鈍亭魯文『仮名手本忠臣蔵』
高 木   元 

【解題】

仮名垣魯文は幕末から維新期にかけて活躍した十九世紀後半を代表する戯作者である。しかし、遺された仕事は実に多岐にわたり、現在までに全貌が明らかにされたとは言い得ない。

とりわけ、魯文が得意とした〈抄録ダイジエスト〉という方法は、非創造的で安易な営為として否定的に捉えられてきた。しかし、長編作を簡潔に紹介するには、それなりの学識と才能とが不可欠であった▼1

『南総里見八犬伝』を抄出した切附本(末期中本型読本)英名八犬士』全八編(安政二〜四年)▼2、ほぼ原文の切り貼りだけで作製されている。その文章の繋ぎ方を丁寧に観察するに、非常に良く工夫されていることが分る。原本を脇に置いて書き抜きしつつ執筆をしたのであろうが、たとえコピーアンドペーストが可能なワープロを以てしても、原文を活かしつつ極力リライトせずに文章を短くするのは、容易には做し得ない作業である。

一方、合巻『當世八犬傳(安政三年)は、名場面を繋ぐ形式に拠り、僅か十丁で八犬伝を紹介している▼3。長編の読本抄録合巻である『仮名読八犬伝』のうち二八〜三一編(慶応元〜明治元年)も手掛けているし、さらに艶本『佐勢身八開傳』(安政三年)も実に巧妙な改作パロデイとなっている▼4。また、犬士達を描いた錦絵の填詞なども執筆しており、『八犬伝』全一〇六冊という長編読本を自家薬籠中のものとしていた。各ジャンルに相応しい文体や記述方法を選び、限られた分量で纏めるのは至難の業であったはずである。

さて、此処では『仮名手本忠臣蔵』(以下『忠臣蔵』と略す)に関する魯文の抄録作について見てみたい。周知の通り『忠臣蔵』は繰り返し上演された演目であり、台詞等を含めて様式的に定型化した芝居であった。役者似顔で描かれた華やかな錦絵や、舞台を彷彿とさせる合巻〈正本写〉が出されていた。また、多くの戯作に於いてパロディ化され、実際の上演には基づかない見立てに拠る錦絵も大量に流布していた。此等のことから明らかであるように、『忠臣蔵』は誰でも知っていた有名な芝居である。しかし、浄瑠璃や歌舞伎を実見したり、浄瑠璃本(丸本)などを読んでいた人は限られていたと推測され、多くの人々は出板され続けた抄録本や各段通しの揃物錦絵などから情報を得ていたものと思われる。

魯文が関わった合巻としては『仮名手本忠臣蔵』(三編各編二冊、慶応三年刊、歌川国輝画、栄久堂板)が知られているが、これも前年の八月に市村座での歌舞伎上演に即して出された〈正本写〉である。序文を引く。

忠臣蔵ちうしんぐら清書雙紙きよがきざうし

趣向しゆかうありといへども著述さくせざれバ、その流行りうかうをしらずとハ、たとえ脚色しくみに見えず、ほれうられてあらはるゝ、ためしこゝ假名かな手本でほん出雲いづもふであとしたひ、戯作けさくみち寺入てらいりして、やうや稿脱あげた清書きよがき双紙ざうしハ、自己おのれ手習てならひ傍輩ほうばいなる文里ぶんりといへる滑稽者わんはくもの、しれた、魯鈍のろまあに弟子でしが、お師匠ししやうさんの名代めうだいに、うめ松葉まつば朱書しゆがきそえて、一段いちだん見事みごとよろしくと、ほめことぶきて校合きやうごうおわんぬ。

  慶應三卯孟春

假名垣魯文誌 [印] 

この序で「傍輩なる文里」と記し、巻末には「菊亭文里譯」とあるが、表紙と見返には「魯文譯」「魯文録」とあるので、他でも用いている「菊亭文里」は魯文の別号と考えて差し支えないだろう。いずれにしても、典型的な『忠臣蔵』の正本写を手掛けていた事になる。

