『貞操婦女八賢誌』(二) −解題と翻刻−
高 木 元
【解題】
前号に引き続き、『南総里見八犬伝』の派生作である『貞操婦女八賢誌』初輯下帙を紹介する。
本作の作者である初代と二代の為永春水に限らず、19世紀における戯作者たちにとっての『八犬伝』体験は、ジャンルを越えて実に大きな影響力を持っていた。周知の通り、『八犬伝』は文化11(1814)年〜天保13(1842)年に至る28年間を費やして完結した長編史伝もの読本の雄である。主として貸本屋を通じて読み継がれたため、読者の評判の良さに拠って長編化した側面も否定できないが、その堅固な基本的小説構想が備わっていた故に、破綻のない長編作を紡ぎ出すことが可能であったものと思われる。
原作が完結する以前から歌舞伎に脚色され上演されたのみならず、草双紙など実に多くの〈八犬伝もの〉が、原作が結局する前から産みだされていた。この現象は、とりもなおさず『八犬伝』人気に支えられた商品価値が、継続的に保たれていたことを意味する。本作も完結前に出された派生作の一つであった。
そもそも、『八犬伝』というテキストは長編大作であるが故に抄録(ダイジエスト)されるのは当然のことであった。その場合、所謂名場面を繋ぐ形式が採用される傾向にあるが、実は改作(リメイク)の場合であっても、比較的原作の構成や展開に即して翻案されることが多かった。改作に際して採用される『八犬伝』の要素は、〈世界〉と呼んでも差し支えのない全体構想と、〈趣向〉とも称すべき名場面に係わるエピソードであった。
現代の小説や漫画などにおいては、ジャンルを超えたメディアミックスが一般化しているが、『八犬伝』の享受史を顧みた時、『八犬伝』は逸早く、原作の刊行途中からメディアミックス化され続けてきたことは刮目に値する。そして近世期のみならず現代に至るまで、古典に基づくテキストとしては突出した点数に及ぶ改作翻案作が創作され続けているのである。
さて、今回紹介した初輯下帙は、主として原作の〈大塚の場〉から〈円塚山の場〉に基づいた部分である。討つべき敵として扇谷が設定され、原作の「村雨丸」に対応するのが豊島家伝来の「錦の御籏」、寂寞道人こと犬山道節が円塚山にて「火定」を実施して愚民を騙し軍資金を獲る場面は、神卜仙女真弓こと於道が湯ヶ嶋にて「湯花の法筵」を催し熱湯の中へ飛び込むという趣向に変えられている。また、於道が「錦の御籏」の来歴として「蜀紅錦」に関する蘊蓄を披露する場など、江戸読本風の考証をも書き込んでいる。
なお、作中の「扇ヶ谷」を「合ヶ谷」に、「大塚」を「多塚」にと、板木が彫られた後から象嵌して訂正してある。「本郷」も全部ではないが「本幸」と直されている。「湯ヶ島」は「湯島」を匂わせているのかもしれぬが、豊嶋や礫川、戸田などは実在の地名を用いており、「扇ヶ谷」「大塚」「本郷」には何等かの差し障りが存した故の修訂であると想像されるが、その事情に関しては未詳である。
【書誌】初輯〔下帙〕 上・中・下(3巻3冊)
書型 中本 18.6×12.5糎
表紙 上部は濃縹、中央にて暈し下げ、下部は水色地。全面に貝殻の意匠を白抜きで散らす。後ろ表紙は柿渋色無地。
外題 「貞操婦女八賢誌 二編 上(中下)」(13.3×2.7糎)。
上部は柿色地に花を白抜きにし中央部へ暈かし下げ、下部は水色地に模様を白抜き。表紙とも三巻同一。
見返 なし〔白〕
序 序題なし「文亭綾継」三丁(丁付なし)
口絵 第一〜三図 見開き三図(丁付なし)摺りを施す
題 「做水滸意\以古詩意\補半百」(印記)
内題 「貞操婦女八賢誌初輯巻之四(〜六)」
尾題 「貞操婦女八賢誌初輯巻之四(〜六)終」
編者 「東都 狂訓亭主人著」(内題下)
畫工 「〈繍像|九員〉英泉畫」(口絵第一図)
刊記 なし
諸本 館山市博・早稲田大・西尾市岩瀬文庫・山口大棲妻・東洋大・東京女子大・三康図書館・千葉市美。
翻刻 前号参照
備考 後印本では内題尾題等に象嵌して編数を修正したものが見られる。具体的な改修の様相の調査報告については後日を期したい。
【凡例】
一 人情本刊行会本などが読みやすさを考慮して本文に大幅な改訂を加えているので、本稿では敢えて手を加えず、
可能な限り底本に忠実に翻刻した。
一 変体仮名は平仮名に直したが、助詞に限り「ハ」と記されたものは遺した。
一 近世期に一般的であった異体字も生かした。
一 濁点、半濁点、句読点には手を加えていない。
一 丁移りは 」で示し、各丁裏に限り」1 のごとく丁付を示した。
一 底本は、保存状態の良い善本であると思われる館山市立博物館所蔵本に拠った。
翻刻掲載を許可された館山市立博物館に感謝申し上げます。
表紙
序文
(寒葉齋)
教訓亭春水。 女丈夫の至徳を小説に綴り。 公布にして婦女八賢誌といふ 今歳その續輯刻就て 予に 序を乞ふ 開巻して思らく 此小説 八の数を以て表題とするや 周の八士の芳名になぞらへ 亦婦人あり」
九人而巳の遺意にもあらんかはた未だ賢と号るゆゑんを知らず 折から益友芹亭老人來訪して一説あり 書に云 有二民獻十夫一 蓋 謂二賢臣一也 余 嘗謂 論語所レ云 亂臣十人者亂 爲二獻謬一明矣 諸家 妄に費レ説 可レ謂二添足一焉 茲に」丁付なし
おいてはじめて賢の賢たるを知り 兎毛を墨地にうかめ この卷をたゝえて臙脂中の一大竒書たるべしといふ而巳
文亭主人綾継寒葉齋の北窓において書肆急迫の求めに應ず[綾継]
【口絵第一図】
〈繍像|九員〉英泉畫\多塚の梅太郎」丁付なし
於才の尼\
春風にまだ生そふる\わか草の\色や霞に\まがふむさし野
【口絵第二図】
仙卜神女眞弓」丁付なし
合ヶ谷の婢女八重菊\
門すゞみ\ある夜\おとこと\なりに\けり
【口絵第三図】
鷺界青山\一株ノ秋\水平ニメ銀浪\接シ天ニ流」丁付なし
隅田川\水の\みなかみ\たづねてぞ\夏を\よそなる\月も\見に\ける\
文亭主人
【巻首】 【題】
[做水滸意]
婦-人ノ交-誼 勝レリ二男-子ニ一
心-若シ同キ-時ハ誼モ亦-深シ
珎-〓 請フ-看ヨ忠-義ノ女-
死-生能ク-守ル歳-寒-心
(婦人の交誼 男子に勝れり\心 もし同き時は誼もまた深し\珍希請ふ 看よ忠義の女\死生よく守る歳寒心)
[以古詩意][補半百] 」丁付なし
貞操婦女八賢誌初輯 卷之四
東都 狂訓亭主人著
第七囘 〈松井田原青柳哀旅客|戸田川舩毒婦謀賢婦〉
山里にしる人もがな郭公なきぬと聞ば告に來るかに。と詠ぜし哥は貫之の風雅なりけん。それならで此所ハ妙儀の山近く人松井田の野の果に手疵をおひし旅人の刀を杖によろめきつゝ立上りてハ尻居に倒れ息も苦しと夕月夜まばらの星にあらずして山の端ずゑをちら/\と越てゆくなる松明を白眼つめて歯をかみしめ漸々に弱り」
茂りたる夏艸にこそ打伏ぬ折節に遥の埜路より順礼歌を唱へつゝ往来稀なる荒野ぞとも思はでよぎる人なりけん恐れ気もなく近づきしを彼旅人ハひそやかに首をあげてつら/\見れバ同行さへあらで只一人負須裡袍し未通女と見えて年齢破瓜余りなりいと大膽なるものこそあれと苦痛をわすれて看あぐれバ彼婦も手負を伺ひ見て前後をにらむ乙女の顔色勇々しくもまた美艶けれ其時旅客声かけて 旅人「モシ/\處女御チツトおたのみ申たいどうぞしばらく此処へ/\ト
呼かけられて順礼の乙女はおめる気色もなく 女「アイわたしのことでございますかト近くよるに数ヶ所の疵と血しほの紅ゐこれハ」1とば
かり驚きしが 女「ヲヽこれハむごたらしいなさけない目に合はしやんしたなァ盗人の所爲か意趣切かヤレ/\手ひどいことでハあるト負須裡の布引裂て要所と思ふ疵口をこゝやかしこと巻むすび延齢丹とかいふべからん蘇生薬をあたへ介抱し 女「サアモシ賓爺
〈幼年もの長年を呼に伯父といふは俗の|通称なり親類といふにはあらじ〉
どういふわけだかはやくおいひなそして私が肩に懸つて宿駅の所までおいでなさいこんな原なかでハお医者さまも招れず詮かたがないョ。子。爺さんトいへバ旅人うなづきて 旅「アイ/\これハ/\まことに御信切に有難い御介抱殊にマアお歳もゆかぬやうすだが深手の疵人と承知して布や蘇合圖のおこゝろづ
けおかげで苦痛ハうすらぎましたがとても助命ハ」
かなはぬ覚悟死ぬるハいとはぬことながら大事の使節を勤る役目お前の壮健な心を看かけおたのみ申ハ古郷へ音信どうぞかなへてくださるか 女「 袖すり合も前世からつゞく縁じやと申ますに御老人の御難義お見捨申もおいとしいどうで旅から旅の空おまへのお宅へ言傳ハずゐぶんおとゞけ申ませうトきいて旅人大いによろこび嬉しやかゝる美艶女の大丈夫であらんとハ死るいまはの身の幸ひ。そも/\批老ハ武蔵國多塚といふ里の長。杢兵衛と呼者にして領主平塚どのゝ内命にて越の長尾へ密使の大役首尾よくつとめ今日只今帰路いそぐこの梺豈はからんや合が谷の忍びの軍者に捕へられ同伴なしたる其人ハ後の杜にて」2
あへなき最期我ハ下卒に出立てかゝる時節にまぬかれんとかねて工みしことなれバ疵を受ても懐中の返翰までハうしなはずこれを古郷の領主へまゐらせ平塚豊嶋丸塚の三家を繁昌させ申さんと思ひの外にこの不覚長尾の書翰ハ持たれども砂金ハ巨多奪はれたりそれのみならで豊嶋殿の先年長尾に分捕せられし坂東八平氏の司令たる錦の籏をこの度のよろこびにとてかへされしを今戦ひのその紛れに落してさらに在所を知らずとにもかくにもながらへてかへるにかたき古郷へたのみといふハこのことなり家内にハ二人の幼年あり〓ハいふにたらねども兄は今年十六才いさゝか道理を聞わけてものゝ用にもたつ者にて名ハ梅太郎」
と称はべる我に代つて錦のおん籏たづねて豊嶋の舘にまゐらせ実父の勘気の免を願ひしばらく養父となりたりしこの杢兵衛が誤ちを領主にわびて妹にハ家督を継せくれよかしと傳へたまへと合す手もふるへふるふて合掌かぬる苦痛さこそと順礼ハ杢兵衛を抱きつゝ 女「アレ爺さん氣をたしかにおもちよどうしてもかなはないとお思ひならおまへの遺言をわかるやうに申ませう トいはれてうなづく老人ハ息もたゆげに見えけるが賢き婦なりけれバ最期の思ひ出安堵させんと耳に口よせ 女「モシ爺さんわたしも元ハ湯ヶ嶋の丸塚さまの浪人で。菊坂小六といふ者の娘青柳と名を称ますが爺さんの遺言で孃毋さんの行衛をたづね先祖の名を絶すな」3
と云つけられた大事のこの身また毋さんハ御夲家の豊嶋さまに由緒の家。そうして見れバ余所外のやうに思はぬおまへのおたのみかならず/\案じないでトいふを聞より杢兵衛ハさも嬉しげに合掌すれどはや舌こはりてものさへも云ぬハいふに大丈夫もおよばぬ乙女青柳の後にうかゞふ雜兵がさてハ豊嶋に由縁の曲者 兵「合が谷の御諚意なるぞト組付利腕ねぢかえし突のめらせバまた一人横に來るを腰なりけるひしやくの柄にて咽の真中突れてアツト一聲と倶にがつくり没命手負なほこりもせず走寄士卒身を開いて蹴かへされ傍の溝へはづみを打ざんぶと落て生死をしらず未通女ハこれを見もやらで杢兵衛をいくたびかいたはりながら呼いくれど」
【挿絵第一図】
旅客をあはれみて青柳合ヶ谷の歩卒を破る
」4」
はやこときれて甲斐もなくさすがハ乙女心とてうら悲しくも泣いりしがやう/\と氣をはげまし 女「喃爺さんと呼んだところが返事もないはづモシナア杢兵衛さん魂がまだ遠くゆかずハよふく聞しやんせおまへの疵所を結止た布ハわたしが負摺の切で結んであげたゆゑ冥土の旅に結縁の札所の御利益ありもせバおめぐみ深い圓通大士現世ハ古郷の子ども衆へ福壽の誓ひ空しくはあらぬこの世の苦をのがれておまへハ菩提の即身成彿かならず迷ふてござんすなト在すがごとくくり言もいふて帰らぬ死出の旅わが身も旅の空ながら捨ておかれぬ亡骸を片辺の丘に埋めつゝ長尾殿より平塚へ返書の類かたみともなるべきものを携へて。駅路さしていそぎゆく心淋しき野に」5
山に思ひやるさへいたましきそも亡霊もいづくへか宿りさだめじはかなやと胸をいためてやゝたどる路の夏草露の葉をいくつ飛かふ蛍火も魂かとぞ看る木の間の月かへるにしかじと鳴とりもしでのたをさや古郷にこれを待らんまつかひも。なくてまつるハ新盆の用意にこそハなりぬべしと心細道里をすぎ三日路ばかりゆき/\て戸田の川原にいたりしが金烏ハ西に傾きて申の半刻にすぎたりけるがこの節ハ世の中静ならずことに街道物騒なりとて申の時よりハ往來もまれにて渡し守さへあらざれバいかゞハせんと猶豫中川上よりして一艘の小舟をこぎて來る者ありちかづくまゝによく看バ四十才あまりの姥にて舟漕業に馴たりけん余所看をしつゝ艪をあやどり」
此方の岸に舟を寄 舟女「モシ女中さんおまへも向ふへ渡るのかへ 青柳「ハイさやうサ 舟女「アハヽヽヽヽ三年三月河原に彳ても申刻から先へ渡しハ御法度それとも今から渡舟たくハ渡錢をチツトよけいにお出しト
いひながら舩のコレこの娘むすめッ子こも不案内ふあんないで川上かはかみの岸きしにまごついて居ゐたのを乗のせて來きたのだ此この岸きしからハ揚あげられねへがこれから直すぐに引汐ひきしほで豊嶋としまの揚場あげばか下しも尾久をぐの渡わたし口くちからあがりやァ格別かくべつ無理むりにこゝからあがつても關所せきしよがあるから行いかれねへトきいて青柳あおやぎ渡わたりに舟ふねと彼かの舟ふねの女をんなに向むかひ 青「そうとハ知しらずうか/\と舩ふねの通かよひを待まつてゐましたどうぞそんならその舟ふねで 舟女「豊嶋としまでよくハサアお乗のりトいへば舩ふねより一人ひとりの乙女をとめこれも其その年とし二八にはちばかり田舎ゐなか神子女みこと看みへたるが練絹ねりぎぬの帽ぼう」6
子しを額ひたひに當あてて手織ておりの麻あさの紅〓べにがすり丈たけ長ながからぬ振袖ふりそでに白綾しらあやの薄衣うすぎぬかけてそれより白しろき顔かほばせの愛敬あいきやうづきし唇くちびるの紅べになでしこよりうつくしく青柳あをやぎを呼よびかけ招まねきつゝ 田舎女「モシ/\姉ねへさんこのおばさんのいふとほりだそうだからわたしと同伴いつしよに豊嶋としまとやらまでお出いでなさいなト女子をなご同士どしとてやさしくも聲こゑかけられて青柳あおやぎは姥おふなの舩ふねに打乗うちのる折をりから河越かはごゑの武士ものゝふ〈合谷あふぎがやつの幕下ばくかなり〉なりけん五七人走來はせきたり 武「ヤイ/\その舩ふねを出だすな詮義せんぎがあるぞまて/\/\。 舟女「ヲホヽヽヽヽ仰山ぎやうさんな村むらの子こどもが近在きんざいを小遣こづかひ活業かせぎのもどり足あし同伴どうしに帰かへる田舩たぶねの中なか何なんの詮義せんぎがあるものかトあざみ笑わらつて漕こぐ舟ふねハ水みづに任まかせるさか落おとし彼かの武士ものゝふ等らが呼よぶこゑを耳みゝにもかけず川下かはしもの南みなみの茅かや沼ぬま芦あしの洲すや東ひがしに流ながれ北きたへ」
