花はなの法度はつとも名なにしおふ此身このみも梅うめのそれならで猛あらき風かぜさへいとはれし十年ととせ余あまりの養育やういくハいかに辛苦しんくのわざなりけんと思おもひぞしげる八重葎やえむぐら庭にはの草木くさきも亡母なきおやのかたみと見みれバ今いまさらに昨日きのふの昔むかししのぶ草ぐさ柱はしら斜なゝめに壁かべ落おちし藁屋わらやもいとゞ惜をしまれて玉たまの堂うてなの心こゝちハせねど魄たままつりなす家廟ぢぶつにハ位牌ゐはいに手向たむけし香花かうげまで取とりおさ」
むるの用意よういしてこれも憂うれひの数かずなりきされバ先刻さきより寄集よりつどひし衆人もろひとの中なかに源三げんざうハ平へい左衛門ざゑもんにうち向むかひ 源「さてたゞ今いまお使つかひをくださいましたが参まゐつて見ると最早もはや當所たうしよを引拂ひきはらひとなされますお支度したく勿論もちろんこれまでおはなしの有あつたことでハこざいますが 平「イヱなる程ほどまだ五日ごんち三日さんち過すごしても遅おそからぬことを取とりいそいだ為体ていたらくとも思おぼし召めしませうが何なにを申も梅太郎うめたらうが幼年ようねんのこと最もはや昨日さくじつ四十九日も相済あひすみましたにこのすゑ限かぎりなく皆みなさまの御ご厄界やくかいにいたすも夲意ほんいでないと存ぞんじますし亦また梅太郎うめたらうもこゝにかうして居をれバ母はゝのことをわすれるまぎれもございませんゆゑにといへバ側そばから女房にようばうのおふみも口くちをさしいだし ふみ「イヱモウこれまで皆みなさんのおせわでくらした姉あねのこといづれ梅太郎うめたらうを」2
引取ひきとりまして御存ごぞんじの娘むすめお袖そでと一對いつついにすゑハ夫婦めうと。いたすつもりまづそのまへに貴方あなたがたへ御ご酒しゆの一ッもあげまして永々なが/\のお礼れいをバ梅太郎うめたらうにいたさせますといへバさすがに源三げんざうはじめ里人さとびと等らハ愚直ぐちよくゆゑ実げにその元もとハ親族しんみなり孤みなしごとなる梅太郎うめたらう伯母おばの許もとにて生長せいちやうせバこれに過すぎたることあるまじと既すでに承引しよういんなしけるにぞ不用ふようの雜具ざうぐは沽代うりしろなしはや埒らちあけんと立たちさはぐ門かどの板戸いたどを押おしあけて爰こゝに入いり來くる荘官しやうやの杢兵衛もくべゑ病中びやうちうながら強氣がうきの我慢がまん村むらの衆人もろびとにあいさつし上座しやうざに直なほれバ平へい左衛門ざゑもんおふみも何なにやらそこ氣味きみわろくしよげて勢いきほひくぢけたり荘官しやうやは四隅あたりを見廻みまはして 杢「イヤ梅うめぼうやかはることもないかモウ/\其その様やうに泣なき顔がほしやんなかへつて母御おつかアのために」
ならぬぞよさて源三げんざうどんコリヤ何なにするとて此この様やうに諸しよ道具どうぐを取とりちらしたじやナ
源「ヱヽこれハ此間こないだおはなし申たとほり平へい左衛門ざゑもんどのゝ方かたへ梅太郎うめたらうを引取ひきとつて世話せわをしてそのうへ家督かとくもゆづられると申相談さうだんで 杢「皆みなの衆しゆも得心とくしんか 大ぜい「ヱヽマアどうやら尤もつともらしく存ぞんじますゆゑ 杢「イヤ/\それハ了簡違りやうけんちがひ又またそれでよいにもしろナゼ荘屋しやうやにハ得心とくしんさせず四十九日がたつかたゝぬに此家このやをしまふと定さだめさしつたモシ平へい左衛門ざゑもんどの昔むかしをいふも面倒めんどうじやから今いまさら何なにも云いひませぬが合点がてんのゆかぬおまへ方がたたとへ叔父おぢでも伯母おば御ごでもマア此この庄屋せうやハのみこまぬそれとも実じつに後悔こうくわいして心しんから梅うめに家督かとくをゆづり娘御むすめごと嫁合めあはす氣きならバまだおそからぬ此この婚礼こんれい今いま一二年いちにねん杢兵衛もくべゑが肩かたをいれて世話せわをします」3
いづれそちらの内心ないしんを見みぬいたうへで兎とも角かくもまづ今日けふからハ梅太郎うめたらうを私わしが宅うちで育そだてます
マアこの宅うちハ手てをつけず此この儘まゝにして近処きんじよの衆しゆうが寄合よりあい所じよとして置おきまする沽うつたといふても益ゑきないこと多寡たくわのしれたる身代しんだいも邑里むらさと中ぢうの丹誠たんせいでこれまで過すぎた神宮かにはの家いへ諺ことわざにいふ小糠こぬか三合さんがふ元もとは血脉ちすぢの子こにもせよマア入いりむこの梅太郎うめたらうとなる日ひになつても里方さとかたの家いへがなけれバ肩身かたみもせまし沽うつてハにそく三文さんもんでも斯かうして置おけバ久裏くり客殿きやくてん質堂しちだうとして村むらあづかりがらん堂だうともいはゞいへ活拂うりはらふにハおよびませぬ彼是かれこれいふも病上やみあがりモウ退屈たいくつでござるから御免ごめんを願ねがふてお先さきへ帰宅きたく梅うめぼう來きやれト立上たちあがれバ里人さとびともまたこれに随したがひ源三げんざう萬端よろづを取とりしらべて當用たうようの品しなハ庄屋せうやにおくり不用ふようの道具だうぐハ」