なお、佐藤悟編『正本写合巻年表』▼5に拠れば、明治十一年にも松邨漁夫(仮名垣熊太郎)という戯名で、新富座の上演に基づく正本写『仮名手本忠臣蔵』を出している。

ところで、正本写ではない魯文作『仮名手本忠臣蔵』(二巻二冊)という合巻がある。切付表紙を持つ実に粗末な仕立である。前述の『當世八犬傳』は序末に「安政三辰夏\一昼夜急案\魯文戯誌 [印]」と、巻末に「鈍亭魯文填詞\一枩齋芳宗画」「日本橋新右エ門丁\糸屋庄兵衛板」とあり、粗末な仕立ても良く似ている上に、画工も同じである。本作には改印もなく板元も記されていないが、「鈍亭」は安政期に使用していた戯号なので、安政三年頃出来の糸庄板かもしれない。寡聞にして他本の存在を聞かないので、架蔵本は保存状態も悪く破損部もあるが、此処に紹介して大方の御教示を俟ちたい。


▼1高木元「魯文の売文業(「国文学研究資料館紀要」第三四号、国文学研究資料館、二〇〇八年)参照
▼2高木元「英名八犬士―解題と翻刻―(一)、()、()、()、() 」(「人文研究」第三四、三六〜三九号、千葉大学文学部、二〇〇五〜一〇年)参照
▼3高木元「當世八犬傳 ―解題と翻刻― (「人文研究」第四〇号、千葉大学文学部、二〇一一年)参照
▼4高木元「魯文の艶本(「国文学研究資料館紀要」第三五号、国文学研究資料館、二〇〇九)参照
▼5佐藤悟編『正本写合巻年表』(国立劇場『正本写合巻集』別冊、二〇一一年)

【書誌】

外題 假名手本忠臣蔵
書型 中本(一七・五×一一・四糎)
構成 上下二巻二冊(各六丁)
表紙 錦絵風摺付表紙(切付表紙)
外題 (上)「假名手本忠臣蔵」「一松齋芳宗画」(下)「一松齋芳宗画」
見返 記載なし(表紙裏側)
序 「大序\鈍〓魯文急記」
改印 なし
板心 「   一(〜十二)(丁付のみ)
作者 「鈍亭魯文記」(十二ウ)
画工 「一松齋芳宗画」(十二ウ)
丁数 全十二丁
板元 記載なし
底本 架蔵本
諸本 所在未詳
備考 本来、合巻は五丁一冊の規格であるが、『仮名手本忠臣蔵』は十二段まであるので、六段目を上冊末と下冊冒頭の二図に分け、各六丁宛、全十二丁仕立とし、変則的な構成に成っている。


【凡例】
一、可能な限り底本の表記を忠実に翻刻した。
一、本文に適宜漢字を宛て、原文を振仮名として保存した。
一、助詞に限り「ハ」と記されたものは、そのまま「ハ」とした。
一、句読点は用いられていないが、私意により付した。
一、本文中の会話などの部分には適宜「 」を補った。
一、底本の破損等で読みかねる部分は〔 〕で示し、推読した場合も〔 〕に入れた。
一、丁移りは 」1オのごとく示した。
一、掛詞は《 》に入れて左ルビとして示した。
一、底本は、現在知り得た唯一の伝本である架蔵本に拠り、全丁を図版で示した。


表紙

表紙

大序・表紙裏

表紙裏・大序
足利あしかゞ直義たゞよしかう

[大序]忠臣ちうしん誠功せいかう千歳せんざいくちず。院本いんほんの〔名〕ぶん晩年ばんねんすたるゝことなし。大星おほほし苦心くしん出雲いづもらう漢土もろこし李笠翁りりうわう皇朝わがてう紫姫しき、いづれことなるかとせん。かるがゆへ世々よゝ作者さくしやこの趣向しゆかう礎題どだいとして、翻案ほんあん数百すひやくしゆうしあせむなぎみつ不侫例ふねいれい梓主はんもと需應もとめにおうして一夜いちやうち暗記あんきひつして児童じどうもてあそびとなすことしかり。