寄よりはてハ寅とら夘うの間あはひをこぎ荒川あらかはさして下くだり舩ぶね矢やよりもはやくながれゆくかくてこの舩ふね夜よにいりて神宮かにはの北きたにかすかなる下村しもむらといふ片鄙かたゐなかの岸きしにつなぎて彼かの姥おふな 舟女「サアマアこゝから揚あかんなせへ乗のりなれた川かはだけれど
昼ひるの暑あつさでがつかりしてモウ/\艪ろも棹さほも遣つかへねへ 青「ほんにそうでありましたろうサアモシ神女みこの姉ねへさんおまへもいつしよにおあがりなトたがひに手てをとり青柳あをやぎがわが名なの垂たれて川水かはみづに髪かみ洗あらふなる月つきの蔭かげ鏡かゞみにひとしき空そらをながめ 青「まことにいゝ夜光おつきよだねへアレ桟橋さんばしがすべるョ 神子「ハイありがたふト打うち連つれてあがる厂木がんぎの向むかふにハ早はやくも前さきへ廻まはりたる河越かはごえ武士ぶしの路みちをふさぎ 武「おたづね者ものの田舎ゐなか神女みこ同伴つれもたしかにその同類どうるいサア尋常じんじやうに縄なはかゝれと」7
取巻とりまく大勢おほぜい彼かの老婆らうばハ二人ふたりの處女をとめをうしろに囲かこひ 舟女「アヽモシ/\この娘むすめは両個ふたりながらわたしの姪子めひつこかならずあやしい 武「ヤアいふな/\わいらがいくら隠かくしても合あふぎが谷やつの御所ごしよからして出奔かけおちなした侍女こしもと両個ふたり元もとハ長尾ながを家けの間者しのびのもの姿すがたの美麗びれいにひきかへて心こゝろの太ふとき處女をとめぞと命おほせを請うけて看みあたつた女郎めろうを迯にがしてよかろうか邪广じやまひろぐなト走寄はせよるを姥おふなハ突退つきのけはねのけて思おもひの外ほかに健氣けなげなはたらき 舟女「こゝかまはずと無失むしつの難なんをのがれるやうに落おちた/\ソレ其その茅原かやはらが豊嶋としまの御領ごれう一町ひとまち行ゆけバすぐに御ご陣屋ぢんやはやくお役やく人にんに人ひと間違まちがひ不慮ふりよの難義なんぎとおねがひ申なはやく/\と透すかされて欠出かけだす草くさむらかねてよりわがね結むすびし足手あしてまどひ忽たちまち倒たふるゝ両個ふたりの美女たをやめ彼かの」
武士ものゝふ等らハ下重をりかさなりやがて縄なはをぞかけたりけるこのとき舩郎ふなをさせし姥おふなも倶ともに會合つどひて皃かほ見合みあはせ仕合しあはせよしとうちわらひくまなき月つきを燈明あかりとし荊棘いばら薮蘭からたち森もりの中なか路みちなき難所なんじよをたどらするに両個ふたりの未通女をとめハ詮方せんすべなくおめ/\として引ひかれゆく無念むねんハ面おもてにあらはれて推察おしはかるさへいたましきこれハさておきこゝにまた於斉おさいの尼あまと法名ほうめうして歳齢としごろ五十才いそぢに近ちかき尼公にこうの武藏むさし下総しもふさを徘徊はいくわいして因いんを説とき果くわをしめして濁世ぢよくせの衆生しゆじやうを済度さいどする道徳だうとくの此丘びくありけるがこのころ神宮かにはの薮中山そうちうさん満化寺まんぐわじとか称よびなせし荒あれたる古寺ふるてらに寓居かりゐして近郷きんがうを勧化くわんけなし踊をどり念仏ねんぶつといふことを催もよほして十二三より十五六の處女をとめを集つどへてこれをなすに舞子まひこの進退ふりを教をしへもしつまた弥陀みだ如來によらいの利劔りけんと名号なづけ降がう」8
魔まの太刀たち打うち闘場とうぢやう陳ちん念彿ねんぶつ和讃わさんの合あひの手てに踊をどる拍子ひやうしの太鼓たいこの音おとハ修羅しゆらの鼓つゞみの趣おもむきありされど近年きんねん合戦かつせんのこゝや彼所かしこに絶たえざれバ里さとの若輩わかうど少女をとめ等らも臨終ひきいれらるゝ説法せつほうよりはるかにまさる尼君あまぎみのをしへなりとて流言ふれまはり老若らうにやく浮薄ふわと法場のりのにはいと/\繁昌はんじやうしたりしとぞ
第八囘 〈凶信愁傷會三賢婦きやうしんしうじやうさんけんぷをくわいす|戀情賢能告正深志れんじやうけんのうまさにしんしをつぐる〉
亦説さても文明ぶんめい五年ごねん秋あき七月ふみづき十日とをかの夜半よはのことになん彼かの多塚おほつかなる梅太郎うめたらうは思おもひがけずも夲家ほんけなる於袖おそでが戀情れんじやうの深ふかきにより當惑たうわくいはんかたもなく心こゝろをいためありけるが於袖おそでハ一途いちづに梅太郎うめたらうを好漢をとこと思おもひしことなれバ恥はづかしきこと」
言いひ尽つくしてとりあげられぬ夲意ほいなさに既すでに命いのちを捨すてんとて走出はせいだしたる庭面にはもせの垣根かきねに寄添よりそふあやしの女をんなさすが死しぬると覚悟かくごしても不慮ふりよのことゆゑもの恐怖おぢしてアツト一声ひとこゑ倒たふるゝ於袖おそで隣となれる家いへよりお張はりハ欠出かけいでおどろきながらことのよしをきいてわが家やに伴ともなひつゝしばらく介抱かいほうなしけるとぞ此この節とき梅太郎うめたらうハ心こゝろをしづめ 梅「まだ夜よもあけないのに人ひとの門口かどぐちさし覗のぞくハ合点がてんの行いかぬ見みれバ女をんなの順礼じゆんれい姿すがた同行どうぎやうもなく只たゞ一人ひとり真実まことの修行者しゆぎやうじやでハあるまいなたしかに家内かないを窺うかゞひてもの盗ぬすまんとたくむであろう同おなじ形容かたちの人ひとながらさもしき人ひとの心こゝろでハあるト於袖おそでがことも心こゝろにかゝれど折戸をりどをはたと閉たてきりて飛石とびいしづたひに居所ざしきのかたへ行ゆくを順礼じゆんれい呼止よびとゞめ 順「アレモシちよつと物もの問とひませうこゝハたしかに多塚おほつか村むら」9
アノ庄屋しやうやの杢兵衛もくべゑさんとおつしやりますお人ひとの居住おたくを御存ごぞんじならバをしへなされてくださいまし 梅「ナニ庄屋しやうやの杢兵衛もくべゑとハ此方こちらじやが一向ついに看知みしらぬ其方そなたの風俗やうすとがめられを紛まぎらかさんと用ようでもないこと尋たづねずとも早はやく其所そこを立たちさらぬか 順「なるほど時ときならぬ折をりまゐつたゆゑおうたがひハ尤もつともでございますが曲者うろんなものでハございませぬこちらを人ひとでなしといふ其その身みも親おやハ旅たびの空そらあへない最期さいごをしたとも知しらず娘子むすめこどもを引ひきいれて婬蕩いたづららしい今いまの風情ふぜい親おや御ごの遺ゆい言げんをつたへてもいふ甲斐かひもない梅太郎うめたらうさん遺物かたみもほしうハございませぬか長尾ながをさまの御お返事へんじもわたしがすぐに御領主ごりやうしゆへトいはれてハツト梅太郎うめたらう虚実きよじつハいまだ弁わきまへねどおのが名なを呼よび親おやのこと旅たびの噂うわさに凶事きよじのことば聞きいて」
胸むねさへとゞろかし 梅「イヤこれハ大おほ
きに麁相そさうなこと此間こないだ近邊こゝらが物騒ぶつそうじやと昼ちう夜や要心ようじんする最中さいちうことに此方こちらに取込とりこみがあつたから前後あとさきも考かんがへないでひよんなあいさつ氣きにさはつたら了簡れうけんしてマヅこちらへト柴折戸しばをりと開あけて伴ともなふ縁ゑんの端はし腰こしうちかける順礼じゆんれいハ田舎ゐなか乙女をとめと思おもひの外ほか容儀ようぎものごししとやかに亦また是これ一個いつこの美人びじんなりこの時とき月つき没おち鶏とりないて夜よハしら/\と明あけわたりぬさて梅太郎うめたらうハせき立たちて養親やしなひおやとも頼たのみてし杢兵衛もくべゑが身みの覚束おぼつかなけれバいかにありしと問とひよれバ彼かの順礼じゆんれいハ携たづさへし長尾ながをの書翰しよかん遺物かたみ等とうを取出とりいだしつゝ物語ものかたる松井田まつゐだ原はらの一件ひとくだりまた杢兵衛もくべゑが遺言ゆいげんまで落おちなく説といて聞きかせけれバ梅太郎うめたらうハやゝしばらくあまりのことに胸むねつぶれ途方とはうにくれてことばなく勇智ゆうちハ兼かねても」10
真まことハ女子をなごかゝる節をりにハ涙なみだのみさきだつ人ひとの心根こゝろねを思おもひやるさへいたましく正躰しやうたいなくも伏ふし沈しづむ其その虚きよを窺うかゞひ順礼じゆんれいの未通女をとめハ柄杓ひしやくをふりあげて真向まつかうはつしと打込うちこむを右みぎと左ひだりへ顔かほふりそむけまたもうち込こむ手てなくびをとらへてずつくと立上たちあがれバ倶ともに突立つゝたつ乙女をとめの大膽だいたんとられたる手てを振ふりはらひ 順「 歎なげきに大事だいじをわすれたら親御おやごへ孝行かう/\になりますかたとへお歳としハゆかないでも義理ぎりある親おやの遺言いひのこされた豊嶋としまさまの御宝おんたから錦にしきの御籏みはたをたづね出だし実爺じつおやさんの尊霊おゐはいへ御主君おしゆうの御ご勘氣かんき詫言わびことをしてあげられずハ濟すみますまいたよはいお方かたとうち笑わらへバ梅太郎うめたらうハ用心ようじんのなかにも乙女をとめが弁才べんさい利口りこう説ときつけられて歎たん息そくし
梅「モシおまへハ未通女むすめごにハ珍めづらしい御ご發明はつめいもつとも大丈夫をとこにまさつた」
御氣性ごきしやうそれでなけれバ松井田まつゐだの修羅しゆらの街ちまたで爺とゝさまの頼たのみを聞きいてはくださるまいマアいさましいおまへの生長おいたちさだめて深ふかい御様子ごやうすがあつてやつしたそのお姿すがたくるしくなくハ氏うぢ素生すじやうをどうぞ明あかしてくださつてハ 順「おまへも実まことをおあかしならバ 梅「サアわたしハ此この家やの養子やうしといふハかねておまへも知しつての通とほり 順「イヽヱそれよりおまへの姿すがた變生へんせう男子なんしの由來ゆらいをどうぞ 梅「ヱヽ變生へんせう男子なんしとこのわたしを 順「うまくこれまでおだましだろうがわたしハ悟さとつたおまへの本形ほんせう 梅「シテその證古しようこがあるのかへ 順「 證古しようこハ神宮かにはの薮中山そうちうざん満化寺まんぐわじの道徳どうとく於斉おさいの尼あまの招介帖ひきつけでうこれ看みなさんせトさし出だせバ梅太郎うめたらうハ手てに請うけて 梅「コリヤさうゐない尼あま御前ごぜの自筆じひつの状でうでございますそうして見みれバ」11
おまへもまた豊嶋としまへ由縁ゆかりの娘御むすめごで 順「 丸塚まるづかの浪人らうにん菊阪きくさか小六ころくが娘むすめ青柳あをやぎと申ますこれから始終しじう心こゝろをあはして 梅「 豊嶋としまの正統しやうとう路姫みちひめさまを 青「これまで知しらずにをりましたが尼あま御前ごぜの御お教示しめしを聴きいて御法みのりの花衣はなころも佛果ぶつくわでハない國家こくかの御為おためトこれよりさすが梅太郎うめたらうも実事じつじをあかす女をんなの情じやう自然しぜんとしづかなりけるがそも梅太郎うめたらうハ何日いつのほどにか於斉おさいの尼あまに見参げんさんせしやまた於斉おさいの尼あまハいかなる人ひとぞ巻まきをかさねてくわしくす
べしかくて青柳あをやぎは今朝こんてうこゝに來きたりたる夜中やちうの始終しじうを告つぐる中うちに彼かの女をんな
舩長ふなをさ河越かはこえの兵つはものに出立いでたちしハ於斉おさい
尼あまの手てに屬しよくしたる人々ひと%\なること其その身み
草中くさむらに生捕いけどられし後のち於斉おさい尼あまにかたらはれたる由よしをものがたり只たゞいぶかしきハ同おなじ年来としごろなる田舎ゐなか神女子みこの満化寺まんぐわじの」
【挿絵第二図】
義婦ぎふ凶信きやうしんを多塚おふつかに告知つげしらす」12」
地中ぢちうにいたりて縄なはをはづして迯去にげさりし働はたらき未通女をとめに似氣にげなき大膽だいたんなりとこまやかにかたりけれバ梅太郎うめたらうハこれを聞きゝて青柳おをやぎにうちむかひそは残のこり多おほきことになん貴孃おんみに等ひとしき其その婦人ふじんなどで因ちなみを結むすばざりしといといたふ悔くやみしかバ青柳あをやぎハうち笑わらひ否いなそのことハくるしからず尼公あまにハこれを卜占うらなひて今いまこの未通女をとめの迯にげたりともまた再會さいくわいの節ときありて義ぎの姉妹あねいもととなるものぞと告つげられたれバこの末すゑにいつかハ逢あはですごすべき於斉おさいの尼あまの神占しんせんハまた頼毋たのもしき縡ことにこそト閑談かんだん時ときをうつせし折節をりから毋屋おもやよりして杢兵衛もくべゑが実じつの娘むすめのお竹たけが聲こゑ 竹「 兄あにさんお飯まんまが出來できましたトいひつゝ欠かけて來きたりしが青柳あをやぎを見みていぶかしく 竹「ヲヤ兄あにさんこの順礼じゆんれいの姉あねさんハお客きやくかへト何心なにごゝろなく於竹おたけが尋たづね梅太郎うめたらうハ」13
さし俯向うつむきこたへも曇くもる涙なみだごゑ 梅「ヲヽお竹たけさんかへ今いまおまへにそう云いはふと思おもつたところだよ此この姉あねさんハ爺とゝさんのお使つかひだよ 竹「ヲヤ/\そうかへそしてお爺とつさ゜んハ何日いつごろお帰かへりだ子ヱト聞きかれておもはずなきだすかほのぞいて於竹おたけハそれぞともまだ悟さとらねど倶ともなみだ 竹「 兄あにさんナゼそんなにお泣なきだへ爺おとつさ゜んが途中みちで塩梅あんばいでもわるいとかへ。ヱ。ヱ。梅うめさんはやく云いつておきかせよョ兄あにさんトいヘどいらへも泪なみだのみはてしなけれバ於竹おたけハまた青柳あをやぎにむかひ 竹「アノウ姉ねへさんおとつさ゜んが何なんといつてよこしましたへ。ヱ姉ねへさんト問とひかけられ是これも於竹おたけがこゝろ根ねを思おもへバ不便ふびんさいぢらしさ泣なかじと奥歯おくばかみしめてなか/\答こたへハならざりき於竹おたけハ両個ふたりが泣皃なきがほになほ氣きにかゝる親おやのこと梅太郎うめたらうをゆり動うごかし 竹「ヨウ兄あにさん」