封印ふういんをつけて邑人むらびとこれを預あづかり書物かきものなんど入いれたりし文庫ぶんこハ梅うめに持もたせつゝ直すぐに荘屋しやうやへ遣つかはせしかバおふみが腹はらの目算もくさんちがひ田園でんぱた家敷すまゐ沽券こけん證文しようもん指ゆびさすこともならざれバ心苦こゝろぐるしくおもヘども詮方せんかたなけれバおめ/\と荘屋しやうやが為ために理りづめとなり手持てもち不沙汰ぶさたにそこ/\と帰かへり行ゆくこそおかしけれかゝりし後のちに梅太郎うめたらうハ荘官しやうくわんに養やしなはれ手習てならひ讀書とくしよの怠おこたりなく亦また杢兵衛もくべゑに一人ひとりの児こありその名なを於竹おたけと喚よびなして梅太郎うめたらうとハ三才みつおとりにて八才はつさいにこそなりにける幼をさなどちとてなかもよく兄弟はらからのごとく睦むつましく生立おいたつさまを見みる者ものハ能よき一對いつついの夫婦ふうふぞと後のちのことまで推察あてずいに羨うらやむこそ道理だうりなれ斯かくて四年よとせを過すごせども荘官しやうやよりして神宮屋かにはやへ何なにともいふてかゝらねバさてハ荘官しやうやハ梅太郎うめたらうが沽券こけんを所しよ」4
持ぢしておる由よしを知しらぬものにてありつらめかくてハなか/\後うしろやすし梅うめも今年ことしハ十五じうご歳さい於竹おたけも十二才じうにになりつれバたしかにかれとめあはして夫婦ふうふになさん存念ぞんねんハ両三年りやうざんねんが中うちなるべしとも知しらざれハこの年頃としごろ他ひとにハいはぬ兎とや角かくと心こゝろづかひをなせしことおぞましかりしと思おもひけりかゝるところに領主りやうしゆの知縣ちけん先役せんやくは立身りつしんし新職しんしよくの知縣ちけんたる戸塚とつか大六だいろくといへる者もの新あらたに職役しよくやくの功こうを立たてんと思慮しりよをめぐらし村里むらさと町家てうかの差別わかちもなく其その旧事きうじを詮穿せんさくし今いま乱世らんせいの時ときなれバ領所りやうしよの中うちに胡乱うろんの者もの有あるまじきにもあらざれバたとへ旧縁きうゑんの者ものなりとも由緒ゆいしよ傳來でんらい沽券こけん等とう慥たしかに所持しよぢの徒ものならずハ安堵あんどの住居ぢうきよをゆるすべからず凡およそ平塚ひらつか殿どのの御領ごりやうに住者すむもの此度このたび券跡けんせきの免状めんでうを願ねがひその」
【挿絵第五図】處女おとめと知しらずして乙女おとめ梅太郎うめたらうをいどむ」 5」
身みの由來ゆらい證文しようもんを御ご陣所ぢんしよへ持出もちいでよ且かつ證状しようでうにいさゝかもあやしきことのあらんにハ其その家いへ闕所けつしよたるべしとふれ出いださるゝ評義ひやうぎありと彼かの舘たちへしたしく出入でいりの医師いしや何某なにがし平へい左衛門ざゑもんが方かたに來きたりて密ひそかに告つげて知しらせけれハそバ心得こゝろえて居をるべしと何氣なにげなき躰ていに返答へんとうせしが心こゝろにおどろきおそれつゝわすれて過すごせし梅太郎うめたらうがことをまたもや思おもひ出でて夫婦ふうふ額ひたひを合あはせつゝ閑談かんだん時ときをうつせしがやう/\苦くるしき計はかりことも心こゝろいそげバ取とりあへず荘官しやうやの許もとへ彼かのおふみハいたりてお袖そでと梅太郎うめたらうが婚義こんぎのことを催促さいそくして是非ぜひ神宮屋かにはやへ引ひきとりたし亡母なきはゝお匕さぢとやくそくなれバこれまでのことを遺恨ゐこんとせずうちとけられて荘官しやうくわんの許ゆるしをねがひ申たしお袖そでも今年ことしハ二八にはちの處女をとめはやなまごゝころつく頃ころなれバ心こゝろづかひも」6
一トひとしほなり家督かとくを二人ふたりにゆづりて後のち母屋おもやへとてハ行ゆきもせじひとへにうたがひはらされて聞きゝ済すみたまへと幾度いくたびか頼たのめど荘官しやうやの心こゝろの内うちまだ解とけやらぬその風情ふぜいかくて時日じじつをうつしなバ由緒ゆいしよしらべの沙汰さたきこえて公おほやけの正たゞしとならバ忽たちまち家いへを梅太郎うめたらうに押おしとられんことうたがひなし此この身みも家いへの子こといヘど十五じうご年來ねんらい里人さとひと等らがひいきのつよき梅太郎うめたらういづれ