鈍亭魯文急記 [印]」1オ

1ウ2オ
かうの武蔵守むさしのかみ師直もろなほ桃井もゝのい若狭介わかさのすけ加保与かほよ御前ごぜん

[初段]○鎌倉かまくら鶴丘つるがおか八幡宮はちまんぐう社内しやない〔にて、尊うじさまのおとゝ義直たゞよし新田につた義貞よしさだかぶといだし、塩冶ゑんや判官はんぐはん奥方おくがた加保与かをよ御前ごぜんし、〔かぶと〕のかんていたまふ。加保与かほよもと義貞よしさだつま匂当けうたうない宮仕みやづかへにてありしかバ、義貞よしさだかぶとそのおひ鑑定かんていす。〔ゑつじかう 〕師直もろなほハ〔加保与かほよに〕かねれんこゝろあるにぞ、きとふみとりいだし、口説くどをりしも、判官はんくわん要役やうやく桃井もゝのい若狭わかさのすけ加保与かほよなんすくふにぞ、もろなほこれを[左上〓]遺恨いこんに思ひ、若狭わかさのすけ様々さま%\にも悪口あくかうしけれバ、若狭わかさのすけこらへかね「すてかうよ」と心得こゝろへけるが、おもなほしてこのそのまゝたちわかれて出仕しゆつしけり。」2オ

2ウ3オ

[二段目]○桃井もゝのゐ若狭わかさのすけ鶴ヶ丘つるがおかにてもろなほためはじしめられ、無念むねん遣方やるかたく、今度こんどみやこより勅使ちよくし下向げかう饗応けうわう役目やくめを〔おふせ〕られ、明日あす殿中でんちうにて師直もろなほ行会ゆきあひなハ、「かさなる遺恨いこんたゞひとうち」と、覚悟かくごきわめ、〔 い〕よしを家老かろう加古かこほんざうあかし、後々あと/\ことたのきこゑけれバ、本蔵ほんぞうこれをさらにいさめす。おもつめたる武士ぶし意地いぢ、「明日めうにち師直もろなほをすつぱりとあそばせ」とて、には松枝まつがへきりおと〕してこゝろはげましけれバ、若狭わかさのすけいさよろこび「今日けふかぎりのいのちなれバ余所よそながらおくがた一家中いつかちうものへも暇乞いとまこひせんもの」と、おくさしりけれバ、本蔵ほんぞうあと見送みおくり、金銀きん%\巻物まきもの用意よういして、そのまゝ早馬はやうまうちり、師直もろなほかたいたるに、「もろなほはや出仕しゆつしせし」ときゝ大手おゝてはせけ、師直もろなほ金銀きん%\巻物まきものもつ賄賂まいないし、主人しゆじん身上みのうへ万端ばんたん指図さしづたのきこゑけれバ、よく師直もろなほよろこびて承引うけひきける。」3オ

3ウ4オ

[三段目]○桃井もゝのゐ若狭わかさのすけ殿中でんちうにて師直もろなほ行会ゆきあひ「たゞ一討ひとうち」とおもひしに、何時いつぞやとうつてかわり、師直もろなほわかさのすけまへへいふくして、さきごろ無礼ぶれい様々さま%\追従つひしやう啓白けいはくしけれハ、若狭わかさのすけあん相違さうゐ拍子ひやうしぬけして茫然ぼうぜん殿中でんちうふかいりにけり。かくともしら塩冶ゑんや判官はんぐわん文箱ふばこたつさいてきたり。師直もろなほおく加保与かほよよりのふみ差出さしいだせバ、師直もろなほとつなかうちひらくに

  なきだにおもきがうへ小夜衣さよころも わがつまならぬつまかさねぞ

と一しゆこゝろに、師直もろなほ心中しんちういかこひ意趣いしゆ判官はんぐわん出仕しゆつしおそきを様々さま%\のゝしり、しかのみならずあふぎもつさいなみつゝ、悪口あくかう雑言ぞうごん愚弄くろうに〕判官はんくわんたまらず、小脇差こわきざしせず、師直もろなほ真向まつかう目掛めがけ斬付きりつくれバ「スハ喧嘩けんくわよ」と大小みやううへした騒動さうどうするに、加古川かこがは本蔵ほんぞう先刻せんこくより衝立つひたてかげひそめ、此場このば様子やうすうかゞひいしが、走出はしりいでゝ判官はんぐはんうしろから抱留だきとめる。その師直もろなほひたひかゝへほう/\やかた逃帰にげかへる。