はやく爺おとつさ゜んのことをいつてお聞きかせヨウどうかしたのかへ。ヱ兄あにさんト泣なきいだせバ思おもはず泣なき伏ふす梅柳うめやなぎ中なかに倒たふれてなよ竹たけの葉は露づゆもはら/\泪なみだの雨あめ丁度てうど三人みたりが川かはの字じに波立なみたつばかりの歎なげきなり梅太郎うめたらうハやう/\に起おきかへり 梅「アノウお竹たけさんよくお聞きゝよ爺おとつさ゜んハ旅たびから旅たびへお出いでだからモウどうしてもお帰かへりでハないョそれだから今いままでと違ちがつてなほおとなしくおしよそしてわたしハそのことでまた旅たびへ行ゆくから淋さみしかろうけれど畄主るすをしておいでよ 竹「アイト返事へんじも口くちの中うち幼をさなけれども發明はつめいにてはや十二才さいになりぬれバそれとさとりて悲かなしさも頼たのみすくなき孤子みなしごの心細こゝろほそさをたれにかハかたらんよしもあらずして力ちからとなるべき梅太郎うめたらうがまた旅立たびたつときくからにいよ/\歎なげきハとゞまらず 竹「 兄あにさん爺おとつさ゜んハ何処どこで」14
死しんだとお云いひだへ名いゝ医者おいしやさんがなかつたのかへどんなにせつなかつたかだれもさすつてやるの。もんであげるのといふものも有あるまいねへそしてお寺てらへお弔ともらひをまだしないのなら爺おとつさ゜んの死しんだ宅うちへ連つれて行いつておくれなモウ逢あふことが出來できないからとうぞ顔かほが看みたいョ。ヨ兄あにさんト泣なきくどかるゝ梅太郎うめたらうも知しらせに來きたりし青柳あをやぎも涙なみだの果はてしなかりしところへ家いへの支配しはいの鍬八くわはちが 鍬「サア朝飯あさめしにしなさらねへか朝あさッぱらから串戯じやうけちやァ泣ないたり笑ッわらつたりするだァお芋いもばァさまが小言こごとをいひまさァはやく食事たべてしまひなさいト聲こゑを掛かけつゝ背戸せどの方かた畑はたけをさして出行いでゆけバ梅太郎うめたらうハ思案しあんを定さだめ掾ゑんに立出たちいで毋屋おもやの方かた窺うかゞひながら座ざに直なほり 梅「お竹たけさん悲かなしいハ尤もつともだけれどモウ/\思おもひきつてお泣なきでないとハいふものゝ無理むりなこと」
これが泣なかずにゐられうかおまへもわたしも便たよりないたつた一人ひとりの男親をとこおや別わかれといへバ何時いつじやとてかなしくない日ひハないけれどせめて二人ふたりが看病かんびやうしてかなはないまでもお医者いしやさまのくすりョ針はりョと介抱かいほうのうへで退のがれぬ定業ぢやうがうならまたあきらめもならふけれどお歳としよられておいででも不断ふだん達者たつしやなアノお身みが多勢たせいのために数ヶ所すかしよの深手ふかで苦痛くつうもさこそとおいとしい 竹「そんならバ爺おとつさ゜んハ他ひとにきられて死しんだのかへ。ヱ兄あにさん殺ころした奴やつハ盗人どろぼうだとかへまた喧嘩けんくわでもなさつてかへヱヽ悔くやしいかなしいねへサア兄あにさんこの姉ねへさんが爺おとつさんのおたのみで殺ころした人ひとをも知しつておいでだといふことなら同伴いつしよにそこへ行いつてもらつてどうぞ爺おとつさ゜んの敵かたきが取とつてあげたいねへヱ兄あにさん直すぐに支したくをおしでないかヱ兄あにさんトせき立たつて涙なみだをはらふ怒いかりの」15
面色めんしよく憤然ふんぜんとして歯はを喰くひしばり握にぎる拳こぶしも和やはらかな蛍狩ほたるがりとか手玉てだか〔ママ〕とかたとへていふべき幼をさなの所為わざくれされどはげしき大丈夫ますらをにおとらぬ勇気ゆうき恩愛おんあいの深ふかきハこゝにあらはれて哀あはれにもまたいさぎよし梅太郎うめたらうも青柳あをやぎも三ッ子みつごに浅瀬あさせのたとへに等ひとしく泣なくのみならんと遠慮ゑんりよして告つげ兼かねたりし杢兵衛もくべゑの横死わうしと聞きいて壮健けなげにも敵かたきを打うたんといふを聞きゝ 梅「アノお竹たけさんおまへはいつものよはむしと思おもひのほかに強つよい口上こうぜう敵かたきがとつてあげたいとハ感心かんしんした親孝行おやかう/\しかし一人ひとりや二人ふたりでハうつことならぬ合あふぎヶ谷やつ宦領家くわんれいけの順検士じゆんけんしことに領主れうしゆの長尾ながをへ内通ないつう露顕ろけんと見みえし大切たいせつの場所ばしよにおいての打死うちじにハ勇士ゆうしもおよばぬ忠義ちうぎの功いさおしたゞ残念ざんねんハ錦にしきの御籏みはた爺とゝさんハ取落とりおとしたと青柳おをやぎさんに被仰おつしやつた」
そうだけれど領主りやうしゆの夲使ほんしが死しぬほどなりや急度きつと鎌倉かまくらへとられたにちがひはないョ 竹「そんならバどうぞ爺父おとつさ゜んのお弔ともらひでも夲式ほんとうにしてそれからその御籏みはたとやらをたづね出だして 梅「サアそれゆゑにわたしが旅立たびだちおまへハよふく畄主居るすゐしてとハいふものゝ内外うちとの者ものへまだこのことハ知しらされないョわたしハ旅たびへ行ゆく跡あとにおまへばかりが残のこつて居ゐて爺おとつさ゜んが死しんだと聞きいたら子こどもばかりと馬鹿ばかにしてわるいことをたくむ者ものが出來できたときハなんぼおまへが才智りこうでもなか/\一人ひとりで防ふせがが〔ママ〕れるものでハないからわたしが帰かへつて來くるまでハかならず他人ひとに知しれないやうにト於竹おたけに萬端よろづ得心とくしんさせまた青柳あをやぎをかたらひて梅太郎うめたらうが帰宅きたくまでこゝに止とゞまりお竹たけがために余所よそながら後見うしろみの要心ようじんとなし家内やうちのものへハ杢兵衛もくべゑより書状しよでうを以もつて」16
青柳あをやぎを家いへにとゞめて置おくべきよし言越いひこしたりとこしらへてその日ひより青柳あおやぎを於竹おたけにしたしく友ともとして梅太郎うめたらうハ杢兵衛もくべゑの招まねきにより越こしの長尾ながをへおもむくとて旅たびの用意よういをしたりけるかゝりし所ところに隣となれる家いへの於張おはりハ梅太郎うめたらうをあひまねき於袖おそでが必死ひつしの覚悟かくごのおもむきつまびらかに解ときつけて若もし情念しやうねんをはらさせずバ縁者ゑんじやの因ちなみある乙女をとめを殺ころして夲意ほんいとおもはるゝハいと/\情なさけなきことぞと於袖おそでも倶ともに怨うらめしげに言葉ことばかずさへ尽つくさずに只たゞさめ%\と泣なき口説くどかれ當惑たうわくいはんかたなけれど今になりてハ猶なほさらにあかす由よしなき大事だいじの身み恩義おんぎの養父やうふ妹いもとのため実まことの毋はゝの遺言ゆいげんなど三ッ四ッ五ッ六むづかしき思案しあんに胸むねハ安やすからずとハいへ於袖おそでが死しにかねまじき風情ふぜいハ既すでにあらはれたれバ當座たうざの命いのちを延のばしなバ」
程へど(ママ)経へてうつる人心ひとごゝろわれを忘わするゝ節ときあらんしかりといへども旅立たびたちのわけの実まことハ告つげられず誠まことを告つげずバ才智さいちの未通女をとめたゞ振ふり捨すてると思おもひとり身みをあやまつにいたるべしとやゝ肺肝はいかんをなやませしがやう/\に心こゝろをさだめ 梅「おはりさんの御信切ごしんせつお袖そでさんそれ程ほど思おもつておくれなら否いやでハないがト耳みゝに口くち何なにやら告つげれバお袖そでハ顔かほをさと赤あからめて嬉うれしげなり元來もとよりお張はりハ媒人なかだちなりそれとさとりて獨ひとり言ごと 張「ほんにわたしとしたことが極樂ごくらく水みづまで急いそぎの用ようをさつはりわすれた佛性ほとけせうも頼たのんだ人ひとへハ罪つみつくりドリヤひと走はしり行いて來きますてうど畄主るすしてくださいまし梅うめさん和合なかよくお遊あそびョト粹すいなふりして甘口あまくちにはかりおほせし内心したごゝろ梅太郎うめたらうハ夲家ほんけの伯毋おばの作畧さくりやくとかねて推察すいさつハなしてもお袖そでを不便ふびん」17
とおもふこれ夲生ほんしやうの女同志をんなどし男子なんしの気きにハすこしく戻もどれりさても両個ふたりハ對座さしむかひ於袖おそでハ何なんといひ寄よらん言ことの葉草はぐさに露つゆおもき泪なみだの眼めもとほんのりと
上気じやうきせし顔かほそむけつゝ向むかふへそらす掌たなびらの指ゆびとゆびとに綾あやどりてなまめかしくも愛あいらしゝ梅太郎うめたらうハ歎息たんそくし心こゝろの底そこに思おもふやうわれもし真まことの男子をのこならバこの艶婦たをやめに惑溺わくできして生涯しやうがいをあやまちなん実げに慎つゝしんで守まもるべきハ男女をとこをんなの戀情れんじやうなりきとおのれをつゝしむ賢良けんりやう貞婦ていふこれ八賢志はつけんしの最一さいゝちにてこれにますべき智勇ちゆうの賢婦けんふなほ出いづべからんか知らねどもこゝにハ得えがたき秀才しうさいなるべしそれハさておき梅太郎うめたらうハ於袖おそでを近ちかく寄より添そはせ 梅「アノお袖そでさんだん/\おまへのおこゝろざしを聞きいて見みれバ親御おやごさん達たちの善惡さがハ兎ともかくも私わたしが身みにふりかゝつた」
難義なんぎなことさへないならバ両個ふたりいつしよといひたいけれど今いまおわかれ申たら又またあはれるやら逢あはれまいかと末すゑの覚束おぼつかないことがあるゆゑどうぞおまへも聞きゝわけて萬一まんいちわたしが旅立たひだつて帰かへらぬやうになつたならどうしてもない縁ゑんだとあきらめて神宮かにはの家いへを御ご相續さうぞくなさるが先祖せんぞへ御ご孝行かう/\よしやわたしが旅先たびさきの用ようが早速さつそくらちあいて直すぐに帰かへつて來くるまでも縁ゑんがなけれバそはれぬもの始はじめハいやと思おもつても神々かみ%\さんの結むすんだ中なかハそぐはぬ様やうで末すゑとげるそれが誠まことの夫婦みやうとごと皃かほや容かたちに惚ほれたとて無理むりな戀路こひぢや縁組ゑんぐみハかならず/\しないものじやとわたしの毋はゝが手てならひの子供こどもに毎事いつもをしへたをおぼえたとほりいやらしくいふもおまへがいとしいゆゑ子お袖そでさんわたしも実じつハ惚ほれてゐて前後あとさきおもふ信切しんせつをかわいそう」18
だとお思おもひならおまへもちやんと思おもひ切きつてわたしを旅たびへ立たゝしておくれト云いひつゝしつかり握にぎる手てに千萬せんまん無量むりやうの思おもひを籠こめ想おもひをはらさす變生男子へんしやうなんし姿すがたばかりの好漢をとこにハ外ほかに詮方せんかたありとてもその情慾じやうよくをはたさせてハこれ梅太郎うめたらうは不義ふぎにしてお袖そでハ一旦いつたん男子なんしに合あひしいたづらの婦ふに落没おちいりてこのすゑ未通女をとめといふべからず必竟ひつきやう於袖おそでが返答こたへハいかにそハ第だい九囘くくわいを看みて知しるべし
貞操婦女八賢誌初輯卷之四」19オ
貞操婦女八賢誌ていさうをんなはつけんし 初輯しよしふ 卷之五
東都 狂訓亭主人編次
第九囘 〈号神女真弓弘占卜しんぢよとがうしてまゆみせんぼくをひろむ | 告昇天冨嶽催神祭しやうてんをつげてふかくにしんさいをもよふす〉
清少納言せいせうなごんの枕双帋まくらさうしといふもの書かけるハいともいみじき賢婦けんふなるかな哀あはれなるものといふ所ところの始はじめに孝かうある人ひとの子こと書かきいでたり人ひとの道みち多おほくあるが中なかに親おやに孝かうある心こゝろこそ第一だいゝちの所為わざになん君きみに忠ちうを尽つくし友ともだちに信しんあることも皆みな先まづ孝かうを元もととして其その心こゝろよりおよぶとぞされバ君子くんしハ元もとをつとむ夲もと立たつて道みちなる孝かう弟ていハ仁じんをおこなふの夲もとかと論語ろんごにもしるされたり実げに多塚おほつかの梅太郎うめたらうが親おやに」
孝かうある心こゝろからまた佗人ことびとに信まことありてお袖そでが戀情れんしやうの痴ちなるをもなほあはれみてこれをさとし心こゝろ急いそぎの中なかなれども別わかれを告つげて信切しんせつなりしにお袖そでは何なにと返答いらへさへ泪なみださしぐみゐたりしがやう/\に顔かほをあげ恨うらめしげに梅太郎うめたらうの顔かほをまもりて溜息ためいきをつく%\おもひ廻めぐらせバいとゞゆかしき情人こひゞとの容儀ようぎ才智さいちのなみ/\
ならで我われさへ悟さとらぬ継親まゝおやの奸計かんけいまでを視察みすかしたる思慮しりよはなか/\凡世よのつねの人ひとのおよばぬことのみかハ戀慕れんぼに迷まどひて親おやにはかられ男をとこの持もてる證状しようでうを奪うばはんとせしこの身みをにくまず親子おやこの心こゝろの一同ひとつならぬを知しりつゝ手形てがたを与あたへんと惜氣をしげもあらぬ大器量たいきりやうかゝる人ひとにぞ身みを倚よせて妻つまとよばれ夫をつととかしづき朝夕あさゆふ和合なかよく日ひをおくらバ食しよくハ乏ともしく美服よききぬ着きず錦にしきハ夢ゆめに看みずともあれ草くさの蒲團しきねも玉たまの床とこ」1
さぞ頼毋たのもしくあるべきに養父やしなひおやの所用しよようにつきて今いま出いでゆかバ帰かへらじと固かたくは云いはねかへられぬことあるならん其その節ときハなまじ結むすばぬ縁ゑんこそハ後のちに悔くやしきことあらじといはるゝ胸むねこそ心得こゝろえねとハいへやさしき言ことの葉はハ此身このみをさばかりうるさしと忌いみ嫌きらはるゝ風情ふぜいも見みえずこれにハ深ふかきゆゑあるべし問とひあきらめて見みんものと情なさけを籠こめて握にぎられたる手てをその儘まゝに梅太郎うめたらうが膝ひざに保もたれてあどけなく 袖「梅うめさんわたくしのやうな聞きゝわけのないものを気きを永ながくだん%\お云いひだから思おもひ切きらふと思おもつてもあきらめられぬ因果いんぐわな心こゝろどうぞお側そばに居をられずとも両方たがひの心こゝろに夫婦ふうふだとせめて一言ひとことおいひならそれを一生いつしやうの樂たのしみにしてくらすからお否いやで有あらふが今日けふからして心こゝろばかりの夫婦ふうふといふことをどうぞ得心とくしんしておくれな。ヱ梅うめさん。ヱお否いやかト」
生はひまつはりし姫蔦ひめづたの言葉ことばのつるを情なさけなくとくに解とかれぬ義理ぎりとなり彼かの青柳あをやぎの告つげきたりし錦にしきの籏はたの由來ゆらいを明あかしこのたび松井田まつゐだへおもむけどはや彼地かのちにハあるものならじ御み籏はたハたしかに合あふぎが谷やつ殿どのへ取とり収をさめられしと覚おぼゆれバ其その身み假かりに女をんなの風姿すがたになりて宦領家くわんれいけへ立入たちいりて何なにとぞ御み籏はたを奪うばひかへして豊嶋としま殿どのへ奉たてまつり其その功こうを立たてたる後のちに兎とも角かくもなりなん由よしをつまびらかに告つげつるがなほ女子をなごぞとはこゝに明あかさずそハ何なにゆゑぞと推おしはかるに柔弱じうじやくなれども誠まことある處女をとめなるから万まんに一ッ用もちゆる時節ときもあらんかと後のちを思おもひて深ふかくかくせしとぞされバお袖そでもやう/\になだめられたる情念じやうねんの死しぬるときはめし覚悟かくごをバしばしハとゞまる気色けしきなれば梅太郎うめたらうハ別わかれつゝおのが家居いへゐに帰かへり來きて青柳あをやぎ於竹おたけに前後あとさきのことをよく/\頼たのみ教をしえ」2