わが身みの負方まけかたなり由断ゆだんハならじと心こゝろからつくる地獄ぢごくの責せめつゞみ胸むね轟とゞろかしていそがしくもくろみけるが亦また一ひとッの方便てだてを考かんがへて或ある日ひお袖そでをかたはらへ招まねきてこれにいひきかす親おやはづかしきをしえごとおろかといふもあまりなり ふみ「ノウお袖そでわたしが口くちから云いひ出だしてハどうやららしいことでハ有あるけれど十二才じうにの歳としからやくそくして夫婦ふうふと思おもつた梅太郎うめたらう今こ」
年としハモウ十五才じうごになるしそなたハ云いはずとしれたことだが十六才じうろくなり是非ぜひ婚礼こんれいをさせて私等わたしらハ早はやく隠居いんきよと思おもひの外ほか杢兵衛もくべゑどのゝ意地いぢわるから兎角とかくに延引ゑんいんさせるのハ向むかふにも於竹おたけといふ娘むすめが有あるゆゑあの子こと梅うめと一對いつしよにする丁簡りやうけんかも知しれないけれど左様そうして見みたらバ其方そなたの耻はぢ三さん四年よねん前まへ親おやと親おやとが相談さうだん極きめた大事だいじの夫をつとをサアといふ時節じせつになつてきらはれて他人たにんと夫婦ふうふになられてハどうも悔くやしいことでハあるまいかとハいふものゝ其方そなたハマア梅うめと夫婦ふうふになられぬのを能よい幸さいはひと思おもやるかそれじやァあんまり情じやうなしだろうしかし相縁あいゑん奇縁きゑんとやら此この町中まちぢうでハ云いふにおよばず他村たむらの者ものまで噂うわさする梅太郎うめたらうの美男よいをとこも其方となたの心こゝろにかなはぬならバ是非ぜひもないけれど私等わたしらには随分ずいぶん」7
亭主ていしゆにして耻はづかしくハないとおもふがさつぱりそうハ思おもはぬかへトならべ立たてたる母はゝの言葉ことばをつく%\聞きいてはづかしくまた悲かなしくも思おもひやる男をとこの心こゝろをはかりかね嫌きらはるゝかハ知しらねども親おやの許ゆるせし妹背いもせ中なか指折ゆびをりかぞへし昨日きのふ今日けふまだ添臥そひぶしもせぬ前さきに男をとこに思おもひ捨すてられて何なに面目めんぼくにうか/\と仇あだに月日つきひが過すぐされふ今いま母人はゝびとの云いひたまふ心こゝろのそこハ此この私わしがふつゝかゆゑに嫌きらはれて結むすびし縁ゑんを切きらるゝを耻はぢとハおもはず安閑あんかんとくらして居ゐてハおろかなことどうぞ夫婦ふうふになれかしと思おぼし召めしての問とひじやうかと推量すゐりやうしても娘氣むすめぎの何なんと返事へんじのなら團扇うちわ畳たゝみにとまる蝿はいを打うち顔かほ赤あからめてうつむけバおふみハわざと聲こゑはげまし ふみ「モウ十六才じうろくにもなつたらバ少すこしハ何なにかに氣きが付つきそうなものだ大人おとな」
しいばかりが能のうでもないまことにおへない埒らちあかずだト云いひつゝ立たつて用ようありげに行ゆくも心こゝろの奥おく二階にかい跡あとにお袖そでハおのが名なの袂たもとを膝ひざに打うちかさね結むすぶ縁ゑにしを今いまさらにとかれまじとハ思おもへどもそのゆゑ由よしを梅太郎うめたらうにつぐる便よすがも荒磯海ありそうみの浪なみのよるべや渚なぎさ漕こぐあまの小舟をぶねの梶かぢをたへ親おやもゆるせし恋人こひびとをよその湊みなとへよらせハせじと胸むねのみさはぐ磯馴松そなれまつまつに時雨しぐれの染そめ兼かねしそのにほ鳥とりの夏衣なつごろも着きかへに部屋へやへ行ゆく跡あとよりつゞいて來きたる針妙しんめうのお張はりハお袖そでが袂たもとを引ひき おはり「モシお孃ぢやうさんおまへさんハマアあんまりといへバおとなし過すぎます何処どこの国くににか色道いろごとの催促さいそくを母御おやごにされるやうな娘むすめといふが有ありませうか第一だいゝちいひなづけをした亭主ていしゆほかへとられるとハ女をんなの恥はぢのこの上うへなしお心こゝろよしでも貴人うへつがたでもこればつかりは」8
お孃ぢやうさん意地いぢを出ださねバなりませぬはゞかりながらその手てくだが知しれずハ私わたしが御ご傳受でんじゆいたして上あげませうと兼かねて手筈てはづを定さだめたるお踏ふみが下知げぢの計はかりこと信切しんせつらしく囁さゝやきけり
第六回 〈詠月光賢女訪美人げつくわうをながめてけんぢよびじんにとはる|辨瓦玉良智与沽券ぐわぎよくをべんじてりやうちてがたをあたふ〉