また判官はんぐはん殿中でんちうわきま刃傷にんじやうおよびし。このとがめにて、あみ乗物のりものせられて、おつての沙汰さたかえされける。」4オ

4ウ5オ

[四段目]○塩冶ゑんや判官はんぐわん扇谷あふぎがやつ下屋敷しもやしき押込おしこめられ、足利家あしかゞけ沙汰さたまつに、石堂いしどう右馬之丞うむのぜう薬師寺やくしじ次郎じろ左衛門さへもん両人りやうにん検視けんしとして入来いりきたれバ、かね覚悟かくご判官はんぐわん諸肌もろはだぬげしたにハ白無垢しろむく必死ひつしきはむ腹切はらきり支度じたく用意ようい短刀たんほう九寸五分、はらふかき〔に〕引回ひきまはす。一家中いつかちう面々めん/\しゆじん臨終いまは対面たいめんこへゆるさぬおきて法令ほうれいかゝおりしも塩冶ゑんやろう大星おほぼし由良ゆら之助のすけ本国ほんごくより馳来はせきたり、しゆじん無念むねんすいりやうしてまうした〔れ〕「わかすんそみ血潮ちしほぬぐはずに、やがこれにてかたきくびうつうらみはらさん」といふいはれぬ〔 んしの  し〕やうと家来けらいむねむねいわかたらぬ大望たいもう宿志しゆくしはんぐわんはかないきたゆれバ、薬師寺やくしじ屋敷やしき受取うけとり一家中いつかちう面々めん/\由良之介ゆらのすけはじめとしておもひ/\いでさりけり。」5オ

5ウ6オ

[五段目]○塩冶ゑんや近臣きんしん早野はやの勘平かんへい腰元こしもとかる色香いろかひかれ、主人しゆじん大事だいじありあはさず、おかるざいしよ山崎やまさきおちき、狩人かりうどりてくらしけるが、今宵こよひしゝ撃止うちとめんと鉄炮てつほうたづさへ大あめ火縄ひなは湿しめらたび人にこひながら、提灯てうちんあかりに見交みかはかほかほ朋輩はうばいせんさき弥五郎やごらう此度このたびの大主君しゆくん石塔せきとうれうかねとゝのへ、〔おわび手蔓てづる ほ〕取成とりなたのむと、わかるゝみちにて「しゝぞ」と思ひ旅人たびゝとを三ッだまにてあやめつ。くすりたづぬる懐中くはいちうよりおもわず取出とりたす五十りやう。「おわびたね」と千さきあとおひかけわたしつゝ、我家わかやへとそハかへりけれ。

おのさだ九郎与一兵衛をころして五十りやうかねうはひ、そのまた勘平かんへいうたるゝ。」6オ

6ウ7オ

[六段目]○おかるちゝ野崎のざき百姓ひやくしやう与一兵衛へいハ「婿むこ勘平かんへい忠義ちうぎたてん」とむすめかる祇園ぎおん一力いちりき売代うりしろし、五十りやうかね懐中ふところにしてかへ途中とちうおの九太夫かせかれ定九郎さだくらふうたれ、かねうばれたりしかど、勘平かんへい筒先つゝさき定九郎さだくらまたいのちおとしぬ。かく勘平かんへい我家わがやもどるに、一文いちもんさい兵衛べいかる駕籠かご打載うちのせて舁出かきいだ棒端ぼうはなとらへて様子やうすきゝさて昨夜ゆふべあやまつて旅人たびひと撃殺うちころせしとおもひしハしうとにて、かねまさしく女房にやうぼう身代しろにてありけるか」とあきはてたるばかりなり。」6ウ