おき中なか二日ふたひに支度したくを調とゝのへ日限ひぎり知しられぬ旅たびなれバ寒さむさに向むかふ綿入わたいりの肌着はだぎの衣きぬのと女同志をんなどし心こゝろをつけつつけられつ所ところにひさぐ菅菰すがごもの簑みのよ小笠をがさと取揃とりそろへ門出かどいで祝いはふ軒並のきならび隣家りんかの人ひとに知しらせじと凉風すゞかぜさそふ暁あかつきに東ひがしを拝おがむ鹿嶋かしま立だち立派りつぱに見みゆる梅太郎うめたらうが腰こしに帯たいする一刀いつとうハ藤六とうろく左近さこん國綱くにつなが鍛打きたひうつたる二尺にしやく三寸さんずん重厚かさねあつなる
古刀ことうの名作めいさく女子をなごだてらに重おもけれど孝義かうぎに輕かろき命いのちぞと身みも軽かろらかな夏なつ浴衣ゆかたの袂たもとを拂はらふて旅立たびたちぬこの時ときハ是これ文明ぶんめい五年ごねん秋あき七月ふみづき中なかの五日いつかのことなりとぞ
因ちなみに曰いふ國綱くにつなと名号なのる鍛冶かぢ五人在ありとぞ〈備前びぜんに一人肥後ひごに二人宇土うどと菊池きくち三河みかはに一人〉いづれも後醍醐ごだいご天皇てんわうの御時おんとき元徳げんとく年中ねんぢう
〈の人ひとなり〉こゝに記しるせし國綱くにつなハ粟田口あはだぐちの住人ぢうにんにて正治しやうぢ年間ねんかんの人ひとなり西さい明寺みやうじ殿どのの御供おんともして相州さうしう鎌倉かまくらに下くだる後のちに左近さこんの將監せうげんと改名かいめいせり」
両話説それハさておきこゝに亦また神卜しんぼく仙女せんぢよ真弓まゆみとて観相くわんさう易術えきじゆつに秀ひいでたる神變じんへん不思議ふしぎの
女神巫をんなみこあり元もと是これ何処いづくの神祇宦じんぎくわんが家いへに生うまれし處女をとめなるか其その來暦らいれきハ知しらさねど延喜式ゑんぎしき内ない式外しきぐわいの神社じんじやを流通るつうに承知しようちして凡およそ神祗じんぎの祭文さいもん祈誓きせい
弁明べんめいせずといふことなく猶なほ易道えきどうの妙材めうざいありて前漢もろこしの焦延壽しやうえんじゆ。京房けいばうが右みぎなるべしと専もつはら風聴ふいてうせられしが此頃このころ武藏むさし下総しもふさの在々ざい/\を徘徊はいくわいし人相にんさう占うらかたを施ほどこして里人さとびと等らに重用ちやうようせられしが歳としハ纔わづかに十とをあまり六むつ七なゝつにやなるべきかと問とふ人ひとあれバ彼かれが答こたへハ二十五才ときこえけり誠まことしからずと思おもへども弁舌べんぜつ才智さいちをいふ時ときハ三十才みそぢを越こえし女をんなといふとも常人じやうじんいかでか是これに當あたらんまた容皃ようぼうの美麗びれいをいはゞ待宵まつよひに蜘虫さゝがにを詠ゑいじたる衣通姫そとほりひめにも勝まさりつべく體軽たいけい柳腰りうようの艶姿えんしをたと」3
はゞ漢かんの成帝せいていの寵后てうこう飛燕ひゑんが朝てうに召めされぬ節ときハかくありけんかと思おもひやる実じつに無双ぶさうの
未通女をとめなりしが此この時ときしも武藏國むさしのくに豊嶋郡としまごふり峽田領はけたりやう湯ゆが嶋しまの本郷ほんごう村むらに古ふるく祭まつりし神社じんじや在ありそもこの社やしろハ鹿芦かあし津つ姫ひめ大山祗おほやまずみの二女ふたひめを崇あがめ冨士ふじ淺間せんげんと祝いはひこめて毎年としごとの礼祭れいさい怠おこたらざりしが今年ことしハ村方むらかたゆへありて六月みなづきの祭礼さいれいを延のばせし処ところに一村ひとむら邪祟じやきにおかされて病人やむひと漸々せん/\に絶たえざれバ俄にはかに村長むらをさが評義ひやうぎして彼かの神卜しんぼく仙女せんぢよ真弓まゆみといふ女神子をんなみこをかたらひつゝ冨士ふじ浅間せんげんの社頭しやとうにおいて湯花ゆばなの興行こうぎやうを催もよほしけりされバ真弓まゆみハ時ときを得えていづくよりかは雇やとひけん宮奴みやづこ両個ふたりをつれ來きたり彼等かれらに神前しんぜんの供物くもつ祭式さいしきを司つかさどらせ亦また境内けいだいに鼎足ていそくを用意よういなしこれに居すゑたる大釜おほがまハ旦わたり五尺ごしやくもありぬべし真弓まゆみは衆人もろびとに」
【挿絵第三図】
告つげていふやう我身わがみ年来としごろ神かみいさめの業わざをなして神慮しんりよを清浄すゞしめたてまつりなほ人ひとの吉凶きつけう禍福くわふくを視看けんかんしてハ既すでに天機てんきをもらすのとがありしかりといへども八百萬神やをよろづのおんかみの冥助みやうぢよによつてこれを免まぬかれ且かつ還童くわんどうの術じゆつありて若わかやぐ法ほうをなしたれバ常つねにハ二十五才さいといひしが実まことハ今年ことし六十一才これ天てん元けんの帰数きすうなれバ此度こたび湯花ゆばなの法筵ほうゑんにおいて神魂たましひを高間ヶ原たかまがはらに昇遊せうゆうせしめんと覚悟かくごせりされど凡體ぼんたいを穢土ゑどにとゞめまた黄泉よもつくにに下くだすをいとひ祭事さいじ全まつたく終をはりなバ身みを生いきながら熱湯ねつとうの中うちに投入なげいれて神霊しんれい昇天せうてんの竒特きどくを見みすべし世よにありふれたる神職しんしよく神女みこ等らが奉幣ほうへい湯花ゆばなと軽かろしめて参詣さんけいせざる輩ともがらハ後のちに悔くやしきことありなん我皇國わがすめらみくにの神慮しんりよをおそ」5
れみ志願しぐわんをなさんとおもふものハいかなる大望たいまうなりといふとも供物くもつ祭式さいしきに米銭べいせんをいとはず崇敬そうきやうの信まことを尽つくして祈いのりなバ宿願しゆくくわん成就ぜうじゆ疑うたかひなしと兼かねて其意そのいをしらせしかバ道俗どうぞくこれをきくよりも余よのことハ兎とも角かくも生いきながら熱湯ねつとうに身みを投なげいるゝといふことのめづらしけれバ云傳いひつたへ語かたりつたへて遠をち近こちの老少らうせう男女なんによの分別わかちなく其その日ひの至いたるを指ゆびをりかぞへ心樂こゝろたのしく待侘まちわびて東ひがしに遠とほき村人むらひとハ湯ゆが嶋しまに旅宿りよしゆくをもとめ西にしに隔へだたる在郷ざいがうよりハ森川もりかはの宿しゆくにやどりをなしその祭礼さいれいを待まちたりけるかくて七月ふみづき二十五日神卜しんぼく仙女せんぢよ真弓まゆみこそ昇天せうてんの行力ぎやうりき満願まんぐわんの日ひなりとて未明みめいに小冨士山こふじさんの境地けいちにいたれバ村長むらをさ里人さとひと助力ぢよりきして供物くもつの用意ようい廣大くわうだいなりそも/\この冨士山ふじさんと称しやうするハ」
丘をかに等ひとしき小山こやまなれども芝崎しばさきより浅草あさくさの野末のすゑにかゝりて西にしにあたりし山手やまてなりされバ湯ゆが嶋しまの臺だいの高たかきよりまた一際ひときはたかけれバ武藏野むさしのの冨士ふじといはんもまた宜むべなり西にしハ森川宿もりかはじゆくに下くだり南みなみの方かたハ丸山まるやまに程ほど近ちかく正まさに勝景せうけいの名山めいざんなり元もとこの山上やまに浅間せんげんをまつりはじめしハいと/\古ふるきことにして昔むかしこの丘をかに松まつの大樹たいじゆのありけるがこの梢こずゑに毎年まいねん六月みなづき朔日ついたちより三日みつかの間あいだ雪ゆき降ふりつもりて冷風れいふう起おこり近ちかく寄よれバ寒氣かんき肌はだへをさすがごとくわづかに一町ひとまち隔へだてずして炎熱えんねつ蒸むすがごとき日ひもこゝなる松まつのもとに來きたれば嚴冬げんとうの節ときにまされりとぞしかりといへども人民じんみん等らこの寒風さむかぜにあたりしものハ忽たちまち邪熱じやねつにおかされて病人やむひとすくなからざりしかバこれ神霊しんれいの咎とがめならん」6
と郷人さとびと等らが寄集よりつどひて二女神ふたひめがみを祭まつりしとぞこれより郷村ところの氏神うぢがみとて崇敬そうきやう大おほかたならざりしが應仁おうにんの乱みだれより諸國しよこくの神社じんしや佛閣ぶつかくまで軍役ぐんやく兵粮ひやうらうの運送うんそう歩役ぶやくまたハ兵火ひやうくわに焼亡せうぼうなどあるのみならで國民くにたみの役えきにつかれて神佛しんぶつへ思おもふ儘まゝなる手向たむけもならずされバ當社たうしやの荒あれはてて本社ほんしや拝殿はいでん全まつたきのみ餘よハこと%\くすたれたり東阪ひがしざかなる火焚屋ほたきやのみいさゝか雨露うろを凌しのぐとか実じつに浅間あさまの境内けいだいなりきされど今日けふなん珍めづらしき湯花ゆばなの祭礼さいれいあることなれバ例れいにハあらで賑にぎはひけり時ときに真弓まゆみハ辰たつの刻こくより祈誦きじゆ祭文さいもん数百遍すひやくへん天津祠言あまつのつと太陽ふと祠言のつと六根ろくこん清浄しやう%\の御祓みそぎをなして神拜しんはいをはりしづ/\と夲社ほんしやをいづるその形相ぎやうさう身みにハ白妙しろたへの浄衣じやうゑを着ちやくし紅梅こうばいの肌着はだぎ裾すそ長ながく紅くれなゐの湯ゆ」
巻まきハ両足りやうそくを包つゝむがごとし長たけに等ひとしき黒髪くろかみを四方しはうへさつと振乱ふりみだし左手ゆんでに一枝ひとえだの榊葉さかきばを取とり右手めてにハ光々くわう/\たる白刃しらはを引ひきさげ猛然まうぜんとして拜殿はいでんの大おほ床ゆかに立たちたれバ群參ぐんさんしたる貴賤きせんの男女なんによ弥いやがうへに負重おひかさなりこれを見んとてきそひ寄よるされバ真弓まゆみハ庭上ていせうに踊をどりいで彼かの大釜おほがまの前まへにいたり熱湯ねつとうを榊葉さかきばにてふりそゝぎ振ふりちらすこと数度あまたたびやがて妙たえなる声音こはねにて年としの豊凶ほうけう病災びやうさい福祥ふくしやうつまびらかに神託しんたくの要意よういをつげそれよりまたも社前しやせんに上のぼり休息きうそくすること二時ふたときあまり愈然ゆぜんとして動うごかされバ残暑ざんしよに日蔭ひかげをいとひかね殊ことにおし合あふ数千すせんの老若らうにやく蒸むさるゝごとく暑あつけれバ流ながるゝ汗あせハ釜中ふちうに涌わく湯玉ゆだまに等ひとしきありさまなれバたがひに息いきもくるしげに神子に代かはりて熱湯ねつとうにわれ/\こそハ」7
入いりたれとて苦笑にがわらひしてどよめきけるがやゝ時ときうつりて日輪ひのかげも西にしに傾かたぶく申さるの半刻なかば両個ふたりの宮奴みやづこ釜前ふぜんにいたり積つみかさねたる薪たきゞをバ左右さゆうよりしてさしくべつゝ炎ほのふハ風かぜにひらめきていとすさまじくもえ上あがり火くわ炎ゑんハ發はつと八方はつはうに散乱さんらんし群集くんじゆもどつと崩くづれ立たつ折をりから真弓まゆみハ高声かうしやうに眼耳がんじ鼻舌びぜつ身意しんい六根ろくこん清浄しやう%\の文もんを唱となへ例れいの白刄しらはを打振うちふり/\忽然そつぜんとして熱湯ねつとうの辺ほとりに近ちかくすゝみ寄よればすはやと四方しはうの参詣人さんけいひと押合おしあひ/\我われ先さきにとかき分わけいづる姦かしましさ真弓まゆみハ群参ぐんさんの老若らうにやくに打うちむかひいかに集あつまる人々ひと%\よわがいふ教をしへをよく聞きゝ候へいとも尊たふとき皇國すめらみくにに生せうを得えて神徳しんとくを仰あふぎたてまつらざるハいと/\愚昧ぐまいのことならずやそれ佛ほとけは後生ごしやうをすくふて現丗げんぜを穢土えどとすされど施物せもつを仏ほとけに供養くやうしもつて來世らいせを」
助たすからんと願ねがふことこれ普通ふつうのことにして自他じた平等びやうどうの結縁けちゑんとすいかにいはんや神國しんこくの神かみの御末みすゑにありながら高間たかまが原はらに神崩かんさりたまひてなほ芦原あしはらの中洲なかつくにを安土やすくにとこそ守護まもらせたまふ神慮しんりよをバ青あをひとぐさのおろそかに思おもはゞいかに勿躰もつたいなきことゝ知しらずや知しりもせバ此この宝前ほうぜんに財たからをさゝげて一時いちじ礼拜らいはいの冥助みやうぢよを祈いのりかぞへていはゞ陰陽いんようの尊神おゝんがみを崇信そうしんし三社さんじやの託宣たくせん四所ししよ明神みやうじんの教示けうじ感得かんとくの霊應れいおうを祭まつり稲荷いなり五社ごしやの神通じんつうを仰あふぎ府中ふちうの六所ろくしよを尊たふとみて七世しちせの子孫うまご安寧あんねいの廣徳くはうとくをいのれかし猶なを年々とし%\の歳神さいじんを敬うやまひてハ八将はつしやう神霊しんれいの利益りやくを蒙かうむり厄年やくねんたりとも平安へいあんならん九天きうてん諸神しよじん十方じつほう鎮座ちんざの神々かみ%\を麁畧そりやくになさず且かつまた神かみを祈いのるにハ先まづ氏神うじがみを拜はいすべし斯かくの如ごとくに祭まつる時ときハ四海しかいに在まし」8
所ます諸天しよてん善神ぜんじん信心しん%\力りきに加持かぢなして應護おうごの奇瑞きずいを速すみやかに添そへ給はざる事有あらんや夫それ神道しんとうの教おしへに反そむかず清心きよきこゝろを呈進ていしんして利益りやくを祈いのり参詣さんけい人びとハ福徳ふくとく自在じざいの冥助みやうちよをかうむり子孫み〈ママ〉まごの栄さかえ疑うたがひなし慎つゝしんで崇敬そうきやうあられよといと高声かうしやうに説とき示しめせバ元来もとより當社とうしやの神徳しんとくハいにしへより明白いちじるく今いままた真弓まゆみが神霊しんれいの実じつに託たくする形勢ありさまをさも嚴重おごそかに看みせたりけれバ遠近をちこちの道俗どうそく男女なんによ泉聲もろごゑに祈念きねんしつ六根ろくこん清浄しやう%\を高たかく称となへ南無なむと一声ひとこゑいひかけて阿弥陀佛あみだぶつを口くちの中うちに称となゆるものも多おほくありて幾いく千貫せんぐわんの銭財せんざいをみな一同いちどうに投なげたりけるこの節とき真弓まゆみハ何なにやらん一際ひときは聲こゑ高たかく誦となへつゝ阿波あはの鳴戸なるとになほまさる湯玉ゆだまの響ひゞき震雷しんらいも及およばぬ釜かまの熱湯ねつたうを白眼にらまへつめて立たつたりしハ岩戸いはとに近寄ちかよる戸隠とがくしの神かみもかくやと思おもひやる」