於袖おそでが部屋へやにハ彼かのおはり夕風ゆふかぜそよぐ窗まどのもとに團扇うちわをとりてさし向むかひ おはり「イヱモシお嬢ちやうさんおまへさんハマア何なんと思おぼし召めしますあのやうに母御おつかさんのお氣きをおもみなさるのをお嬉うれしいとハ思召おぼしめしませんのかへ そで「そうだけれど私わたしにハどうも仕方しやうがないものをまことに悲かなしいヨ はり「サア其様そうお思おもひなさるならあなたのお志こゝろざしのとゞくやうにしてたとへ邪广じやまのしてがあろうとも此方こつちの一念いちねんで御ご夫婦ふうふにお成なり」
なされぬといふことハございません そで「それでも梅うめさんのお側そばに居ゐる身みではなしどうしたらよかろうやういろ/\考かんがへても思案しあんが出でないヨどうぞよい智惠ちゑが有あるならをしえておくれな はり「能よい智惠ちゑと申て外ほかに仕方しようハございません何なんでもおまへさんが直ぢきに梅うめさんにお逢あひなされてわけをおつしやるが宜よろしうございます そで「どふしてはづかしい其その様やうなことが はり「出來できないと被仰おつしやるのかへなんにもおはづかしいわけがありますものか直ぢかにおはなしをなされたとて色恋いろこひのわけじやァなしいはゞ御ご夫婦ふうふのことだものをだれが何なんとまうすものでございますものか そで「ヲヤ/\それでも梅うめさんのお側そばにハ荘官しやうやの伯父おぢさんやお竹たけさんがお出だものを はり「ナニ/\それハお気遣きづかひなされますな そで「イヽヱそれでも荘官しやうやの伯母おばさんが存生いきてお出いでの時とき参まゐつた」9
儘まんまで行いかないお宅うちへいかれるものかねへ おはり「イヱ/\それにハ能よいことがございます今度こんど杢兵衛もくべゑさまハ御領主ごりやうしゆさまの御用ごようで越後ゑちごの長尾ながをさまへ御ご陣屋ぢんやの衆しうと御ご同道どう%\で御出立ごしゆつたつなさるとまうすことよしや左様さうなくても梅うめさんの常つねに御座おいでなさる所ところは荘官しやうやさまの御ご隠居所いんきよじよの跡あとで母屋おもやよりハ余程よつぼど隔へだつて建仁寺けんにんじ垣がきの向むかふでございますし入口いりくちハ裏うらの畑はたけの際きはから這入はいられます御存ごぞんじのとほり私わたくしの宅とハ隣合となりあはせも同前どうぜん折をりを見合みあはして私わたくしがお手引てびきをいたすから是非ぜひ梅うめさんに泣なきついて理わけを被仰おつしやいましそれともに梅うめさんが庄屋しやうやさまに抱だきこまれてどふあつても貴孃あなたと御ご夫婦ふうふになつて此この御ご夲家ほんけを相続さうぞくなさるのがいやだとおつしやる様やうならバト耳みゝに口くち そて「そんなら其その沽券こけんとやらいふ書物かきものを」
おだましまうして取とつたらバそれに引ひかされて私わたしと一所いつしよにおなりあそばすだろうかねへ おはり「それハモウ此このお張はりがお請合うけあひまうします実じつハ庄屋しやうやさまの方ほうで梅うめさんを抱込たきこんだのハその沽券こけんの證文しようもんまたハこゝの御お家いへの御ご由緒書ゆいしよがきがあるからのことでございますとサ今いまこれなりにしてお置おきなさると此この身代しんだいも梅うめさんをおさきにして庄屋しやうやさまに押領おうれうされてしまひますとのおはなしそうして見みると貴孃あなたのお身みハ申におよばず御ご両親りやうしんさままでつまらないわけでございますから是非ぜひともわたくしがおすゝめ申とほりになさいましな そで「ヱアイ おはり「アレサなま返事へんじでハいけませんヨ貴女あなたのおうつくしいお顔かほで梅うめさんの一人ひとりでいらつしやる所ところへお出いであそばして膝ひざにもたれてしみ%\と恋語ころし文句もんくをならべて」10
口説くどいて御ご覽らんあそばせ梅うめさんハおろかなこと業平なりひらさまでも源氏げんじの君きみでも夢中むちうにならいでなんといたしませうそれこそモウ男をとこの魂たましひを十ヲとをや十五じうご天上てんちよこへとばしてしまはせるハ何なんのぞうさもございません私わたくしがお孃ぢやうさんの半分はんぶんほどの容儀きりやうだと色道いろごとの千人せんにんぎりでもいたしますのにモウ/\/\もどかしいあッたら御ご艶色きりやうの保もちぐさらしモシマア少すこし色氣いろけをおだし遊あそばして男をとこを迷まよはしてお遣やりなさいましな そで「アレサそんなことを云いつておなぶりでハいやだヨ おはり「あなたがいやと被仰おつしやつても梅うめさんがひつたりと斯かういふ塩梅あんばいにお寄より添そひなされて そで「アレ暑あついヨ おはり「ヲホヽヽヽヽわたくしが太肉ふとつてうだからおあついけれどアノやさかたな梅うめさんがかわいらしいお皃かほであなたのお手てを斯かうとつてモシお袖そでさん私わたしもとふから惚ほれて」