[六段目]勘平かんへいハ〔 〕ちづに〔  〕とを撃止うちとめし〔と〕おもひたるをりしも、か〔     〕ほうやはちため〔      〕与一兵衛よいちへい死骸しがい戸板といたのせもちきたれバばゞかなしみ狂気きやうきことく、勘平かんへい思案しあんているよりも、「さてこそ婿むこ仕業しわざ」と勘平かんへいにしがみき、うらのゝしおりしもあれ、千崎せんざき五郎、はら郷右衛門かうゑもん両人りやうにんいりきたり「昨夜さくや弥五郎やごろうわたせしかね由良之ゆらの介にわたせしところ、主君しゆくん大事だいじ在合ありあはさぬ勘平かんへいが〔 〕のへしかね石塔せきとうりやうにハかたし」との立腹りつふくゆへもどすなり」ときくより、勘平かんへいはら掻切かききり、いすかはし一部いちぶ始終しゞうかたれバ、両人りやうにんこれをきゝしうとうちしハさだらう。それか〔   ふかく〕も連判れんばんちやうに〔くはへけ〕れバ、かんうれしく、がつくりとそのまゝいきたへにけり。」7オ

7ウ8オ

[七段目]○由良之介ゆらのすけハ「かたきこゝろゆるさせん」と放埒ほうらつもちくづし、祇園ぎおん一力いちりきていにて、此頃このごろさけびたし。勘平かんへいつまのおかるハ、おつとためつとめ奉公ぼうかう由良之介ゆらのすけ相方あいかたさゝしひられて二階にかいあがかぜふかるゝ、延鏡のべかゞみ由良之介ゆらのすけあたりにひとと、には松枝まつがへ金燈籠かなどうろうあかりをてらながぶみハ、奥方おくがたよりかたき様子やうす細々こま%\おんなふみあとさきまいらせ候ではかとらず。ゑんの下にハおの九太夫、師直もろなほいぬりて由良之助ゆらのすけ本心ほんしんさぐらんためしのばし、ふみ冒頭はじめぬすみ。おかるかゞみに思はずもうつりしふみの一大驚愕びつく見交みかはかほかほ由良之介ゆらのすけハ、大事だいじしりし女ハ早野はやの勘平かんへいつまともしらず、身請みうけ相談さうだんかゝおりしも、おかるあに塩冶ゑんや足軽あしがる身軽みがるもの寺岡てらおか平右衛門へいゑもんハ、おかるたづ此処こゝきたりていもと行会ゆきあひ、勘平かんへい横死わうしちゝ最期さいごかたれバ、おかる前後ぜんごしらなけかなししみ、平伏ひれふし些時しばし正体せうたいなかりけり。

○九太夫ハ由良之介ゆらのすけ見顕みあらはされ、ゑんしたより引出ひきいだされつひいのちうしなひける。」8オ

8ウ9オ

[八段目]道行みちゆき旅路嫁入たびぢのよめいり

浮世うきよとハ言初いひそめ飛鳥川あすかがはふち知行ちぎやうかはり、寄辺よるべなみ下人したびとに、むす塩冶ゑんやあやまりハ、こひ枷杭かせぐひ加古川かこがはの、むすめなみ許嫁いひなづけ結納たのみとらそのまゝに、振捨ふりすてられし物想ものおもひ、はゝおもひハ山しなの、婿むこ力弥りきやちからにて、住処すみかおし嫁入よめいりも、しの義理ぎり遠慮ゑんりよ腰元こしもとつれ乗物のりものも、やめ親子おやこ二人ふたりづれみやこそらこゝろざす。中〔畧〕はゝはしれバむすめはしり、そらあられかさおほひ、船路ふなぢともあとさき庄野せうの亀山かめやませきとむる、伊勢いせ吾妻あづまわかみち駅路ゑきろすゞ鈴鹿すゞかこえあひつちあめる、水口みなくちいひはやす、石部いしべ石場いしばで大いしや、小いしひらふてわがつまと、なでさすりつ手にすえて、やがて大三井寺みゐでらふもとこへ山科やましなへ、ほどさとへ三重いそく。」9オ