中うちにも美麗びれいの俤おもかげに心こゝろをなやますやからもありされバいよ/\涌上わきあがる彼かの大釜おほがまの沸然ぼつぜんと浪立なみたつ中なかへ身みを踊をどらして飛入とびいれバ湯玉ゆだまハさつとほどばしり散乱さんらんたる其その雫しづくハ看宦みるひと%\の衿元ゑりもとにばら/\/\と降ふりそゝぐアツトばかりに群集くんじゆの貴賎きせんうろたへさはぎ身みの毛け立たつて釜中ふちうを覗のぞくものもなくたま/\覗のぞく者ものあれども湯烟ゆけふり白しろく蒙朧もうろうと雲くもの如ごとくにたなひけバ伸上のびあがりても見みることかたくしばしどよみて居ゐたりけるが二人ふたりの宮奴みやづこハ頓やがて薪たきゞの火ひを打うち消けし銭財せんざいを拾ひろひあつめて神前しんぜんにはこぶまた疑うたがひの深ふかき族やからハさらに熱湯にえゆのさむるをまちて釜かまの中なかをかきさぐるに無慙むざんや真弓まゆみは煮にえ解とけたりけん骨ほねさへ残のこすこともあらで尺しやくばかりなる金きんの幣へいの只たゞ一夲いつほんぞ出いでたりけるこゝに至いたつて里人さとひと等ら」9
其その神霊しんれいなるを恐おそれつゝ西にしに没日いるひともろともに山やまを下さがりて邑里むらさとへ別わかれわかれに帰かへり行ゆくかゝりし後のちに宮奴みやづこハ後あとに殘のこりし村長むらをさ五七人にむかひていふやう 宮「さてはや庄屋せうやさま方がた終日しうじつのお倦労おつかれしかし首尾しゆびよく御祭礼ごさいれいも相済あひすみまして惣そう村中むらぢうの御ご安堵あんど各々おの/\も最もはや御ご帰宅きたく御ご休足きうそくわれ/\両個ふたりハ真弓まゆみが神魂しんこんのために一夜いちや當社とうしやに通夜つやいたして祭文さいもんの礼れいを尽つくし明朝みやうてう古郷こきやうへかへりますいづれも左さやうにおぼし召めして 里人「なる程ほど/\御ごもつともお二人ふたりが今夜こんやこゝにござれバ社頭しやとうの火ひの用心ようじんも氣きづかひなししからバ我々われ/\ハ引取ひきとります。鳴呼あゝはや覚悟かくごのことながら神女みこどのゝ昇天せうてん夲意ほいとげられて宜よいかハ知しらねど凡俗ほんぞくの眼めでハいぢらしいやうにおもひますトあいさつそこ/\打連うちつれて」
かへる姿すがたを見送みおくりて宮奴みやづこ二人ふたりハ彼かの財銭さいせんを箱はこにおさめ縄なわにてからげ幾度いくたびにか夲社ほんしやの後うしろに森々しん/\たる林はやしの中うちへぞ運はこびける折節をりから此処こゝへ歳齢としのころ四十才よそぢばかりと見みえたる女をんなさもたくましき形勢ありさまなるが二八にはちばかりの容皃みめよき未通女をとめに手拭てぬぐひを轡くつわにはませ小手こてを高手たかてにいましめつゝ此この御社みやしろに引ひきずり來きたり拜殿はいでんの中うちに押入おしいれて縄なわの端はしを狐格子きつねがうしに結むすび止とめまた石段だんかつらを走下はせおりけり此この時とき遥はるか東阪ひがしざかなる火焚屋ほたきやよりして顕あらはれいづる一個ひとりの乙女をとめ近邊ほとりを伺うかゞひ懐ふところより取出とりいだしたる呼子よぶこの笛ふえヒイ引ト一吹ひとふきふきならせバ林はやしの方かたより以前いぜんの宮奴みやづこ二人ふたりハ未通女をとめの右みぎひだり 宮「お道みちさま 女 「 二人ふたりの衆しゆ 宮「まんまと首尾しゆびよく鎌倉かまくら入いりの軍用金ぐんようきんを 女「コリヤ シイ トあたりを見みまはし神卜しんぼく仙女せんぢよ真弓まゆみと仮名かりなし愚俗ぐぞくをまどはす今日こんにち只今たゞいま心こゝろに」10
よしとハ思おもはねど父ちゝの仇あだたる合谷あふぎがやつをねらふに付つきてハ落おちぶれし姿すがたでかなはぬことゆゑに神慮しんりよのおそれも知しりながら財たからをあつむる手計はかりこと 宮「最早もはや金銭きんせん調とゝのふうへはこれより直すぐに鎌倉かまくらへ 真弓「サア立入たちいることハ易やすくともこの節せつ巨田おほた持資もちすけの合谷あふぎがやつに出仕しゆつししてありと聞きいてハなか/\に近倚ちかよりがたき宦領家くわんれいけ 宮「左様さやうござらバ今いましばらく時ときのいたるを御おん待まちあつて 真「イヱ/\時刻じこくを延のばすとも何時いつか便宜びんぎといふでもない幸さいはひ手てにいる此この一ト品ひとしなト〈懐中くわいちうよりにしきの籏はたをとり|いだせバ二人ふたりの宮奴みやつこうかゞひ見て〉 宮「それを用もちひて何なんのお爲ために 真「ほんに子細しさいをかたらずハふしぎにあらふこの籏はたハ世よにもまれなる蜀紅しよくこうの錦にしきの切きれであるはいの 宮「うわさハきいてをりましたが看みるハ初はじめの其錦そのにしきがどうしてお手てに入いりましたナ 真「ヲヽ不思議ふしぎに得えたるこの籏はたハ昔年むかし豊嶋としまの信國のぶくにへ坂東ばんどう八平はつへい」
氏じの司つかさとせらるゝ御教書みぎやうしよへそえてたまはるこの錦にしきいつぞや其方そなた衆しゆにわかれてより或夜あるよのことにて有ありけるが上野かうづけ松井田まつゐだの原中はらなかにてそれとも知しらず拾ひろひ取宿とりやどりに着きてよく看みれバ由來ゆらいを記しるす奥書おくがきに長尾ながを景春かげはると印しるしたれバ豊嶋としまの重器てうきを長尾ながをより返進へんしんあると推量すいりやうすれバこれもまた合谷あふぎがやつの仇あたとなる族やからとしれバ頼たのみありとてものことに錦にしきの傳來でんらいこれが我身わがみの益えきとなり宦領家くわんれいけへ近付ちかづきよるべき方便てだてをくわしく物語ものがたらんその間あいだに日中ひるの供物くもつで神酒みき頂戴てうだい 宮「われ/\両個ふたりハわづかな勤つとめ貴孃きぢやうさまにハさぞお労つかれ供物くもつも神酒みきも林はやしの中なか仮屋かりやの内うちに下置さげおきました酒さけの燗かんする其間そのあいだ貴娘あなたハやつぱりこの火焚屋ほたきやさすがハ冨士ふじのうつしとて凉すゞしきおかげで蚊かもおらずまづ/\あれへと進すゝめ入いり二人ふたりハ林はやしをさしてゆく」11
第十囘 〈才女記億辨蜀江錦さいぢよのきおくしよくこうのにしきをべんず|赴神事毒婦計乙女じんじにおもむきてどくふおとめをはかる〉
そも蜀紅しよくこうの錦にしきとハ元もと蜀江しよくこうといふ文字もじにて紅くれなゐと書かくハ非ひなりとぞ今いまや蜀しよくは除州ぢよしうといふ此この國くに四方しはうに大河たいがあり岷川みんせん
〓川だせん黒川こくせん白川はくせんの四よッなりこれこの蜀しよくの錦にしきハ機糸はたいとを練ねるに彼かの大河だいがの清水せいすゐに洒さらし精製せい/\なすこと数百すひやく遍へん
日ひをかさね其その絹糸きぬいと赫々かく/\として光ひかりを發はつすかくて織殿おりどのに綾あやどるにいたりてハ金光きんくわう室しつに満みつるといふこれ彼かの四川しせんの霊水れいすゐにひたし洒さらせるゆゑなりとぞ実じつに希代きたいの錦にしきなり故ゆゑあるかな蜀しよくと國号こくがうせし時ときハいと/\古ふるきことにして今いまの南京なんきんを呉ごの國くにと称となへ孫権そんけん大帝だいていと号いひ今いまの河南かなんを魂ぎの國くに
と称しようし曹操そう/\が子こ曹丕そうひ文帝ぶんていと位くらゐし」今いまの四川しせんを蜀しよくといひて劉備りうび玄徳げんとくが照烈せうれつ皇帝くわうていと称せうせられて彼地かのちを治をさめし時代ころおひに盛さかんに織殿おりどの繁昌はんじやうせしとぞ亦また
神仙傳しんせんでんに載のせられたる左慈さじが〈字あざなハ元放げんほう|揚州やうしうの人ひと〉神異しんいの術じゆつにて蜀しよくの薑はじかみをもとむる條くだりに曹操そう/\兼かねて蜀しよくの錦にしきを求もとめ左慈さじに二端にたんを買増かひますことを傳つたへよといふ談だんあり孟徳まうとくが大活たいくわつの生質せいしつにてさへ纔わづかに二反にたんのことをいへバ其その時代ころ多おほくハ求もとめがたく價あたひも貴直たつときものとおもはるいはんや年暦ねんれきを算かぞふれバ三國さんごくの間あいだ六十年ねん西晋せいしん東晋とうしんの代よ十五じうご主しゆにして百五十六年宋そうの代よ七主しちしゆ六十年南斎なんさいの代よ五主ごしゆ三十年梁りやうの代よ四主ししゆ五十年陳ちんの代よ五主ごしゆ三十年隋ずゐの代よ三主さんしゆ四十年唐たうの太宗たいそう皇帝くわうていの貞観ぢやうくわん十九年ハ日本につほん人皇にんわう三十七代だい孝徳かうとく天皇てんわうの大化たいくわ元年ぐわんねんにあたれり蜀しよくと号いひしハ」12
大化たいくわより四百五十年ねんの昔むかしにして大化たいくわ元年くわんねんより文明ぶんめいまでをかぞふれバ九百年にも近ちかかるベしかゝれバ蜀江しよくこうの錦にしきといふハ千三百餘年よねんの古物こぶつにしていとありがたきことぞかしかくて真弓まゆみが此この錦にしきを鎌倉かまくらへもて往ゆくことを思おもひ倚よりしハいかにとなれバこの節ころ上総かづさの笠森かさもり観音くわんおんへ勅願ちよくぐわんのきこえありて關せきの東ひがしの諸侯しよかうの内室ないしつ種々しゆ%\の佛具ぶつぐを奉納ほうのうありて宝前ほうぜんに備そなへかざり各々おの/\信者しんじやの功徳こうとくを賞せうせられんと競きそひけり其その中なかに山内やまのうち宦領くわんれいの奥方おくがたよりハ笹さゝづる錦にしきの御戸帳みとちやうをおさめられしを第一だいゝちのほまれなりと風聞ふうぶんしきりなりけれバ鎌倉かまくら合谷あふぎがやつの館やかたにきこえ君きみの令室れいしつ花はなの方かたもこれにまさりし錦にしきをもとめてはやく笠森かさもりへ奉進ほうしんしさすがに武家ぶけの最一さいゝちたる合あふぎが谷やつの奥方おくがたなりと賞せうせ」
【挿絵第四図】
浅間せんけんの森もりに真弓まゆみ錦にしきの籏はたの由来ゆらいをかたる
」13」
られんと思召おぼしめし在おはすといヘども笹さゝづるの古渡こわたり錦にしきにまさるべきものもあらねバ遠近をちこちをたづねもとめたまふといへりこのゆゑに彼かの真弓まゆみハ豊嶋としまの籏はたを合谷あふぎがやつへ献けんじて奥方おくがたに身みを近付ちかづけそれより仇あだを打うたんといふ機密きみつをかたる宮奴みやづこ等らハ父ちゝが腹心ふくしんの家臣かしんなりさらバ真弓まゆみハ何者なにものぞこれなん武藏むさしの一いちの宮みや氷川ひかは明神みやうじんの神祗宦じんぎくわん渋谷しぶや典膳てんぜんといふ者ものの娘むすめにて於道おみちとその名なを呼よばれしが父ちゝ典膳てんぜんハ勢いきほひつよく社領しやりやうもあまた有あるのみかハ此頃このころ當社とうしやハ京家きやうけにて崇信そうしん大おほかたならざるゆゑ多おほく宦領くわんれいの命めいをおそれず元来もとより邪悪じやあくをすることなけれバ宦家くわんか貴族きぞくにへつらはずまたよく武道ぶどうに通達つうだつして野武士のぶし山賊さんぞくの類たぐひを破やぶりて軍慮ぐんりよにもほまれあり里人さとひとこれをうやまふて領主りやうしゆのごとくもてなすよし」14
合あふぎが谷やつにハこれをいかりて不意ふいに軍兵ぐんびやうをさしむけられ逆反むほんの者ものと云いひふらしたちまちこれを打亡うちほろぼし終つひに所領しよりやうを奪うばはれたりこの時とき於道おみちハ九才こゝのつにて
毋はゝもろともに其その場ばを迯去にげさり鹿嶋かしまの親族しんぞく塚原つかはら何某なにがしの方かたにしのびその家いへなれバ神職しんしよくの業わざハ毋はゝより傳來でんらいし六門りくもん退甲とんこうの軍術ぐんじゆつ劔法けんほうハ彼地かのちの名家めいかに随身ずいしんし十五才の節ときより大志たいしを起おこして諸國しよこくをめぐり術じゆつをはげまし今こん年ねんこゝに十八才さも惶たくましき勇婦ゆうふなりさて宮奴みやづこ等らハ錦にしきの籏はたの由よしをつばらに聞きゝ終をはり今いまにはじめぬことながらお道みちが記臆きをくに舌したを巻まきくだもまくなる酒機嫌さかきげん神酒みきも供物くもつも尽つきたれバいざと三人立たちあがりていづくへ行ゆくや木下こした闇蔭やみかげくらまして立去たちさりぬそれハさておき別説こゝにまた同おなじ夜路よみちを本幸ほんごうに越行こえゆく駕籠かごの」
有ありけるがこれに附添つきそふ一人ひとりの女をんな前まへへ廻まはりて棒鼻ぼうばなを両手りやうてにしつかと押おしもどし 女「コレサ/\駕籠かこやさん急いそぐばかりに氣きを取とられて倶ともにこゝまで走はしつて來きたがよく/\看みりやァ丸山まるやまだノこれじやァ芝浦しばうら金曽木かなそぎへハ南みなみと西にしの方角はうがく違ちがひ辻駕つぢかご渡世とせいをして居ゐながらこゝらの道みちが不案内ふあんないか知しらずハわしが前さきに立たつト棒ぼうばな取とつて引ひきもどせバ駕籠かごをどつさり下おろし置おき 「かごや▲ハヽヽヽヽヽさすがにそれと氣きが付ついたか。ドレそんならバこの道みちへかゝつた理わけをきかせやう「今一人●コレ マアよく聞きゝなョ芝崎しばさきから浅草あさくさへ通かよふが順じゆんの此方等こちとらを無理むりに雇やとつた逆戻ぎやくもどし「▲ヲヽそれ/\冨士ふじの社やしろの拜殿はいでんからはやく/\とせり立たててものさへいはせぬ此この美婦人しろもの盲めくらが駕かごをかついでも考かんをつけるあら仕事しごとまだそればかりか姉御あねごのふところ」15
餘分たんともあるめへ四五十両たしかに見みこんだ山越やまごえハ女をんなだてらに美味うま過すぎる仕業しごとを一人ひとりでさせめへと思おもつて仕組しくんだ棒組ぼうぐみの智恵ちゑで此方こつちへ礫川こいしかは娘むすめをはめる上得意いゝくちがあるから其処そこへ遣やるつもりだ否いやだといへ
バ懐ふところの金かねまで始末しまつを付つけやうと今いままで隠言語ふてう\カクシコトバで途中みち/\談合だんかうしかしそれ
じやァ此方等こちとらも「● 少すこし酒代さかてが取とれ過すぎてどうやら無慈悲むじひなこゝろ持もちそれゆゑ利徳しごとを半分はんわけに仕しやうといふも佛生ほとけせう金かねをよこすか娘むすめを渡わたすか思案しあんして看みてどちらでも勝手かつてな方ほうを返事へんじをしなナア棒組ぼうぐみ是これじやアどうか隠便おんびんすぎて「▲されバサ氣きのいゝしかただが相手あひてが女をんなのことだから安目やすめを賣うるも當世とうせいかへドレ一ぷくふかすベヱト木きの根ねに尻しりをかけながら傍若無人ぼうじやくぶじんの大言たいげんに忙あきれはてたる彼女かのをんなしばらく答こたへもなかりしが」