居ゐたヨどうぞこれから和合なかよくしてかわいがつたりがられたりしておくれヨウお袖そでさんアレマア私わたしのいふとほりにおなりヨト引寄ひきよせられて御ご覧らんあそばせそれこそモウ/\おはづかしいもおいやも何処どこへか行いつてしまつてその素しろいお顔かほへまた仙女香せんぢよかうの白粉おしろいを昼夜ちうや絶たやさずおつけなさるお氣きにおなりなさるでございませう そで「いやだヨモウお張はりどん おはり「ヲヤじやうだんハ退のけてどうも仙女香せんぢよかうほど皃かほの美艶きれいになる白粉おしろいハございませんヨ何なんでも絶たえずあれをつけると女をんなの顔色きりやうが十倍しうだんもよくなりますとサ其そのせへか此このおはりもこの頃ごろ二に三さん度ど付つけましたら急きうに色いろが出來できそふになりましたハ。まだしつかりとハ知しれませんがマア三人さんにんばかりハ請合うけあつて出來てきるつもりでございますヨもし取次とりつぎので出來できないけれバ坂夲氏ほんけのを買とつてつけると」11
ぜひ/\出來できると申ます。ヲヤそれよりかマア肝心かんじんのおはなしハ庄屋しやうやさまがお留主るすになると鍬八くわはち老漢おやぢといふ田畑支配さくだいしやうとお芋いも老女ばあざまばかりお竹たけさんハまだ十二才じうに何なんにもこわいことハございませんから私わたくしと同志いつしよにお出いであそばせへ そで「アイそれハ嬉うれしいがどふうもこわいやうでそう思おもつたばかりでもぶる/\ふるへるものを おはり「ナニ/\私わたくしの宅うちの垣根かきねづたひに畑はたけの際きはから片かた折戸をりどを開あけると直ぢきに梅うめさんの一人ひとりで御お座いでの所とこでございますヨかならず左様さやうあそばせト兼かねてかたらはれしお張はりが差圖さしづハお袖そでを餅ゑばとし梅太郎うめたらうを釣つりよせるか沽券こけん手形てがたを奪うばはせるか両事ふたつに一條ひとつハ調とゝのはんともくろみたりし奸計かんけいなりされどお袖そでハすかされて忍しのぶ心こゝろになりけるも恋こひしと思おもふ梅太郎うめたらうがことにしあれバ無理むりならず時ときのいたるを待まちけるがかくて其その年とし七月ふみづきの初旬はじめの」
夜半よはのことになん彼かの梅太郎うめたらうハ只たゞ一人ひとりわが居をる座敷ざしきに端居はしゐしつ昼ひるの暑あつさの去さりやらねバさやけき月つきに秋草あきくさの露つゆをてらすを詠ながめつゝなほ涼風すゞかぜのいたるを待まちて過越すぎこしかたを思おもひ出いでそゞろに物ものの悲かなしくも哀あはれをそゆる虫むしの聲こゑ二ッふたつ三ッみつ四ッよつ飛とぶ蛍ほたるハ亡魂なきたまかとも見みやりてハ泪なみださしぐみ父母かぞいろのかへらぬうへをしたはしとたれにかたらんよすがもなく短夜みぢかよなれバ更ふけゆきて丑満うしみつの鐘かね幽陰かすかに聞きこえ浙瀝せきれき簫颯しやうさつたる秋あきの氣きに悚然しやうぜんとして視みかへれバ皎さも潔いさぎよき月つきの影かげ銀河あまのがはらの明朗ほがらかに彼かの述異記じゆついきの織女しよくぢよの古事こじ牽牛ひこほしならねどおのが身みの男姿をとこすがたに何なにとやら婦女子ふぢよしの性じやうも思おもひやり歎息たんそくしつゝ立上たちあがる時ときしも庭にはの柴折戸しをりどをほと/\と音おとづれてわが名なをひそかに喚者よぶものあり耳みゝそば立だててこれを聞きくにさもやさしげなる女をんなの聲こゑなり斯かく夜よの更ふけし」12
時ときなれバ世よの常つねの女子をなごならんにハあなやと聲こゑもたつべきに天性てんせい奇代きたいの女丈夫ぢよぢやうふにて後のちに豊嶋としま家け再興さいこうの八賢女はつけんぢよとなる一人いちにんにて神官かには梅女うめぢよと名なを誉あぐる勇婦ゆうふ心氣しんき烈然れつぜんとはだへたゆまぬ梅太郎うめたらうがつく%\と思おもふやうかゝる夜中やちうに耕地かうちよりこゝへ女をんなの來くべきやうなし狐きつね狸たぬきの業わざならんよしさありとも何程なにほどのこと有あるべきやとおどろかず心こゝろつよくも庭には下駄げたをはいてひそかに忍しのび足引あしひきとらへて打倒うちたふさんと伺うかゞひ寄よつて柴折戸しをりどを中うちよりさつと押開おしひらき隠かくし持もちたる木釼ぼくとうにて打うちすゑくれんと振上ふりあぐる姿すがたにおそれて倒たふるゝお袖そでまづ待またしやんせと聲こゑかけつゝ止とゞむる人ひとを梅太郎うめたらう月つきの明あかりによく見みれバ隣家となりの寡婦やもめおはりなり おはり「マア/\おせきなさいますなこのお嬢ぢやうさんハおまへさまの御新造ごしんぞさんお袖そでさまでございますいかに」