9ウ10オ

[九段目]○加古川かこかは本蔵ほんぞうつま戸奈瀬となせハ、大ぼし力弥りきや許嫁いひなづけむすめ小浪こなみ引連ひきつれて、由良之介ゆらのすけ山科やましな隠家かくれがきたり、是非ぜひ嫁入よめいりをせさせんとこふにぞ、由良之介ゆらのすけつまいし主人しゆじん塩冶えんや判官はんぐわん師直もろなほ討留うちとめんとしたまおり本蔵ほんぞうさまたげによつ本意ほんいをもたまはす、むなしく自害じかいし給ふも、みな本蔵ほんざうわざなれバ、嫁入よめいりハおき、せがれにかはり離縁りえんさるゝ」との言葉ことばきゝ戸奈瀬となせ小浪こなみに「かたきすでうたん」とするおりしも、おつと加古川かこがは本蔵ほんぞう虚無僧こむそう姿すがた出立いでたち二人ふたりあとおひきたり、婿むこ力弥りきやの手にかゝり、はじめて本心ほんしん打明うちあかし、かたき住処すみか絵図面ゑづめん婿むこ引手ひきてとして由良之介ゆらのすけわたし、小なみ力弥りきや祝言しうげんなさせける。」10オ

10ウ11オ

[十段目]泉州せんしうさかいの〔とみしにん〕天川屋あまかはや義平ぎへいハ〔久敷ひさしき塩冶えんや出入ていり〔な〕れバ、由良之介ゆらのすけハ〔   〕に夜討ようち道具どうぐ注文ちうもんせしが、なほそのこゝろためさために、「義平ぎへいより由良之介ゆらのすけおくり」としたる夜討ようち道具とうぐいれたる長持ながもちへ、大ぼしひそかしのび、義平きへいかたかきこませ、〔おほやけ〕よりの上意じやうゐよはり、義平ぎへいかこんで「からめん」と、丁々てふ/\十手じつてい振上ふりあくれバ、義平ぎへいさら微動ひくともせず、かの長持ながもちうへり。せがれ由松よしまつしらむね差付さしつけらるゝを見向みむきやらず、悠然ゆうぜんたるたましいを〔い〕/\、大ぼし由良之介ゆらのすけ長持ながもちふた撥除はねのけあらはで、その義心ぎしんかんじける。

天川あまがハ《神奈川》保土ヶ谷ほとかや戸塚とつか《と捕》まへ、藤沢ふぢさはつる《蔓》ひつからみ、平塚ひらつか《捕》まへて大いそとらいしだかしてくれう。「天川屋あまかはや義平きへいおとこ御座ごさる」「とつた/\、いやまだとらぬ」女房にやうぼう 於園おその」11オ

11ウ12オ

[十一段目]○塩冶ゑんや浪人らうにん四十七義士ぎしときいたつてかたき師直もろなほ屋敷やしきこみいり此処こゝ先途せんどはたらきて、にあるものこと%\討取うちとり、つひかたき師直もろなほすみ部屋べやうちより引出ひきいだし、由良之ゆらの介をはじめとし、家中かちう義士きし面々めん/\一刀ひとかたなづゝうらみてのちくびかき手鑓てやりつらぬき、つひ菩提所ぼだいしよ円岳寺ゑんかくじ引取ひきとり、主君しゆくんはか手向たむけつゝ、年来としころ宿意しゆくゐはらし、よろこふぞ道理どうりなれ。「くびねつこおさへられた。これにハいたがるねこ仕置しおき身振みぶりだ。南無にやん阿弥まみ陀仏だぶつ」 「田楽でんがくさしおもひのほかつきはづしたか、南無なむ三宝さんぼう」12オ

12ウ13オ
「日の出んや たちまちくだし はつ氷」

[十二段目]○ 四十七義士ぎし面々めん/\菩提所ぼたいしよ円岳寺ゑんがくじおひて、かたき首級しゆきう亡君ぼうくん霊前れいせん手向たむけ、回向ゑかうおわり、「いまこのおもことなし」とて、いさぎよはらかきり、万天ばんてんかゞやかし、忠義ちうぎ亀鑑かゞみすへ童子わらべ見倣みなら仮名かな手本てほん目出度めでた問屋とひや蔵入くらいりと、いはかなてかきおさむ。目出度めでたし/\/\

鈍亭魯文記 [印] 一松齋芳宗画 [印]」12ウ

後ろ表紙

13ウ、後表紙裏


# 原題「魯文の『忠臣蔵』」
#「大妻女子大学文学部紀要−文学編−」48号(2016年3月)
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#               大妻女子大学文学部 高木 元  tgen@fumikura.net
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