何なにかこゝろにうなづきて 女「なるほど/\詮方しかたがねへどうで元手もとでを懸かけたといふわけでもねへから了簡れうけんして其方おめへ達たちも半口はんくち載のせやうそうして見りやァうろたへて迯にげまはるにもおよばねへたのんで乗のせた女をんなの出所ではも明あかして何なにかの相談さうだんを「●ヲツト其所そこらにハ如在ぢよさいハねへこの棒組ぼうぐみハ多塚おほつか生うまれ姉御あねごの名前なまへも娘むすめのことも先刻とつくに承知せうちしてゐやす 女「ヱヽナニ多塚おほつかの「▲ハテ姉御あねごの名なハお張はりさん娘むすめといふハ神宮屋かにはやの一人ひとりッ子こでお袖そでといふ色娘いろむすめどうだ少すこしも違ちがふめへ「●それまで云いやァ最もうよかろうサァ引出ひきだした様子やうすハどうだナ其その塩梅あんばいで始末しまつをつけやう左様さうじやァねへかト大胆だいたん不敵ふてきそも/\これハそのころほひ湯ゆが嶋しま本郷ほんがうの辺ほとりに徘徊はいくわいしてよからぬことのみたくむなる三六さぶろく重八じうはちといふ」16
曲者くせものなりかゝる両個ふたりの破落戸的わるものに右左みぎひだりから詰寄つめよられ お張「ハテうち明あけてはなして見みりやァ手軽てがるいわけだマア聞きゝナ多塚おほつか者ものなら知しつてもゐやう庄屋しやうやの家内うちに梅太郎うめたらうといふ小奇麗こぎれいな若衆わかしゆッ子こが存あつたッけあれをこの子こが執心しうしんしてはまりこんだ娘むすめの一途いちづいろ/\居膳すゑぜんして看みても思おもひの外ほかな野暮やぼ息子むすこで箸はしをもとらねへのみならず何処どこへ行いつたか知しれねへ旅立たびだちそれから朝夕あさゆふ泣なきくらすその執着しうぢやくをおとりにして何なんぞ能いゝとりの掛かけやうがと思案しあんしてゐる最中たゞなかへかねて知己こんいの判人はんにんが婦女たまの美麗いいのがあるならバ大磯おほいその親方おやかたで金かねハ望のぞみの通とほりに出でるといふから風ふつと氣きが付ついてあの子こをだましたこの狂言きやうげん路用ろようが出来できたら鎌倉かまくらか上州じやうしうかハ知しらねへが是非ぜひ梅うめさんを尋出たづねだして」
逢あはして遣やろうと進すゝめこみ盗ぬすみ出ださせた五十両それから連出つれだす工面くめんをとおもふ矢やさきへ湯ゆが嶋しまの冨士ふじの湯立ゆだての大評判おほひやうばんその見物けんぶつと親達おやたちまですかしてあの子こハ引出ひきだしたがぐぢ/\してハゐられぬ目算もくさん追手おつての懸かゝるも氣きがゝりなりどうで一度いちどハぶちまけて泣なかせる身賣みうりをゆる/\とするでもねへとおめへたちをたのんで芝浦しばうら金曽木かなそぎの心易こゝろやすい所とこまでと思おもつて來くるハ來きたものゝおめへ等らがそれほどに見込みこんだからハ愚智ぐちもいふめへ肩かたをいれるも活業しやうばいづく除のけといつたら喧嘩けんくわのたねこれから後々すゑ%\相談さうだん合手あひてになつたら両為りやうだめ金かねまうけがあれバいつでも知しらせ合あふ好身よしみを結むすぶ仲間入なかまいりと思おもやァ惜をしむ訳わけもねへ其そのかはりにやァ此所こゝから直すぐに夜通よどほしかけて大磯おほいそへ棒鼻ぼうはな建場たてばの」17
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駕籠かごへくゝしてもらつた酒さけ肴さかなハなくとも徳利とくりの口くちから一盃いつはい遣やつたらどう
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くるしみお張はりハ左右さゆうを見返みかへりて「おはりヲホ ヲホハヽヽヽヽヽどうだくるしいかへヤレ/\大おほきな罪つみつくりだしかしたとへの背せに腹はらとやらサ何なんの三割さんわり四し割わりましで頼たのむ酒手さかてでいゝことを仇あだ強慾がうよくからそのざまハ心こゝろがらだと往わう生せうしや「●▲ゆだんをさせた此この酒さけハ「おはり 酒さけハ子細しさいもねへ酒さけョ今いまちよつひりとつまみこんだ毒どくハまへからたしなんでまさかの時ときの用心ようじんにと思おもつてゐたが仕合しあはせと今夜こんやのやくに立たつたのだ。アハヽヽヽヽヽト高笑たかわらひ膽太きもふとくもまたおそろしけれ
貞操婦女八賢誌初輯卷之五終」〔白〕」19
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楊太真遺傳やうきひのつたへしくすり 精製くはしくせいし桐きりの箱入はこいり
處むす 女め 香かう 〈一廻り|百二十文〉
そも/\此この御薬おんくすりハ夲朝につほん無類むるいの妙方めうはうにて男女なんによに限かぎらず顔かほの艶つやをうるはしくして生うまれ變かはりても出来できがたき程ほどに色いろを白しろくし肌目きめ細こまかになる功こう能のうあり しかしながら此この類たぐひの薬くすり世間せけんに多おほく白粉おしろい 洗粉あらひこ 化粧水けしやうみづ 其その外ほか油あぶら薬くすりなどを製せいして皆みなこと%\く顔かほの薬くすりになるおもむきを功能こうのう書がきにしるしてあれどもその書付かきつけの半分はんぶんも功能こうのうなし依之これによつて此この御披露ごひろうを御ご覧らうじても久ひさしいものゝ弘ひろめ口上こうじやうなどゝ看消みけなし給ふべき事ことならんがこれハなか/\左様さやうに麁末そまつなる薬くすりにてハこれなく只たゞ一度ひとたび用もちひ給ふても忽たちまちに功能こうのうの顕あらはれる妙薬めうやくなり一廻ひとまはり用もちひ給ひてハ御おん顔かほの」色いろ自然しぜんと桜さくらのごとくなり二廻ふたまはり用もちひ給はゞ如何様いかやうに荒症あれしようの肌目きめも羽二重はぶたへ絹きぬのごとき手障てざはりとなるのみならず ◯ にきび ◯ そばかす ◯ 腫物はれものの跡あと ◯ しみの類たぐひ少すこしも跡あとなく治なほりてうるはしくなる事請合うけあい也 ◯朝あさ起おきて顔かほを洗あらひこの玉粧香ぎよくしやうかうをすり込こみたまはゞ些ちつとも白粉おしろいを付つけたる様やうなる気色けしきもなく只たゞ自然おのつから素皃すかほの白しろくうるはしき様やうになれバ娘御むすめご方かたハいふに不及およはず年重としかさねし御方おんかたが用もちひ給ひても目めに立たゝずして美うつくしくなる製法せいほふゆゑ御おん疑うたかひなく御用もちひ遊あそばされ真まことの美人びじんとなり給ふべし
為永春水精剤
〈髪かみの艶つやを出いだし|髪 垢ふけをさる妙薬めうやく〉
初はつみどり このくすりハ髪かみを洗あらはずに\あらひしよりもうつくしくなる\こうのう有 代三十六文
賣弘所
書物并繪入讀本所
江戸數寄屋橋御門外弥左エ門町東側中程
文永堂 大嶋屋傳右衞門」丁付なし
貞操婦女八賢誌ていさうをんなはつけんし初輯しよしふ 卷之六
江戸 狂訓亭主人著
第十一囘 〈勇美姉妹會夲郷山ゆうびのはらからほんごうのやまにくはいす|為盟友青柳爭錦籏めいゆうのためにあをやぎぎんきをあらそふ〉
此時このとき於袖おそでハ駕篭かごの中うちにて重八ぢうはち三六さぶろく於張おはり等らがたがひに告つぐる非道ひだうの談合だんかふつばらに聞きいてあきれはて我われをわすれて居ゐたりしがこれぞ色いろ情かに惑まどひたる不孝ふかうの罪つみにて斯かくまでにあざむかれしかと後悔こうくわいしても身儘みまゝにならぬいましめの縄目なはめのみかハ猿轡さるぐつはもだへ/\てありけるが彼かの三人さんにんが酒さけくみて語かたらふいとまにやう/\と口くちを割わりたる手拭てぬぐひを命いのちに」かけて食くひさきつゝふりほどいて下おろせし垂たれをあなたへと轉まろびいでたる戸となし駕籠かごいましめられたる縄なはのまゝ迯にげんとするを彼方かなたよりちらりと看止みとめる悪婦あくふハかけより帯おび背せを採とつて引ひきもどし 張「コレサ/\お袖そでぼう余斗よけいなことをせずといゝはな迯にげて何処どこへ往いくつもりだアハヽヽヽヽあれ見みな大だいの男をとこでさへ手てもなく押おしかたづけるお張はりさんだぜわるく世話せわをやかせるとおめへをもあの通とほりにしてしまふョ。ノコレ梅太郎うめたらうに逢あひたくハ勤つとめをするが近ちかみちじやァねへか命いのち有あつてのものだねだ女郎ぢようろにでもなつてゐりやァめぐり合あふこともあらァふたゝび三方さんばう大塚おほつかへハ帰かへらねへといふ人ひとを待まつてゐられるものでもなしまた遊女しやうべいでもして看みなせへ梅太郎うめたらうぐれへの男をとこハ」1
毎晩まいはん抱だいて寐ねられるぜ。ヱヽコレサ コウ他ひとにばかり口くちをたゝかせずとも返答あいさつをしねへのかなるほどそうでございますとかどうしても否いやだとかいふいゝ否いやだといへバ口くちを割わつて此この酒さけを呑のませるかしめころすか二ッに一ッ押おしかたづけて骨ほね折をり損ぞんのくたびれまうけにハ五十両でふせうしてこれから何所どこぞへ巣すを替かへるぶんのことだサア駕篭かごがあつてもかきてがなし詮方しかたがないから氣きの毒どくだが夜通よどほし芝浦しばうら金曽木かなそぎまで引ひきずりながらも往ゆかにやァならぬとあくまでお袖そでをあなどりて小児せうにのごとく取とりあつかひまたも手てごめになさんとすれバお袖そでハこれをふりはらひ身みをのがれんと右左みぎひだりあせれどかよはき處女をとめなりこなたハ男をとこにまされる荒あらもの忽たちまちお袖そでを」
引ひきたふし 張「ヱヽいま/\しく性じやうのこはい女児がきだこれよく聞きゝなこれまで神宮屋かにはやへ出這入ではいりしておめへさまの御持佛おぢぶつさまのと空そら礼拜おがみをしてゐたのハ始終しじう仕業しごとをしやうばつかり全躰ぜんたい今日けふまでべん/\と時刻じこくを延のばして居ゐるといふも思おもひの外ほかに用心ようじん深ぶかく奸智わるぢゑたけた夫婦ふうふの氣質きしつそれゆゑ月日つきひを過すごすうち梅太郎うめたらうの一件いつけんからやう/\こゝまでこぢ付つけたのだといつたところが聞きゝわけてなか/\すなほに往いきもしめへサア意地いぢ張ばりやァ斯かうだぞとおどして無狸むりに得心とくしんさせ身みをうらすべき内心したごゝろ只たゞさへ乱みだれし黒髪くろかみをむしりちらして片手かたてを握にぎり打うちすゑねぢすゑさん%\にさいなむ非道ひだうのお張はりが強欲がうよくお袖そでハくやしさかなしさに聲こゑを限かぎりと叫さけべ」2
ども人里ひとざと遠とほき丸山まるやまのたれかハこれをすくふべき既すでにお袖そでハ秘穴きうしよを打うたれてアツト絶たえいる時ときしもあれ木立こだちの蔭かげよりお張はりを目めがけ打出うちいだしたる礫つぶての眼めつぶしねらひたがはで両眼りやうがんより火ひの出でるばかり打當うちあてられくるしき聲こゑともろともに尻居しりゐに動どうと倒たふるれバ木立こだちをめぐりてしづ/\とあらはれいづる一個いつこの美人びじん今いま照てりわたる月つきも羞はぢて雲くもにや入らんその顔色かんばせ練絹ねりきぬの帽子ぼうしを額ひたいに當あて秋あきの七草なゝくさを加賀かゞ染ぞめにせし金巾かなきん木綿もめんの振袖ふりそでを着きて大紋だいもん尽づくしの帯おびを結むすび浅黄あさきの絹きぬの甲掛かうかけ脚半きやはんを着つけ紅ひの縮面ちりめんの湯巻ゆまきをなし裾すそをバ高たかく引上ひきあげつゝ草鞋わらんづの紐ひもをしかとはきしめ左手ゆんでに管笠すげがさ右手めてに杖つえ旅行たびゆく姿すがたと見みえながらやゝ(ママ)しくもまたりゝしけれ時ときに」お張はりハ氣きをはげまし只看とみれバ礫つぶてを飛とばしたる敵かたきハこれかそもいかに二八にはちあまりの處女をとめなりいぶかしながら由断ゆだんせず立上たちあがらんとするところを又またも打出うちだす手練しゆれんの小石こいしふたゝび高面たかほにうち付つけられ顔かほをおさへてよろめくひまに處女をとめハ飛鳥ひてうのかけるがごとく踊をどりあがりてお張はりをバたちまち草辺ほとりへ蹴けたふして見みむきもやらず草邑くさむらに倒たふれしお袖そでを抱だきおこし延齢丹きつけをあたへて呼生よびいけながら 「喃のう 〓いもと 氣きをたしかに保もちやいのうお袖そでやァ引イト聲こゑ高たかく呼立よびたてられてやう/\に蘇生よみがへりたる彼かのお袖そでその身みを介抱かいほうする人ひとの姿すがたを見みやりていぶかしく〓息ためいきついて言葉ことばもなし心こゝろをしづめてよく看みれバ宵よひに浅間せんげんの火焚家ほたきやより立出たちいでて両個ふたりの宮奴みやづこに蜀江しよくこうの錦にしきの來暦らいれきを」3
かたりし神女みこによく似にたり其その時ときお袖そでハ拜殿はいでんに在あつてくわしく聞きゝたれども身みハいましめの縛しばり縄なは猿轡さるぐつわさへはめられたればもの云いふこともならずして眼前がんぜんほしき錦にしきの籏はたをもとむることもならざりしが今いま斯かく近ちかく介抱かいほうされ我身わがみのことより梅太郎うめたらうがためにぞ懸念おもふ豊嶋としまの重器ちやうき處女をとめはお袖そでにむかひていふやう 處「 心こゝろがたしかになつたのかへ 袖「ハイ 處「さぞ合点かてんのゆかぬことゝおもふであらうがわたしハ其方そなたの姉あねじやぞへ 柚「ヱヽ 處「ヲヽおどろくハもつともだが所ところは多塚おほつか家名いへなハ神宮屋かにはやたしかにそれとハ先刻さつきにから立たち聞ぎゝして知しつたれど猶なほくはしく
とおもふうち駕篭かごやが毒酒 く〈ママ〉しゆにあたるまでなかなか手強てづよき悪婆あくばの奸斗たくみすでに其方そなたも危あやういやうになつたに依よつて助命たすけ」
【挿絵第五図】
」4」