【挿絵第六図】荘官しやうくわんの後園こうゑんにはからず烈女れつぢよを會くわいす」 13」
殿御とのごのお氣きづよでもおかわいそうに恋こひこがれ人目ひとめをしのんでやう/\とお出いでなさつた今宵こよひの仕義しぎ手てづよいことをなされますなサアお嬢ぢやうさん梅うめさんのお側そばで恨うらみを被仰おつしやれとなみだぐみたるお袖そでが手てをとつて囲かこいの中うちへ押おしやり「梅うめさんヱあんまり邪見じやけんになさいますと女をんなみやうりにつきますぞへ何なんぼ貴方あなたが美男いろをとこでもお袖そでさんもまんざら負まけもなさいません今夜こんやハマアゆるりッと一席いつしよにおよつておたのしみなされましお袖そでさん此間こないだ中うちからの御ご苦労くらうをおもいれ恨うらんで被仰おつしやいましヨ翌あしたの朝あさまた私わたくしがお迎むかひに参まゐりますかならずともに梅うめさんが気きづよいことをおつしやつてもこわがつて迯にげてお出いでなさいますな親おや御ご達たちのゆるした御ご夫婦ふうふ何なにも御ご遠慮ゑんりよなさる所ところはございませんと梅太郎うめたらうにも聞きかする言葉ことば小夜さよ更ふけたれバ他よそ」14
外ほかに聞きゝてハはなれ家いへおのが住居すまゐの切戸きりどより帰かへつて雨戸あまどを〆しめきるお張はり此方こなたハ夢ゆめかとうたがひのとけぬ縁者ゑんじやも梅太郎うめたらうさすが内心ないしん女をんなの情じやうお袖そでを突つきもいだされず思案しあんをさだめ庭にはの戸とをしめて座ざしきに伴ともなひけれバお袖そでハうれしく耻はづかしく胸むねに動氣どうきの初しよ對面たいめんたがひに面おもてハ知しりながら斯かう程ほどちかく寄よりそひて物ものいはざりし縁ゑん
の糸いとやゝとけかゝれどおぼこ氣ぎの何なにと言葉ことばを言いひそめんそのついでさへなか/\に顔かほをそむけて向むかひ合あふこの一對いつゝいの花はなの顔かほも夜よるの錦にしきの心持こゝちせりやゝしばらくして梅太郎うめたらう 梅「モシお袖そでさんおまへハマアどうしてこゝへお出いでなさつたのだへよもや母御おつかさんなんぞハ御存ごぞんじのことでハありますまいどういふわけで夜中やちうにお出いでが出來できたねへ そで「ハイ今晩こんばん参まゐつたのハ 梅「 定さだめて深ふかい御ご容情ようすの有あることでござい」
ませうよくマア今いま時分じぶんお出いでなさつたねへト問とはれてそれぞと岩いははしの渡越わたりこへても瀧津瀬たきつせや道行みちゆきなやむ苔こけ清水しみづ濡ぬれなんものと寄添よりそへどたゞはづかしさに口くごもりて振ふりの袂たもとを結むすんだり解といたりすれど解とけかねし恋こひの糸口いとぐちおだ巻まきのはてしなけれバ梅太郎うめたらう 梅「 折角せつかく斯かうしてお出いででも物ものを一言ひとことお云いひでないから何なんだかさつぱりわからないねへ そで「あのねトいつて完尓につこり笑わらひ「どふぞ私わちきと夫婦いつしよになつて下くださいましと申ことサトおもひきつても初うい/\しく谷たにの戸といでし鴬うぐひすのやゝ鳴なきそむる梅うめならで粋すいなゆかりと梅太郎うめたらうに保もたれかゝりし女郎花をみなへし膝ひざにひだとるふぢばかま美少年びせうねんとハ見みゆれども原もと是これ女子によしのことなれバ當惑たうわくこのうへなけれども歳としにハませし才發さいはつ利弁りべん形容かたちを正たゞして於袖おそでに向むかひ 梅「モシお袖そでさん数かずならぬ私わたくしを」15
よく/\深ふかい御ご信切しんせつなれバこそ氣きがね苦労くらうをなさいましてたれしも斯かうと云いひにくい恋こひの手てごとの忍しのび合あひを女をんなの口くちからツイちよつと被仰おつしやるまでの心尽こゝろづくしお察さつし申て嬉うれしいと思おもひながらも末すゑとげぬ恋こひの浮名うきなハおたがひに親々おや/\までの名なのけがれお志こゝろざしハわすれませぬがどふもおまへと一ッひとつ寐ねハ そで「ならないとおつしやるのは心こゝろよからぬ私わたくしの親達おやたちゆゑでございませうがまさかに私わちきが親達おやたちと同おんなじことでもございませず世間躰おもてむきハよいやうでも内心そこいハ合あはぬ継母まゝかゝさますゑ%\苦労くらうにぞんじましたに四し五ご年ねん前まへからおまへさんといつしよにすると云いひ聞きかされて他ひとにハ何なんとも言いひませぬが世間中せけんぢうで賞ほめそやす貴方あなたと夫婦ふうふになられるとハ誠まことに嬉うれしいこの身みの仕合しあはせとハぞんじましたがふつゝかな私わたくしどうでお氣きにハいるまいから其その時ときハ」
御内室おかみさんにならずともお側そばで御ご用ようをたしてあげてそれを一生いつしやうたのしみにいたそうとまで覚悟かくごをして待まつかひもなく御ご夲家ほんけへいらッしやるのがおいやだと聞きいてかなしく朝晩あさばんとも泣ないてばつかりをりましたを御お隣家となりのお張はりさんが推量すいりやうして私わちきの心こゝろをきいたうへ今夜こんややう/\しのぶのも内外うちとの人目ひとめ嘘偽うそいつはりたとへ継まゝでも恩おんの深ふかい母はゝまでだまして参まゐつたをかわいそうだと思おぼし召めしておいやであろふがどふぞ夲家ほんけへいらつしやる様やうに 梅「だん/\のお志こゝろざしハなか/\あだにハ存ぞんじませんとハ申すものゝそれだけのお礼れいのしやうハないけれど今夜こんやお出いでの望のぞみをバかなへてあげるわたしが寸志すんしと聞きいて嬉うれしさはづかしさ梅太郎うめたらうが納戸なんどへ入いる後姿うしろすがたを視送みおくりながらたしなみ持もちし畳紅たとふべに宵よひに化粧けはひし白粉おしろいのむらも心こゝろにかゝれども詮せんかた」16
なけれバ掾面ゑんがはに出いでて見上みあくる月つきの影かげうつれる庭にはの手水鉢てうづばち。もしやと覗のぞく水鏡みづかゞみくもらぬ空そらも胸むね曇くもる乙女心をとめごゝろにあどなくもうつらぬ髪かみの結ゆひ風俗ぶりをまた今いまさらに思おもひ出だし氣きに癖くせつけるつま櫛ぐしやびなんかづらの艶つや油あぶらびんのほつれを掻上かきあげていそ/\したる其その所ところへ立たち出來いできたる梅太郎うめたらう寐床ねやしつらふかと思おもひの外ほか手てに携たづさへし小文庫こぶんこハ色氣いろけ梨子地なしぢの高蒔絵たかまきゑ諸方ところばげせし時代むかし物ものふた取除とりのけてその中なかより取出とりいだしたる書面かきものをお袖そでが前まへにさしおきて 梅「お袖そでさん御ご信切しんせつのお礼れいをと申ても幼稚ちいさい節ときから薄命ふしあはせで他人ひとにそだててもらひハせねど他人ひとのおかげで母子おやこのくらし持もちつたへたものハないけれど今夜こんやおまへが折角せつかくのお出いでに上あげる此この品しなハおまへさんより御両親ごりやうしんが六年ろくねん以来このかた恋こひこがれた神宮かにはの」
家いへの由來ゆらい書がき田地でんぢや地面ぢめんや家いへ屋敷やしきに付ついて大事だいじの沽券こけん状でうこれをおまへにあげますから御両親ごりやうしんさまへお上あげなさい左様さやうなされバこの品しなハ三国一さんごくいちの壻むこ引出ひきでむこの此この身みハまゐらずともお氣きをやすめるわたしがはからひ伯母おばへの義理ぎりだて最上さいじやう吉日きちにち媒人なかうどいらず此この様やうに両人ふたり寄よつてもはかない縁ゑんかわいそうにおまへさんハ何なんにも知しらず親御おやごたちにたばかられた今夜こんやの仕義しぎこのやうすでハ末々すゑ%\まで苦労くらうをなさるが見みえすく様やうでおいとしいことでハあるトほろりとこぼす一ト雫ひとしづく女子をなごの情じやうをあらはしたりしらぬお袖そでもまたこぼすもらひ涙なみだの膝ひざのうへ萩はぎに露つゆそふその風情ふぜいされど其その意いをげしがたく疑うたがひながら恨うらめしげに そで「 願ねがひをかなへてくださいますと被仰おつしやるゆゑに嬉うれしいと存ぞんじましたに此この品しなハどういふ」17
わけでございますかどうも合点がてんがまゐりませぬたらはぬ此この身みに得心とくしんの出來できます様やうにくわしい理義わけを如斯かう/\とおはなしなされてくださいまし 梅「なる程ほどたゞ私わたくしのことばかり思召おぼしめしてくださるお心こゝろからハわからぬことゝお思おもひだろうがこの道理わけハト○是これより神宮かには屋や夫婦ふうふが梅太郎うめたらうを養子やうしにせんと云いひ出いだせし前後あとさきのこといち/\くわしくとき聞きかせ皆みな何なにごとも此この證文しようもんがあるゆゑにおこりしわけにて其その実心じつしんハ梅太郎うめたらうをいみにくむお踏ふみが内意そこいお袖そでを今宵こよひしのばせしも推量すいりやうのさたながらおはりをかたらひお袖そでをそゝのかして證文しようもんを奪うばひとらせんとするはかりことにて娘むすめに情じやうをたてさせんためにせしにハあらざることまで鑑かゞみにかけて観みるごとくよく/\お袖そでにはなしけれバお袖そでハこれを聞きくよりもしばしあきれて」