たがよもや覚おぼえてゐるであろう神宮屋かにはやといふハ養父毋やしないおやそなたの実じつの爺とゝさんハ氷川ひかはの神職しんしよく典膳てんぜんさまであろうがの 袖「アイ相違さうゐもないわたしの実親じつおやそうして見れバいよ/\おまへハ 處「姉あねにちがひハないはいのう 袖「おなつかしうございます 處「とハいひながらまだ疑うたがひのはれぬ心こゝろと見みえるはいのそも/\そなたハ爺とゝさんの妾腹めかけばら毋御はゝごの亡ない後のち神宮屋かにはやの養女やうぢよとなつたといふことを風かぜのたよりに聞きいたれど間まもなく古郷こきやう氷川ひかはの大変たいへん親類しんるゐ一族いちぞくちり%\になり行中ゆくなかに此身このみも子こども殊ことにわたしの毋人かゝさんとハ不和ふわなそなたの毋御はゝごのことツイ音信おとづれもせなんだが血ちすぢの縁えんハ切きれないと見みえて今夜こんやのこの難義なんぎ姉あねがすくふもふしぎの再會さいくわいたとへ毋はゝとハ敵かたき同志どしといふても一ツ爺とゝさんの種たねにかはらぬこと」5
じやゆゑまさかに命いのちの際きはとなる難義なんぎを見みてハ捨すてられずこの介抱かいほうをするのじやぞへまだ得心とくしんがゆかぬかへトいはれてお袖そでハ顔かほあからめ 袖「ヱヽそれでハちがひございませぬ日ひごろ戀こひしい/\とおもつて泣ないておしたひ申たお姉あねへさんでございますかまことにうれしいこの様子やうす。夢ゆめでハないかと存ぞんじますョどうぞこれからわたくしの力ちからになつてくださいましトうれしきもまた涙なみだなり處女をとめも涙なみだにくれたりしが其その身みの念願ねんぐわん合あふぎが谷やつを父ちゝの仇あだとしねらふことそのゆゑに姿すがたをかえて竒術きじゆつをほどこし神卜しんぼく仙女せんぢよ真弓まゆみと名なのる子細しさいを落おちなく物語ものがたれバお袖そでも今宵こよひの難義なんぎをはじめ恥はぢらひながらも梅太郎うめたらうがことをつゝまずうちあかし真弓まゆみの所持しよぢする錦にしきの籏はたを彼かの梅太郎うめたらうに送おくりあたへて古こ主君しゆくん」
たる豊嶋としま家けへさゝげて立身りつしんなさせん趣おもむきをひたすら姉あねにかきくどけど真弓まゆみハこれを聞きゝいれず 真弓「のうお袖そで七年なゝとせ八年やとせへだゝりてめぐり逢あひたる妹いもとの願ねがひ聞きゝいれぬハ無むどくしんと姉あねを恨うらむであろうけれど今いまハやられぬ錦にしきの籏はた爺とゝさんの怨うらみをはらし合あふぎが谷やつどのを打うたんにハ願ねがふてもなき大事だいじの品しな恨うらみある人ひとを討うつて後のち梅太郎うめたらうに渡わたしてやるまづそれまでハ此この姉あねが借かりて夲意ほんいをとげると云いや 袖「ごもつともでハございますがその籏はたが鎌倉かまくらへ参まゐるやうだと梅うめさんばかりか多塚おほつかのお竹たけさんといふ子この家名うちも杢兵衛もくべゑさんの落度おちどじやゆゑたゝりが有あると聞きゝましたならふことならその御み籏はたを 真「ほしいといやるも尤もつともじやがそれでハ男をとこの爲ためばかりたとへバ腹はらが違ちがふても血脉ちすぢハ同おなじ爺とゝさんの仇あたをうたせてこの」6
姉あねに孝行かう/\させる心こゝろハないか其方そなたの爲ためにも実じつ親おやの敵かたきは討うたた(ママ)ずと戀こひしいとおもふ情男をとこが立身りつしんして添そひとげさへすりや宜よいのかへトいはれてお袖そでは理ことわりにふたゝびかへす言葉ことばもなく涙なみだとともに伏ふししづみしがやう/\に顔かほをあげ 袖「あやまりましたお姉あねへさんもつたいないが爺とゝさんの敵かたきを打うつといふことハ女をんなの子こにハ出來できないものとおもふばかりか八才やつの歳とし弁わきまへのない時ときのことツイ遠とほざかつてわすれた同前どうぜん実まことの爺とゝさんのことをわすれたといふ其そのいひわけにハどうで返かへらぬ多塚おほつかを戒名なきなの塚つかと覚悟かくごして草葉くさばの蔭かげの爺とゝさまへお侘わびを申上あげまするトいふよりはやく介抱かいほうの時ときにとかれしいましめの縄なはを梢こずゑに投掛なげかけてくびれ死しなんとなしけれバ真弓まゆみハこれを押おしとゞめ 真「 聞きゝわけのない子こでハ」
あると叱しかるところをしかるまいそなたも私わたしも父毋おやたちにわかれた不幸ふかうといふ中うちにもかよはい其方そなた氣随きずゐな此この身みとても角かくても面々めん/\の生質せいしつ浮薄うはきな色いろといふでもなし養親やしないおやのいひなづけといへバかはらぬ夫婦みやうと中夫なかをつとと定さだめる其人そのひとの行衛ゆくへをしたふ志こゝろざし錦にしきの籏はたのことまでも思おもふ所存しよぞんハ操みさほのきどくなか/\にくいとおもひハせぬ其方そなたの願ねがひもわが身みの望のぞみも宜よき兩全りやうぜんの斗略はかりことハテどうがなと胸むねに手てを當あてて思案しあんにくれたりける此時このときしも青柳あをやぎハ梅太郎うめたらうの頼たのみに依より杢兵衛もくべゑが家いへにお竹たけをあづかりしばらく多塚おほつかにありけるが今日けふぞ湯ゆが嶋しま夲幸ほんがうなる冨士ふじ淺間せんげんの社頭しやとうにおいて湯立ゆだて神事しんじを興行かうぎやうして白日はくじつ昇天せうてんの風聴ふうぶんあり殊ことに仙女せんぢよ真弓まゆみといへるハ沈魚ちんぎよ落厂らくがん閉月へいげつ羞花しうくわ実じつに絶ぜつ」7
世せいの美人びじんなりと聞きこえしかバいよ/\竒あやしきことに思おもひ心こゝろにうかむことあれバ今朝けさしも多塚おほつかをいでたるに於斎おさいの尼あまの密事みつじをうけて竹たけの塚つかまでいたりしが思おもひの外ほかにひまどりて小岩原こいはばらにかゝりしころハ日ひのくれはてゝいと淋さみしく常つねの女子をなごであらんにハ心こゝろおくれのあるべきに大丈夫をとこにまされる剛氣がうきなれバ夜道よみちをいとはで山越やまごえに長井ながゐの堤つゝみを南みなみへかゝり本幸ほんごう臺だいへぞ來きたりけるこゝに真弓まゆみハ英雄えいゆうの心こゝろも弱よはる女をんなの情じやう妹いもとを不便ふびんに思おもへハやいかゞなさんと猶豫ためらふうちいつの間まにやら氣絶きぜつせしお張はりハそろ/\伺うかゞひより真弓まゆみの所持しよぢする懐中くわいちうの御籏みはたをさつと引出ひきだせバ其その手てをとつて捻返ねぢかへし戻もんどりうたして投なげいだせバ御籏みはたハさらりと解とけほどけ月つきに赫かゞやく錦にしきの光ひかりお袖そでハ思おもはず聲こゑたてゝ 袖「それぞ豊嶋としまの御家おいへの宝たから 真弓「 織おり」
いだしたる雲くもに竜りやう軍いくさの節ときに押立おしたつれバ潜龍せんりやう昇天しようてんの勢いきほひありと噂うわさにたがはぬ蜀江しよくこうの 青「 錦にしきの籏はたにてありけるかト聲こゑかけられて真弓まゆみハおどろき振ふり向むくうしろに青柳あおやぎハ籏はたをとらんと飛とびかゝるをりしも忽たちまち雲くも閉とぢて月つきをかくせバいとゞさへ茂しげりし森もりのくらがりとなるのみならず足元あしもとハ木きの根ね岩角いはかど凸凹たかびくの切所ぜつしよ難所なんじよにありけれバたがひの働はたらき自在じざいをなさずかよはきお袖そでも彼かの籏はたを。やはか他人ひとでに渡わたすべきと心こゝろをはげまし立たちかゝり姉あねに方人かたうどなさんとすれど闇路やみぢとなりしことなれバ敵てきも味方みかたも差別わかちかね右みぎよ左ひだりと争あらそふひまお張はりハまたも這はひ起おきて倶ともに窺うかゞふ錦にしきの籏はたそれとも知しらず青柳あをやぎが丁ちやうど踏出ふみだす足前あしさきにまつはるごとく邪广じやまとなれバいらつてけかへす早足さそくの當あて秘穴きうしよをけられて即死そくしせり」8
真弓まゆみお袖そでハ此この音おとにおどろき案あんずる姉妹あねいもとます/\くらき木下こしたやみ木立こだちをめぐりていく度どか摺すり違ちがひたるそば道みちをそれとも知しらで真弓まゆみとお袖そで行合ゆきあふはづみ突つきあたり柔術しうしゆつ練磨れんまの真弓まゆみの體堅たいけん只たゞの處女むすめのお袖そでが身みハこたへなけれバよろめきつゝむざんなるかな左手ゆんでの谷たにへ生死しやうしもしれず落おちたりける折をりから月つきハ光々くわう/\と雲間くもまをいでゝはれわたり木この下したかげも明あきらかに照てらせバ真弓まゆみハ青柳あをやぎと皃かほ見合みあはせて驚天ぎやうてんし 真「さてハ妹いもとハあやまつて深谷みたにへ落おちたかいたはしい 青「其方そなたハ戸田とだの乗のり合あひでトいふを聞きけども真弓まゆみハこたへず籏はたを忽たちまち巻まきおさめ荊いばらの薮やぶへ飛入とびいつてはやくも影かげをかくしけり跡あと追畄おひとめなバとめらるべきが容易よういの敵てきにあらざることを心こゝろに知しれバ青あを柳やぎもしひて遠とほくハ追おはざりけり必竟ひつきやうお袖そでが生死しやうしハいかに巻まきをかさねて分解ぶんかいすべし」
第十二囘 〈救於竹青柳戦田野おたけをすくふてあをやぎでんやにたゝかふ|烈勇於亀赴相模路ゆうをはげましておかめさがみぢにおもむく〉
再説さても青柳あをやぎハ夲幸ほんごう丘だいをうち越こえて多塚おほつかへとぞ急いそぎつゝ心こゝろにつら/\思おもふやうおよそ浮世うきよの行躰たゝずまひ定さだめがたきが常つねなれど斯かくこそとおもふ其そのことハ皆みなこと%\くくひちがひてはからぬ業わざこそあやしけれ義ぎを結むすんだる梅太郎うめたらうハ籏はたの故ゆゑにて旅たびの空そら今いまなほ何処いづくと在所ありしよも知しれず尋たづぬる者ものにもあらざりける我わが眼めに畄とまる今宵こよひの出會しゆつくわいさりとて籏はたを看みながらも取損とりそんじたるのみならで因ちなみあるべき田舎ゐなか神女みこハ戸田とだの渡わたしに同舩どうせんなして倶ともに満化寺まんぐわじにハいたりしかど彼かれハ竒術きじゆつに蔭かげもなく我われハ於斎おさいの尼あまの爲ために宿因しゆくいんの結むすびをなし身みを立たつべき祥さがをバきけど」9
いまだその時節ときはやくして同志とうしの集會しうくわいはかりがたししかりといヘども彼かの神女みことハ再度さいどの對面たいめんせしかひなく梅太郎うめたらうのたづぬる錦にしきの籏はたを争あらそひて敵てきとぞなりぬまたそのをりしも同おなじ籏はたを取とらんとせしハたしかに神宮屋かにはやのお袖そでに似にたりかれも梅太郎うめたらうが由ゆゑにこれをいどみてありけるかもししからんにはそれゆゑに深谷みたにへ命いのちを落おとしけんいといたはしき處女をとめにこそと思おもひつゞけて行ゆく道みちも下をりつ上のぼりつ礫川こいしかは裳裾もすそを濡ぬらす苔清水こけしみづ右みぎに廻めぐり左ひだりによぎり今いま亡人なきひととなりもせしかと思おもふお袖そでの後世ごせ願ねがふ極樂水ごくらくみづを南みなみへさして多塚おほつかの里さと近ちかく來きつはや二町ふたまちにたらざりし杉すぎの林はやしを過すぎる折をりしも喘息あへぎ/\て來くるものありしが路みちせまけれバ青柳あをやぎと丁度ちやうど行合ゆきあひ皃かほ見合みあはせ 青「鍬八くわはちどのか 鍬「青柳あをやぎさまか」
これハ/\ト汗あせを拭ぬくひ溜息ためいきつけバ青柳あをやぎハ 青「マア今いま時分じぶん片息かたいきに周章あわてて何処どこへ行ゆくのだへ
鍬「ハイ何処どこへといふて當処あてどもなく退のがれて此所こゝまで參まゐりましたがおまへさまに逢あふからハおさしづまかせにいたしませう 青「ハテ合点がてんのゆかぬそなたの言葉ことば退のがれて來きたとハ何なにごとか家内かないに變へんでもあるのかへ 鍬「されバサおきゝなされませ近ちかころお役やくに付つかしやッた戸塚とつか大六だいろくといふ意地いぢわるどのが大勢おほぜいの家來けらい衆しゆを連つれてござつて家内かない中ぢうをしばりちらしてやかましく旅たひへ行いかれた旦那だんなどのが鎌倉かまくらへ密通みつつうしたとか内々ない/\をやらかしたとかで定さだめて宅うちに隠かくれて居をるに相違さうゐない白状はくでうしろと家内うちぢうを打うちたゝかれて責せめられても一向いつかうしらぬ家内やうちの者もの泣ないて侘わびてもきゝいれなく領主りやうしゆを権けんに戸塚とつかどのゝ小者こものまで力身りきみまはつて文庫ぶんこ」10
倉ぐらをも押おしひらき旦那だんなをたづねる風情ふりをして私欲しよくをはたらく非道ひだうの仕方しかたあまつさへお竹たけさまを縄なはかけて役所やくしよへつれるとむつかしさ皆みな残のこりなくしばられる中なかで私わしのみ迯出にげだしてハ済すまぬ義理ぎりとハ知しりながら一人ひとりハのがれ此この事ことを他ひとに告つげずハ片手かたて打うち無理むりも領主りやうしゆの勢いきほひで杢兵衛もくべゑさまの落度おちどとなるも知しれぬことじやと氣きが付ついてマア何なにともなく迯出にげだしましたト面目めんぼくなげなる鍬八くわはちが額ひたひに汗あせをひからして地ちにもむぐらんありさまなりこれを聞きくより青柳あをやぎハ胸むねをたゝいて仰天ぎやうてんし 青「そんなら家内やうちがしばられて於竹おたけさんも役所やくしよへ捕とらはれ 鍬「いたはしいと思おもひましても私等わしらが手際てぎはにいかぬゆゑ 青「かなはぬまでも助たすけずハ梅太郎うめたらうさんにたのまれた甲斐かひないのみかお竹たけさんもさぞ恐おそろしくかなしかろう殊ことに新宦しんくわんの」
大六だいろくは婬行いたづら非道ひだうの曲者くせものゆゑ領主りやうしゆを立たてに私欲しよくを奸計たくみ支配しはいの人ひとを悩なやますとかねての噂うわさに違たがひもあるまいたとへ地頭ぢとうの威光ゐくはうじやとて家主あるじの畄守るすに小女をとめまでいましめて行法いくほうがあらうか。ドレ走付はせついて兎とも角かくも畄守居るすゐにたのまれおめ/\と手てを束つかねてハ言いひわけがよし有あるにもせよさし當あたる於竹おたけさんの大難だいなんをすくはにやならぬト鍬八くははちをいそがし立たつて家いへに帰かへれバ既すでに家財かざいを取上とりあぐる手配てくばりさだめて爰こゝかしこに軽卒けいそつ等らが張番はりばんしたり是これを見みるより青柳あをやぎハはやおそかりしと氣きをいらち又また外との方かたへ走出はせいでて見みれバはるかに松火たいまつを振照ふりてらしつゝ数多あまたの組子くみこ一人ひとりの小女せうぢよを引行ひきゆくさまなりこれぞお竹たけと見みてけれバ鍬八くははちにさゝやきて何処いづくへかしのばせやりその身みハ懐劔くわいけん取とりいだし小褄こづまを高たかく取とり」11