ありけるがやう/\に前後あとさきのことをかんがへて そで「まことにマア恐おそろしいことでございますなるほどこれまでのことをくりかへして見みますとだん/\やうすがわかりましたたゞ私わたくしハ恋こひしいと思おもふ貴方あなたのことゆゑ母はゝの申ことやおはりどんのいふことを信実しんじつのこととばかり存ぞんじましたもしも貴方あなたか得心とくしんなさらずハこの證文てがたをおだまし申て取とりさへすれバ貴方あなたと夫婦ふうふになられることゝばかり存ぞんじましたに左様さうせよと申たおはりどんハ母人おつかさんと云合いひあはしたことでございましたか今いまのおはなしでやう/\と氣きがつきましたに何なにから何なにまで視透みどほしの神かみさまもおよばないやうにごぞんじとハどふしたことでございませうしかし貴方あなたは私わたくしを親おやの心こゝろと同断ひとつでハないだまされてゐる欲心よくしんゆゑでハないのだと実正ほんとうにおほし」18
召めしてくださいますか 梅「ハテそうおもへバこそうち明あけて親御おやごの理非りひをも申たことちつともおまへを憎にくいとハぞんじません そで「そうおぼしめしてくださるならバこの證文しようもんハいりませぬどうぞそれよりわたくしをこれからこゝの御お宅うちへ置おいてくださいますやうにこゝの伯父おぢさんへお願ねがひなすつてお見みすてなく
ちからになつてくださいましな 梅「サアわたしも便たよりすくない身みのうへどふぞとおもつてもそればつかりハどうも そで「ならないとおつしやるのハやつぱりおうたがひなさるからのことしかしそれも御ご無理むりとハぞんじませんモウ/\/\何なにもお願ねがひ申ますまいまた宅うちへ帰かへりましても頼たのみすくない末すゑ始終しじうたゞさへ母はゝの機嫌きげんかへ今度こんどのことを聞きゝましてハ情なさけも慈悲じひもない奸計たくみこゝろの」
たよりと此この年來としごろおしたいまうした貴方あなたにハ添そふことならぬ身みの因果いんぐわ死しんでしまつて未來みらいとやらでこゝろをつけて何事なにごともたらはぬことのないやうにたしなんでおまち申ますからその時ときハどうぞかわいがつてくださいましヨそれも貴方あなたがこれから後のちたんと長命ながいきあそばしてこの世よで栄さかへをなさり盡つくした果はてのことどふぞお願ねがひ申ますト口説くどきたてられ梅太郎うめたらう身みにひきくらぶる女をんなの性じやう思おもひつめてハそれほどにもしたふ心こゝろになるものかいつそのことに男をとこでハないと明あかしてあきらめさせなげきをさせじしたはせじと思おもひつきしがこの年月としつき隠かくしおほせた女をんなの姿すがた願ねがひある身みをかる%\しく他ひとに知しらすハおろかなりと思案しあんにくれて手てを組くみつゝ眼まなこをとぢて仰向あをむきながら涙なみだのみ」19
こむくるしさを知しらねバお袖そでハ泪聲なみだごゑ そで「こんなことならなま中なかにお目めにかゝらず死しなふものみれんなやうでございますがお別わかれ申すが悲かなしいといヘど此方こなたハ視みかへらず心こゝろの覚悟かくこ渕川ふちかはへ身みを沈しづめんとや思おもひけんワット一聲ひとこゑ泣なきながら掾ゑんより飛とんで一いつさんに欠かけ出だす庭にはの片かた折戸をりどはや明あけちかき有明ありあけの月つきに見みえ透すく表おもてのかた負摺おひずりかけし女順礼をんなしゆんれいずッくと立たてバお袖そでハアットおどろき倒たふるゝそのところへ跡あと追おひ止とむる梅太郎うめたらうはからずこれに行當ゆきあたり思おもひがけねバ驚然ぎやうせんと皃かほ見合みあはせて要慎みがまへたり必竟ひつけうこれハ何者なにものぞそハ第だい八はつ回くわいに評解ひやうかいせりつゞいて高覧かうらんをねがふのみ
貞操婦女八賢誌ていさうをんなはつけんし初輯しよしふ巻之三終」
編者 狂訓亭主人著[金龍山人]
畫工 柳烟樓國直圖[歌川]
貞操婦女八賢誌ていさうをんなはつけんし第二輯だいにしふ 全三冊〈引つゞき出|板遅滞なし〉
天保五甲午年孟陽發版
馬喰町二丁目 西村屋與八
東都書房 夲所松阪町二丁目 平林庄五郎
京橋弥左エ門町 大島屋傳右エ門」20
〔後ろ表紙〕
#『貞操婦女八賢誌』(一) −解題と翻刻−
#「大妻女子大学文学部紀要」49号(2017年3月31日)
#【このWeb版は活字ヴァージョンとは小異があります】
# 2017-6-11 校正漏れを訂正しました。ご指摘下さった高橋明彦氏に感謝致します。
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# 高木 元 tgen@fumikura.net
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