上あげながら横筋よこすぢ向むかひに走はせいたりて見みれバはたしてお竹たけをいましめさも情なさけなく追立おつたて行ゆくその行躰さまさらに公事おほやけならず非義ひぎ無道ぶだうとハいはても知しれたり青柳おをやぎつら/\思おもふやう斯かゝる邪見じやけんの雜卒ざうそつ等らに對たいして道理だうりを述のべたりともいかでか聞きゝわけくれられんやと有あつて家財かざいもお竹たけをも故ゆゑなく役所やくしよへ取上とりあげられしと後のち梅太郎うめたらうに言いはるべきか大事だいじをかゝへし身みなりとも今いま此この時ときにすくはずハ他ひとの笑わらひとなりぬべし命いのちを的まとに助たすけんといと大膽だいたんにも懐劔くわいけんを振ふりひらめかして踊をどりいり前後ぜんごに當あたつて追立おつたつれバもとより覚悟かくごのあらざる雜人ざふにん伏勢ふせぜいありとやおもひけん厳重おごそかなるにハ似にもやらずみなちり%\に迯散にげちれバなんなくお竹たけをすくひ出いだし縄なは切きり解とけバお竹たけもおどろき物もの」
【挿絵第六図】
」12」
いはんとするを聞きゝもせず耳みゝに口くち寄よせ鍬八くははちが忍しのびし方かたへ落おとしやりその身みハ直地たゞちに多塚おほつかの宅いへにかへりてお竹たけが爲ために金銀きん%\をたづね出いだし身みを隠かくさする介たすけになさんと路みち引違ひきちがへて多塚村おほつかむらへ走出はせいだしたる左手ゆんでの薮やぶより投なげいだしたる鍵縄かぎなはに引ひきかへされて倒たふるれバたちまち出いづる数多あまたの組子くみこ中なか
にも戸塚とつか大六だいろくは扇あふぎ遣づかひに笑わらひをふくみ聞きゝしにまさる青柳あをやぎが美質びしつをよろこぶ好色者かうしよくもの 大「手荒てあらくいたすないたはれトいひつゝこれを引立ひきたてさせおのが邸宅やしきへかへり行ゆく此この夜よ同所どうしよの神宮かには屋やにハ處女むすめお袖そでが湯ゆが嶋しまへ湯立ゆだての神事じんじを拜はいせんとてお張はりと倶ともに出行いでゆきしが其その夜よになりても帰かへり來こず終夜よもすがら彼かれ是これ待まちわびつ幾いくたび小者こものを走はしらして便宜びんぎを聞きけども露つゆばかりその音信おとづれを聞きくよしなくとかくする間まに夜よハ」13
明あけたりいかゞせしぞと談合だんかうするに下女げぢよお鍋なべハお踏ふみにむかひ 鍋「おかみさまへなんぼお人ひとをつかはされてももうお袖そでさまハお帰かへりなさる氣きづかひハございませんョ ふみ「ナニ/\お袖そでハとても帰かへらぬとなぜそれほどのこと知しつて昨夜ゆふべから無云だまつて居ゐたたはけな女をんなもあるものだサア帰かへらぬわけをはやく云いや 鍋「ハイしつかり知しれませんから昨晩さくばんハ申ませんが今朝けさまでお帰かへりなさらぬゆゑいよ/\それに違ちがひないと存ぞんじて申出だしましたトこの程ほどお張はりがすゝめによりて梅太郎うめたらうの跡あとを追おひ家出いへでなしたるにうたがひなく梅太郎うめたらうも杢兵衛もくべゑの家いへにハたしか居をらざるおもむき隣家りんかなれバお張はりが作畧さりやく合圖あひづなせしことならんとくはしく告つげれバ彼かのお踏ふみも実げにかとこれにこゝろ付づき家内かないを見みれバお袖そでが着替きがへの」
衣類いるゐも多おほく紛失ふんじつして金こがねも不足ふそくなしたりけれバさてハ男をとこの跡あとをしたひ出行いでゆきたるに相違さうゐなしまた梅太郎うめたらうも歳齢としごろなり杢兵衛もくべゑとても仮かりの親おや心こゝろにかなはぬこと出來できてお袖そでに金かねを掠かすめ奪うばはせ連つれだち迯にげたるものならんまづ杢兵衛もくべゑが宅いへに人ひとを遣やりて梅太郎うめたらうの行衛ゆくへを問とはせよ一人ひとりハお張はりが許もとに行ゆきてこれも家内かないを詮鑿せんさくすべしと評義ひやうぎとり%\なるところに昨夜さくやの噂うわささま%\にて戸塚とつか大六だいろくの自身じしん人数にんずを連つれられて夜よ深ぶかに杢兵衛もくへゑの宅たくを闕所けつしよし家内かないのこらずからめ取とり梅太郎うめたらうの行衛ゆくゑも詮義せんぎありしに久ひさしく病気びやうきと云いひしハ偽いつはり実じつハ以前いぜんに亡命かけおちせしか昨夜さくやのさはぎに出合いであはずこれ穿鑿せんさくの最さい中ちうなりまたその家いへの食客しよくかくに青柳あをやぎといふ處女をとめありしが女をんなに似氣にげなき働はたらき」14
していましめられたるお竹たけをすくひ何処いづくへか落おとし遺やりて猶なほのがれんといとみしかどその身みハかへつてとらへられ獄屋ひとやへ今朝けさハつながれたりされども容皃みめよき娘むすめなれバ大六たいろくぬしの心こゝろにかなひ頓とみにゆるさる沙汰さたもありと実まこと〓云そらこと我われ知しり顔がほにきそひてさへずる百千鳥もゝちどりかしましくこそ風聴ふうぶんせり神宮かには屋や夫婦ふうふハ此事このことを聞きいていさゝか心地こゝちよくお袖そでも実まことの子こならねバ思おもひの外ほかに歎なげきもせず杢兵衛もくべゑの家いへを怨うらみとすれバ大六だいろくの許もとへ金こがねを送おくり此度このたひのことを幸さいはひに梅太郎うめたらうを罪つみに落おとしたとへ古郷こきやうにかへるとも當所たうしよに住居ぢうきよハさせまじと種々しゆ%\に讒訴ざんそをかまへしとぞ話分両頭ものがたりふたつにわかるこゝにその頃ころ石濱いしはまの里さとに舞子まひこ於亀おかめといふものあり元もとハ真間ままなる郷士がうし手古那てこなの三郎さぶらうといふ人ひとの秘藏ひさうの」
處女をとめなりしが舞子まひこになりて世よを渡わたるハ父ちゝなき後のちのことなりけりそも/\此この子この薄命はくめいなる當たう才ざいにして毋はゝにわかれ十二才にて父ちゝを死去うしなひいと/\哀あはれな生立おいたちなりお亀かめが毋はゝハ千葉ちばの浪人らうにん利根とねの七郎しちらうといふ者ものの娘むすめ勝美かつみといひけり七郎夫婦ふうふ零落れいらくして諸所しよ/\に流浪るらうし真間まゝの在ざい所しよにありけるが父ちゝ七郎ハ世よを去さりて毋子ぼし活業たつきもなかりしを手古那てこなの三郎云いひよりて深ふかく勝美かつみを戀したひしかバ毋はゝも子細しさいを物語ものがたり毋子おやこが命いのちをつながん為ために三郎に勝美かつみを委ゆだね世よにかこはれ女めとかいふごとく手古那てこなの厄介やつかいとなりけるが勝美かつみは原来もとより烈婦れつぷにて其その身み女をんなと生うまれしをいとくちをしく思おもひつゞけ我われもし男子なんしたらんにハ毋はゝをやしなひ身みをおこし家名かめいを立たてる」15
時節ときもあらんに彼かの白居易はくきよいの言葉ことばのごとく百年ひやくねんの苦樂くらく他人たにんに寄よ 女をんなの身みこそ悔くやしけれとその身みを深ふかく恥はぢらひけりかくて勝美かつみハ十九才のとき三郎が種たねを出産しゆつさんせしが玉たまのごときの女子むすめのこにて三郎がよろこび大おほかたならずされど勝美かつみハよろこばずせめて男子をのこをうみいださバ末すゑ頼毋たのもしきことならんに夲意ほいなきことゝ歎なげきけりかゝる勇氣ゆうきのをんなゆゑ萬よろづの業わざにこゝろをつかひ終つひに産後さんごの悩なやみとなり医療いりやうの手當てあてを盡つくすといヘども漸々しだい/\に弱よはりゆき乳房ちぶさも細ほそりて出いでざりけれバ里さとをたづねてこれをあづけその身みハ十九才の正月むつきの中旬なかばお亀かめをうみて引ひきつゞきたる大病たいびやうなりしが一年ひとゝせちかくわづらひてその十月じうぐわつの下旬すゑのころ木枯こがらし寒さむきそのゆふべ」
はかなく此この世よを去さりしとぞさてまたお亀かめを里さとにとりし石濱いしはまの今吉いまきちといふものあり彼かれは京都きやうとの出生しゆつしやうにて白拍子しらびやうしの親方おやかたなりしがこゝにうつりて久ひさしからず妻つまのお花はなが出産しゆつさんして子こをうしなひ乳ちゝにこまりてありけるゆゑ幸さいはひお亀かめを里さとにとりていとをしみつゝ育そだてしがある夕暮ゆふぐれに於お龜かめの毋親はゝおや勝美かつみがたづね來きたりしかバ今吉いまきち夫婦ふうふハ出いでむかひ「ヤレ/\マアおまへさんハ久ひさしい御ご病氣びやうきでおいでなされたのによくお出いでなされました子へ 勝「ハイすこしよくなりましたゆゑあの子こに逢あふのをたのしみにやう/\のことでまゐりました 花「ヲヽ/\そうでございますかマア/\こちらへ/\ 勝「ハイ/\おかまひなさいますなわたしハたゞお亀かめに逢あふのをこゝろ」16
がけて 花「御尤ごもつともでございます今いま乳ちゝ呑のんですや/\とねむるところモウ/\此間こないだハたいそうにかあいらしくおなりなさいましたたとへおまへさまがおこゝろよくなつたとて急きうにおかへし申すことハなりませんどうぞさうおもつてくださいまし達たつてお亀かめぼうをつれて往いかふとおつしやるとわたしハ死しんでしまひますマア二に三さん年ねんハわたし等らがどうしてもおそだて申ますからその思おぼしめしで今日けふもマアちよつと抱だいたらそれ限ぎりに 勝「イヱ/\どうしてそのやうな取返とりかへすの何なんのといふ氣きハすこしもございませんおまへたちが否いやだとおいひでも出産うみおとしてからの御ご丹誠たんせい毋おやのない児ことおぼしめしてすゑ%\までもかはいがつておくん」
なさいョマアどうぞはやくあの児この皃かほをお見みせなさいなどんなになりましたか案あんじられてなりません 花「さぞ/\さうでございましやうサア御ご覧らうじましこのやうに大おほきう成なつてゞございますト抱いだき起おこしていだかする里さとの毋親はゝおや実じつの毋はゝおかめハこれを知しるよしもあらざるべきにこハふしぎや勝美かつみが抱いだけバたちまちにさもかなしげに泣なぎいだす聲こゑハ赤子あかごに似にもやらで哀あはれをふくむその形勢ありさま今吉いまきちハ風ふと次つぎの間まより勝美かつみを見みれバ何なにとやら影かげうすくしてそう/\たり勝美かつみハおかめを抱だきあげてゆすりながらの子護唄こもりうたねん/\ころよ念ねんごろにをさなき皃かほしみ%\とうち詠ながめてハむせかへりさも哀あはれげに看みえけるが今吉いまきち夫婦ふうふハ火ひともし」17
ごろ前後あとさき片かた寄よせ湯ゆをわかしせめて煮花にばなの山茶やまちやでもと馳走ちさうぶりなるはきそうぢをさな子ご抱だかせしその儘まゝに勝手かつての方かたにて立たちつ居ゐつ雨戸あまどを繰くりなどする中うちに勝美かつみハ傍あたりをわすれし風情ふぜい 勝「ノウお亀かめぼうや毋はゝハモウこれ限ぎりで逢あふこともならないョ顔かほをおぼえてゐてたもやといふもいはれぬぐわんぜなさかひない業ことと知しりながらもあきらめられぬ恩愛おんあいのきづなも縁えんも今いまきれてはかない毋はゝの定業ぢやうがふぞそなたハどうぞ似にもやらで立身りつしん出世しゆつせをしてたもや毋はゝにはなれてまた程ほどなふ爺とゝさんにも薄うすい縁えんこれまで知しらぬことながら業通がふつうゆゑに今いま知しつてなほさらいとしいそなたの行ゆくすゑ此家こゝの爺おぢさま姥おばさまを大事だいじにおもふて成人せいじん」
しやたとへ女をんなの子こにもせよ爺てゝ御ごハ手古那てこなの三郎さぶらうどの毋はゝの素性すじやうハ利根とねの七郎しちらう両家りやうけの繁栄さかえハ其方そなたの一心いつしんこの身みも草葉くさばの蔭かげよりしてちからとならふ左様さう思おもやトいふを聞きゝとる今吉いまきちが 今「何なにおつしやるやら毋はゝ御ごさまたしかにあなたのお歳としハ十九厄年やくとしゆゑに少々せう/\の御ご病氣びやうきぐらゐハ是非ぜひない御ご難義なんぎそれじやといふてお若わかい御ご元氣げんきモウこれからハ漸々ぜん/\にお肥立ひたちなさるを待まつばかりそのお児こさまの壮健すこやかさ直ぢきに水際みづぎは立たつやうに成長おほきくおなりなされます全躰ぜんたい貴嬢あなたハお氣きの結むすぼれそれがこうじて御大病ごたいびやうと兼かねてもお聞きゝ申ましたちつと浮うき/\なされまし 勝「サアその成人せいじんを待まつこともならぬ冥土めいどと娑婆しやばの縁えん今宵こよひにかぎる憂うきおもひ 今「そんならあなたハ御病氣ごびやうきで 花「どうやら哀あはれな」18
その御こ様子やうす 今「もしや此この世よをト右左みぎひだりすがるお花はなにをさな児ごを渡わたしてしほ/\立たつ姿すがた門口かどぐちいづると見みるうちにぱつともえ立たつ一團いちだんの鬼火いんくわと倶ともに消きえうせて門かどの松風まつかぜそう/\といとさみしくも初夜しよやの鐘かね今吉いまきちお花はなハ顔かほ見合みあはせすごき中なかにもいぢらしく其その夜よをかたり明あかせしに翌日よくじつ勝美かつみの死去みまかりし由よしを真間ままより告つげ來きたれバお花はなハまさ/\幽霊ゆうれいの別わかれを惜をしみし愛憐あいれんの深ふかき歎なげきをつく%\と思おもひやるさへいたましく実まことの子こよりも大切たいせつにあはれみかしづきそだてけるが毋はゝにもまさる美麗びれいの姿すがたことに才智さいちの勝すぐれしゆゑ実じつの爺てゝ親おや三郎さふらうの寵愛てうあいいはんかたもなけれど夲妻ほんさい真柴ましばが心こゝろをかねて猶なほ石いし濱ばまにて育そだてけるにお花はなハ舞まひの上手じやうずなれバなぐさみながらお亀かめに教をしへて今いまハ」
お花はなもおよばぬほどに其その妙手めうしゆを極きはめつゝ十三才になりしころ父ちゝの三郎横死わうしをなして遺憾ゐかんの心こゝろ止やむ時ときなく亡毋なきはゝ勝美かつみの氣きを請うけたれバいさゝか憤然ふんぜんたる情態じやうたいありて男子なんしに等ひとしき勇ゆうをこのみ父ちゝの敵かたきを討うたんとねがふ念慮ねんりよ怠おこたることもなく十五才の七月ふみづき下旬げしゆんその手てがゝりのあるをもて里親さとおや達たちに頼たのみこしらへ鎌倉かまくらさして登のぼりしが此この節ころ神宮かには梅太郎うめたらうも錦にしきの籏はたのゆゑによりまた相模路さがみぢへおもむきしとぞ必竟ひつきやうお亀かめの父ちゝ三郎さぶらういかなることにて變へん死しハとげしぞ敵かたきといふハ何者なにものなりやそハ十三囘くわいの條下くだりに綴つゞれり第だい二に輯しふを讀よみて高評かうひやうあるべし
貞操婦女八賢誌初輯卷之六終」19
【後ろ表紙】
#『貞操婦女八賢誌』(二) −解題と翻刻−
#「大妻女子大学文学部紀要」50号(2018年3月31日)
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